学位論文要旨



No 118515
著者(漢字) 松本,建
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,タケル
標題(和) 魚類用飼料のエストロゲン活性に関する生化学的研究
標題(洋)
報告番号 118515
報告番号 甲18515
学位授与日 2003.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2648号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 教授 阿部,宏喜
 東京大学 助教授 金子,豊二
 国際基督教大学 準教授 小林,牧人
内容要旨 要旨を表示する

近年、環境中に放出された微量の化学物質が、動物体内でホルモンとしての作用を示すことが示唆されている。このような物質は内分泌撹乱化学物質(環境ホルモン)と呼ばれ、ヒトおよび動物に生殖障害などの影響を与えることが懸念されている。工場や下水処理場などから排出された環境ホルモンは、最終的には河川や海洋などの水圏に達することから、魚類に対しても何らかの影響を与える可能性が考えられる。実際、これまでに魚類の雄において、精巣内に卵細胞をもつ個体あるいは雌特有の血漿タンパク質であるビテロゲニン(VTG)を血漿中に高濃度にもつなどの異常個体が捕獲されている。これらは雌性ホルモン(エストロゲン)作用をもつ環境ホルモンによって生じた現象と考えられている。

VTGは魚類の雌において卵巣で産生される17β-エストラジオール(E2)などのエストロゲンの作用により、肝臓で合成される卵黄タンパク質前駆物質である。VTGは本来雌特有のタンパク質であるが、雄においても外部からのエストロゲン投与により、肝臓において雌と同様に合成される。したがって雄におけるVTGは、その魚がエストロゲン作用をもつ物質にどれだけ暴露されたかというマーカータンパク質として、環境ホルモンの影響調査に活用されている。しかし環境ホルモン以外の物質によってもVTG産生が誘起されるかという検証はあまりなされておらず、雄の魚におけるVTG産生と環境ホルモンとの関係は必ずしも明確ではない。

本研究はこのような背景のもと、はじめに日本における環境ホルモン汚染の現状調査の端緒として、漁業および養殖業が盛んである霞ヶ浦において、コイおよびゲンゴロウブナの血漿中VTG濃度の測定および精巣組織像の観察を行った。次に雄におけるVTGの産生が、環境ホルモンだけではなく内因性ステロイドや飼料に含まれる植物エストロゲンなどの物質により誘導される可能性を検証するため、種々のステロイド、植物エストロゲンおよび魚類用飼料について、エストロゲン活性の測定を行った。さらに魚類用飼料による魚類のVTG産生を明らかにするため、コイに市販の飼料を与え、VTG遺伝子の発現およびVTG産生について調べた。得られた研究成果の概要は以下の通りである。

霞ヶ浦産コイおよびゲンゴロウブナにおける内分泌撹乱化学物質による影響調査

1998年6月から1999年8月までに10回、茨城県桜川村の小野川河口付近の定置網によって霞ヶ浦産天然コイおよび天然ゲンゴロウブナを捕獲し、これらの魚から血液および精巣を採取した。また霞ヶ浦町で養殖された霞ヶ浦産養殖コイから6回、茨城県内水面水産試験場の養殖コイから1回、天然コイと同様に血液および精巣を採取した。血漿中VTG濃度は化学発光免疫測定法 (CLIA)により測定し、精巣は組織観察に供した。また血漿中の性ステロイドは、ラジオイムノアッセイ法により測定した。その結果、天然コイ、養殖コイおよび天然ゲンゴロウブナの雄において、少量のVTGが検出されたものがみられたが、ほとんどの個体においてVTGは検出限界(40 ng/ml)以下であった。また、これらの雄では、生殖腺体重比は産卵期に高く、精巣においては産卵期には活発な精子形成が観察され、生殖腺に異常のある個体はみられなかった。さらに雄における血漿中アンドロゲン(テストステロン、Tおよび11-ケトテストステロン、11KT)、雌におけるE2およびTは、いずれも正常な範囲内の濃度が検出され、産卵期に上昇する傾向がみられた。また雄の魚における血漿中E2は、これまであまり注目されてこなかったが、今回の測定より雄においても雌と同等かそれ以下の濃度で検出された。この結果は、雄自身が産生するE2によりVTG産生が誘導される可能性を示している。

