学位論文要旨



No 118528
著者(漢字) 根岸,宗一郎
著者(英字)
著者(カナ) ネギシ,ソウイチロウ
標題(和) 周作人とギリシア文学
標題(洋)
報告番号 118528
報告番号 甲18528
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第409号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 教授 逸身,喜一郎
 東洋文化研究所 教授 尾崎,文昭
 東京大学 助教授 伊藤,徳也
 早稲田大学 助教授 小川,利康
内容要旨 要旨を表示する

本稿では、中国と日本における西洋文学受容と近代文学形成という問題に深く関わった中国文人周作人を取り上げる。周作人は近代文学の形成がほぼ軌道に乗った明治末期の日本に留学して西洋文化・文学を受容して文学活動を開始し、やがて中国近代文学の形成を主導していった。そこで、日本留学中の周作人の文学活動・思想形成及び、生涯に渡り続けた古代ギリシア文学の翻訳紹介活動を軸に、周作人における西洋文学受容と古代ギリシア文学の持った意味の大きさについて、新出の資料も用いながら綿密な分析を試みる。

周作人は、日本留学中(1906〜11年)に兄魯迅とともに文学論の執筆、『域外小説集』など外国文学の翻訳紹介活動を行うことで文学活動を開始する。この中で周作人は西洋文学理論を受容して自己の文学観を形成し、以後の文学活動を支える基礎が生まれたと考えられる。第1章「周作人におけるハント、テーヌの受容と文学観の形成」では、周作人の日本留学期の二大文学論『文章の意義曁び使命を論じ因て中国近時論文の失に及ぶ』(1908)と『哀絃篇』(1908)を取り上げる。今回筆者は周作人が文学論執筆時に用いた参考資料の調査を行い、いくつかの材源を特定することができた。この中で主要な材源となったハント"Literature, its principles and problems"とテーヌ『イギリス文学史』を用いて周作人の文学論の読解を試みた。その結果、周作人の形成した文学観を要約すると次のようになる。「文学」は「国民精神」の寄託されたものであり、「国民精神」が「環境」・「時代」の作用を受けて形成される。そして、「精神」=「人情」(human nature)の時間的空間的普遍性に依拠することで文学は時間的空間的普遍性を有する、というものである。この際、「詩は志を言う」という中国の伝統的な文学観の「詩」に「文学」、「志」に「国民精神」を対応させて論じていることから、周作人がハントやテーヌの文学理論を中国の伝統的文学観の枠組みを用いながら受容して自己の文学観を形成したことが分かる。また、「文学」の時間的空間的普遍性に対する認識は、周作人が外国文学を中国に翻訳紹介することで中国人を感化しようという発想の論拠ともなっていると言える。

日本留学中の周作人は文学論の執筆と「被抑圧民族文学」の翻訳をする一方で、ギリシアに対する関心を強めていった。第2章「ギリシアへの関心の出発点」では、周作人が生涯翻訳紹介活動を続けた古代ギリシア文学・文化への関心の出発点を、日本留学期の西洋文化・文学受容の中に見出すことを試みる。筆者は今回、第1章で取り上げたテーヌ『イギリス文学史』に見られるギリシア関係の叙述、及び日本における古代ギリシア文化・文学紹介の第一人者であった上田敏の紹介文と周作人のギリシア関係の叙述との比較考察を行った。その結果、周作人の古代ギリシア文化・文学への関心の出発点及び中国への古代ギリシア紹介の理論的基礎がテーヌ、上田敏の理論の中にあったことが明らかとなった。つまり、西欧文化を受容するには先ずギリシア文化・文学の受容が必要であること、更には、ギリシア文化を中国に導入することで、西欧ルネサンスのように中国にも新文化をもたらすことができるという認識を持ったことが考えられる。

周作人のギリシアへの関心の高まりは、1909年からの立教大学における古典ギリシア語の学習となって現れる。第3章「周作人とH・S・タッカー……立教大学におけるギリシア語学習とギリシア文学・キリスト教との出会い」では、日本留学中に在籍した立教大学における周作人の古代ギリシア語学習に関して具体的考察を行った。立教大学図書館大学史資料室の池田貞夫先生の協力を得て行った調査結果に基づき、周作人が当時立教大学総理であり、後に米国聖公会の総裁主教ともなる宣教師H・S・タッカーの下でギリシア語を学び、古代ギリシア文学・キリスト教の影響を受けていたことを明らかにした。

