学位論文要旨



No 118512
著者(漢字) 正田,悦子
著者(英字)
著者(カナ) ショウダ,エツコ
標題(和) スギカミキリ (Semanotus japonicus) の個体群構造
標題(洋)
報告番号 118512
報告番号 甲18512
学位授与日 2003.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2645号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,公人
 東京大学 教授 鈴木,和夫
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 久保田,耕平
 広島大学 教授 富樫,一巳
内容要旨 要旨を表示する

日本の林業樹種の多くは在来のものであり,加害する森林昆虫も在来種であることが多い。寄生者である森林昆虫と宿主である樹木が共に在来種である場合,寄生者と宿主の歴史的なつながりを考慮して研究を進める必要がある。

拡大造林による針葉樹人工林の増大とその後の林業不振による保育不全により,スギカミキリ,スギノアカネトラカミキリ,ヒノキカワモグリガ,スギザイノタマバエ,キバチ類,といった従来は低密度で生存していた種が,1970年代ごろから全国各地で頻繁に発生するようになった。とりわけ,スギカミキリは1頭の加害であっても材価を著しく低下させるため,スギ造林地ではもっとも重大な林業害虫とみなされている。

スギカミキリは本州,四国,九州北部,壱岐,隠岐,冠島,屋久島,佐渡に分布し,スギ,ヒノキを主な宿主とするカミキリムシ科の昆虫の一種である。本種は低地のスギ放置林や不成績造林地では大発生する傾向があるが,良好な造林地や林齢の高い林地では林分全体に発生が広がることはないといわれる。成虫は移動能が低いため,個体群間での遺伝子交流の程度が低く,遺伝的構造化が生じやすい特性を有すると考えられる。本種は外部形態に班紋の大小や体色の濃淡などの地理的変異を示し,変異タイプの分柿は最終氷期最盛期(約1万8千年前)のスギ退避地の分布と対応する。そのため,氷期にスギカミキリ個体群がスギ退避地ごとに分断され,種内に遺伝的構造が形成した可能性が指摘されている。しかし,個体群間の遺伝的な分化の大きさや,変異の分布の詳細については未解明であった。本研究は,形態および分子マーカーを用いてスギカミキリ種内の遺伝的構造を解明し,地域個体群の遺伝的分化が生理的特性に影響を及ぼしているのかを検証することを目的としている。

形態変異の分布を明らかにし,地理的構造の形成要因を推察するため,本州,四国の個体群の形態的分化を多変量解析によって評価した。岩手から高知にかけて採集された10個体群の190頭の体長,頭幅,頭長,前胸背幅,前胸背長,上翅幅,上翅長,上部および下部斑紋長,斑紋幅を測定した。解析は雌雄別に行った。スギカミキリは体サイズの分散が大きいため,形態の変異を考察するには測定値の体サイズによる補正が必要である。各測定項目と体長の間には,顕著なアロメトリー関係は認められなかったため,測定部位を体長で割った値を対数変換した後に解析した。形態形質間における相関の強度の解析に主成分分析を用い,個体群間の形態的分化の顕著な形質を明らかにするため正準変量をもとめ,正準判別分析により個体群ごとの形質的なまとまりを評価した。

斑紋に関する形質で変異性は大きく,形態形質は個体群ごとに一定のまとまりを示した。本州,四国で日本海側の若狭湾周辺(福井,京都)と太平洋側(茨城,千葉,愛媛,高知)の個体群間で,形態が大きく異なった。若狭湾沿岸と太平洋側のスギカミキリの形態的分化は,太平洋側と日本海測に分断されていた宿主であるスギの最終氷期の退避地において分化したという仮説と符合し,形態の差異は進化的な歴史に由来するものと考えられた。中国地方(鳥取,岡山,島根)と岩手の個体群はそれらの中間的な形態を示した。中国地方には山陰沖に最終氷期のスギの退避地が存在していたが,岩手には少なくとも1500年前まではスギが分布していなかったとされるため,中国地方と岩手のスギカミキリ個体群は類似した形態を示したものの,進化史は異なると考えられた。スギの氷期後の分布変遷によりスギカミキリの形態変異の分布パターンは説明される点が多く,氷期における隔離が種内変異の形成の重大な要因であることが示唆された。氷期後のスギの分布拡大のみならず,植林によってもスギ個体群間の分断の程度は低下したが,スギカミキリの飛翔能力の低さと,生立木の樹皮下に幼虫が生息するという生活史特性に支えられ,過去の分断の歴史が現在の個体群構造に反映していることが形態解析により明らかにされた。