今回の調査の結果から、霞ヶ浦のコイおよびゲンゴロウブナの雄において少量のVTGが検出されたものの、環境ホルモンによる著しい影響は受けていないことが示唆された。

YES assayによる種々のステロイド、植物エストロゲンおよび魚類用飼料のエストロゲン活性の測定

霞ヶ浦産コイおよびゲンゴロウブナの雄において少量のVTG産生を行う個体がみられたが、これらのVTG産生の原因として、環境ホルモン以外に、魚類自身が産生する内因性ステロイド、飼料中の植物エストロゲンや種々のステロイドなどの可能性が考えられた。そこで本研究では、種々のステロイド(アンドロゲン、プロゲスチンなど)、植物エストロゲンおよびその関連物質、さらに魚類用飼料とその原料についてエストロゲン活性の測定を行った。測定には、ヒトエストロゲン受容体遺伝子を含む組換え酵母を用いたin vitroのエストロゲン活性測定法、YES (yeast estrogen-screen) assayを用いた。その結果、アンドロゲンであるT、ジヒドロテストステロンおよび11KTにおいてエストロゲン活性がみられ、E2に対する相対活性はそれぞれ3.7×10-6、1.2×10-4および3.0×10-6であった。しかし、霞ヶ浦産コイにおいて検出された血漿中アンドロゲンの濃度から考えると、これらのアンドロゲンがVTG産生を誘導する可能性は低いと考えられた。また、植物エストロゲンについては、ゲニステイン、クメステロール、フォルムオノネチンおよびエクオルにおいてエストロゲン活性がみられ、それらのE2に対する相対活性は8.6×10-6〜1.1×10-4であった。これら植物エストロゲンは、魚類が飼料とともに大量に摂取した場合、魚類に対してもエストロゲン活性を示す可能性が考えられた。

魚類用飼料については、17種類の市販の飼料(養殖魚用および鑑賞魚用)およびネガティブコントロールとしてカゼインベースで調製された低エストロゲン飼料(NC)1種類について、それぞれのメタノール抽出物のエストロゲン活性を測定した。その結果、すべての市販の飼料においてエストロゲン活性がみられ、その活性はE2相当量で<0.1〜6.2 ng/g (相対活性:<0.4×10-9〜6.6×10-9)であった。またNCにおいては、エストロゲン活性はみられなかった。したがって、これら市販の飼料を魚類に給餌した場合、そのエストロゲン活性によりVTG産生が起こる可能性が示唆された。また魚類用飼料の原料については、大豆油粕が最も高いエストロゲン活性を示し、これが飼料のエストロゲン活性の主な原因となっていると考えられた。以上の結果から、雄におけるVTG産生の原因として、エストロゲン活性をもつ飼料による可能性も示された。

コイにおける魚類用飼料によるビテロゲニン合成

魚類用飼料においてエストロゲン活性がみられたことから、実際にコイにコイ用飼料を与えてVTG産生が誘導されるかどうか調べた。未成熟な当歳魚のコイを20℃で飼育し、2週間絶食後、14日間、飼料を1日1回体重の2%量給餌した。飼料給餌前、給餌開始後1、3、7および14日目の個体(各5〜7個体)について血漿中VTG濃度および肝膵臓におけるVTG遺伝子の発現を調べた。実験には、市販の飼料であるエクストルーダーペレット(EP)、スチームドライペレット(DP)、浮き餌(FF)および錦鯉用飼料(SW)を用いた。また、ネガティブコントロールとしてNC、ポジティブコントロールとしてNCにE2を1 mg/g添加した飼料(PC)を用いた。血漿中VTG濃度はCLIAおよび1次元放射免疫拡散法にて測定した。その結果、NC給餌群において25個体中6個体でVTGが検出された。またPC給餌群においては、1日目にすべての個体(5個体)においてVTGが検出され、以降14日目まですべての個体(20個体)において高い値で検出された。また、市販の飼料を与えたグループにおいては、EP給餌群で1〜14日目までに25個体中5個体、DP給餌群では25個体中10個体、FF給餌群では25個体中9個体、SW給餌群では25個体中16個体でVTGが検出された。

次にVTGプローブを用いたノザンブロット解析により、各飼料を与えたコイの肝膵臓におけるVTG遺伝子の発現を調べた。NC給餌群においてVTG遺伝子の発現を示す個体はみられず、PC給餌群では1日目(5個体)からシグナルが検出され、以降14日目まですべての個体(20個体)で強いシグナルが検出された。また、EP給餌群においては1〜14日目までに25個体中1個体、DP給餌群においては25個体中2個体、FF給餌群においては25個体中5個体、SW給餌群においては25個体中1個体でVTG遺伝子の発現がみられた。血漿中VTGが検出された個体において、遺伝子の発現がみられなかったものがあったが、これは実験開始以前に与えられていた飼料により産生されたVTGが残っていたか、あるいはノザンブロット解析で検出できない程度の遺伝子の発現があった可能性が考えられた。しかしVTG遺伝子の発現がみられた個体ではすべて血漿中VTGが検出されたことから、個体差はあるもののコイ用飼料によってVTGが産生されることが示された。

