学位論文要旨



No 118527
著者(漢字) 栗原,剛
著者(英字)
著者(カナ) クリハラ,ゴウ
標題(和) 伊藤仁斎の「道徳」観 : 「本体」「修為」論の構造から
標題(洋)
報告番号 118527
報告番号 甲18527
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第406号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 菅野,覚明
 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 助教授 小島,毅
 東京大学 教授 黒住,真
 三重大学 助教授 遠山,敦
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近世日本を代表する儒学者の一人である伊藤仁斎 (1627-1705) の思想内容を、倫理学的な関心から読み解き、その構造を明らかにしようとするものである。それは一言で言えば、人間の存在と当為を倫理はいかにつなぐか、という問題に対する、仁斎の解答を窺う考察となる。ただし、決して論者の関心が仁斎の思想より先にあるわけではない。仁斎はまさに元禄期に生きた倫理学者であって、当の問題をこそ、極めて意識的に取り扱ったのである。

仁斎の説いた倫理は「道徳」である。そして、存在/当為の問題系にあたる仁斎の枠組みが、「道徳」における「本体」/「修為」である。本論文は、「本体」と「修為」という概念を、仁斎がいかに区別し、そしていかに連絡したか、という問題を考察する。

各章の内容に沿って要旨を述べる。第一章「天道」・第二章「天命」では、仁斎の人間観・道徳観を包摂するところの、天地自然観について考える。仁斎は「天地」を、窮まりなく生き動くもの、として把握した(第一章-第三節(以下略記))。また、それが生き動く限り、当時隆盛を見た朱子学が説くような、静的な「理」によっては捉えられないものと見た(一-五)。

仁斎が「理」のかわりに「天地生々」の根拠としたのは、「天命」である。ところが「天命」は、「人」「人為」との関わりにおいてはじめて捉えられた。「天地」の動態(=「天道」)は、「人」にとっては何よりも、その生に様々な吉凶禍福をもたらす摂理(=「天命」)として意味を持った(二-三)。「天命」をそれとして受け止めるべく、「人」は自ら「善」の実践につとめ生き、その先において「生々」する「天道」の真髄を知る(二-四)。つまるところ「天道」「天命」は、仁斎の人間観・道徳観を包摂するものというよりは、むしろ「人」が「道徳」を十全に実現した先に初めて捉えられるものである。仁斎の学問においては、「人道」「道徳」こそが、逆に「天道」「天命」観を支えたということになる。

第三章「本体」「修為」では、上を受けて、「道徳」を仁斎がどう捉えたかを考察する。「道徳」は「本体」「修為」という二つの視点から捉えられる(三-四)。「本体」とは、天地と同じように生き動いて日々を暮らす全ての人間存在が、当の動態においてそのまま価値の実現を志向するという、一見オプティミスティックな「道徳」把握である。一方「修為」は、一個の主体としての「己」が、「善」の実践につとめ続けて「道徳」を実現していくという、努力と修養の側面である。両者が混同すべからざる二側面であることを仁斎は意識していたが、しかしなお両者を一体な「道徳」観のうちに連絡させていた。

第四章から第九章までは、「修為」の側面を詳細に腑分けして、考察するものである。その後第十章において、「本体」「修為」の連関を問うこととなる。

第四章「性」では、「修為」を実践する主体としてある一個の「己」を、仁斎がどのように把握したかを考察する。個々の主体は、それが「人」である限り「善」なる「性」を有した存在である(四-一)。ただし、それが「善」であるということの意味は、やはり朱子学等とは大きく異なる。「性の善」は、「人」たる個々全てに内在して具わった、完全な「善」(=「理」)では決してない。むしろそれは、「己」という小さく限られた場における「善」の発動として、あくまでも「善」の「端本」でしかあり得ない(四-二)。したがって、「性の善」は出発点として大きな意義を持ちはするものの、同時に、これを「天下」という人倫全体という場にまで「拡充」していく努力と修養を要請する。それを伴ってはじめて、個々の主体の十全な「善」(「道徳」)への連絡は、達成されるのである(四-四)。

第五章から第七章までは、「拡充」の実現に向けて要請される実践項目について考察する。まず第五章「学問」は、その全体の枠組みを大きく捉えようとするものである。個々の主体による実践をもっとも大きくおおう概念が、「学問」である(五-一)。さらに「学問」は、「忠信」「忠恕」と「読書学文」とに分けて捉えられる。「読書学文」とは、最も直接的には、経典=「教」としてある『論語』『孟子』を読み学び理解することである。「忠信」「忠恕」は、『論語』『孟子』に説かれてあるところの、実人生において「道徳」を修めるために求められる工夫である。前者が後者を導く、ということが出来るが、しかし仁斎が「学問」の核心に置いたのは、あくまで「道徳」を修めることであり(五-二)、そのための「忠信」「忠恕」であった(五-三)。したがって、前者が後者を背後にて補する、という関係が捉えられねばならない(五-四)。

第六章では、実践の核となる「忠信」「忠恕」について考察する。「忠信」も「忠恕」も、具体的な他者を前にして、その「人」に対して「己」がどう接すべきかという工夫である。それぞれを一言で言えば、「忠信」とは、「己」の存在を余りなく投げ出すこと(「朴実」「誠実」)であり、「忠恕」とは、「人」の存在を深く察し続けること(「体察」「寛宥」)である。「忠信」が一回的・一方向的であるのに対して、「忠恕」は反照的・持続的である、という対比関係が認められるが、しかし両者のうち一方は必ず背後に他方を含んで成立する。「忠信」「忠恕」は相補関係・相即関係にもあるのだと言える(六-六)。また、「忠信」「忠恕」の対極にある態度として「残忍刻薄」を取り上げる。これは朱子学等「理」を重んじる学問の帰結であり、絶対的な「理」によって、対峙する「人」の善悪を断じ、悪に対してはこれを徹底的に責めていく態度である(六-七)。

第七章では、「忠信」「忠恕」を背後にて補する「読書学文」という実践について考える。仁斎は博学を重んじたが、やはり『論語』『孟子』を、学ぶべき「教」の全体をおおう根本テキストと定めた。このことは、孔子とその意を継いだ孟子の聖性に対する理解に基づいている。孔子は、それまで無自覚に「道徳」の盛衰を繰り返していた「天下」の遥か「上」なる位置へと脱する「明」「智」により、よるべき「道徳」をはじめて明らかに見出し、『論語』という形にした。孟子は孔子と同じ位置に立ってこれを解説した。学者が『論語』『孟子』を読むことによって目指すのも、この境地である(七-一)。しかしながら、そこに求められる「熟読」という作業は、「上」に向って自らの位置を高める作業ではない。むしろそれは、最も「下」の地面、すなわち自分自身が生き動く地平を決して離れまいとする工夫である(七-三)。「読書学文」は、あくまでも「己」自身の生を知ること=〈自覚〉の営みでなければならない。『論語』『孟子』は、自覚に不可欠な媒介者としてある(七-四)。

「忠信」「忠恕」と「読書学文」の関係は如何なるものか。これは、「忠信」「忠恕」が〈自覚〉の雛形として「読書学文」に通じる、という理解によって明らかになる。「己」の存在を投げ出し、「人」の存在を察し続けることは、「人」の存在を媒介者として「己」自身の生を自覚する営みでもある。ただ、媒介者が、直接的で限られた他者であるか(「忠信」「忠恕」)、言語にて観念的に捉えられたあらゆる他者であるか(「読書学文」)が、異なるのである。後者は前者をより確かで深みのあるものにするが、しかし後者は前者においてのみ、現実の具体的な実践として顕れる(七-六)。

第八章では、個々の主体が「忠信」「忠恕」「読書学文」につとめることによって、「性の善」を「拡充」するという、「修為」面全体の様相と仕組みを考察する。「拡充」の出発点には、自他間にある厳然とした「隔阻」が設定されている(八-二)。しかし「性の善」の発動を「端本」にして、「忠信」「忠恕」「読書学文」を実践し続けることは、この「隔阻」を永久に乗り越え続けさせ、ひいては「天下」的規模における「人」「己」の合一を実現するに至る。ここに「仁」「義」という「道徳」は十全に顕現する。「拡充」の運動は、あたかも泉や炎の勢いのごとく自然で、故意に止めることの出来ないものとしてある(八-四)。

第九章「否定面についての考察」では、仁斎が「拡充」の勢いを説く一方で、それと逆のベクトルをどこまでも認めていたことを確認する。これは、「修為」「拡充」の出発点が、「性の善」であるにも関わらず、同時に自他間の「隔阻」でもあること(九-一)、また「修為」「拡充」の勢いが自然なものであるにも関わらず、同時にたゆまぬ実践の努力はいかなる瞬間にも諦められ、無自覚的・確信的な悪へと陥り得ること(九-二)、などによって窺われる。「修為」が「修為」として検討される限り、こうした否定面が完全に克服されて全肯定的な、「本体」との連絡は確保出来ない。

第十章「本体」と「修為」の連絡では、第四〜九章に検討した「修為」からはさしあたり区別されるべき「本体」の位置を見失わないよう留意しつつ、しかしやはり「修為」と「拡充」の仕組みを、そのまま「本体」のありかを保証する仕組みとして、捉え直す(十-一)。その鍵となるのは、「忠信」「忠恕」(と「読書学文」)が、〈実践〉即〈自覚〉という構造を有していたことである(十-二)。つまり「善」を志向する「修為」の実践は、そのまま「本体」(=「己」と「人」が相互の行為連関のうちに生き動いて有るということ)の自覚なのである(十-三)。

伊藤仁斎は、当為の実践がそのまま存在の自覚である、という形においてその独自な倫理学を構築した。その根拠は、自前にいる他者への「忠信」「忠恕」の中にこそ求められる、という結論がここに得られた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、伊藤仁斎の倫理説の核心を成す、「本体」「修為」論の構造を解明する試みである。

仁斎は、人が「由って」行うべき道徳(本体)と、努め行うべき道徳(修為)とを区別する。この区別をめぐっては、さまざまな先行研究の蓄積がある。論者は、それらをふまえつつ、本体と修為の区別・連関の問題を、修為という具体的実践の質を追究することによって解き明かそうとする。

第一、二章においては、仁斎の「天道」「天命」についての論が分析される。論者は、仁斎の天地人総体の把握が、「窮まりなく生き動くもの」であったと指摘する。生きて動くかぎり、これを朱子学のいうような静的な理でとらえ切ることは出来ない。そこで、静的な理に代わる根拠として仁斎が見出したのが、「天命」であると論者は考える。そして、天命は、「言語」で「議する」「究める」という形によってではなく、己れの生を尽した者が、「安んずる」という仕方でのみ知ることのできるものであるとされる。

第三〜九章では、「生を尽くす」具体的実践(修為)をめぐる仁斎の論が、精密に分析される。論者はまず、仁斎の性善論を詳細に吟味し、彼のいう「性の善」は、身体的な今・ここという小さな端本でしかない(頽落の可能性)ものこそが、価値を実現すべき主体である(当為の要請)という、道徳的主体の独特の定位であったことを明らかにする。かかる主体にとってのあるべき営為として仁斎が示すのが、「忠信」「忠恕」という実地の営みと、「読書学文」という観念の営みである。論者の理解によれば、今・ここという小さな主体が、今・ここにいる他者に対し己れを尽くす営みが「忠信」であり、その他者の存在を深く察し、他から反照されてくるものを受けとめ続ける営みが「忠恕」である。忠信・忠恕は、常に相伴う一体的関係にある。その一体において、今・ここの生の営みは、そのまま、「人」の存在を媒介とした自己の生の自覚ともなっている。この自覚を観念のレベルで裏付けるのが、あらゆる他者を媒介とする自覚の営みたる「読書学文」である。ここにおいて、徳行としての忠信・忠恕と、自覚の確かめとしての読書学文とが相補う関係をなすという、仁斎修為論の内部構造が明らかにされる。

以上を受けて、第十章では、本体と修為が次のような形で関係づけられる。

生き動いている者が、生き動いている天地人の動態それ自体を自覚することが、本体を知ることである。それは、自己の生を尽くし切ることによって可能となる。というのも、日々現実に生を尽くす営みである忠信・忠恕は、今・ここにおける実践であると同時に、そのように生き動いてあることの自覚そのものである、という構造を持っているからである。ここから、論者は、本体に「由って」修為を行う、という仁斎のテーゼの意味は、本体の自覚と修為の実践の相即ということにあった、と結論づけるのである。

以上、本論文は、仁斎学の基本構造の分析を通じて、「存在」と「当為」との関係という、倫理学の根本的問題に対する一つの解答を近世日本思想の内に発見したものである。論旨は明快で、細部の分析もきわめて精密であり、また先行研究への目配りもよく行き届いている。一方で、問題をあまりにはっきりと絞り込もうとした結果、「誠」や「礼」など、関連する諸概念の位置づけに不明な点が残されたこと、また用語を共有する朱子学的思惟との差異が、細部で曖昧になっていることなど、問題点がないわけではない。とはいえ、倫理学の基本的な問題関心に基づきつつ、仁斎学の核心をなす議論について、明快かつ精密な解釈を提示したことの意義はきわめて大きい。

以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク