学位論文要旨



No 118529
著者(漢字) 木谷,眞理子
著者(英字)
著者(カナ) キタニ,マリコ
標題(和) 光源氏物語論
標題(洋)
報告番号 118529
報告番号 甲18529
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第408号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 月本,雅幸
内容要旨 要旨を表示する

本論は、以下の五篇から成っている。 第一篇 或る世界観の成立 第二篇 第一部の世界 第三篇 物語を通観する 第四篇 源氏絵と源氏物語 第五篇 或る世界観の終焉 見てのとおり、第一篇と第五篇は呼応している。そこに言う「或る世界観」とは、『古今集』成立前夜から、十二世紀のおそらくは半ば頃まで、人々の心の底にあったと思われる世界観である。それが如何なるものであったかを知るためには、当時流行した、和歌をともなったやまと絵屏風を見るとよいであろう。

屏風絵-屏風歌の多くは、四季あるいは十二ヶ月の情景をあらわしている。画面上には四季折々の情景が、山や川、霞、樹木などによって互いに隔てられつつ、季節の順に画面右方から左方へと、ちりばめられていたらしい。各情景は、屏風歌とともに鑑賞されるのであるが、その屏風歌は基本的に、画中の人物となって画中の風景を詠じたものであり、鑑賞者をして絵のなかに入り込ませる力を備えている。鑑賞者が、一つの情景を見、歌をよんで、その情景のなかに入り込んでいくとき、画中人物には血が通い、その人物の生きる時間が流れはじめ、風景はみずみずしく生動して見えるのである。一方ではまた、この種の屏風が四季の情景をすべて取り揃えて見せていることにも、意味があるはずである。鑑賞者が屏風の全体を大きく眺めわたすとき、四季の情景がすべて同時に目にされるのであるが、その四季共存の光景は、永遠の理想郷のものにほかなるまい。屏風絵-屏風歌は、一つ一つの情景を注視していくとともに、屏風全体の大観をもして、鑑賞するものなのである。

では屏風絵-屏風歌を、大観と注視をともにして鑑賞するとき、何が見えてくるのであろうか。屏風中の或る情景の或る人物を注視するとき、つまり或る画中人物になって歌をよむとき、その人物は時間のなかに生きるいきいきとした存在として現れてくるが、屏風全体の大観へと転じると、時の流れのない、永遠の世界が見えてきて、個々の情景、個々の画中人物はその大きな世界のなかに溶け入ってゆくのである。大きな永遠の世界に完全に溶け入ることはすなわち死ぬことであろうから、つまり、こういうことになる-人間はいまにも永遠の世界に溶け入りそうな存在であるが、歌を詠むことなどによって、時間のなかに生きる主体を確保して、死から遠ざかることができる。このような人間観・世界観が、屏風絵-屏風歌には表されているということである。

この屏風絵-屏風歌と同様の構造をもつのが、『古今集』であり、あるいは、『源氏物語』のなかで光源氏がつくった自邸六条院である。『古今集』は、四季の歌を取り揃え秩序だてて提示しているし、六条院は、春と秋の両町を主として夏の町・冬の町もあわせた四町から成っている。一つ一つの歌を注視し、一つ一つの町の一人一人を注視すれば、時間のなかに生きる人間のすがたが見えてもこよう。とはいえ、六条院の四町全体、『古今集』の全体を見渡しても、四季が共存する永遠の理想郷がたちあらわれてくるわけではなく、その秩序だったさまに驚かされるばかりなのである。精妙な秩序をもって組みあがっている六条院や『古今集』はむしろ、永遠の世界に呑み込まれそうな人間が、時間のなかに生きる主体を確保する、その拠り所となるものを提示しているのであろう。言ってみれば、人間が永遠の世界に抗するための砦である。『古今集』は、人間が四季折々、あるいは恋のさまざまな展開のなかで、その他人生のさまざまな局面において、いかなる歌を詠んで生きていくべきかを定めている、一種の法律、人間生活の手本である。六条院もまた、そこに営まれる生活が、人間生活の手本となっている。これらの手本にしたがって人々が歌を詠み生活を営んでいくとき、美しく秩序だった世界がたちあらわれてくるはずなのである。『古今集』や六条院の全体とは、その美しく秩序だった世界の、雛形にほかならない。

