学位論文要旨



No 118532
著者(漢字) 秋葉,淳
著者(英字)
著者(カナ) アキバ,ジュン
標題(和) オスマン帝国近代のイスラーム法官 : 任命制度・教育・出自の変容
標題(洋)
報告番号 118532
報告番号 甲18532
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第411号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 教授 近藤,和彦
 東洋文化研究所 教授 羽田,正
 お茶の水女子大学 教授 三浦,徹
内容要旨 要旨を表示する

オスマン帝国史研究においては,過去20年以上の間,シャリーア法廷(イスラーム法廷)に対して高い関心が寄せられている。それは何よりも,社会,経済,文化に関わるきわめて豊かな情報を含むシャリーア法廷台帳に高い史料的価値が認められているからにほかならない。法廷台帳を用いることによってオスマン帝国史研究は飛躍的な発展を遂げた。しかし,シャリーア法廷に対する強い関心にもかかわらず,その法廷を主宰する裁判官,つまりイスラーム法官についてはあまり多くのことが知られていない。イスラーム法官はどのように任命されるのか,どこから来るのか,どのような教育を受けていたのか。このような問題は,シャリーア法廷の機能を理解するうえできわめて重要な問題である。本論文はまずこのような問題意識から,オスマン帝国のイスラーム法官の任命制度,教育,出自という三つの課題に取り組む。

本稿では,19世紀から20世紀初頭に至る,オスマン帝国末期におけるイスラーム法官を対象とする。この時代にイスラーム法官組織に生じた変容に関して,オスマン帝国の国家機構の再編と社会の変容という脈略の中に位置づけつつ,任命制度,教育,出自の面から解明を図ることが,本稿の目的である。

18世紀末から19世紀初めにかけて,本来のイスラーム法官であるカーデイーが任務を行なわず,ナーイブという代理に委任するという慣行がオスマン帝国各地に広まっていた。法官職を委任されたナーイブは,その見返りに職務を通じて徴収した手数料をカーデイーの官職保持者に上納していた。イスラーム法官制度は,徴税請負制度とよく似た構造をもっていたのである。ナーイブによる手数料の不正な徴収は,各地で大きな問題となっていた。

そのため,中央集権的な国家の確立をめざして1839年に始められたタンズィマート改革では,徴税請負制度が廃止され,徴税官が派遣されたのと平行して,イスラーム法官による手数料受領が禁止され,有給のナーイブが中央から任命されるようになった。しかし,主に財政難によって徴税官制度が数年のうちに挫折したのと同様に,ナーイブへの給与制も中止に追い込まれた。だが,このときには,名目上の「カーディー」の官職保持者に対しては,給与が支払われるようになっていたため,ナーイブはもはや官職保持者に手数料を上納する必要がなくなった。これによって,官職保持者であるカーディーと実質的なイスラーム法官であるナーイブとの関係が分離し,イスラーム法官制度の徴税請負制的性格は解消された。

1855年,ナーイブ職に五段階の等級制が導入され,ナーイブはその等級に応じたポストにのみ任命されるとされた。ウラマーの位階制とは異なる,ナーイブに固有の等級制度が成立することによって,ナーイブ職は公的な制度へと格上げされた。他方で「カーディー」制度はもはや名目上の職階制と化した。より本格的な改革は,1864年から始まる地方行政改革によってもたらされた。それにによってイスラーム法廷は地方行政組織に統合された。大宰相府の強い主導力で進められた州改革は,財政難によって幾度か修正され,その結果1871年に,原則的にオスマン帝国のすべての州,県,郡に中央からナーイブが任命される制度が確立した。同時に給与制も導入され,ナーイブの身分にも大きな変化が生じた。さらに,この州改革によって,シャリーア法廷とは別に制定法裁判所制度が成立したことも重要である。ナーイブが両法廷の裁判官を兼ねるとされたが,その後制定法裁判所を管轄する法務省は,新しい法廷の裁判長としてのナーイブの地位を脅かすことになる。