周作人はまた、1910年以降、ヘーローダース、テオクリトス、サッフォー、ルーキアーノス、ロンゴスといった古代ギリシアの作家たちの作品を翻訳紹介し、この作業は一生涯続けられていった。第4章「周作人と古代ギリシア文学」では、周作人が一生涯を捧げた古代ギリシア文学の翻訳紹介活動を取り上げる。今回筆者は周作人の主要翻訳対象であったヘーローダース、テオクリトス、サッフォー、ルーキアーノスなどの作品を取り上げ具体的に考察を進める。周作人による翻訳作品・紹介文を、周作人が翻訳の際用いた英文テキスト(古代ギリシア語との対訳本など)と比較考察しつつ、周作人の翻訳対象への関心の所在を分析した。その結果、周作人がこれらの作家を選択したのは、庶民の生活情緒や自然な恋愛感情を写実的に描写している点を高く評価していたからだということが分かった。

また先述のように周作人は日本留学中にテーヌ『イギリス文学史』や上田敏などの議論に影響を受け、ギリシア文化・文学の価値について理論的な裏付けを得ていた。つまり、ギリシア文化・文学の導入によりヨーロッパ人の精神がキリスト教の束縛から解放されルネサンスが起こったように、同様の方法で中国でも儒教に縛られた中国人の精神を解放し、新しい文化を創造できるという構想を持っていたと考えられる。そして、古代ギリシア文学に描かれた古代ギリシア人の現世主義と美を愛する精神、霊肉一致の「自然」な人間社会は、中国の新社会の理想像として周作人には写ったのである。従って古代ギリシア文学の翻訳紹介活動とは中国社会の目指すべき理想像を提示する作業であり、周作人の自由恋愛・女性解放などの新文化に関する主張と連動したものであった。また、周作人の古代ギリシア文学に描かれた「自然」な人間社会の愛好・志向は、礼教に「不自然」に歪められた中国社会への嫌悪と表裏一体のものとしてあったとも言える。周作人が古代ギリシア文学の翻訳紹介に一生涯をささげた理由はここにあったのではあるまいか。

銭理群が指摘するように、周作人の文筆活動において翻訳活動は創作活動と同等の比重を占めていた。周作人は古代ギリシア文学の翻訳と平行して東欧・北欧文学の翻訳活動も精力的に行っている。第5章「周作人の翻訳活動と文学理論」では、日本留学中の翻訳活動の中心であり、兄魯迅と共同で編集した『域外小説集』(1909)を取り上げる。周作人は『哀絃篇』で章炳麟の『播種』に見られる理論の枠組みを継承して、「悲哀」を詠った外国文学の紹介により中国人の精神を覚醒させるという理論を述べている。『域外小説集』は所収作品の内容が「哀音」のトーンに統一されており、『哀絃篇』の理論に基づいて編集されていると考えられる。魯迅・周作人ともに師である章炳麟の理論を踏まえ、外国文学の翻訳紹介による中国人の精神の覚醒を意図したと言える。また、「哀音」のトーンは約十年後の分類に従うならば所謂「被抑圧民族文学」のトーンに他ならない。従って、周作人は『哀絃篇』の文学理論に基づいて「哀音」の文学、すなわち「被抑圧民族文学」の翻訳活動を開始し、この活動は1921年9月まで続けられていくのである。

第6章「翻訳活動と1921年における転回」では、周作人の思想的危機の時期とされる1921年の西山療養期について、翻訳活動の面から考察を加える。筆者は今回周作人の全翻訳作品の年別・国別統計を取ることで、翻訳活動の転換が正に思想的危機の西山療養期の終了する1921年9月に生じていることに注目するに至った。日本留学中以来続けられてきた「被抑圧民族文学」の翻訳は1921年9月に終了する。そして、これ以降晩年まで続けられていく翻訳の対象はやはり日本留学中以来翻訳紹介してきた古代ギリシア文学と、五四時期から翻訳を始めた日本文学にしぼられることが明らかになった。この現象を踏まえると1921年9月は周作人の文学的アイデンティティーの確立期と評価できよう。

周作人はギリシア文化・文学を、中世ヨーロッパをキリスト教による精神の束縛から解放しルネサンス、更には近代文化をもたらした原動力と解釈している。そして、ギリシア文化・文学の導入により儒教による精神の束縛から中国人を解放し、中国に新文化を生み出すというルネサンスをモデルとした構想を周作人は抱いていたと考えられる。つまり、「ギリシア」とは周作人の生涯の文筆活動を支える思想的な基盤の一つであり、生涯に渡り古代ギリシア文学の翻訳紹介を続けた理由はここにあったと言える。周作人の文学活動の中で古代ギリシア文学の翻訳紹介活動は一生涯に渡り極めて重要な意味を持っていたのである。

審査要旨 要旨を表示する

周作人(チョウ・ツオレン、しゅうさくじん、1885〜1967)は、兄の魯迅、胡適らとならぶ近代中国の大知識人である。清朝末期に生まれた彼は、江南水師学堂を卒業後、1906年に一時帰郷した魯迅に連れられて日本に留学、立教大学で古典ギリシア語と英文学を学びながら兄の文学運動を助け、下宿手伝いの娘羽太信子と恋愛結婚した。辛亥革命の年の1911年に帰国、17年北京大学教授に就任して文学革命の理論家として活躍し、新しい知のパラダイムを創り出した。清末から民国初期にかけて登場した新興智識階級が、中国に共和国を建設する過程で貪欲に受容していく個人という概念、フェミニズム論、創作・批評・翻訳をめぐる文壇制度など近代的文化制度の枠組み・・・・これらあらゆる知的フィールドに、彼の大きな影が差している。23年には魯迅とのあいだに兄弟喧嘩が生じ魯迅が北京・八道湾の周邸を出た。日中戦争期には日本占領下の北京で文部大臣に就任したため、戦後国民政府の“漢奸"裁判で10年の徒刑に処せられた。人民共和国成立により釈放されて日本文学翻訳、魯迅研究資料提供の仕事をしていたが、文革中に紅衛兵よりリンチを受けて死亡した。最近の中国では彼の対日協力は地下共産党の要請によるという説が出ている。

本論文は周作人をめぐり、日本留学期の西洋近代文学理論および古代ギリシア文学の受容と、肋膜炎による長期療養を余儀なくされた1921年の思想転回を軸とした生涯にわたるギリシア文学との関与の有り様について論じたものである。第1章ではハントとテーヌの理論を中国の伝統的文学観の枠組みを用いつつ受容し、文学の時間的空間的普遍性という特性のため外国文学紹介により中国の「国民精神」の改革も可能であるという自らの理論を構築したと指摘し、第2・3章ではテーヌと上田敏の影響下で古代ギリシア文学研究へと進み、その際には立教大学のアメリカ聖公会宣教師タッカーより古代ギリシアの言語と文学そしてキリスト教を学んだことを立証した。第4章では1910年以降の現世主義と美を愛する精神、霊肉一致の「自然」な人間社会を描くヘーローダース、サッフォーらの翻訳紹介は、中国が目差すべき理想像の提示であったこと、第6章では訳業から「被抑圧民族文学」が消えて古代ギリシア文学および日本文学がその主流となる転換期が、療養期の思想的危機が終了する1921年9月と重なる点に注目し、同年同月が周作人の文学的アイデンティティー確立期であると考察している。

本論文の主な成果は次の通りである。

周作人研究はその重要さにもかかわらず、これまで日本・中国・韓国・欧米においても一般に文学思想に偏重しており、翻訳論・外国文学受容論においては皮相的なレベルに止まっていたが、本論文はタッカーらとの影響関係を発掘するなど、西洋近代文学理論および古代ギリシア文学の受容に関する実証的研究を行い、周作人研究に新天地を開いた。

魯迅・周作人兄弟が上田敏より影響を受けた可能性が高いという指摘は,周作人・魯迅研究にとって新たな知見である。

東アジア文化研究者には珍しく、敢えて古代ギリシア語学習に取り組んだ意欲は評価に値する。

本論文第5章は「国民」「精神」などの概念を時に時代的文脈を十分に押さえることなく論じ、結論を急ぎすぎる嫌いもある。1921年の「被抑圧民族文学」翻訳は『小説月報』特集に協力したものであるため自己の感情を押さえて翻訳した可能性があり,あるいは実際の転機はそれ以前であった可能性も否定できない。日本留学期にすでに魯迅とは異なる文学観を抱いていたことは指摘の通りであろうが、それを過度に強調することにより、魯迅との同時代性を見失う懸念もあろう。また時に先行研究に対し十分な検証を行うことなくこれを継承する傾向も見られた。

だが上記(1)〜(3)を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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