学位論文要旨



No 118533
著者(漢字)
著者(英字) THANAVUDDHO,BHIKKHU
著者(カナ) ターナ ヴットー,ビック
標題(和) 初期仏教における聖典成立と修行体系
標題(洋)
報告番号 118533
報告番号 甲18533
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第412号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 斎藤,明
 東京大学 助教授 市川,裕
 国学院大学 教授 山崎,元一
内容要旨 要旨を表示する

本論文の課題は,現存仏教聖典の組織およびその主な内容がいつごろ成立したか,現存聖典に釈尊の直説を読み取ることができるか否か,そして,初期仏教聖典における修行道の体系化のあり方を解明することである.

聖典成立の考察には仏滅年代が深く関わってくるため,第1章においてはまず,仏滅年代をめぐるセイロン説と有部系説についての従来の学説を種々の角度から再検討した.

第2章は,律蔵の成立について論じた.その際,従来注意されることの少なかった衆学法と小々戒との関係や律蔵の特殊性,また口伝の性質に注目して考察した.

第3章においては,パーリ語の故郷,教理の発展段階と聖典成立,五部・四阿含雑蔵の成立時期について論じた.

第4章は,初期聖典に見られる修行道を解明しようと,八聖道を三学や四念処などの他の修行道と比較検討した.

以下に,考察の結果明らかになった点をまとめる.

Asoka王の即位年代

現在学界において通説となっている感のある中村元の Asoka 王即位268B.C.説は,彼の自説である Candragupta の即位年317B.C., 自己矛盾の多い Purana による Candragupta および Bindusara の合計在位年数49年という,二つの極めて不安定な要素により算定されたものである.本論文は,Asoka 王の摩崖法勅第13章に記されている5人のギリシア王の共通在位年代と,Candragupta の即位年代,そしてセイロン伝が示す同王即位から Asoka 即位までの56年, という3要素から算定し,Asoka 王灌頂即位は267B.C.であるとの結論に達した.

仏滅年代

仏滅年代をめぐっては諸説あるが,その根拠の別により大きくは2説,すなわち Asoka 王即位を仏滅より218年後に置くセイロン説,100年とする有部系説とに分かれる.

セイロン伝の記述は,有部にない極めて具体的な内容と年代を示すが,確実な歴史的証拠によって否定された例はなく,むしろ各分野の研究が進展するにつれ,その正確であることが証明されつつある.宇井伯寿およびH. Bechertはセイロン説否定を唱えるが,彼らが提示する根拠は信憑性に欠け,それらはかえってセイロン説を擁護するものとなり得ることが分かった.

一方の有部系伝承は,仏滅と深くかかわるマガダ王統史を伝えるが,その半数の王についての記述や師資相承の年代に誤りや矛盾を見せている.また有部の仏滅100年説はそもそも,Kalasoka と Asoka との混同に端を発していることが分かる.

本論文はセイロン説218年を擁護する立場をとる.そしてこの218年を Asoka 王の即位267B.C.に加えた485B.C.を仏滅年代と考える.

波羅提木叉と第一結集

波羅提木叉は釈尊が制定し,波羅夷法,僧残法,波逸提法などの組織も第1結集の時に既に成立したと考えられる.というのも,衆学法と波逸堤法の2条を除いた残りの波羅提木叉はすべて,諸律の間で一致するからである.ここで衆学法が,同種の問題を取り扱いながら条数の点で諸律の間にかなり違いを見せているのは,これが小々戒であって,釈尊の許可に基づく限り改変可能だったことに起因する.

このような事情を見落として,衆学法と他の7項目の波羅提木叉とを同列に扱い,条数の違いを根拠に唱えられているのが,波羅提木叉の仏滅後漸次成立説である.

波羅提木叉はひとたび制定されたなら,すべての比丘の生活を制約する.この点は経典と異なる.波羅提木叉はこれに反すれば罪が伴うため,一度確定したら容易には増広されない.そして半月ごと誦出することが各現前僧伽において義務づけられていることから,その内容はよく保存伝持される.現存諸律の波羅提木叉の内容がよく一致するのはこのような事情による.

〓度部と第1結集

〓度部もまた第1結集の時にすでに成立していた.〓度部は諸律間でよく一致するが,それは,その伝承が口伝によりなされ,集団的行為を必要としたこと,また,先に取り上げた波羅提木叉と同様,〓度部の内容はすべての比丘の生活,また僧伽の運営と密接に関係することが,その規定の中核的内容は改変されにくくしたからであるといえる.

聖典の伝承体制

仏在世中,教団は既に広範囲に展開していた.そのような大僧伽を統治運営するには,諸規定及び伝承体制が必要不可欠である.仏教教団には王族出身や Veda の伝承体制の知識をもつバラモン出身の比丘が多数存在し,教団の統治能力と伝承体制を作る能力は十分あった.又,釈尊の伝道活動は45年間であるが,その間,教団はその内部もまた取り巻く環境も比較的安定していて,聖典とその伝承体制を作成する時間があったと考えられる.

伝承体制については,釈尊が25年間安居を続けた Savatthi が釈尊の教えの発信地であり,大寺院においては持律者,持法者,説法者など比丘たちの間で専門ごとに房舎が分配され,釈尊と同居する専門比丘たちが釈尊の制する諸規定や教理,または法の解釈などを口伝に適する形に整理分類し,各地の比丘僧伽に伝えていた.この伝承の過程が数十年間繰り返されるうちに,九分教などの文学的形式が成立し,仏滅後第1結集の時に,それらが再整理されたのである.

Suttantika と bhanaka の両語と聖典編纂

前2世紀ごろに作られたと言われる Bhilsa と Bharhut の碑文には suttantika と bhanaka という語が記されている.しかし, 経に精通する者を意味する suttantika という語は四ニカーヤには全く現われず、Mahaniddesa や Atthakatha には多数存する.これにより四ニカーヤの編纂は suttantika という語が普及する前に終了したと推測される.そして bhanaka という語は Mahaniddesa を含む聖典に1回のみ記されているが,MilindapanhoやAtthakathaに多数説かれている.よって, bhanaka という語の普及は Mahaniddesa を含む聖典の編纂終了以後と Milindapanho やAtthakatha の編纂終了以前であることが分かる.

このように,碑文に記されている語句が各種の文献においてどのように使い分けられているかは,その文献の成立年代決定に重要な根拠となることを明らかにした.

パーリ語

パーリ語は釈尊当時のマガダ地域の言語である.釈尊が説法の時に用いた言語は主にこのパーリ語である.しかし,釈尊は比丘各個人の言語によって仏語を習うことを許可した.仏滅後,第1結集において編纂された聖典の言語はパーリ語である.聖典の偈頌の部分と散文の部分は同時期に作成されたものであるが,多くの偈頌に現われる極めて不均質な性質のものや同一詩句に存在する新旧言語の混在などは,古い慣用表現を用いる偈頌編集者らによって作られたものである.

仏滅後,釈尊の神格化に伴い,パーリ語は釈尊の用いた言語として重んじられ,聖典語となった.しかし,遠隔地にあって教団の力が未だ不十分な地域では,釈尊の許可に基づいてその地域の言語で聖典を伝承して来た.これが後代になって複数の言語による聖典を生むことになるのである.

仏滅後,マガダ地域の言語も徐々に変化した.殊に仏滅後約40年ごろのマガダ国の Pataliputta への遷都はマガダ語に更なる変化をもたらす.a語基単数主格はeで終るという Pataliputta の方言の特徴は首都の言語として普及し,約200年後の Asoka 王時代に当時のマガダ語の特徴となった.rの代わりにlが使用されるあるいは,sの代りにsが使用されるという後代のマガダ語の特徴も徐々に現われ,5世紀ごろにはこの三つの語形はパーリ語と相違する当時のマガダ語の特徴になった.

思想史研究方法の問題点

思想史の研究方法自体に問題がある.すなわち,新古を決定するために種々の教理を比較する際,その教理の術語に字面の内容しか読みとらず,その術語が複数の次元にわたって,違った意味をもつといったことへの視点が欠けている.また,縁起説のような同一の教理が種々の形をもって現われる場合でも,それは対機説法や伝承上の誤りによって生じた可能性を排除できない.従って教理の発展段階を根拠として経蔵の大部分が仏滅後漸次に増広されたとする主張は,多くの問題を含むものであることは明白である.