つぎに,個体群間の遺伝的分化の程度を明らかにし,遺伝的構造化の過程を追跡することを目的として,岩手,福井,島根,愛媛の4個体群,52個体についてミトコンドリアDNAのCOI〜COH領域の部分配列1150塩基対を決定し,遺伝子解析を行った。福井は若狭湾周辺の,愛媛は太平洋側の形態タイプであり,岩手と島根はその中間的な形態を持つ。全個体より10ハプロタイプが検出された。分子分散分析モデル(AMOVA)により個体群間において有意な遺伝的構造化が認められ,遺伝的分化が生じていることがミトコンドリアDNA解析の側面からも支持された。ハプロタイプをOTUとした近隣結合法による距離系統樹とハプロタイプネットワークを用いて種内系統解析を行ったところ,両解析結果とも,系統は2クレードに大別されることを示した。一方のクレードは愛媛,岩手個体群で検出されたハプロタイプを含み,他方のクレードは福井,島根,岩手個体群のものからなる。それぞれ,太平洋岸,日本海岸のスギ退避地に由来する2系統であると考えられた。日本海クレードにはサブクレードの形成が認められ,最も分布の狭まった時に,日本海岸の個体群は分断していた可能性が示された。岩手個体群では日本海側,太平洋側の双方のハプロタイプが検出された。このことは氷期後,日本海側と太平洋側の両退避地から北上したスギの混交が東北において生じた歴史と重ねられ,スギの移動に伴いスギカミキリ個体群が二次的接触したことを示すと考えられた。岩手個体群の若狭湾と太平洋岸の中間的な形態は,両系統の交雑により生じたことが示唆された。岩手個体群と同様に,中間的な形態を示した島根個体群からは日本海側クレードのハプロタイプのみが検出されたので,島根個体群には山陰沖へ氷期に退避していた個体群の形態が保持されていることが示唆された。また,形態形質と遺伝的分化との対応を明らかにするために,遺伝子解析を行った個体について再度形態解析を加え,個体間の主成分空間での距離と個体群間の遺伝的分化との対応をマンテル検定により解析した。マンテル検定の際に個体群間の遺伝的分化の尺度は,Tamura-Nei の遺伝距離から算出した遺伝的分化係数ΦSTを用いた。雌雄共に形態形質への遺伝的分化の関与が有意であったため,個体群間の形態変異はおおむね遺伝的構造化の発現を示すと考察された。

さらに,スギカミキリの地域個体群間における発育特性の差異を検証し,遺伝的分化が卵期発育速度に及ぼす効果を解明することを目的として,卵の飼育実験を行った。はじめに,卵の発育特性に母性効果が発現しているのかを検証したが,発育速度に卵サイズを通じた母性効果は認められなかった。遺伝的分化の度合が遺伝子解析から定量化されている福井から愛媛の個体が産下した卵の発育速度を,14, 17, 21℃の3段階の温度条件下で測定し,平均卵期日数のクラッチ間の差異と個体群の遺伝的分化の対応をマンテル検定により解析した。また,個体群の環境の差異を考慮するために,緯度の違いについても同様の解析をした。母性効果もしくは分布拡散後の短期間で生じた局地的な適応の尺度として緯度の差を解釈した。緯度の差とΦSTには有意な対応が認められたため,緯度,遺伝的分化のそれぞれの効果を一定として解析するために部分マンテル検定を行った。

個体群間で卵期発育速度に有意な差異が認められた。各温度条件下で福井,岩手,島根個体群の産下卵には発育速度の差異が小さかったが,愛媛個体群の卵は他地域の卵よりも発育速度が遅かった。全ての温度条件で,ΦSTと卵期日数の差異は有意な対応関係を示した。部分マンテル検定により緯度の効果を一定としても,遺伝的分化により卵期発育速度の差異が説明された。一方,遺伝的分化の効果を除去すると,個体群の緯度の違いは,卵期発育速度の差異に影響を与えていなかった。すなわち,個体群間の発育速度の変異は系統的な違いから生じていることが考察された。最終氷期最盛期の隔離されていた個体群間において発育速度に分化が生じ,現在も変異が保持されていることが示唆された。遺伝的構造と対照させると,本州・四国の太平洋側に位置する個体群は日本海側の個体群よりも卵期が長い可能性があり,より多くの個体群で今後の検証が望まれる。

