学位論文要旨



No 118520
著者(漢字) 内田,紀行
著者(英字)
著者(カナ) ウチダ,ノリユキ
標題(和) 水素化シリコンクラスターイオンのシリコン表面への堆積と表面挙動に関する研究
標題(洋)
報告番号 118520
報告番号 甲18520
学位授与日 2003.09.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5573号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,薫
 東京大学 教授 鳥海,明
 東京大学 教授 吉田,豊信
 東京大学 助教授 霜垣,幸浩
 東京大学 助教授 渡邉,聡
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緒言

固体基板上へ堆積したクラスターを、さながらブロックの様に扱いナノ構造やナノ構造材料を形成することは、新機能材料を創製するための有効な手段であると期待されている。クラスターの物性がその大きさと構造によって大きく変化することを利用すると、クラスターの構造や表面上での配列状態を制御して堆積できれば、様々な物性を固体表面に発現させることができると考えられる。

主要な半導体材料であるシリコンに関しては、クラスターの生成実験や、理論計算による安定構造の議論などの報告が多数なされている[1]。しかし、原子レベルで構造を制御したSi クラスターを生成し堆積する実験は、技術的な困難を伴うため、あまりなされていない。良く知られているように、Si クラスターは金属的なコンパクト構造を持つことが知られている。これは、Si はsp2 が安定でないため、Si だけでは構造を多様化することが難しいことを示している。最近の研究では[2]、Si のダングリングボンドを水素で終端することで、クラスター内のSi 原子の結合ネットワークを、金属結合的なものから共有結合的なものまで制御することが可能であり、Si クラスターの水素化が、クラスターの構造制御に対して有効であることが分っている。それに増して、内部に原子価の大きな遷移金属原子を内包することで、内部からダングリングボンドを終端し、安定なSi ケージクラスターを形成できることが確認されている[3]。これらの方法を利用して、Si クラスターの構造の多様化を実現できる可能性は高い。

近年、ガスを原料に質量の揃ったクラスターイオンを発生する装置として四重極イオントラップEQSIT(External Quadrupole Static attraction Ion Trap) が開発された[4]。このEQSIT を利用して、モノシランガス(SiH4) を材料に水素化シリコンクラスターイオンSinHx+ を生成が報告されている[5]。また、遷移金属を内包したSi ケージクラスターMSinHx+(M=遷移金属) の合成も報告されている[3]。

そこで、本研究では、EQSIT をクラスター源に利用した堆積システムを用いて、質量の揃ったSinHx+ やMSinHx+ を固体表面上に堆積し、表面構造を走査型トンネル顕微鏡(STM) で観察し、表面上でのクラスターの安定性を評価することを試みた。また、堆積表面の電子状態の評価を走査型トンネル分光(STS) を用いて行った。それらの知見から、SinHx+ やMSinHx+ をシリコン表面上での挙動を制御する方法を確立し、クラスターを用いたナノ構造形成やクラスターを単位とした薄膜形成の可能性を探索することを目的とした。

四重極イオントラップ法による水素化シリコンクラスターの成長と堆積

四重極イオントラップと堆積システム

クラスター発生源として用いているEQSIT は、中心の四重極電極とそれを囲むケージ電極とから構成されている(図1 (a))。四重極に加えた直流電圧によって静電的にイオンを引き付け、同時に、四重極に交互に位相の反転した交流電圧を供給し、斥力を発生させる[4]。その結果、四重極とケージの間の、静電引力と斥力のつり合う位置にイオンが捕獲される。この様に、イオントラップ内にイオンを電気的に閉じ込めて、これにラジカル等を供給し反応させることで、イオンを種として、クラスターを成長させることができる。さらに、この四重極電極は、イオンの捕獲だけでなくマスフィルターの役割も果たし、所定の質量にまで成長したクラスターを、4 本の電極の内部の領域を通してイオントラップの外部へ自動的に引き出すことができる。つまり、このEQSIT は、質量選択的なクラスターイオンビーム源として機能する[6]。

本研究に用いた、EQSIT を組み込んだクラスターイオン堆積システムを図1 (b) に示す。EQSIT から引き出したクラスターイオンを、200 eV 程度のエネルギーに加速し、静電偏向器で90° 偏向して、ビーム中に含まれる電気的に中性な成分を取り除いた後、静電レンズ系で減速し、超高真空中で固体基板に堆積する。また、逆方向に即ち-90° 方向に偏向した位置に、四重極質量分析器(Q-mass) が設置してあり、ビームの質量スペクトルが測定できる。このシステムを用いて、Si(111) 基板表面にSinHx+ やMSinHx+ を超高真空中で堆積した後、サンプルをすみやかにSTM チャンバーに搬送し、表面構造の観察を行った。

計算方法

SinHx+ やMSinHx+ をナノ構造などの材料として使用するために、構造や電子状態は重要な情報である。本研究では、密度汎関数法を用いクラスターの構造と電子状態を議論した。計算に用いたプログラムは、ガウシアン社のGaussian 98 Wである。グラディエント補正交換汎関数にBecke の3 パラメーター形式を、グラディエント補正相関汎関数にPerdew-Wang 91 を組み合わせたBecke の混成汎関数を用いた。Ta などの重い遷移金属を扱うために、基底系には、主に、LanL2DZ を用いた[8]。

EQSIT を用いたクラスター堆積システムによるSinHx+ の成長、輸送、堆積

ナノ構造やクラスター薄膜の構成材料としてSinHx+ を利用するために、構造の揃ったSinHx+ を大量に作り出し、壊すことなく輸送し、固体基板に堆積する必要がある。そこで、EQSIT を用いたクラスター堆積システムのSinHx+ の成長、輸送、堆積特性の評価を行った。その結果、SinHx+ (n =1-6) を効率良く成長する条件を見い出し、その中から、最も質量の大きなSi6Hx+ を、質量選択的に引き出し、Si(111)-(7×7) 表面上に堆積したビームの平均エネルギーは、EQSIT 内でのトラッピングポテンシャルの極小値を反映して18 eV で、半値全幅が約2 eVとよく揃っていた。これは、堆積時のクラスターイオンの運動エネルギー(Ed) を±1 eVの精度で制御できることを意味する。実際、Si6Hx+ ビーム電流値のEd 依存性を調べた結果、上記の分布幅を反映して、Ed= 1eV 付近まで減少させることが可能で、実際に11pA 以上の電流値が得られた(図2(a))。また、Si6Hx+ の水素の数は、質量スペクトルから、x = 0 - 7 であることが分る(図2(b))。この時のビーム直径が半値幅で2 - 3 mmであることから、単位面積当たりのイオン供給量は〜 1012ions/cm2h のオーダーで、低エネルギーでの堆積に利用できることが判明した。

実際に、このSi6Hx+ ビームを用いてSi(111)-(7×7) 表面にクラスターを、Ed=3 - 30 eV で堆積後、Ed の影響を評価するために、STM で表面の観察を行った。図3 に見られるように、クラスターを堆積した領域では、基板の(7×7) 構造の上に輝点が観察された。これらの輝点の高さh 分布をとってみると、Ed=3 eV では、h が0.30 - 0.40 nm に分布しているが、18eV では、0.25 nm 付近にもピークが現れる。30 eV になると、0.30 - 0.40nm の分布はほぼ消滅し、代わりに低い0.10 - 0.20 nm 付近に分布を持つようになる。このSTM 観察に用いたバイアス条件では、堆積表面の占有状態を観察してるので、クラスターの最高占有軌道(HOMO) を観察したことになる。Si(111)-(7×7) 表面は、金属的な表面であるので、Si6Hx+(x =0 - 7) は表面上で、電気的に中性化すると考えられる。量子化学計算によると、Si6H0-7 のHOMO は、Si 原子もしくはSi-Si 結合に広がっており、STM 像では、Si6H0-7 クラスターのSi 骨格構造を観察したことになる。Si6H0-7 のSi 骨格構造の直径は、量子化学計算によると、0.380 - 0.413 nm であるので、3 eVで堆積した場合は、h の分布がこれに一致している。つまり、観測された、0.30 - 0.40 nm の高さを持つ輝点はクラスターである。クラスターの内部構造が観察できない理由は、クラスターと(7×7) 表面との相互作用が弱く、室温では、クラスターが回転してしまい、表面上に固定できていないためと考えられる。一方、18 eV で堆積した場合のh = 0.25nm 程度の輝点や、30 eV で堆積した時の0.10 - 0.20nm の高さの輝点は、高い衝突エネルギーのために、クラスターが表面と衝突する際に壊れたフラグメンツである。実際、量子化学計算で見積もったSi6Hx の結合エネルギーは、クラスターに含まれるH 原子の数によって変化するが、1 つのSi 原子あたり、2.61 - 4.47 eV である。これと衝突エネルギーを比較すると、Ed= 3 eV= 0.5eV/Si atom, 18 eV= 3.0 eV/Si atom, 30 eV= 5.0 eV/Si atom, なので、一部のクラスターでは、18 eV の時に、衝突エネルギーがクラスターの結合エネルギーを上回る様になる。つまり、18 eV では堆積した一部のクラスターが、30 eV ではほとんど全てのクラスターが解離してしまうことになる。これは、実験結果を良く説明している。

