学位論文要旨



No 118525
著者(漢字) 愛,みち子
著者(英字)
著者(カナ) アイ,ミチコ
標題(和) 香港返還と移民問題 1980-2000 : 児童移民を中心に
標題(洋)
報告番号 118525
報告番号 甲18525
学位授与日 2003.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第450号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 草光,俊雄
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 濱下,武志
内容要旨 要旨を表示する

本論は1997年の香港社会の転換に注目し、返還を契機に発生した児童移民問題とそれにつづく居留権問題を取り上げた。児童移民問題は、返還によって生じる香港社会の不安定な点を映しているのみならず、香港と中国との関係の歴史的なありようも体現していた。またイギリス統治時代の背景を考えながら、問題への対応をめぐる、中国と香港、および香港の中の各グループの対応を通して、返還後の香港の基本的な状況とともに、香港社会がもつ移民社会としての特徴を明らかにした。

香港地域を特徴付ける移民現象の背景として、公的な制度についてみていくと、香港住民の国籍など法的身分や出入境の仕組みには、自由な移動が保障される中英両方の制度が含まれていた。それは、イギリスの制度においては、帝国内を自由移動できる香港成立当初の大英帝国の臣民としての身分であり、それを受け継ぐ国籍身分である。中国の制度では、中国と香港の間の自由往来が許される中国人「香港同胞」としての身分である。

ところで、香港地域には、英領香港成立以前から人の流れがあり、香港成立後も移民によって地域が形成されてきた。特に中国からの流入移民が絶えたことは無い。公式には中国から香港への入境は、1970年代から制限的な方向になり、80年代からは定数割り当て制になった。公式な入境が制限された後は、非公式な入境方法つまり密入境がしばしば用いられ、もはやひとつの選択肢となりつつあるようだ。公的な制限では、伝統的に地域にある人の流れを止められないことがわかる。

1984年、香港にとって歴史的転換点となる、イギリスから中国への主権返還が決まる。中英間の合意に基づいて、香港住民に新たな法的身分が作られ、香港の居留権が初めて明確に決められる。

主権の返還が決定した後の1989年、北京で天安門事件が起こる。それをきっかけにイギリスの側でも香港住民への配慮がなされ、返還を前にいくつかの措置が採られた。中国側でも香港返還後の「憲法」にあたる、香港基本法が起草される。返還を大きな節目として、制度に大幅な変更が繰り返された。主権国の入れ替わりが複雑な状況と混乱をもたらしたのである。その結果、香港住民においては、一様な制度を共有するのではなく、国籍、居留権、旅券の付与の重複や空白が生まれた。多くの場合、移動が最大限保証される身分を選ぶのが香港の価値観である。香港は「移動」に高い価値をおく個人からなる社会である。香港では、「国籍」のような近代国家の集団的、典型的概念さえ、個人の選択の対象であり、香港住民は制度によって一律に統合されてはいないことがわかった。また、制度上、香港はイギリスと中国の両方から影響を受けていることも、国籍付与の過程から明らかになった。

返還を前にして、イギリス統治下の香港社会には、先の見えない閉塞感があり、現状の維持を考える住民にとっては、一種の切迫感があったと思われる。返還はどのように捉えられたのか。返還を前にした議論は、「主権の返還が香港を変える」、「香港は中国の一地方都市となる」、「香港の中国化」、「香港人は香港を捨てて移住する」、というものが目立った。そのような依存的で退行的な香港像をめぐる議論の応酬を経て、返還を迎えた。

香港返還の直接的な効果として最初に現れたのは、中国からの移入民であった。「小人蛇」と呼ばれる彼らは子供の密航者であり、香港の主権がイギリスから中国へと移る、その制度の変換時に、制度のギャップに乗じて香港へ移住しようとしたのである。

児童移民を生む背景には、香港の移動の便宜性から、移民の形態のまま、香港と中国の境界を跨ぐ家族が形成されていることなどがある。問題はそれらの家族の子女、大陸子女の数が膨大であろうと予測されることである。数については実態をつかむのが難しく、予想値が数十万から数百万まで開きがある。

