学位論文要旨



No 118513
著者(漢字) 島崎,彩
著者(英字)
著者(カナ) シマザキ,アヤ
標題(和) 地上捕食者に対する腐食流入の動態とその決定プロセス
標題(洋)
報告番号 118513
報告番号 甲18513
学位授与日 2003.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2646号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 助教授 宮下,直
 東京大学 助教授 高槻,成紀
 東京大学 助教授 久保田,耕平
 森林総合研究所 森林昆虫研究領域長 福山,研二
内容要旨 要旨を表示する

陸上生態系は,植物を生産者とする地上の生食連鎖と分解者を基盤とする土壌の腐食連鎖から構成されており,これらの食物連鎖は落葉・落枝や無機塩類といった物質の移動を通してのみ相互作用していると考えられてきた.そのため,土壌の腐食連鎖は「分解系」として捉えられ,地上における食物網のダイナミクスとは切り離されて考えられてきた.しかし,最近になって,地上の捕食者が生食連鎖由来の餌資源とともに腐食連鎖由来の動物を餌とすることから,2つの連鎖が捕食-被食関係によって結ばれていることが明らかになり始めている.こうした地上捕食者を介した2つの食物連鎖のつながりは,腐食流入と呼ばれている.腐食流入は地上の食物網の動態に対し大きなインパクトをもたらすと推測される.その理由は2つある.1つは,植物生産の大部分は落葉・落枝として腐食連鎖に移動するため,腐食連鎖には潜在的に大量の資源が存在すると予想されることである.もう1つは,主な分解者である土壌微生物の現存量は植物の現存量と異なる季節変動をもつ可能性があるため,腐食連鎖からの資源は地上捕食者にとって代替資源となると推測されることである.しかし,現在までのところ,腐食流入の定量的な評価は断片的に行われているのみであり,季節や環境による違い,およびそうした違いの決定要因については全く不明である.

本研究の目的は,陸上の代表的な環境である森林と草地において,地上の代表的捕食者である造網性クモ類を対象として,生食連鎖と腐食連鎖からの餌資源の時間的・空間的な流入パターンとその決定プロセスを明らかにすることである.餌資源の流入パターンが決定される過程には,2つの段階があると考えられる.第一段階は,各食物連鎖から提供される潜在的な資源量が決定される段階である.第二段階は,捕食者が潜在的な資源の中から実際に餌資源を獲得するプロセスであり,これには捕食者のもつ様々な形質が関与する.本研究では,これらの段階を定量的に明らかにすることによって,造網性クモ類における生食連鎖および腐食連鎖に由来する餌資源の動態とそのプロセスを解明することを試みた.本論文の第1章では,以上のような研究の意義と目的を述べている.

続く第2章では,潜在的な資源量の季節変動パターンとその環境による違いを明らかにした.調査は千葉県鴨川市の森林と草地において4〜11月に実施した.トラップを用いて造網性クモ類の潜在的な資源である飛翔昆虫を捕獲し,生食連鎖および腐食連鎖に由来する資源量の季節変動パターンを明らかにした.

その結果,潜在的な資源量に占める腐食連鎖由来の昆虫の割合は,森林では春と秋の2つのピークを示したのに対し,草地では春に高く夏から秋に低下していた.また,森林では2つの食物連鎖に由来する資源量が同程度だったのに対し,草地では生食由来の方が腐食由来よりも大きかった.つまり,森林の方が草地よりも相対的に腐食連鎖に由来する資源量の割合が高く,秋の増加傾向がより顕著であることがわかった.各食物連鎖からの資源を構成する分類群に注目すると,腐食由来ではユスリカやクロバネキノコバエなどのハエ目長角亜目が中心だったが,生食由来ではバッタ目,カメムシ目,ハエ目,ハチ目など多様な分類群から構成されていた.これらの分類群について主成分分析を行い出現の季節パターンについて解析したところ,ハエ目長角亜目の個体数はいずれも春と秋に高くなるのに対し,生食由来の資源を構成する分類群ではさまざまな季節消長を示しており,両者は明確に区別できた.こうした違いは各連鎖由来の生物が利用する餌資源の消長を反映していると考えられる.まず,ハエ目長角亜目は,餌とする土壌微生物が春と秋に生産性の2つのピークが見られることを反映していると考えられる.一方,生食由来の分類群は,食葉性,吸汁性,潜葉性,花密食性など多様な食性をもつ昆虫から構成されているため,春から秋にかけて様々な出現パターンを示したと考えられる.