『古今集』や六条院が雛形を示しているような世界-永遠の世界に溶け入りそうな人間の、拠り所となり砦となる秩序の世界-を、理想として夢見た時代が、『古今集』成立前夜から十二世紀半ば頃まで続いたであろうことを、第一篇と第五篇は論じている。そして、そのような時代の理想像としての光源氏を、彼の物語を、さまざまな角度から見ていったのが、第二篇〜第四篇なのである。

以下、各章について簡単に見ていく。

第1・2章は、第二篇にも同時におさめうるような性質の論である。第1章は「初瀬」という題であり、『源氏物語』「玉鬘」巻に語られている初瀬の地が、「母胎のごとき地」(西郷信綱『古代人と夢』)として機能していることを論じたものであるが、そのなかで、上に見てきたようなことを述べているため、第一篇におさめた。

第2章「「光る源氏」の成り立ち」は、『源氏物語』第二巻「帚木」の冒頭に出てくる「光る源氏」という名について考察したもの。その名が如何にして成り立ってくるか、その名には如何にして「後に来る物語を呼び起こすべき強い力」(和辻哲郎「源氏物語について」)が孕まれてくるのか、を論じた。そのなかで、英雄を支え英雄に支えられる古代的社会を、『源氏物語』作者が物語として仮構したこと、それは崩壊し失われてしまった古代社会を「ことばの秩序の世界として観念的に組織する作業」(秋山虔「源氏物語の自然と人間」)であったこと、いま生きている世界を突き抜けて失われた古代社会を幻想してしまうこの作者の精神は、拠り所を失って漂っていること、を述べている。古代社会の崩壊が、上に見てきたような時代を招来した、という見通しを示す論として、第一篇におさめた。

第3章「第二の序」は、帚木三帖に語られている「隠ろへごと」の恋が、上に見たような世界観に基づいて、永遠の世界に触れあう地点と、砦となる社会とのあいだの、往還運動として描かれていることを論じたもの。散文的なことばには、発語者を砦となる社会へと引き戻す強い力があるのに対して、和歌的な言葉にはその力があまりなく、発語者を永遠の世界に触れあっているままに保つこと、をも述べている。

第4章「朱雀朝の光源氏」と第5章「花散里」はともに、「つれづれ」ということばに注目している。朱雀朝の光源氏は、その逆境のなかで、籠って「つれづれ」を託つことが多いのであるが、そのことが実は、のちの栄華の礎となっていることを論ずる。また第5章は、花散里という、目立たない巻と女君とに注目して、物語のなかでそれらが如何なる役割を果たしているのか、を考察している。

第6章「初音巻の方法」は、六条院の秩序が組み上げられていくさま、またその六条院の秩序が世界全体へと及ぼされていくさまが、どのように表現されているか、について考察したものである。

第7章「願望の終助詞」は、願望の終助詞「がな」と「ばや」について、『源氏物語』成立当時、使い分けがあったことを論じ、これらの終助詞に注目して光源氏の物語を見ていくものである。若き日の光源氏は「ばや」を集中的に用い、また明石から帰京したのちは「がな」を集中的に用いるなど、明確な使い分けがなされていることを指摘、その事実からどのような光源氏像が浮かび上がってくるか、を述べる。

第8章「食」は、『源氏物語』の食について、食べ食べさせることは社会的行為である、という観点で見ていったもの。特に、光源氏の息子夕霧が、彼の落葉の宮に対する恋を語っていく「夕霧」巻において、しばしば食べかつ食べさせていることを指摘、そのことが意味するところを考える。夕霧物語の食とは対照的な様相を呈する、光源氏物語の食についても考察する。

第四篇は、『源氏物語』の絵画化作品である源氏絵が、『源氏物語』について教えてくれることに耳を澄まそうとしたものである。平安時代の絵と物語は一般に深い関わりを有していたことから、このような試みが成立しうると考えている。特に国宝「源氏物語絵巻」は、はじめに述べたような世界観がまだ人々の胸の底にあった時代、十二世紀前半の制作である。そうしたことも手伝ってであろう、この絵巻制作者の『源氏物語』理解は驚くばかりに深いのである。第9章「国宝源氏物語絵巻より(1)-蓬生段-」は、国宝絵巻〈蓬生段〉が、詞書と場面選択と図様表現を工夫することで、「蓬生」巻のほぼ全体を表しえていることを論じたものである。

第10章「二つの源氏絵をめぐって」は、宗達の「関屋澪標図屏風」と国宝「源氏物語絵巻」とを取り上げ、『源氏物語』の第一部は屏風によって、第二部は国宝絵巻のような紙絵によって、表現されるのにふさわしいものであることを論じている。

第11章「国宝源氏物語絵巻より(2)-柏木グループ-」は、国宝絵巻の柏木グループと称される八段のなかから、〈横笛〉・〈夕霧〉・〈柏木(二)〉という夕霧と柏木の物語を扱った三段を取り上げ、絵巻制作者がそれらの物語をどのように理解しどのように表現しているかを論ずる。そして、それらと比較対照することで、〈柏木(二)〉と同じく臨終場面を扱っている〈御法〉段が、物語をどのように理解してどのように表現したものであるか、を浮かび上がらせていく。

第12章「信貴山縁起絵巻について」は、はじめに述べたような世界観の終焉を、「信貴山縁起絵巻」に見ようとしたもの。この絵巻に、屏風絵-屏風歌などに見られたのと同様の構造があることを指摘、また両者の差異について述べる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、『源氏物語』の主人公光源氏を、『古今和歌集』が打ち立てた四季の秩序と抒情の様式を拠り所として虚無と混沌に抗する人間的な文化の英雄として捉えた、きわめて斬新な論考である。全12章からなる本論は、大きく五つの篇に分かたれている。

第一編「或る世界観の成立」は、古代的な共同体が解体し去った後に、『古今和歌集』が、世界の本質的な虚無と混沌に対峙して規範的な四季の秩序と抒情の様式を樹立したことを論じ、四季の町からなる六条院を舞台として四季の情趣と融合して描かれる光源氏と玉鬘の恋に、古今集的な世界の具現を読み取る。論者はとくに、古今集的な四季を基に物語的要素も取り入れて当時盛んに制作された屏風絵に着目し、そうした屏風絵を鑑賞するさいに要求される、画中の一齣への感情移入と全体の俯瞰との往還運動が、『源氏物語』の語りの視点の移動にも生かされて物語世界に格段の深みを加えているのみならず、生と死のあわいにゆらめくような玉鬘との官能的な恋に陶酔しながらからくも自己を六条院の秩序の埒内に抑制する光源氏の、他界とこの世、日常と非日常とを往還する並はずれて大きく深い塊の振幅にも上記の往還運動が具現化されていることを論じている。

第二篇「第一部の世界」は、社会に組み込まれてある光源氏の内面に、現世超越と現世執着という相反する二つの志向が緊張的に孕まれている様相を析出し、「つれづれ」という人間存在の本然的なありようを見据え、その生の基底にふれあうような根源的な魂の共感による他者との関係を結んでゆくその独自な人間像を明らかにしている。一方、第三篇「物語を通観する」では、願望の終助詞「しがな」「もがな」と「ばや」との微妙な使い分けや、物語の食事の場面の描き方といった微視的な分析を通じて、夕霧や柏木ら光源氏の息子たちの世代の人物造形からは、光源氏の有していた上記のような魂の振幅の大きさ、豊かさが欠落していることを明らかにし、改めて光源氏の独自性を確認している。また第四編「源氏絵と源氏物語」は、国宝の源氏物語絵巻と俵屋宗達の源氏絵を分析したもので、それらが『源氏物語』の本質を深く理解した上で描かれたものであることを具体的に論じており、きわめて新見に富む。特に国宝光源氏絵巻の柏木と紫の上の死を描く二つの場面の比較分析は、前篇までの論旨とも深く照応して本論文中の白眉といえる。美術史の深い知識に裏づけられたすぐれた論である。最後の第五篇「或る世界観の終焉」は、『信貴山縁起絵巻』を取り上げ、第一篇で論じられたような古今集的世界観の終焉と中世的世界の幕開けを看取しようとした論である。

一部に、まだ充分精錬されていない憾みの残る箇所もないわけではないが、斬新な視点からの精緻な分析を通して、この物語が今日なお深い感銘を与えるゆえんを明らかにしえた点は高く評価しうる。よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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