学位論文要旨



No 118516
著者(漢字) 楠本,大
著者(英字)
著者(カナ) クスモト,ダイ
標題(和) ヒノキ師部の防御反応とシグナルによる誘導
標題(洋)
報告番号 118516
報告番号 甲18516
学位授与日 2003.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2649号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,和夫
 東京大学 教授 宝月,岱造
 東京大学 助教授 山田,利博
 東京大学 講師 益守,眞也
 東京大学 講師 松下,範久
内容要旨 要旨を表示する

樹木は自然環境から様々な生物的・非生物的環境ストレスを常に受けており、これに対して様々な防御反応を行うことで、生存を可能にしている。樹木の樹皮は幹の最も外側を構成しているので、樹皮における防御反応は、その内側にある形成層を保護する上で非常に重要であると考えられる。樹皮の防御反応には、傷害周皮の形成、ファイトアレキシンの蓄積、傷害樹脂道の形成などが挙げられる。しかし、これらの防御反応がどのような機構でストレスを認識し発現に至るかは明らかにされていない。

近年、作物を中心にシグナルと呼ばれる低分子物質が植物の防御反応の発現に関与することが明らかにされた。シグナルはストレスを受けた細胞やその周囲の細胞で生成され、植物内を移動して離れた場所で防御反応を誘導する。現在、シグナルとしての機能を持つ物質が複数発見されているが、その中の一つであるエチレンは、phenylalanine ammonia-lyaseの活性を高め、フェノールやリグニンの合成を促進することが知られている。また、もう一つのシグナルであるジャスモン酸は、プロテイナーゼ・インヒビターズやアントシアニンの蓄積を増加させる。しかし、これらのシグナル物質が樹木の防御反応に与える影響は明らかにされていない。

樹木は永年性であり、その成長段階において示す生理特性は変化する。したがって作物を用いて得た知見をそのまま樹木に当てはめることはできず、樹木を材料として研究を行うことが必要である。本研究の目的は、第一にヒノキの樹皮における防御反応を明らかにし、第二にヒノキ樹皮の防御反応に対してシグナルであるエチレンやジャスモン酸が与える影響を明らかにすることである。

ヒノキ師部の防御反応

ヒノキの二次師部に傷を付けることによって誘導される防御反応について、化学的および組織化学的に検討した。形態的な変化として、傷付け後7日目に壊死部と健全部との間で師部柔細胞が肥大し、その後分裂して、parenchymatic zone(PZ)を形成した。壊死部の細胞壁にはリグニンとスベリンの蓄積が認められ、ligno-suberized impervious tissue(SIT)を形成した。14日目には形成層の近くで柔細胞がさらに分裂し、カルスを形成した。壊死部とPZとの間には2〜3層のコルク組織からなる傷害周皮が形成された。また、形成層に近い師部柔細胞には接線方向に並んだ傷害樹脂道が形成された。56日目にはカルスは2mm幅の傷口を閉塞し、傷害周皮のコルク組織は6〜9層に増加した。この頃には傷害樹脂道の間隙の拡大も停止した。一方、細胞壁のリグニン含有率は、壊死部において傷付け後14日目から健全師部よりも増加し始め、28日目には7%程度高くなった。カルスでは14日目のリグニン含有率は健全師部よりも4%低かったが、28日目には健全師部と同程度まで増加した。ポリフェノールの蓄積量はカルスやPZでは健全師部よりも3倍多く、壊死部では30〜40%減少した。傷から1mm以内の師部柔細胞ではポリフェノールの蓄積量は傷付けによって若干増加したにもかかわらず、ポリフェノール染色に対する染色性は14日目以降減少した。このことは、ポリフェノールの化学性が変化したためだと考えられた。エピセリウム細胞では、傷害樹脂道の間隙が拡大している間は液胞内に多量のポリフェノールを含んでいたが、間隙の拡大が停止するとポリフェノールの蓄積がほとんど認められなくなった。樹脂道間隙が拡大する期間は樹脂が生産される期間に一致することから、エピセリウム細胞におけるポリフェノールの蓄積は樹脂の生産と関係があると考えられた。以上のように、傷に対する防御反応は組織レベルで異なっており、それぞれの組織について防御反応の詳細が化学的かつ組織化学的視点から明らかにされた。

防御反応を誘導する化学物質

ヒノキ師部に傷を付けたときに生成されるストレスエチレンの生理特性について検討した。ストレスエチレンの生成は、エチレンの前駆物質である1-aminocyclopropane-1-carboxylic acid(ACC)の添加によって増加し、ACC酸化酵素を阻害するCo2+の添加によって減少した。また、エチレンとリセプターの結合を阻害するAg+を添加するとエチレン生成はピークを過ぎても増加し続け、エチレンのフィードバックが阻害されたことが示唆された。これらの結果を総合すると、ヒノキ師部におけるエチレン生成の制御はACC合成酵素によって行われていることが推察された。また、経時的には、ストレスエチレンの生成は傷付け後3日間ほど続き、ACCやエチレン発生剤のエスレルを与えるとエチレン生成期間はさらに長くなることが明らかにされた。

ヒノキ師部の防御反応に対するエチレンの役割を明らかにするため、無傷のヒノキ師部にエチレン発生剤のエスレルを処理した。その結果、エスレル処理によって傷害樹脂道が形成され、処理の回数や濃度を増加させると傷害樹脂道の形成数や樹脂の生産量は増加した。このことから、エチレンは傷害樹脂道形成を誘導し、樹脂道の数や樹脂の生産を調節していることが明らかにされた。一方、エスレル処理によって師部の壊死、傷害周皮の形成、細胞壁のリグニン化やスベリン化は認められず、これらの防御反応はエチレンによって誘導されないことが示唆された。また、エスレル処理による樹脂道形成についてヒノキ属のヒノキとサワラ、アスナロ属のアスナロとヒノキアスナロの4樹種を比較したところ、属内ではエスレル処理に対する反応が類似しているが、属間では異なることが明らかにされた。

次に、エチレンと、シグナル物質の一つであるジャスモン酸について、傷付けによって誘導される防御反応の誘導過程における役割を明らかにするため、ヒノキ師部に傷を付け、その傷口にエチレン発生剤のエスレル、エチレン生成阻害剤のCo2+、さらに、ジャスモン酸のメチル化物のジャスモン酸メチル(MeJa)を処理した。その結果、エスレルおよびMeJaの処理によって壊死部とカルスのリグニン含有率が増加した。リグニン合成の中間産物であるフェルラ酸とリグニン合成酵素の活性を測定すると、エスレル処理では、壁結合性フェルラ酸が増加し、peroxidase(POD)の活性が増加した。このことから、エチレンはフェルラ酸合成とPOD活性を高めることによりリグニン合成を促進している可能性が推察された。一方、MeJa処理では、壁結合性フェルラ酸は高濃度処理よりも低濃度処理の方が対照に比べて増加したが、phenylalanine ammonia-lyase(PAL)と4-coumarate:CoA ligase(4CL)の活性は低濃度処理よりも高濃度処理の方が高かった。このことから、フェルラ酸はPALの活性化によって増加するが、フェルラ酸をフェルラ酸:CoAエステルに変化させる4CLの活性化によって低濃度処理よりも高濃度処理で少なくなると考えられた。したがって、ジャスモン酸はPALと4CLの活性を高めることによってリグニン合成を促進し、とくに4CLの活性が強く影響していることが推察された。このようにエチレンもジャスモン酸もリグニンの生合成を促進するが、それぞれ影響を与える酵素活性は異なっていることが明らかにされた。また、エスレルを処理してもMeJaを処理してもリグニンが合成される範囲は変化しなかった。このことからエチレンもジャスモン酸もリグニン合成を誘導しないことが明らかにされた。傷害樹脂道は、エチレンあるいはジャスモン酸を処理した場合、対照よりも傷から遠く離れた場所にまで形成され、エチレン生成を阻害することによって、対照よりも狭い範囲に形成された。このことから、エチレンもジャスモン酸も傷害樹脂道の形成を誘導することが明らかにされた。ポリフェノールの合成に対しては、エチレン処理でもジャスモン酸処理でも影響は認められなかった。

エチレンおよびジャスモン酸による防御反応の誘導機構

傷に対する反応としてヒノキは壊死部にリグニンを蓄積する。リグニンの蓄積は組織化学的には傷付け後1週間で認められるが、含有率をみてみると2週間後から増加し始め、1カ月後に停止する。また、このリグニン合成はエチレンやジャスモン酸の濃度が高まることによって促進される。一方、傷害樹脂道はエチレンとジャスモン酸によって誘導され、エチレンやジャスモン酸の生成量が多いとそれらはより遠くまで拡散するので、広範囲に傷害樹脂道が形成される。さらに、エチレンは形成される樹脂道の数や樹脂の生産量を調節する。ポリフェノールはカルスとPZで増加し、壊死部で減少する。傷近くの師部柔細胞ではポリフェノールの化学的変性が認められる。しかし、これらのポリフェノールの変化に対してエチレンもジャスモン酸も影響を与えない。このように本研究から、ヒノキ師部は傷に対して様々な防御反応を行うことが明らかにされ、エチレンおよびジャスモン酸はリグニンの合成に対しては調節因子として働き、傷害樹脂道形成に対しては形成を誘導する誘導因子と形成数や樹脂生産を調節する調節因子としての役割を持つことが明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

樹木は、自然環境からさまざまな生物的・非生物的環境ストレスをつねに受けており、これに対して防御反応を行うことで生存を可能にしている。樹皮の防御反応は、その内側にある形成層を保護する上で重要であり、傷害周皮の形成、ファイトアレキシンの蓄積、傷害樹脂道形成などが挙げられる。しかし、これらの防御反応がどのような機構でストレスを認識し、防御反応発現に至るかは明らかにされていない。近年、シグナルと呼ばれる低分子物質が、ストレスを受けた細胞やその周囲の細胞で生成され、植物内を移動して離れた場所で防御反応を誘導することが知られている。しかし、これらのシグナル物質の樹木の防御反応に与える影響は明らかにされていない。

本論文は、ヒノキ師部の防御反応とそのシグナル物質であるエチレンやジャスモン酸の影響についてについて明らかにしたもので、4章よりなっている。

第1章は、序論にあてられ、樹木の師部における防御反応と植物の防御反応を誘導する化学物質およびその機構について既往の研究成果がとりまとめられている。

第2章では、ヒノキの師部における防御反応を組織学的・化学的側面から検討した結果、ヒノキの二次師部の付傷にともなって、1週間後には壊死部と健全部との間で師部柔細胞が肥大・分裂してparenchymatic zone(PZ)を形成した。壊死部の細胞壁にはリグニンとスベリンの蓄積が認められてligno-suberized impervious tissueを形成した。2週間後には形成層の近くで柔細胞がさらに分裂してカルスを形成し、壊死部とPZとの間には2-3層のコルク組織からなる傷害周皮が形成された。また、形成層に近い師部柔細胞には接線方向に並んだ傷害樹脂道が形成された。7週間後にはカルスが傷口を閉塞し、傷害周皮のコルク組織は6-9層に増加した。一方、細胞壁のリグニン含有率は、壊死部において付傷2週間後から増加し始め、4週間後には7%高くなった。ポリフェノールの蓄積量は、カルスやPZでは健全師部よりも3倍多く、壊死部では3-4割減少した。エピセリウム細胞では、傷害樹脂道の間隙が拡大している間は液胞内に多量のポリフェノールを含んでいたが、間隙の拡大が停止するとポリフェノールの蓄積がほとんど認められなくなった。樹脂道間隙が拡大する期間は樹脂が生産される期間に一致することから、エピセリウム細胞におけるポリフェノールの蓄積は樹脂の生産と関係があると考えられた。

第3章では、ヒノキ師部に傷を付けたときに生成されるストレスエチレンの生理特性について検討した結果、その生成はエチレンの前駆物質である1-aminocyclopropane-1-carboxylic acid(ACC)の添加によって増加し、ACC酸化酵素を阻害するCo2+の添加によって減少した。また、エチレンとリセプターの結合を阻害するAg+を添加するとエチレン生成はピークを過ぎても増加し続け、エチレンのフィードバックが阻害されたことから、ヒノキ師部におけるエチレン生成の制御はACC合成酵素によって行われていることが明らかにされた。

エチレンのヒノキ師部に与える影響は、エスレル処理によって傷害樹脂道が形成されて、処理の回数や濃度を増加させると傷害樹脂道形成数や樹脂生産量は増加した。このことから、エチレンは傷害樹脂道形成を誘導し、樹脂道の形成数や樹脂の生産を調節していることが明らかにされた。

エチレンとシグナル物質の一つであるジャスモン酸によって誘導される防御反応の誘導は、エスレルおよびジャスモン酸メチルの処理によって壊死部とカルスのリグニン含有率が増加したことから、リグニン合成の中間生成物であるフェルラ酸合成とperoxidase活性を高めることによりリグニン合成を促進していることが示された。

第4章は、総合考察にあてられ、ヒノキ師部は傷に対してさまざまな防御反応を行い、エチレンおよびジャスモン酸はリグニン合成に対して調節因子として、傷害樹脂道形成に対しては誘導因子として、また樹指道の形成数や樹脂の生産に対しては調節因子として作用することが明らかにされた。

以上を要するに、本論文は学術上のみならず応用上も価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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