第3章では,餌資源の決定プロセスの第二段階,つまり捕食者が潜在的な資源から餌を獲得する過程を明らかにした.資源獲得プロセスを森林と草地で比較するため,両方の環境に生息するシロカネグモ類,コガネグモ類,ジョロウグモの3つの分類群を調査対象とし,観察によってそれらの餌量を推定した.餌捕獲には,クモ類の様々な形質が関与しているが,本研究では特に重要と思われる体サイズと分類群の2つの要因に注目した.腐食由来の餌の割合を目的変数とし,腐食由来の潜在的な資源,体サイズ,および分類群を説明変数として,一般線型モデルによる分析を行った.その結果,腐食由来の餌の割合は,腐食由来の潜在的な資源から大きな影響を受けており,またクモの体サイズとは負の相関があったが,分類群の効果は有意ではなかった.

本研究で扱ったクモ類は種数や出現時期が限られているため,観察データのみから餌資源の一般的な流入パターンを予測することはできない.そこで,シミュレーションにより季節,環境,体サイズの違いが,腐食流入にどのような影響を与えるかを明らかにした.この際,第2章で明らかになった潜在的な資源量のデータを用い,餌捕獲に重要なクモ類の体サイズを季節ごとに様々に変化させて腐食流入量を推定した.その結果,腐食流入の重要性は,森林では春に高く夏に低下し秋に再び高くなったが,草地では春のみで高かった.また,草地では,クモ類の体サイズが小さいほど腐食流入の重要性が高くなることが明らかとなった.

上記の結果をもとに,第4章では,腐食流入の重要性や普遍性についての総合考察を行った.本研究により,地上の代表的な捕食者である造網性クモ類の餌資源には,腐食由来の生物が大きな割合を占めることが明らかとなった.既存研究により,野外でのクモ類個体群は餌によるボトムアップ制限を受けていることや,腐食由来の潜在資源の遮断実験により造網性クモ類の密度が低下することが知られている.したがって,腐食流入はクモ類個体群を支える重要な餌資源であり,特に秋に幼体として出現し,春に成体となるクモ類にとっては重要性が高いことが推測された.また,土壌由来の生物を餌とする地上捕食者はクモ類以外にも,昆虫類,爬虫類,鳥類,哺乳類など多様な分類群で知られているため,腐食流入による地上と土壌の連結は普遍性の高い存在に違いない.さらに,腐食流入の影響は,地上捕食者個体群だけではなく,捕食-被食関係を通して群集内の様々な生物に波及的な影響を及ぼしている可能性がある.以上のことから,土壌からの腐食流入は,地上の食物網動態や生物多様性の維持に重要な役割を果たしていると考えられる.

審査要旨 要旨を表示する

陸上生態系は,植物を生産者とする地上の生食連鎖と分解者を基盤とする土壌の腐食連鎖から構成されており,これらの食物連鎖は落葉・落枝や無機塩類といった物質の移動を通してのみ相互作用していると考えられてきた.そのため,土壌の腐食連鎖は「分解系」として捉えられ,地上における食物網のダイナミクスとは切り離されて考えられてきた.しかし,最近になって,地上の捕食者が生食連鎖由来の餌資源とともに腐食連鎖由来の動物を餌とし,2つの連鎖が捕食-被食関係によって結ばれていることが明らかになり始めている.こうした地上捕食者を介した2つの食物連鎖のつながりは,腐食流入と呼ばれている.腐食流入は地上の食物網の動態に対し大きなインパクトをもたらすと推測される.しかし,現在までのところ,腐食流入の定量的な評価は断片的に行われているのみであり,季節や環境による違い,およびそうした違いの決定要因については全く不明である.

