学位論文要旨



No 118526
著者(漢字) 平山,東子
著者(英字)
著者(カナ) ヒラヤマ,トウコ
標題(和) 紀元前6世紀前半のアッティカ黒像式陶器の展開 : 陶画家クレイティアスを中心として
標題(洋)
報告番号 118526
報告番号 甲18526
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第405号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青柳,正規
 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 桜井,万里子
 東京大学 教授 逸身,喜一郎
 大和文華館 館長 水田,徹
内容要旨 要旨を表示する

近年のギリシア陶器研究においては,陶画家の比定とその様式,図像の分析,世界各地の博物館に所蔵される作品のカタログの刊行などの基礎的かつ継続的な研究が進められるなかで,作品の顧客とそれを取り巻く社会とのかかわりの上で,そこに描かれた陶画の意味を探ろうとする試みが盛んに行われている。本論文が考察の対象とする陶画家クレイティアスは,紀元前6世紀前半のアッティカ黒像式陶器の代表作,<フランソワの壷>(フィレンツェ国立考古博物館所蔵)の画家としてその名が広く知られ,この作品に描かれた数多くの神話場面の意味内容を巡って,様々な論議がなされてきたが,クレイティアスを対象としたモノグラフ研究はいまだ刊行されていない。

本論文では,陶画家クレイティアスに焦点を合わせ,紀元前6世紀前半のアッティカ黒像式陶器の展開におけるその位置付けを考察した。第1章では,その足掛かりとして,まず,現存するクレイティアス作品に,陶工エルゴティモスの銘と共に付されるその銘の意味を探り,ついでクレイティアスに比定された作品群の検証を行った。クレイティアスはその代表作である<フランソワの壷>の他にメトロポリタン所蔵の小台,ベルリン国立博物館と大英博物館に所蔵される3点のゴルディオン・カップに銘を残している。そして,これらのうちの4点に陶工エルゴティモスの銘が併記されていることから,クレイティアスは,エルゴティモスの工房で制作に従事した画家であることが推測される。これまでに様々な研究者が20点余の作品をクレイティアスの手に帰してきたが,これらの作品のなかには充分な検討がなされていないまま比定が行われた作品や,19世紀末から20世紀初頭にかけて報告されて以来,ほとんど顧みられなかった作品も少なくなく,明らかに別人の手によるものと考えられる様式,技法を示す作品も含まれている。そこで筆者が,実地調査を中心に,<フランソワの壷>をはじめとするクレイスティアスの銘記作品と,その手に帰された作品群に描かれた陶画の細部表現,装飾文,賦彩法,刻線,書体等を比較した結果,クレイスティアスの作に比定できる作品は,J. D. Beazley がクレイスティアスの作とした11点のうちの9点,「おそらくクレイスティアス本人の作」とした5点のうちの2点,B. Kreuzerがクレイスティアスの作として挙げたサモス島,ヘラ神域からの出土品5点のうちの2点,およびそのほかの研究者がクレイスティアスの作品として報告した作品4点の計17点であることが判明した。よって,現段階で確認されるクレイスティアス作品は,銘記作品含め,22点となる。

第2章では,クレイスティアスの周辺の画家に帰された作品群について,第1章と同様の検証作業を行い,クレイスティアスとエルゴティモスによる,「第2の渦巻形クラテル」と考えられてきた,バーゼルのカーン・コレクションとプーシキン美術館に分蔵される渦巻形クラテル断片が,クレイスティアスにきわめて近い様式をもつ,周辺画家の1人とされる「アクロポリス601の画家」に帰される作品であることが明かとなった。また,諸研究者によって,クレイスティアスの周辺画家の作とされた作品の約30点のうち9点は,クレイスティアスとの関連性が全く見出されないことが確認できた。よって,現段階で確認される「アクロポリス601の画家」に帰される作品は5点,クレイスティアスの周辺の画家による作品は15点となる。これらの結果をまとめ,クレイスティアスとその周辺作とされてきた作品群50点余を,クレイスティアスの銘記作品とその手に帰される作品群(A),「アクロポリス601の画家」に帰される作品群(B),それ以外のクレイスティアス周辺の画家に帰される作品群(C),クレイスティアスとの関連性が見出されない作品群(D)の4項目に分類したカタログを作成し,巻末に付した。