中国の中でも、特に移出傾向が顕著な地域は華南であり、福建省や広東省が華僑華人の故郷、僑郷として知られている。児童移民問題の終盤にも、この問題をひとつの移住機会と捉えて香港入境した人々がいた。実際に彼らの故郷の人々には、あらゆるチャンスを捉えて移出しようとする傾向が見られる。

返還直後の児童移民現象に対して、返還後の香港社会はどのように反応したのか。結果として脆弱な反応ではなかった。議論は大きく分けて4つの段階時期に分かれる。香港政府が入境法を制定して児童移民を制限する時期、法曹界が基本法を根拠として、児童移民の居留権取得を支援し、児童移民が全面的に勝訴するまでの時期、大陸側の関与によって児童移民および大陸子女が敗訴するまでの時期、敗訴した移民を人権団体が支援する時期、である。

児童移民の出現は、当初香港住民から歓迎されず、政府は急遽入境法を改定して、児童移民の香港居住を難しくする。中国側の手続きを経ないと入境ができないしくみにして、児童であっても密航者や超過滞在者には居留権を与えないようにした。

香港政府の措置に対し、香港社会はある理念をもって対抗する。新香港は基本法によって法治されるべきだとする法曹界が、最初に深く関与してくる。政府の一部門である法律援助處も積極的役割を果たし、児童移民の基本法上の権利を法廷で争う運びとなる。最初の裁判ケース(ン・カーリン・ケース)の最終審判決によって、彼らの権利が最大限認められた。また香港の裁判所の、中国からの独立した立場も判決に盛り込まれた。中国中央政府から自由である香港のありかたが明言されたことは、児童の居留権という直接の収穫のほかに、新体制である一国二制度が、香港にとって拘束的なものにならないという大きな収穫となった。それは香港社会一般と法曹界が歓迎する結果であった。

判決が示した「香港の独立的立場」に、大陸側の法律専門家が異議を唱える。続いて香港政府が追従し、香港最終裁判所に判決の再説明を求める。最終裁判所判事は、香港裁判所は中国全人代の権限を侵さない、と説明する。法曹界は、司法が政府の意図に従ったと嘆き、香港の法治に限界を感じる。香港政府は、問題の核心部分である、居留権を定める基本法条文の再解釈を、全人代に要請する。全人代は香港政府案をそのまま通過させる。香港では新たな裁判ケース(ラウ・コンユン・ケース)が係争中であったが、その再解釈に沿った判決が下される。ン・カーリン・ケースで幅広く認められた香港居留権の対象者は、限定的なものに戻ってしまった。のみならず、香港裁判所の独立も潰えた形となった。

最後に居留権問題と移民に関わったのは、人権団体や宗教系運動組織や学生団体などのNGOである。移民の居留権は、人権からいって守られるべきだという主張がなされ、社会福祉的な様相を帯びてくる。しかし暴徒化する一部の移民によって、人権的要求も効果が薄くなっていく。

4つの段階の中で、特に重要と思われるのは、法曹界と人権団体が、移民を擁護する動きである。それは、「法治」や「人権」という具体的な理念を伴って、香港社会内部から出たものであり、政府と世論への訴えであり、中国と一国二制度のあり方に対するメッセージでもあった。

児童移民問題は、香港の返還という時期的状況と、香港が中国の一部であり、移民傾向の強い華南に位置するという地域的状況を反映した問題である。それへの取り組みは、すなわち新香港のおかれた状況への取り組みであり、不透明感がある一国二制度と、背後にある中国への対応であったといえよう。また、1980年代の中英交渉以降、香港の将来像に関する議論は、イギリスか中国の主導によって、香港社会の頭越しに行われてきた。それに対して、法曹界と人権団体は、返還直後に、香港のあり方を自己主張したものといえるのではないだろうか。つまり香港社会が移民問題において交わした議論は、表面は居留権問題であったけれども、根底には香港が返還後に守るべき社会価値についての議論があったと考える。

返還前、中国とイギリスが政治イデオロギーを異にすることから、「民主主義」や「自由な」文化習慣に関わる懸念が多かった。しかし移民問題を通して吟味された命題は、「香港の人口増加にどう対処するか」、「香港は独立した法治システムを維持できるか」、「香港と中国の間には統治被統治関係が生じるのか」、「香港では人権は配慮されるのか」といったものだった。児童移民と居留権をめぐる議論は、それらの返還前に提示された問題に対して、答えないしは方向性を示していったといえよう。議論は香港の主権や統治の問題と深くかかわるものであった。言い換えれば、返還にかかわる社会の不安や不確実性が、移民問題への対応を通して浮かび出たのではないだろうか。