一方,1855年の改革では,「ナーイブ学院」というイスラーム法官養成学校が設立された。この学校は改革派ウラマーの主導によって,一部のナーイブの抵抗を押し切って成立された。従来は法官は法廷での見習いによってインフォーマルな形で養成されていたが,この学校はそれに代わって法官の教育の制度化を進めた。ナーイブ学院における教育は,従来のマドラサ教育と法廷での見習い訓練とを,新式学校の形態のもとに合体させたものと言える。だが,トルコ語を書くことの重視や新しく編纂された民法典(Mecelle)の教科への導入などは,マドラサ教育とは一線を画す,イスラーム法官教育の「オスマン化」ともいうべき変革である。カリキュラムの改訂や学校の名称変更においては,法務省や法学校に対する強い対抗意識が作用していた。。とくにこの学校の卒業生は,早い段階で上位の等級を得ることができたため,イスラーム法官職のなかで重要性が拡大した。

1908年の青年トルコ革命後の改革によって,イスラーム法官の任用に際してナーイブ学院卒業と等級資格の徹底化が図られた。任期制も廃止され,これによってこれによってナーイブ制度が引きずっていた古い慣行のほとんどが一掃され,一般文民官僚と同様の国家公務員となったのである。

こうした改革による合理主義的な官僚制度の成立の背後には,イルミエ位階制度のアウトサイダーであるような地方のウラマーや,大宰相府,法務省などからの挑戦に対して,長老府を中心とする中央の上級官職ウラマーの自己保存という論理が働いていた。それゆえにこそ,例えばナーイブの等級制度の導入が「素性不明の」ナーイブを排除することをともない,また,ナーイブ学院では,高位のウラマーの子弟が優遇されたのである。その後の改革では,制定法裁判所裁判官の任命権限をめぐる法務省,法学校との対抗関係が主要な契機となった。さらにこの時期には,ナーイブ学院卒業生のイスラーム法官たちも自己の権利を主張をし始めるのであった。その一つの帰結は,1913年に「ナーイブ」の名が「カーディー」に変更されたことだった。

以上の改革は,単なる制度上の問題ではなく,イスラーム法官そのものの性格も大きく変わったと考えられる。それを検証するために,295人のイスラーム法官のサンプルを抽出し,そのデータをもとに数量的分析を行なった。法官の出身階層を見た場合,半数以上がウラマー層の出であり,さらにその半分がイスラーム法官の息子である。この結果自体はウラマー層の強い階層再生産の傾向が見られるだけだが,イスラーム法官をその出身地によって分けてみた場合,各地域ごとに,法官の性格がきわめて異なっていることが見い出される。

まず,全体の約1割を占めるイスタンブル出身者は,高位のウラマーの子弟が中心だった。だが,より興味深いのは,それぞれサンプルの約12%を占める南部アルバニアのエルギリ郡の出身者と,アナトリアの小さな町イブラードゥの出身者である。前者は,主に土地所有と徴税請負を基盤とする地方名士が法官職に新たに参入していたものだった。彼らはナーイブ学院を積極的に利用することでバルカンの一地域にとどまらない帝国規模の活躍が可能になった。一方,イブラードゥは「カーディーの町」として18世紀以来の伝統があった。だが彼らは19世紀の後半には法官職を去り,新しい司法職や文官職へと移動を開始していた。エルギリ郡出身者よりさらに遅れて黒海東部地方のトラブゾン州出身者が優勢になってくる。村の識字層のような相対的に低い階層の出身者が多いが,彼らもまたナーイブ学院を卒業することで帝国のシステムの中に地位を占めることに成功した。

アラブ地域の法官は,ウラマー系の名士層出身者が中心で,主に近隣地域の法官職に就くことが多かった。彼らの学問の中心はダマスクスやカイロにあったため,1909年に法官採用の条件としてナーイブ学院卒業が絶対視されてからは,この地域から法官はほとんど出なくなってしまう。青年トルコ革命後には,アルバニアの分離独立とともにエルギリ郡出身者も法官職から姿を消し,代わって法官職を担うようになったのは,圧倒的にアナトリア出身者で,比較的低い階層の出身者だった。