以上本研究により、正常な魚類の雄においても血漿中に少量のVTGが検出されることが示された。また、このVTGの産生の原因としては、環境ホルモン以外にも、魚自身がつくるエストロゲンあるいは植物性エストロゲンを含む魚類用飼料による可能性があることが示された。これらの成果は、これまで環境ホルモンの指標として用いられていた魚類のVTGが、環境ホルモン以外の物質によっても産生されている可能性を示すものであり、環境ホルモンの影響評価の基準を決定する上で重要な知見となると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、内分泌撹乱化学物質の影響評価の指標として活用されている魚類のビテロゲニンの有効性について、水産学の立場から検討したものである。本研究の概要およびその審査結果は以下のとおりである。

近年、環境中に放出された化学物質が、動物の内分泌系に影響を与えることが報告されている。これらの物質は内分泌撹乱化学物質(環境ホルモン)と呼ばれ、多くの場合、女性ホルモン作用を持ち、雄の動物の生殖機能障害を誘起していることが知られている。また環境ホルモンは、水圏では魚類に対しても何らかの影響を与える可能性が考えられ、水産上重要な問題となることが懸念される。実際我が国においても、女性ホルモン作用を持つ環境ホルモンによって生じたと思われる雄のコイの異常が、ある地域で報告されている。しかし、このような現象が日本中で生じているのか、その調査は不十分であった。

一方、魚類の環境ホルモンの影響調査には、卵黄タンパク質前駆物質(VTG)がバイオマーカーとして活用されている。VTGは、雌においては卵巣で産生される女性ホルモン(エストロゲン)の作用によって肝臓で合成されるタンパク質であるが、雄においても外部からエストロゲンを与えることにより、肝臓でVTGが合成され、血液中に放出されることが知られている。したがって雄の血中のVTG濃度を測定することにより、その魚がどれだけエストロゲン様物質に暴露されているかということが推定できる。しかし、VTG合成が環境ホルモン以外の物質によっても誘起されるかどうかという検証はあまりなされておらず、VTGの環境ホルモンのバイオマーカーとしての特異性は必ずしも明確ではない。

このような背景の下、申請者は、最初に我が国において水産上重要な湖である霞ヶ浦において、魚類への環境ホルモンの影響を調べた。次に雄の魚におけるVTG産生が、環境ホルモンだけでなく、雄自身が合成するエストロゲン、餌に含まれる植物性エストロゲンなどの物質によって誘導される可能性を検証し、さらに魚類用飼料によりVTG産生が実際に魚類において誘導されることを明らかにした。

はじめに申請者が行った霞ヶ浦における天然コイ、養殖コイおよび天然フナの調査結果では、調査したほとんどの雄の個体においてVTGは検出されなかった。また精巣組織像、血中性ホルモン濃度から判断して生殖機能に異常は認められず、霞ヶ浦の魚類への環境ホルモンの影響はほとんどないものと考えられた。また本調査により魚類の雄においても、少量のエストロゲンが産生されていることが明らかとなった。一方、一部の雄の個体において少量のVTGが検出された。この少量のVTG産生の原因については、霞ヶ浦の水質調査報告などから、環境ホルモンによるものである可能性は低く、雄自身が産生する少量のエストロゲンあるいは餌に含まれる植物性エストロゲンによって誘導された可能性が示唆された。

そこで、申請者は、組み換え酵母を用いたエストロゲン活性測定法により、種々の性ホルモン、植物性エストロゲンおよび魚類飼料のエストロゲン活性を測定した。その結果、エストラジオールなどの魚類が産生するエストロゲン、魚類が餌として摂取する可能性のある植物性エストロゲンおよび魚類用飼料においてエストロゲン活性が検出され、魚類の雄におけるVTG産生は、環境ホルモンだけではなく、魚自身が産生する内因性エストロゲンあるいは植物性エストロゲンを含む餌によっても誘導される可能性が示された。

この結果をもとに、申請者は、魚類用飼料が実際に魚類においてVTG産生を誘導するか検証した。その結果、魚類用飼料によってVTG遺伝子発現が誘導されることが示され、環境ホルモン以外の物質によってもVTG産生が生ずることが明らかとなった。

以上、申請者の行った研究は水産上意義の深いものであると考えられる。まず霞ヶ浦の魚類の調査結果は、日本の水域がすべて環境ホルモンに汚染されているわけではない、ということを示すものである。また環境ホルモンのバイオマーカーとして活用されているVTGは、環境ホルモン以外の物質、特に養殖魚類において通常与えられているような飼料によっても産生が誘起されることが示された。このことは、これまで環境ホルモンに暴露されていない魚類に対しても環境ホルモンの汚染が生じたという解釈がなされていた可能性を示す。水産の分野においては報道による風評被害がしばしば問題となるが、本研究は、このような問題を防ぐという点で科学的および社会的に重要な意義のある研究で、学術上および応用上、寄与するところが少なくない。よって審査員一同は申請者の論文は博士(農学)の学位に価値あるものと認めた。

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