第3章では,これまでの考察で明らかとなった,クレイスティアス,およびその周辺の作品群の器形とその装飾方法を分析した。これらの器形の種類はきわめて多様であり,銘記から,これらの作品の多くが,エルゴスティモスによって制作されたことが確認できる。大型陶器から小型陶器まで多岐にわたるその器形レパートリーとその装飾方法には,とりわけ「KXの画家」に帰される作品群との共通点が多く見られた。また,これらの器形のなかでが,渦巻形クラテル,ゴルディオン・カップ,小台,無脚型メリソート・カップは,アッティカ陶器における先行例が知られず,また類例の少ない器形であり,渦巻形クラテルはラコニア製の青銅器を範としたものであることが考えられ,ゴルディオン・カップは,ラコニアおよび東ギリシア製の杯の影響下に制作され,紀元前6世紀中頃に普及したリップ・カップの祖型となったことが推測された。

第4章においては,クレイスティアスの様式を取り上げ,各種の形像,装飾モティーフ,書体,刻線,彩色等に関する分析を通じ,クレイスティアスの様式を明確化するとともに,その編年の再構築を試みた。クレイスティアスは,叙述的な神話表現に長じたソフィロスの伝統を継承した陶画家として位置づけられることが多いが,この考察の結果,その様式的特徴や特徴的な白の賦彩法からクレイスティアスは「KXの画家」の影響下に,その金線細工のような細密様式を確立し,その様式はエルゴティモスの子,エウケイロスをはじめとするリップ・カップ,バンド・カップの画家たちと,リュドスなどに継承されていたことが判明した。また,これらの関連陶器画家との比較等から,クレイスティアスの活動期間は,従来の見解(紀元前570-560年頃)をやや下回る,およそ紀元前570年から紀元前555年頃に相当するという結論に至った。

図像を扱った第5章では,本論文におけるこれまでの考察結果を踏まえた上で,改めて<フランソワの壷>に集められた神話の意味内容とその図像プログラムを検証するとともに,従来,論考の対象にされる機会の少なかった<フランソワの壷>以外のクレイスティアス作品に描かれた図像の分析を行った。その結果,これらの作品の中には,動物文は見出されず,その大半が何らかの神話場面を表わすものであることが考えられること,そしてその多くが<フランソワの壷>と同様に,トロイア戦争と祖国アテナイにまつわる主題を扱ったものであることが判明した。

本論文では,明かとなったことは以上のとおりである。だが,クレイスティアスの周囲には,紀元前6世紀前半のアテナイのケラメイコスで活動した内外の無数の陶工,陶画家たちの織りなす緊密で錯綜したネットワークが広がっている。クレイスティアスの位置づけをより確固としたものにし,コリントス陶器の模倣から始まり,やがては地中海全域にその販路を拡大した紀元前6世紀前半におけるアッティカ黒像式陶器の展開を跡付けるため,今後は,クレイスティアスの周辺の画家をはじめ,「KXの画家」やエウケイロス,ネアルコスなど,クレイスティアスの周囲に存在した陶工,陶画家たちの個別研究にも目を向けていきたい。

審査要旨 要旨を表示する

「描かれたギリシア神話の百科事典」とも称されるフィレンツェ考古学博物館所蔵の「フランソワの壺」は紀元前6世紀前半のギリシア・アッティカ陶器の傑作としてこれまでも多くの研究者によって詳細な研究がなされてきた。この壺に神話場面を描いた陶画家クレイティアスの作品全体を対象としてその全貌を解明しようとする研究はこれまでになされたことはない。

本論文の著者は、クレイティアスに同定されている作品のすべてを精査し、これまでクレイティアスに帰せられていた作品のうち9点をその周辺画家のグループもしくは何らかの関係もない作品グループとして分類し、クレイティアスの全体像の輪郭を明確にしたうえで、クレイティアスの様式的特徴とその変遷を解明することを目的としている。

著者の同定は様式、描法、器形の分析、図像の解析にもとづく説得力のあるものでアッティカ黒像式陶器画研究における最初のクレイティアスに関するモノグラフィーともいえる論文になっている。また、クレイティアスと影響関係のある陶画家の研究も行い、初期アッティカ黒像式陶画家の中核をなした陶画家との相関関係をより明確に浮き上がらせることに成功している。

詳細な調査研究に基づく論考であるが、一部に論旨の明快さを欠くところがあり、用語に関しても不適当な例が見られるものの、全体としてはきわめて高度な研究論文と評価できる。よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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