以上のように,出身地域ごとに詳細を見ることによって,帝国各地における多様な形態の社会移動と「オスマン化」のあり方を観察することができるのである。とくにそれは,法官職がが帝国全域に広がるものだったため,そしてそれが新たに拡大発展した帝国官僚制システムの中で相対的に低く位置づけられたためでもあった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、オスマン帝国史研究でのイスラーム法廷への関心の国際的高まりをふまえ、担い手たるイスラーム法官の職制、任命制度、教育と出自につき、19-20世紀初頭の時期を対象に、オスマン語の未完公文書史料及び各種公刊史料を包括的に用い体系的に分析し、前近代の最末期における実体と近代における変容を、広い視野から実証的かつ分析的に明らかにした研究である。

本論文は、序論と4つの章と結論の六部構成からなる。

序論では、イスラーム法官研究史をたどり、近代化への関心とイスタンブル中心史観による限界に対し、諸集団、諸個人の対立・交渉と中央地方関係の視点を導入し、長老府文書を中心に各種史料を広汎に利用したことを述べる。

第1章では、前近代の最末期のオスマン帝国における多くの地方でのガーディー即ちイスラーム法官代理のナーイブによる裁判、手数料配分におけるカーディー・ナーイブ関係の徴税請負制との類似、ダンズィマート改革における徴税請負制廃止後の名目的カーディーの有給化とナーイブのカーディーへの上納制廃止による両者の分離と徴税請負的構造の解消を論ずる。

第2章では、ダンズィマート前期におけるナーイブ任命の実態、1855年の改革によるナーイブ職の公的制度化とカーディー制度の名目的職制化、1864年の地方行政改革による帝国全土へのナーイブ任命制度の確立と給与制度の成立、および制定法裁判所の成立の影響を論ずる。

第3章では、ナーイブ養成制度につき、1855年改革での公的ナーイブ学院の設立と卒業生の重要性化、1908年の青年トルコ革命後の改革での徹底化、その背景にある長老府を中心とする中央の上級官職ウラマーの他勢力に対する対抗関係、ナーイブ学院卒業者の自己主張の高まりと1913年のナーイブのカーディーへの名称変更とカーディーからナーイブへの移行の完了を論ずる。

第4章においては、イスラーム法官の社会的背景とキャリア・パターンの変化を経歴史料を用い数量的に分析し、ウラマー層出身者の自己再生産傾向と出身地域ごとの特性を明らかにする。

結論においては、中央と地方との関係におけるイスラーム法官の性格にふれ、地方名士層出身者側面と全オスマン的制度を代表する「オスマン化」の象徴的側面を指摘して分析を終える。

以下は評価であるが、オスマン帝国史のみならずイスラーム世界の社会史にとり極めて重要なイスラーム法廷の担い手の変容を、19-20世紀のオスマン帝国を例に未利用の長老府文書を中心に各種史料を精査し解明したことは、国際的にも最先端の画期的業績である。

その際、ナーイブの教育制度の変化の包括的検討は、オスマン教育史研究上も未踏の新領域開拓といえる。

イスラーム法官の個々人の未完の履歴史料を、サンプル分析ではあるが体系的に分析し、社会移動の実態を解明した点も大きな貢献といえる。

しかしながら、本論文にもいくつかの欠点が存在している。

第一に、イスラーム法官問題につき、特定の地方に視点を据えた体系的分析は十分になされていない。

第二に、方法として、プロソグラフィーを用いるとするが、この方法の理解につき若干の問題がある。

第三に、経歴史料分析の際、母集団とサンプルの関係につき、一層の厳密な検討を要する。

しかしながら、結論として、このようないくつかの欠点は、本論文の評価を決して損なうものではない。19世紀から20世紀にかけてのオスマン帝国におけるイスラーム法廷の変容につき、カーディーからナーイブへの移行とナーイブの教育と社会的出自の変化を、オスマン語史料の包括的分析により、体系的かつ実証的に解明した本論文は、オスマン帝国史、イスラーム社会史に大きく貢献し、博士(文学)の学位を授与するのに相応しいものと評価できる。

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