遺伝子マーカーの普及に伴い,森林昆虫のいくつかの種に関しては種内の遺伝的構造が記載され,構造化の要因や分布拡大の経路が解明されつつある。しかし,遺伝的構造化が形質の変異とどのように関連しているのかについては,現在まで森林昆虫では研究が行われてこなかった。本研究は個体群構造を明らかにし,その上で卵期発育速度の地域間の変異を生じさせた要因を解明したという点で意義深い。在来の森林昆虫について遺伝的構造を検出し,遺伝的構造が形質にどのような影響を与えているのかを評価する手法を得るためのケーススタディとして本研究を位置付けることが可能だろう。個体群の歴史の違いが卵期発育の温度反応の差異を生み出している重要な要因であることが示されたため,その他の形質でも変異の有無を調査し,遺伝的構造化との対応を明らかにすることが今後の課題となった。特に分化が大きい太平洋側と日本海側の個体群の比較が重要となろう。

審査要旨 要旨を表示する

スギカミキリ(Semanotus japonicus)はカミキリムシ科の昆虫の1種である。本種はスギ・ヒノキを主な食樹とし,幼虫はそれらの樹皮下で発育するため,材部の腐朽を引き起こす材質劣化害虫として知られ,スギ造林地ではもっとも重大な林業害虫とみなされている。そのため防除を目的とした応用上の研究も多くなされているが,供試虫の産地の違いから異なる結果が得られた例もある。スギカミキリは外部形態に地理的変異を持つことが知られており,その他の形質にも地理的な変異を有する可能性をもつ。本研究は地域個体群間の遺伝的分化を形態と遺伝子から解析し,遺伝的構造が生活史形質の分化におよぼす効果を解明することを試みたものである。5章から構成され,第2〜4章においてそれぞれ形態学的,分子生物学的,生理学的アプローチによる解析がまとめられている。

本種の地理的変異の分布は最終氷期最盛期におけるスギの退避地の分布と対応があり,氷期の隔離分布により遺伝的構造が形成されたと推察されている。第2章では多変量解析を用いて本州,四国の10個体群について形態的分化を評価した。その結果日本海側の若狭湾周辺(福井,京都)と太平洋側(茨城,千葉,愛媛,高知)の個体群間で,斑紋サイズを中心に形態が大きく異なった。中国地方(鳥取,岡山,島根)と岩手個体群はそれらの中間であった。スギの最終氷期における退避地は,日本海と太平洋沿岸の限られた範囲であったことが花粉分析から示されていて,この形態的差異は,最終氷期に太平洋側と日本海側に分断されていたスギの退避地間で遺伝的分化したという仮説を支持した。

続いて,第3章では異なる形態的特徴を示した岩手,福井,島根,愛媛の4個体群について,遺伝子解析により個体群間の遺伝的分化の度合を測定し,変異間の系統関係を調査した。ミトコンドリアDNACOI〜COII領域の部分配列1150塩基対を52個体について決定し,10ハプロタイプを検出した。全ての個体群間で有意な遺伝的分化が認められた。距離系統樹とハプロタイプネットワーク解析から,系統は2クレードに大別されることが示され,それぞれ,太平洋岸,日本海岸のスギ退避地に由来する2系統であると考えられた。岩手個体群では日本海側と太平洋側の双方のハプロタイプが検出された。東北のスギは氷期後に若狭湾と伊豆半島から北上してきたスギ個体群のコロナイズにより形成されたことが花粉分析から考察されている。岩手では氷期後のスギの移動に伴い,スギカミキリの両系統が二次的接触したと考えられた。

さらに第4章では,遺伝的分化が生活史形質に与える影響を解明することを目的として,遺伝子解析により遺伝距離が計測された4個体群で採集された成虫が産下した卵の孵化までの日数を,14から21℃の3段階の温度条件下で測定した。全ての温度条件下で発育速度の有意な差異が個体群間で認められた。愛媛個体群の卵は他の個体群の卵よりも遅く孵化した。すべての温度条件下で,地域個体群間における発育速度の差異は個体群間の遺伝的分化との有意な対応を示した。偏マンテル検定により緯度の効果を一定として,遺伝的構造と卵期発育速度の差異の対応を検定した結果,環境の差異を表すと考えられる緯度の差異の効果が一定であっても,遺伝的構造化により卵期発育速度の差異が説明できた。したがって,最終氷期最盛期に隔離されていた個体群間で発育速度が分化し,個体群間の発育速度の変異は系統的な違いから生じていることが考察された。

このように本論文により,スギカミキリの種内変異の分布が示され,個体群間の遺伝距離が測定された。また,個体群間における卵期発育速度に変異があることが判明し,生活史形質の変異も個体群のたどった歴史の違いにより形成されたことが推察された。応用上重要な生活史形質の種内変異と遺伝的構造との対応を解明した研究は少なく,特に森林昆虫の研究において本研究は先駆的なものである。森林昆虫の害虫化や伝播過程の解明,防除法の確立に貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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