五部・四阿含雑蔵と第1結集

五部・四阿含雑蔵の組織より先に九分教の組織はあった.この九分教の組織は仏在世中に成立したものであり,第1結集の時にそれが再整理されて五部・四阿含雑蔵の組織が出来上がったのである.従って,九分教の組織が五部・四阿含雑蔵より古いと言っても,それは必ずしも五部・四阿含雑蔵の組織が第1結集より後代に成立したという根拠にはならない.

口伝という伝承上の特性を考慮し,五部・四阿含雑蔵が第1結集より後代に成立したと考える場合も,大衆部も含めた現存諸部派の経蔵全てがこの組織を持つことはありえない.

様々に検討した結果,五部・四阿含雑蔵の組織は第1結集の時に成立したものであり,また経蔵の内容の大部分は仏在世中に既に成立していた.

八聖道と十無学法

八聖道は有漏と聖・無漏の両側面を有し,それぞれの次元で現われるべき「螺旋的修行道」である.十無学法と八聖道とは,同一次元の優劣の関係にあるのではなく,目的地と道程の関係にある.三学の修習方法は八聖道と共通する.しかし三学系統は段階的修行道として表現されたものであるのに対して,八聖道は三学のそれぞれの段階に現われる修行として示されるべきである.四念処と七覚支は有漏の正定と聖・無漏の八聖道に相当し,定と慧の相互関係のメカニズムを表現したものに他ならない.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、初期仏教資料論として包括可能な1, 2, 3章と、その資料に基づき、初期経典中の修道論に関する主要概念を考察した第4章との二部から成る。何れの課題も仏教研究全体にとって必要不可欠な基礎をなすものであり、洋の東西を問わず研究成果の蓄積が最も豊かな分野である。氏はこの課題に正面から挑み、関係資料を広く綿密に辿りつつ諸学説を批判検討し、初期仏典資料を解釈する際の態度について、従来の見解を覆す新たな知見を提示した。

著者は第1章でインド仏教史構築の際の礎石となる仏滅年代論を取り上げ、南伝セイロン説と北伝有部説の歴史資料としての信憑性を比較検討した結果、日本の研究者間ではおよそ疑われることのなかった宇井、中村両説を斥け、『島史』の年代を採用するに至る。第2章では律文献の二つの核を構成する pratimoksa と skandhaka の成立を論じ、諸部派間での構成の相違と内容の一致、口伝による変更の困難性などを根拠として、この二つはブッタ在世中にその原型がほぼ確定したと見る。第3章では南伝の聖典語であるパーリ語の起源とニカーヤの成立過程を碑文資料と比較において論じ、四ニカーヤは suttantika の語が普及する以前に終了し、ほぼその全体をブッタの説として扱い得るという現代英国系研究者の説に与する結論に至っている。総じてこの資料論に示された著者の立場は、初期仏典全体が一定の結束性をもって伝承され、その意味で統一的、体系的に解釈されるべき文献群として理解するものであり、異なる時代層の文献が整合性を欠いたまま合成されたものと見る日本の学会で主流をなす理解に比し、際だった独自性がある。

こうした著者の立場を例証する意味を持つ第4章は、個々の経を含むニカーヤ全体を大きな一テクストとして捉える視点に立ち、そこに現れる八正道、十無学法、七覚支、四念処、三学など、一見、相互に重複、あるいは矛盾するかに見える諸概念の関係を検討する。その結果、実際にはそれらの述語はニカーヤ全体の文脈において、結果と道程という二つの異なった側面を持ちながら有機的に組織化され、一つのまとまった修道体系を作っていることを明らかにした。

本論文は、過去の研究の層が最も厚く、論じ尽くされた観のある大きなテーマを再度取り上げ、徹底して批判的な態度で考察し直したものであり、その成果は学界に対して貢献するところがまことに大きい。論証過程の文章表現や論文の構成に関して改善すべき余地は残されているものの、審査委員会は、本論文を博士(文学)を付与するに十分価するものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク