学位論文要旨



No 118521
著者(漢字) 坂上,裕子
著者(英字)
著者(カナ) サカガミ,ヒロコ
標題(和) 歩行開始期における母子の共変化 : 反抗期を経験することによる母親の発達
標題(洋)
報告番号 118521
報告番号 甲18521
学位授与日 2003.09.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第93号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 田中,千穂子
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 助教授 秋田,喜代美
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 市川,伸一
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,母子を共変化,共発達する1つのシステムと捉えた上で,歩行開始期に子どもの反抗・自己主張が顕著になることを契機に展開していく,母子の関係性の再編過程について,母親の側の視点から精緻に検討したものである。

歩行開始期は,理論上,母子の分離−個体化が急速に進む,母子の関係性の質的転換期として位置づけられてきた。その表れであるのが1歳後半から2歳の子どもにみられる反抗期現象である。しかし,これまでの研究では主として,子どもの発達的変化に焦点が当てられており,関係性の再編のダイナミクスが母子双方の視点からは説明されてこなかった。また,反抗期現象を説明するに際して枠組として使用されるのは,自律性や自己主張が強調される欧米の関係性の発達に関する理論であるため,他者との協調が重要視される日本において,反抗期がどのような意味を持つのかについては,明らかにされていなかった。さらに,母親に育児の過剰な負担がかかっているいまの日本の環境は,健全な母子の分離−個体化を困難にさせている可能性があり,この時期の母子への支援を考える上でも,日本の母子の関係性再編の過程を,母親の視点から記述する必要があると考えられた。

本論文では,以上の理論的,実践的意義に鑑みて,歩行開始期における日本の母子の関係性の再編過程を,この時期の母親の変化に着目した4つの研究を行うことによって,検討した。検討課題は以下の2つであった。課題1 : 子どもの反抗期にあたる1歳代後半から2歳代前半にかけての,母親の対応の変化を明らかにし,その変化が子どものいかなる発達的変化に連動しているのかを明らかにする。課題2 : 母親の対応の変化の背後にある内的側面の変化を明らかにするべく,子どもの反抗,自己主張に対する日本の母親の適応過程を,母親の内的視点から記述し,明らかにする。

研究1,研究2では,母親の対応面の変化と子どもの発達的変化との関連性を検討した。

研究1では,一母子の日常的やりとりを,子どもが生後15〜27ヵ月齢の約1年間縦断的に観察し,母子の葛藤場面における母親の対応変化と子どもの行動変化,ならびに両者の関連性を検討した。その結果,2歳前後の時期を堺に母親が,やりとりの相互性や互恵性を意識化させる対応,具体的には,理解や譲歩を求める対応(行為の結果の説明や交換条件)や強く従順さを求める強圧的対応(強い語気での非難・叱責,突き放す)を,子どもに対してとるようになっていったことが分かった。またその変化は,事象間の関連や行為の社会的意味に関する子どもの理解が進んだことや,子どもが自身の意図や要求を多様かつ明確に伝えるようになったことに連動して生じたものであることが示唆された。

研究2では,研究1で得られた知見を確認,発展させるべく,この時期の母親の対応の変化と子どもの発達的変化との関連性を,生後18〜30ヵ月齢児の母親を対象とした横断的質問紙調査によって検討した。その際,次の2つの仮説を立てた。仮説1 : 2歳前後の時期を境に,母親には,子どもに理解や譲歩を求める対応や,強圧的な対応が多くみられるようになる。仮説2 : 母親の対応の変化は,反抗・自己主張の顕在化や理解力の向上といった子どもの発達的変化に連動して生じる。筆者が作成した,「反抗・自己主張に対する母親の対応尺度」を因子分析した結果,母親の対応は,それが誰の意図によるものであるか,あるいはどの対象に焦点化したものであるかによって,母焦点型,子焦点型,母子焦点型,物焦点型の4種類に分類できた。母親がとる各対応の頻度について分析した結果,加齢に伴い,母子焦点型対応(交換条件,説明・説得など)の頻度が増加すること,また,子どもが第1子である場合に限って,母焦点型対応(叱る,大声で怒るなど)の頻度が増加し,子焦点型対応(共感の言葉かけ,抱っこなど)の頻度が減少することが明らかになり,仮説1が確認された。次に,子どもの諸要因(月齢や反抗・自己主張の程度,理解力を中心とした発達的変化)と母親の対応との関連を検討した結果,母子焦点型対応の頻度は,子どもの理解力の向上と関連していること,また,母焦点型対応の頻度は,子どもの反抗・自己主張の程度と関連していることが明らかになり,仮説2が確認された。

以上の研究から,母親はこの時期に,理解力の向上を中心とした子どもの発達的変化に伴い,子どもに理解や譲歩を求める対応をとるようになること,また,第1子である場合に限って,子どもに強く従順さを求める対応をとるようになることが分かった。これらの結果から,母親はこの時期に,子どもの発達的変化に促されて,子どもとの互恵的,相互調整的やりとりを可能にする新たな対応を身につけていくこと,また,子どもから反抗や自己主張を受けることによって,子どもの理解者としての役割とソーシャライザーとしての役割という,親としての2つの役割の分化と統合を果たしていくことが示唆された。この結果から,次の課題として,母親がいかにして子どもへの新たな対応を身につけるのか,また,子どもの理解者としての役割とソーシャライザーとしての役割という,時には相反する2つの役割を統合していくのかを明らかにする必要があることが示唆された。そのためには,この時期の母親の経験を,母親の内的視点から捉える必要があると考えられた。

そこで,研究3,研究4では,歩行開始期の母親の対応の背後にある内的変化を,反抗期の始まりと進行に伴う母親の感情,考え,対応の変化に着目して検討した。

研究3では,子どもの反抗期に対する母親の受け止め方を,質問紙調査における自由記述の分析によって検討した。その結果,子どもの反抗・自己主張を両価的に受け止めている母親が割合的にもっとも多いことが分かった。この両価的な受け止め方は,反抗や自己主張を子どもの成長として理解し,尊重しようという,子どもの視点に立った見方と,反抗や自己主張によって自身は苛立ち,困惑する,という自己の視点に立った見方とが葛藤した状態を反映していると考えられた。このことから,子どもの視点と自己の視点の葛藤に対処することが,日本の母親にとっての,反抗期における課題となることが示唆された。

研究4では,母親がこの視点の葛藤にいかに対処し,適応していくのかを,2歳児の母親25名の面接での語りの分析から検討した。その結果,まず,子どもが第1子である場合には特に,母親は反抗期の開始によって,親である自己の視点(個人的視点とソーシャライザーの視点)から子どもの行動を捉えやすい状態におかれ,苛立ちや困惑を経験することが分かった。次に,母親が語った子どもとのやりとりの背景的文脈に着目した結果,母親は,自身に身体的,精神的余裕がない時や子どもの反抗・自己主張が激しい時,子どもの行動に意図性や不合理さが感じられた時に,苛立ちを経験したり,自己の視点に焦点化した対応(怒る,叩く,突き放す)をとったりすること,また,対応の効果や子どもの理解を期待して,自己の視点と子どもの視点の両方に焦点化した対応(取引,説明・説得など)をとることが分かった。しかし,これらの対応の一部(怒る,突き放す,叩く,脅すなど)は帰結として視点の揺れ,すなわち,自身がとった対応や子どもの反抗行動について,子どもの視点から捉え直すこと,を特に第1子の母親には生じさせていた。さらに,母親が語った自身の感情や考え,対応の変化に着目したところ,子どもの反抗や自己主張に対する母親の適応過程として,次の3つが抽出された。1つ目に,理解力の向上や興味・関心の拡大といった子どもの発達的変化に応じて,相互の理解や譲歩に基づく意図の調整を促す対応(説明・説得,取引,物への注意転換など)を試行錯誤を経て見出すこと,2つ目に,子どもへの期待や認知を我が子の実情に合うように改変する,つまり,自己の既存の視点を更新することを通して,自己の視点に焦点化した状態から脱すること,3つ目に,環境を工夫したり自身の苛立ちを統制する方法を見出すことを通して,自己の視点に焦点化した状態が生じるのを抑制することである。これらの分析から,この時期の母親の中心的経験は,個別のやりとりの中では視点の揺れを通して,また,長期的には視点の調整の仕方を見出すことを通して,親である自己の視点と子どもの視点の統合を図ることであった,と結論づけられた。さらに本結果からは,この時期の母親の内的変化として,未分化であった子どもの視点と自己の視点の分化が進み,子どもの他者性が再認識されるようになることが示唆された。また,その過程では視点の更新が生じることが重要であり,それには,母子を支え,取り巻く他の人間関係の存在が欠かせないことが示唆された。

結論として,本論文からは,歩行開始期の母親の変化,発達に,2つの側面があることが分かった。1つは,親としての役割の分化と統合という側面であり,それは母親にとっては,自己の視点と子どもの視点の分化・統合の過程として経験されていることが分かった。もう1つは,理解力の向上を中心とした子どもの発達に助けられながら,子どもへの新たな対応を身につけていく,という側面である。このような母子の共変化によって,相互の理解や譲歩に基づく新たな関係性が,母子の間に築かれていくことが示唆された。また,本結果からは,この時期の母子の関係性の再編や母親の親育ちのための支援として,子どもの言葉や理解の発達,物への興味・関心を促す支援や,母親の視点の更新を助けるための,母親を支える人的ネットワーク作りが望まれることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、母子を共変化・共発達する1つのシステムとして捉えるという前提のもとに、子どもの反抗や自己主張が顕著になることを契機に展開する母子の関係性の再編過程に焦点をあて、母親の側からそのプロセスを精緻に探究したものである。

本論文は全部で9章からなっている。1章は導入であり、2章でこの時期の母子の関係性に着目する意義が述べられている。3章では先行研究が概観され、従来の研究では子どもの発達的変化のみに焦点があてられてきたという点と、他者との協調性を重視するわが国では、この時期を理解するためには欧米の自我発達モデルの枠組みだけでは十分ではないという、2つの問題点が指摘され、その上で共発達という視点を導入する意義が述べられている。続く4章では研究目的と方法論が説明され、以下に4つの研究が行われた。

まず5章(研究1)では、母親の対応面の変化と子どもの発達的変化との関連性が1組の母子の縦断的事例観察の質的分析により検討され、2歳前後を境に、子どもの理解力の向上などの発達的変化に連動して、母親が子どもに理解や譲歩を求める対応や、強圧的な対応をとるようになることが示唆された。続く6章(研究2)では、この知見を確認するために、母親への横断的質問紙調査の分析が行われ、研究1を支持する結果が得られ、親はこの時期に子どもとの相互調整的な相互作用を可能にする、新たな対応を身につけることが確認された。そこで母親の対応の背後にある内的側面の変化を明らかにするために、7章(研究3)で子どもの反抗期に関する母親の受けとめ方を、質問紙調査における自由記述の分析から検討した。その結果、多くの母親が子どもの反抗や自己主張を両価的にうけとめ、葛藤的になることが見いだされた。そこでこの葛藤にいかに対処し、適応していくかを明らかにすべく、8章(研究4)で母親の面接調査により語りの分析が行われた。その結果、自己の視点を子どもの視点から捉え直すことにより、視点の統合が行われ、同時にこの過程で子どもの他者性が再認識され、子どもの視点と自己の視点の分化が進むということが示唆された。9章では今後の課題が述べられた。

論文は質的研究法と量的研究法をバランスよく用いながら、母子を共変化するシステムとして捉え、反抗期の母子の関係性の再編過程を実証的に明らかにした点で高く評価される。特に自己の視点と子どもの視点を調整するメカニズムの構築が第1子と第2子で異なって遂行されていくことなど、独創的な知見をいくつも明らかにし得たことは、今後の育児や発達研究に種々の示唆を与えるものである。母子をシステムとして捉える際の社会的観点の導入などの点で課題は残しているが、それは本研究の独創性を損なうものではない。以上の点から本論文は博士(教育学)の学位を授与するにふさわしいものと判断された。

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