水素化シリコンクラスターイオンの構造制御

量子化学計算によると、Si6Hx+ の構造が、水素数x の増加によって、金属結合的なものから共有結合的なものまで変化することが予想されている。本研究では、EQSIT を用いて、水素数を調節しながらSi6Hx+ を合成し、上述と同様にSi(111)-(7×7) 表面に堆積し、x を変えたことによるクラスターの振る舞いや、堆積表面の電子状態の変化を、STM やSTS によって調べた。

図1 に示したように、クラスターは、EQSIT 内部で、トラッピングポテンシャルによって捕獲されている。トラップされているクラスターの運動エネルギーEk は、トラップのパラメータによって制御でき、SinHx+ は、Sin+1Hx+ に成長する際に、このEk を持ってSiH4 と衝突することになる。その時、Ek の一部がクラスターの内部エネルギーに変換される。また、衝突によりクラスターが成長しなくても、クラスターの内部エネルギーに変換される。クラスターは、この内部エネルギーによってアニールされた後、安定構造に落ち着く。衝突や成長などいくつかのプロセスが混在するため、Ek の何%がクラスターの内部エネルギーに変換されるのか精密に議論することは難しいが、Ek が増加すれば、変換される内部エネルギーも増加する。

実際にEk を0.14-0.58 eV の範囲で変化させて、Si6Hx+ を成長し、質量スペクトルを測定した。図4(a) に示したスペクトルから、Si の同位体組成で予想される分布をフィッティングし、水素数を見積もった結果が図4(b) である。横軸に水素数x 縦軸にクラスターの相対強度をとっている。Ek = 0.14 eV では、ポリシラン(SinH2n,2n+2)に近い組成を持つクラスターが、優位に合成されるが、Ek = 0.58 eV では、少ない水素数のクラスターが優位になる。この違いは、SinHx+ が、上昇した内部エネルギーをH2 分子の放出によって放出するため、より大きな内部エネルギーの上昇を得たクラスターは、その分多くのH を失うことになったために起こったと考えられる。これを利用すれば、水素数の少ないSinHx+、つまり、金属的なSi 結合ネットワークを持つクラスターと、共有結合的なSi 結合ネットワークを持つポリシランに近い組成を持つクラスターを作り分けることができる。

これらのクラスターをEd= 3 eVで、(7×7) 表面に堆積した。上述の様に、この程度のエネルギーであれば、クラスターのSi 骨格構造を壊さずに(7×7) 表面上に供給できる。実際、STM 測定によると、クラスターを堆積した領域には、基板の(7×7) 構造の上に〜 1012 cm-2 の密度で図3 と同様な輝点が現れた。これは、ビーム電流から見積もったクラスターのドーズ量とほぼ一致していた。また、高さ分布も0.22-0.34nm で分布していることから、クラスターは壊れずに(7×7) 表面上に吸着していると結論付けられる。

図5 に、クラスターが観察されたSi(111)-(7×7) 表面上の吸着サイトを示した。吸着サイトは6 種類に分類され、A、A' サイトはコーナーアドアトムの上に、B、B' サイトは3 個のセンターアドアトムで囲まれた中心に、C、C' サイトは、センターアドアトムの上にある。A、B、C とA'、B'、C' との違いは、それぞれが、(7×7)表面のfaulted half (F) とunfaulted half (U) 上にあることを示している。それぞれのサイトの占有率を、堆積したSi6Hx+ ビームのx をパラメータにして、表1 に示す。x ≦ 5 の場合では、クラスターがほぼ等しい占有率でfaulted half とunfaulted half 上で観察されたのに対して、x の量が増加するのに伴い、faulted half が高い占有率を持つ様になった。特に、x = 10 - 13 のクラスターに対しては、C サイトが高い占有率を持つ。これは、x が減少すると、Si6Hx が化学的に活性な状態になり、どの吸着サイトへも高い付着確率で吸着したためと考えられる。一方、faulted half は、unfaulted half に比べて電子の状態密度が高く[9]、反応活性が高いことが知られている。実際、フラーレン(C60) の付着確率は、faulted half の方が高いことが報告されている[10]。この様に、吸着サイトの占有率がクラスターの水素量で変化する一つの理由は、x や吸着サイトによって、Si6Hx が表面に到達した際の付着確率が変化するためと考えられる。また、他の理由としては、クラスターが表面に到着する際に、表面migration を起こした可能性がある。つまり、x = 10 - 13 などの水素数の多いクラスターは、クラスター自体が比較的安定なので、unfaulted half には吸着せずに、(7×7) 表面上で安定な吸着サイトであるfaulted half まで、移動するというプロセスを経て吸着したと考える。実際、堆積ビーム電流値から見積もられるクラスターのドーズ量と、STM で観察されたクラスターの密度とが近い値であることは、このプロセスを支持している。

これらSi6Hx を堆積した表面のSTS を図6 に示す。これらのスペクトルは、STM モードでスキャン中(サンプルバイアス: -2.0V、トンネル電流: 0.5 nA) に、クラスターの中心直上で測定したものである。吸着サイトの違いによる影響を除くために、STS を行うクラスターは、faulted half のアドアトムに吸着したものを選択した。図6 のスペクトルは、状態密度を求めるために、測定したI/V スペクトルを指数関数でフィッティングし、その微分dI/dV をフィットしたI/V で規格化したものである[11]。カーブC は、Si(111)-(7×7) 表面上のSi アドアトムから得られたSTS スペクトルで、文献[9] に見られる(7×7) 表面のアドアトムの状態密度分布に起因するピークが、-0.4、0.35、0.65 V の位置に観測された。一方で、カーブa1-a3、b1-b3 には、電子状態のギャップがはっきりと観察された。カーブa1-a3 とb1-b3 は、それぞれ、Si6H0-5 とSi6H10-13 に対して測定したものである。Si6H10-13 の方が、i6H0-5 に比べて広いギャップを持つことが分る。よって、このスペクトルの変化は、堆積したSi6Hx クラスターの水素組成の差による電子状態の変化を反映している。STS スペクトルには、(Si6Hx クラスターの電子状態に起因するピークが観察できる。カーブa1-a3 に見られる-1.1 V と1.0-1.2 V のブロードなピークは、カーブC には観察されていないので、それぞれ、Si6H0-5 クラスターのHOMOと最低空軌道(LUMO)に相当し、Si6H10-13 のHOMO とLUMO は、それぞれ、カーブb1-b3 中の、-2.3 V と1.6-2.1 V のブロードなピークに相当する。また、カーブa1-a3 のギャプ中には、小さなピークが3 つ見られるが、これは、カーブC に見られる(7×7) 表面上のSi アドアトムの状態に一致する。つまり、アドアトムの状態がクラスターを透過して染み出したものであると考えられる。以上の解析結果は、Si6Hx クラスターが、Si(111)-(7×7) 表面上でもクラスター固有の電子状態を保持し、x が大きいほど大きなHOMO-LUMO ギャップを持つことを示している。

遷移金属を内包したSi 籠状クラスターの合成と堆積

遷移金属を内包したSi ケージクラスターの合成

遷移金属を内包したSi ケージクラスターMSin は、安定なシリコンケージ構造を形成することが可能であり、M とn の組み合わせ次第で、クラスター物性を人為的に調節できるので、ナノ構造やナノ構造材料の形成単位として有用だと考えられる[3, 12, 13]。クラスターをこの様に利用するためには、固体基板表面との相互作用に関する知見が必要であり、STM は、この目的にすぐれた力を発揮すると考えられる。しかし、これらSi ケージクラスターを固体表面への堆積は報告されておらず、本研究の一部として、はじめて行われた[14]。

SinHx+ クラスターを合成する場合と同様に、EQSIT 内に、モノシランガスSiH4(3.0×10-3Pa) を導入する。そこへ、電子ビーム加熱により金属蒸気を導入して金属イオンを生成し、EQSIT に捕獲した。捕獲した金属イオンをSiH4 との反応で、MSinHx+(M= Nb, Ta) を成長した。図7(a) にEQSIT から取り出したTaSinHx+ビームの質量スペクトルを示す。同様のSiH4 ガス圧では、金属蒸気の無い場合、Si 原子が6 個までのクラスター(Si1-6Hx+) しか合成できないのに対して、Ta の蒸気を導入すると、クラスター成長が促進され、1 個の金属原子に対してSi 原子14 個程度の組成まで成長している。つまり、これらの遷移金属原子が、クラスターの成長核として作用している。比較的大量に合成されるクラスターの組成は、TaSi9-13Hx+ であった。クラスターの水素組成は、どのTaSinHx+ クラスターの場合もx ≦ 6 であった。この水素組成は、TaSinHx+ 中のSi 原子のネットワークが、ポリシラン(SinH2n,2n+2) とは異なり、Si-Si 結合を主としたコンパクトな構造であることを示している。また、Nb、Ta いずれの場合も、n ≧ 10 のクラスターが大量に生成されていることは、それらが安定な構造をしていることを示しており、n = 10 付近でSi 原子が球殻状のケージ構造を形成し始めることを示唆している。理論計算からも、これを支持する結果が得られた。他にも、n = 10 付近でのSi ケージ形成を支持する実験結果が、Sanekata[15] らやOhara[16] らによって報告されており、本研究の結果と良い整合性を見せている。

Si ケージ構造を持つMSinHx+ クラスターをSi 固体基板に堆積するために、EQSIT の質量選別機能を活用し、n ≧ 10 で構成されるクラスターイオンビームを形成した。TaSi10-13Hx+ イオンビームの高分解能質量スペクトルを図7(b) に示す。Si 原子数の異なるクラスターの存在比は、スペクトルから、TaSi10Hx+ が42.8%、TaSi11Hx+ が25.5%、TaSi12Hx+ が16.5% そしてTaSi13Hx+ が10.4%である。このスペクトルに対して、Si の同位体組成で予想される分布をフィッティングし、水素数を見積もった結果を図7(b) に示す。Ta の同位体分布は、180Ta: 0.012% , 181Ta: 99.988%であり、Si に比べるとほとんど分布していないと言えるので、180Ta は、H の同位体分布同様無視をしてフィッティングした。クラスターのx は常に偶数(x = 0, 2, 4, 6) であり、奇数のものはほとんど観測できなかった。これは、x が偶数の場合、クラスター全体の荷電子の数が偶数になるためであると考えられる。図7(b) において、特筆すべきなのは、TaSi10Hx+ やTaSi11Hx+ では、x = 4, 6 のものが優位であるのに対して、Si 原子の数が12 にになると、脱水素化しx = 0がクラスター成分の主体になることである。水素化したクラスターを合成している狙いは、Si のダングリングボンドを終端し、クラスターを安定化させるところにあり、この脱水素化は、n = 12 において、Si ケージのネットワークが完成し、結合が閉じた構造が形成されることを示している。

遷移金属を内包したSi ケージクラスターの安定性

TaSi10-13Hx+ の構造を詳しく調べるために密度汎関数法による量子化学計算を行い安定構造を求めた。その結果を図8 に示す。いずれのクラスターの場合も、Ta を中心としたSi ケージ構造を持つことが分った。水素は、Ta に結合するのでなく、Si ケージに結合する方が安定であり、6 個程度の水素では、Si のケージ構造が大きく変わらないことを確認した。

図7(b) に示したTaSi10-13Hx+ イオンビームを、〜1012 ions/cm2h の密度で、Ed= 18 eVで、Si(111)-(7×7)表面に堆積した。その試料表面のSTM 像を図9(a) に示す。(7×7) 表面上に、クラスターのドーズ量に相当する密度の輝点が観察され、輝点の高さ分布(0.20-0.44 nm) が、図8 に示したSi ケージの直径(0.242-0.494 nm) と整合することから、クラスターは、壊れることなく軟着陸していると言える。TaSi10-13 から、Si を1 個引き抜くのに必要なエネルギーを見積もると、-4.87 から-3.81eV となり、Ed= 18 eVが4 個以上のSi に分配されるとすればこの値を下回ることになる。Si がケージ構造をしていることから、その様な状況は十分考えられる。STM 像をより詳細に解析すると、クラスターの70%が(7×7) 構造のFaulted 上で観察されることが分った。これは、Si6Hx+ の場合と同様、吸着サイトとクラスターの組み合わせによる確率の変化や、クラスターの表面migration の結果だと考えられる。また、観察したクラスターの約6.2%に、図7(c) に示した様な二重縞が観測された。このクラスターは、高さh が0.34-0.40nm、縞の幅d が0.23-0.26nm であり、これは、6 角柱プリズムSi ケージを持つTaSi12 クラスターを4 角形面から眺めた形状と良い一致を見せている(図10)。この構造のHOMO が6 角形面上に主に局在し、中心金属の位置で節を持っていることも、二重縞のSTM 像と整合している。つまり、二重縞は、4 角形面でSi に吸着しているTaSi12 の内部構造に対応すると考えられる。これは、TaSi12 がTaSi10 やTaSi11 などの他のクラスターと比較して、Si 表面と強く相互作用するため、表面上に固着し、内部状態が観測可能になったことを示唆している。量子化学計算から見積もられたTaSi12 の電子親和力は4 eV以上であり、他の堆積したクラスターに比べて非常に大きいため、金属的な表面である(7×7) 表面から電子移動が生じ強く相互作用したと考えるのは妥当である。

総括

EQSIT を用いたクラスター堆積システムで、SinHx+ を合成し、Si6Hx+ を選択的に取り出して、Ed の影響を評価するために、Ed=3 - 30 eV で堆積後、表面のSTM を観察を行った。その結果、Si6Hx+ を壊さずに表面上に供給するには、数eV 程度の低エネルギーが必要であることが分った。

次に、Si6Hx+ を水素組成を制御しながら合成し、Si(111)-(7×7) 表面に堆積を行い、x の違いによるクラスターの振る舞いや電子状態の違いをSTM、STS で観察した。その結果、x の変化に伴う、クラスターの吸着サイトや表面migration の違いを観察した。(7×7) 表面のアドアトム上に吸着したクラスターに対してSTS を行ったところ、Si6H0-5 とSi6H10-13 の場合とで明らかに異なる電子状態を持つことが判明した。Si 表面上でSi6Hx+ クラスターの振る舞いや電子状態を制御する上で、クラスターの水素組成は重要なパラメータになることが分った。

Ta を中心としたSi ケージクラスターを合成し、Ed = 18 eVでSi(111)-(7×7) 表面に堆積し、STM 観察を行った。Si ケージ構造が壊れることなく表面に吸着し、この構造がSi 表面上で安定な構造であることが分った。

以上の様に、SinHx+ やMSinHx+ クラスターを、ナノ構造やナノ構造材料の材料として利用し、新機能材料を創製する第一歩として、これらクラスターのSi 表面上での安定性について、有用な知見を得ることができた。