その間に、移民そのものは、児童移民問題から居留権問題への推移とともに、当初の広東省出身者中心の児童移民とは異なるタイプの移民が居留権を要求していた。香港移住を窺う福建省出身の大人が大勢を占めるようになったのである。香港の児童移民問題に移住のルートを見いだした、新たな移民の流れである。

児童移民問題は、香港の歴史からみれば、ひとつの移民パターンに過ぎない。この問題が仮に解決されても、中国あるいは海外からの移民が止まることはない。移民は常に政府によって制限されるものであるが、香港においては移民と移民問題への対応が、社会に議論を促し、新しい香港への活力になり、さらに新たな移民を生み出していく。香港社会がもつ制度と活力と移り変わりの速さが移動を促している。このように本論は、移民をめぐる問題を、政府、社会、移民の全方向から構造的にみることによって、新香港の基本法状況と方向性、香港地域と移民の相互関係性が把握できたものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1997年に中国へ返還された香港が直面した新しい移民問題、特に児童移民問題、と居留権問題について、香港社会に特有の移民社会としての性格を歴史的に議論した上で、新たに成立した香港基本法とその解釈をめぐる中国本土と香港社会の対抗をひとつの軸にして、今後香港社会が抱えていくであろう問題を指摘しようとした意欲的な研究である。

また150ページを越える本文の他、詳細な新聞記事や裁判の判決文などの資料を付録としてつけてあり、本論文が膨大な一次資料の収集とその読解の上に成り立っていることが分かり、本人の努力の成果が読みとられる。

返還後の香港は「一国二制度」という独自の制度のもと、中国の政治的な支配下に戻るとともに、英国支配以来の制度を残しながら、移民社会として、また重要な経済的拠点として、新しい道を進むべく試行錯誤の時代に入り込んだ。しかし返還直後に待ち受けていたのは、大量の児童移民が香港の居留権を求めて殺到するという、当初予想をしていなかった社会的な事件であった。本論文は、この問題を、中国政府、香港における法曹界、人権団体、などの言説に焦点を当てながら、特に居留権請求裁判の経過を丹念に分析することにより、香港が抱えている問題点を抽出しようとしたものである。

審査委員は全員、本論文が本学総合文化研究科の課程博士の水準を十分にクリアしているという点で一致したが、個々の審査委員からはそれぞれ次のような問題点、及び今後の研究に活かすべき課題や要望が指摘された。1)本論文の特色の一つは、香港社会の構造をフロー型移民社会として捉える点にあるが、香港への移動に力点が置かれ過ぎていて、香港から出ていく移民との関係が見えてこないこと、2)「法治」と「人権」が重要なキーワードであるが、これらの理念の担い手である、法曹界やインテリ、人権団体の社会的な、あるいは経済的な性格が論じ足りないし、それらの社会学的な分析を行うことで論文はさらに説得力があるものになったであろうということ、3)また、これらインテリ層が受けたイギリス的な教育や制度(たとえば司法制度はイギリスの制度を踏襲していた)の性格が、今後の香港社会においてどのように変質していくのかという点、4)居留権をめぐる訴訟ケースの時系列的叙述にずれがあり、テーマを優先させて章立てを行おうとした意図は理解できるが、今後発表するときには、叙述をさらに検討する必要があるだろう、等といった点が指摘された。

しかしながら、こうした問題点を残しながらも、現代の香港社会が持っているバイタリティについての洞察と、それを軸に据えて、移民社会の特質に焦点を当てながら返還後の香港社会の行く末を見極めようとした姿勢は、高い評価に値するものである。また、今まさに香港で起きている、民主化と国家安全条例をめぐる大規模な政治問題を考える上でも、本論文が提起した枠組みが一定の有効性を持っているのではないか、という評価をも獲得した。

新しい問題にたいして果敢に取り組み、豊富な資料を駆使しながら、返還後の香港社会を、移民問題を通して分析しようとした著者の意図は十分に達成されたものと考えることができる。

したがって、本審査委員会は愛みち子さんにたいして博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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