本研究では,陸上の代表的な環境である森林と草地において,地上の代表的捕食者である造網性クモ類を対象として,生食連鎖と腐食連鎖からの餌資源の時間的・空間的な流入パターンとその決定プロセスを明らかにすることを目的とした.餌資源の流入パターンが決定される過程には,2つの段階がある.第1段階は,各食物連鎖から提供される潜在的な資源量が決定される段階である.第2段階は,捕食者が潜在的な資源の中から実際に餌資源を獲得するプロセスである.このプロセスには捕食者のもつ様々な形質が関与している.本研究では,この2つの段階を定量的に明らかにすることによって,造網性クモ類における生食連鎖および腐食連鎖に由来する餌資源の動態と腐食流入のプロセスを解明することを試みた.本論文の第1章では,以上のような研究の目的と意義を述べている.

続く第2章では,潜在的な資源量の季節変動パターンとその環境による違いを明らかにした.調査は千葉県鴨川市の森林と草地において4〜11月に実施した.トラップを用いて造網性クモ類の潜在的な資源である飛翔昆虫を捕獲し,生食連鎖および腐食連鎖に由来する資源量の季節変動パターンを明らかにした.

その結果,潜在的な資源量に占める腐食連鎖由来の昆虫の割合は,森林では春と秋の2つのピークを示したのに対し,草地では春に高く夏から秋に低下していた.また,生食連鎖に由来する資源量は森林よりも草地で多かったのに対し,腐食連鎖に由来する資源量は2つの環境で同程度だった.つまり,森林の方が草地よりも相対的に腐食連鎖に由来する資源量の割合が高く,秋の増加傾向がより顕著であることがわかった.各食物連鎖からの資源を構成する分類群に注目すると,腐食由来ではユスリカやクロバネキノコバエなどのハエ目長角亜目が中心だったが,生食由来ではバッタ目,カメムシ目,ハエ目,ハチ目など多様な分類群から構成されていた.これらの分類群について主成分分析を行い出現の季節パターンについて解析したところ,ハエ目長角亜目の個体数はいずれも春と秋に高くなるのに対し,生食由来の資源を構成する分類群ではさまざまな季節消長を示しており,両者のパターンは明確に区別できた.こうした違いは各連鎖由来の生物が利用する餌資源の消長を反映していると考えられる.つまり,ハエ目長角亜目は,餌とする土壌微生物が春と秋に生産性の2つのピークが見られることを反映しているのに対し,生食由来の分類群は,食葉性,吸汁性,潜葉性,花蜜食性など多様な食性をもつ昆虫から構成されているため,春から秋にかけて様々な出現パターンを示したと考えられる.

第3章では,餌資源の決定プロセスの第2段階である,捕食者が潜在的な資源から餌を獲得する過程を明らかにした.資源獲得プロセスを森林と草地で比較するため,両方の環境に生息する3つの分類群を調査対象とし,観察によってそれらの餌量を推定した.餌捕獲には,クモ類の様々な形質が関与しているが,本研究では特に重要と思われる体サイズと網形質の2つの要因に注目した.腐食由来の餌の割合を目的変数とし,腐食由来の潜在的な資源,クモ類の体サイズ,および網形質を説明変数として,一般線型モデルによる分析を行った.その結果,腐食由来の餌の割合は,潜在的な資源発生量から影響を受けているだけでなく,クモ類の体サイズとも有意な負の相関があった.つまり,腐食流入の重要性は小型のクモ類ほど大きいことが明らかとなった.

上記の結果をもとに,第4章では,土壌からの羽化昆虫による腐食流入の重要性について総合考察を行った.本研究で明らかになった主たる要点は,腐食連鎖と生食連鎖からの資源の季節変動が異なっていたこと,生食由来の資源が少ない森林でも腐食由来の資源量は草地と同程度だったこと,クモ類の成長に伴い腐食由来から生食由来へと餌の依存度が変化したことである.したがって,腐食連鎖からの資源流入は,時間的にも空間的にも地上捕食者に対する資源の変動性を緩衝する役割を果たしていること,またその程度は捕食者の生活史ステージによって変化することが示された.

以上,要するに本研究は,これまでその実体がほとんど不明だった腐食流入の動態やプロセスをはじめて定量的に明らかにしたものである.こうした知見は,地上の生物多様性の維持機構を考えるうえで,新たな重要な視点を与えるものであり,学術上のみならず応用上の貢献も少なくない.よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値があるものとして認めた.

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