(a) 四重極イオントラップ(EQSIT)。(b)EQSIT を組み込んだクラスターイオン堆積システム。

(a)Si6Hx+ ビーム電流のEd 依存性。(b) 質量スペクトル。

Si6Hx+(x = 0 - 7) を低い密度(3.5 ×1012ions/cm2) の密度で、Si (111)-(7×7) 表面に堆積した時のSTM 像(15×15nm2) と輝点の高さh 分布。Ed は、(a) 3, (b) 18, (c) 30 eV、測定条件は、(a)-2.3 V/0.2 nA, (b) -2.0 V/0.2 nA, (c) -1.8 V/0.2nA。

(a)Si6Hx+ ビームの高分解能質量スペクトルのフィッティング。(b) ビームの水素組成の変化(Ek =0.14-0.58 eV)。

(a)Si(111)-(7×7) 構造におけるSi6Hx の吸着サイト。

Si6Hx を堆積したSi(111)-(7×7) 表面のSTS。アドアトム上のSi6H0-5(a1-a3)、Si6H10-13(b1-b3)、(7×7) 構造のアドアトムの状態(c)。上向きの矢印はLUMO、下向きはHOMO を表す。

吸着サイトの占有率。

(a)TaSinHx+ を(n=1-14) の質量スペクトル。(b) TaSi10Hx+ を(n=10-13) の高分解能質量スペクトル、及び水素組成フィッティングの結果。

TaSin (n=10-13) とTaSi10Hx(x=2, 4) の安定構造。(Gaussian98 B3PW91/LanL2DZ)。

(a)TaSi10-13Hx+ を18eV で堆積したSi(111)-(7×7) 表面のSTM 像。(-2.5V, 0.2nA) (b)輝点の高さ分布。(c) 二重縞構造の拡大STM 像。矢印のA,A ',B,B 'は、図10 のラインプロファイルの方向を表す。

図10:二重縞構造のラインプロファイル、及び、TaSi12 の構造とHOMO。

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審査要旨 要旨を表示する

クラスターは、原子の数個から数千個の集合体であるが、孤立した原子とも固体とも異なる特異な物性を持ち得る。その物性は、クラスターを構成する原子数やクラスター構造によって敏感に変化する。特異な物性の起源は、クラスターの電子状態が、孤立した原子の原子軌道の混成によって元の原子軌道と異なるが、固体のようにエネルギーが連続的に分布するバンドにまでならず、エネルギーの離散的な状態を取ることである。また、クラスターの構成原子数は固体に比べて桁違いに少ないので、1原子の出入りで結合状態や構造が大きく変化し、物性が劇的に変化する可能性もある。構造や物性を保存したまま、クラスターを堆積させて薄膜やナノ構造を作製することができれば、その特異な物性を生かした材料やデバイスを創製することが期待できる。本研究は、構造を制御したクラスターを作製し、構造を保存して堆積し、クラスターを構成単位とした薄膜やナノ構造を創製するための基礎的知見を得ることを目的としている。具体的には、原子数を制御したクラスターを作製できる四重極イオントラップ(EQSIT)法を用い、基板上で安定な水素化シリコンクラスター(SinHx+)の構造制御法を見出し、クラスターの構造を保存して堆積する方法を確立し、堆積したクラスターの状態を走査トンネル顕微鏡(STM)や走査トンネル分光(STS)を用いて評価している。また、密度汎関数法を用いた量子化学計算を行い、実験と計算の結果を比較して議論することにより、有用な方針や結論を得ている。論文は、5章より構成されている。

第1章は序論で、本研究の背景となる従来の研究について概観し、研究の目的と論文の構成について述べている。

第2章では、EQSITを用いたクラスター堆積システムでSinHx+を合成し、選択的に引き出し、Si(111)-(7×7)表面に堆積時のクラスターイオンの運動エネルギー(Ed)を制御し、STMにより表面挙動に対するEdの影響を評価している。モノシランガスSiH4を原料にして、SinHx+(n=1-6) を効率良く成長する条件を見出し、その中から最も質量の大きなSi6Hx+を質量選択的に引き出し、堆積したと述べている。ビームの平均エネルギーはEQSIT内でのトラッピングポテンシャルの極小値を反映して18eVで、半値全幅が約2eVであることからEdを±1eVの精度で制御できている。Edが2eV以上で10pA以上の電流値が得られ、単位面積当たりのイオン供給量としては1012ions/cm2hのオーダーであると述べている。幾つかのEdで堆積後、STMで観察された輝点の高さ分布を調べ、EdとSi原子当たりの結合エネルギーを比較することにより、Si6Hx+を壊さずに表面上に供給するには、Si原子当たり約2eV以下の低いエネルギーで堆積する必要があることを明らかにした。

第3章では、Si6Hx+の水素組成を制御する方法を見出し、xの違いによるSi(111)-(7×7)表面上での表面挙動や電子状態の違いをSTMおよびSTSで評価している。トラップのパラメータによりトラップされているクラスターの運動エネルギー(Ek)を制御し、xの大きな共有結合的クラスターと、xの小さい金属結合的なクラスターを作り分けることに成功している。トラップされているSinHx+は、中性のSiH4と衝突する際、成長してもしなくても、Ekの一部はクラスターの内部エネルギーに変換されると考えている。SinHx+は、上昇した内部エネルギーをH2分子の脱離によって放出するため、Ekが大きな場合は、より多くのHを失うと議論している。表面上のクラスターの吸着サイトは、x=10-13のクラスターに対しては特定のサイト(faulted halfのcenter adatom上)であったのに対して、xが減少すると、Si6Hx+が化学的に活性な状態になり、どの吸着サイトへも高い付着確率で吸着することを明らかにしている。イオン供給量とSTMで観察されたクラスターの密度が近いことから、x=10-13のクラスターはクラスター自体が比較的安定なので、unfaulted halfには吸着せずに、反応活性が高いfaulted halfまで移動して吸着したと考察している。STS測定により、faulted halfのadatom上に吸着したSi6Hx+に対して、x=10-13の場合はHOMO-LUMOギャップが3.9-4.4eVと大きく、x=0-5の場合2.1-2.3eVと小さいことを明らかにした。 これは、量子化学計算の結果とも定性的に一致していることを指摘している。以上の結果から、Si表面上でSi6Hx+の表面挙動や電子状態を制御する上で、クラスターの水素組成が重要なパラメータになると結論している。

第4章では、遷移金属のTaを含んだTaSinHx+を合成すると共に、量子化学計算による安定構造の決定を行い、Taを中心としたSiケージクラスターを選択的に取り出して堆積し、STM観察と計算で得られた電子状態を比較して議論している。EQSIT内にSiH4の他にTa蒸気を導入すると、クラスター成長が促進され、Si原子14個程度の組成まで成長するが、水素組成は6個以下で、クラスター全体の荷電子数が偶数になるように、常に偶数となる(SinHx+(n=1-14, x≦6))ことを明らかにした。特に、n≧10で構成されるクラスターは、Taを中心とした安定なケージ構造を形成することが示唆されたと述べている。さらに、n=12の場合は、Siケージのネットワークが完成し結合が閉じた構造が形成されるため、脱水素化したx=0がクラスター成分の主体となることを明らかにしている。具体的な最安定構造は、6角柱プリズムであることを示している。このクラスターが主体となる条件でSi(111)-(7×7)表面に堆積すると、上記の構造に対応する高さ分布を持った輝点が70%はfaulted half上で観察され、前章と同様に、安定なクラスターが吸着サイトまで表面移動したと結論している。STM像には二十縞が観測され、6角柱プリズムが4角形面を下にして吸着している内部構造に対応すると述べている。この考えが、量子化学計算から見積もられた電子親和力からも妥当であることを指摘している。

第5章は、本論文の総括と展望である。

以上、要するに、この研究は、クラスターを構成単位とした薄膜やナノ構造を創製しようとする試みの一環であり、そのための基礎的知見を提供している。特に、具体的なクラスターとして取り上げた水素化シリコンクラスターに対して、作製、構造制御、選別、堆積、表面挙動の評価を、一連の研究として行っており、薄膜やナノ構造創製に近付いている。これらの成果は、物質科学や材料学の発展に寄与するところが大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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