学位論文要旨



No 118536
著者(漢字) 西山,暁義
著者(英字)
著者(カナ) ニシヤマ,アキヨシ
標題(和) 最後の授業・最初の授業 ドイツ第二帝政期(1871〜1918)エルザス・ロートリンゲンにおける初等教育政策
標題(洋)
報告番号 118536
報告番号 甲18536
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第415号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,靖二
 東京大学 教授 近藤,和彦
 東京大学 教授 深澤,克巳
 東京大学 助教授 野島(加藤),陽子
 東京大学 助教授 石田,勇治
内容要旨 要旨を表示する

本論文の出発点は、アルフォンス・ドーデの『最後の授業』に描かれたような、フランス・ナショナリズムにおけるエルザス・ロートリンゲン民衆学校とその教員のイメージであった。すなわち、暴力的で、非寛容なドイツの学校教育とそれを体現するプロイセンからやってきた教員。プロイセン軍国主義的価値観(「臣民の学校」)、ドイツ国民意識の強制的な注入。そしてそれに対してフランスへの愛国心を抱き続ける住民たち。このナショナリズムによって作り上げられたイメージは、興味深いことに、ドイツ社会史の第2帝政史理解、すなわち「ドイツ特有の道」論とも共鳴するものであった。いわく、エルザス・ロートリンゲン人は、ドイツ帝国の政治体制のもつ権威主義的性格、硬直性のために、帝国には決して統合されなかったと。この見解の代表的な歴史家であるハンス・ウルリヒ・ヴェーラーは、第1次世界大戦直前の「ツァーベルン事件」などを題材として、それを立証しようとした。

しかし、初等教育政策を対象としてきた本論文の成果はこれを支持するものではない。たしかに、義務教育の導入をはじめとする1870年代における教育政策は、一定の近代化をもたらしつつも、まさにその近代化がもつ政治的性格のゆえに、住民の80%を占めるカトリック住民の反発をもたらすものであった。しかし、1879年総督マントイフェルのもとでの政策転換は、男女別学化や教育修道院に対する妥協などによって、そうした併合当初の抵抗を緩和させることに成功した。ただし、この妥協は、あくまで1870年代に確立された国家の教育制度にかんする絶対的な監督権を前提とするものであり、保守派の総督マントイフェルによる「過剰な」妥協は政府・教育当局によって掣肘を受けることになった。この原則を堅持しつつ、個別的な点にかんして住民や教会の要望に応じることによって、「ドイツの学校」としての民衆学校を地域社会のなかに根付かせようとしたのである。

このことは、民衆学校教員の大多数が地元エルザス・ロートリンゲンの出身者によって占められていたことからも見て取ることができる。『最後の授業』に登場するアメル先生のように、フランス国籍を選択して職場を去る教員もいないわけではなかったが、全体からみればそれは一部であり、フランスに本拠をもつ修道院所属の教員を除けば、ドイツ政府がフランス時代から職務についてきた教員を排除することはなかった。他方、ドイツ本土からの教員の招聘は、1870年代の教員不足の際には試みられたが、それは地元の教員を排除することを目的としていたわけではない。むしろ第1次世界大戦前夜においては、末端の教育行政官である郡視学の過半数はエルザス・ロートリンゲン出身の教員によって占められており、地域主義的な基盤のうえに統合を進めようとした意図がうかがえる。

このような教育政策は、ドイツ帝国の反対側、すなわちプロイセンのポーランド人地域における教育政策とは対照的であることはたしかである。とりわけ、言語教育政策にかんしては、帝国直轄領におけるフランス語圏での母語フランス語の扱いと、ポーランド人地域におけるポーランド語のそれは、大きくことなるものであった。後者に対してプロイセン政府は文化闘争期以降強圧化の度を深めていくことになったが、前者では、第1次大戦前までフランス語教育が認められ、さらにフランス語の習得を踏まえたうえでのドイツ語教育がおこなわれていた。

この相違にはいくつかの要因があった。1つにはドイツにおける西(フランス)高東(スラブ)低的な地理的価値観であろう。フランス文化を「退廃的」とする批判は、同時に劣等感の裏返しでもあったのである。そして、エルザス・ロートリンゲンが言語的にみて圧倒的にドイツ語圏であったこととともに、人口移動がつねに東から西への方向であったことも指摘できよう。つまり、エルザス・ロートリンゲンからはフランスやアメリカに移民する動きがあっても、フランスからエルザス・ロートリンゲンに移入する人間はごく少数であった。それに対し、多くの本土ドイツ人がエルザス・ロートリンゲンに仕事を求めてやってきたため、フランス語人口の割合は減少傾向にあった。他方、プロイセン東部においては、人数的にポーランド人が優勢であり、さらにロシアやオーストリアからの流入は、ドイツ人たちの国民的な危機感を喚起するものとなった。

そして最後にあげるべきは、帝国直轄領という政治体制であろう。1870年代はベルリンとシュトラースブルクの二重行政であったのが、1879年以降後者を中心とする「準」領邦的な制度となり、地方政府の裁量の余地が広がった。そしてそれは同時に地元政治勢力との一定の協調を必要とするものでもあった。

カトリック教会や名望家との協調、フランス語圏における母語の尊重は、プロイセン東部のような大衆動員によるナショナリズムの噴出を予防することになった。恐らく、教科書における愛国的メッセージよりも、ポーランド人地域のような宗教意識と民族意識の結合を抑えたことのほうが、エルザス・ロートリンゲンのドイツへの統合を促進したといえるかもしれない。

このカトリック教会や名望家との協調、体制は同時に、緊縮財政もあいまって、世紀転換期以降の初等教育の近代化をめぐる政府の消極性をもたらすことになる。1907年の市町村学校理事会制度の改正以降、教育改革のイニシアティブは政府から政党、さらに都市化の進展のなかで独自の改革を進めていたシュトラースブルク市へと移っていくことになる。同じ時期進んだ教員の組織化も、この大衆政治の進展のなかにあった。1910年のドイツ教員連盟への加盟は、政府自身にとってもエルザス・ロートリンゲンのドイツへの統合の証左として歓迎されるものではあったが、加盟した教員自身は、改革に消極的な政府に対する不満を募らせていくことになった。このように、世紀転換期以降の教育政策においては、国家のみに視点を限定すると見落とされるダイナミズムが存在していたのである。

ドイツ国民意識を涵養するための教育内容にかんしても、軍国主義的イデオロギーの注入というイメージは、必ずしも現実を反映したものではない。住民感情に配慮して反フランス的なトーンがドイツ本土に比べて抑えられる一方で、教育当局や教員によって推進されたのは、「郷土」としてのエルザス・ロートリンゲン意識を醸成することによって、愛着の対象を「郷土」の同心円的拡大としての「祖国」ドイツへと導こうとするやり方であった。郷土誌Heimatkundeの重視や方言の活用などに、その例をみることができる。そして、前述の通り、エルザス・ロートリンゲンの教員が地元出身者で占められていたことも、ドイツ国民意識の媒介としての郷土意識という戦略を可能にするものであった。

ただし、ここで指摘しておくべきは、この「郷土意識」から「国民意識」へという回路は、決してエルザス・ロートリンゲンだけにおいて追求されたものではなく、むしろドイツ本土における教育改革の試みに刺激を受ける形で進展したということである。さらに、それはドイツだけに限定されたものであったわけでもない。最近のフランス教育史にかんする研究は、郷土petite patrie意識を通じた国民意識形成が-ドイツの影響をうけつつも-第三共和政フランスにおいても追求されていたことを明らかにしている。このようにみると、この郷土、地域意識の涵養というものは、19世紀末以降のヨーロッパ国民国家形成のなかで共通してみられる現象であったということができる。君主政、共和政といった政体、あるいは「文化国民」か「国家国民」かといった国民統合理念の相違にもかかわらず、国民教育の回路自体はむしろ共通していたことに注意を払う必要があるであろう。

もう1つ、この郷土にかんして注目すべきことは、エルザスとロートリンゲンの関係である。郷土教育の高まりは、同時にロートリンゲンの教員たちにエルザス・ロートリンゲンという「郷土」が実際はエルザスによって表象されていることを認識させることになった。それに対する対抗から、彼らはロートリンゲン独自の教科書編集へと向かい、「ロートリンゲン人」意識なるものを立ち上げようとした。この「少数派のなかの少数派」としてのロートリンゲン人がもつエルザスへの距離感は、ドイツ教員連盟加盟問題においても表面化することになるが、それは図らずも、帝国直轄領「エルザス・ロートリンゲン」という地理的な枠組みが、同一化の対象としてもつ問題性を示している。

以上のように相対的に寛容であった、エルザス・ロートリンゲンの初等教育政策は、第1次世界大戦において前線地域となり、軍による戒厳令が敷かれたこともあいまって、ドイツ国民教育の強化をもたらすことになる。ナショナリスティックな教育内容とフランス語圏におけるフランス語教育の制限がそれである。しかし同時に、4年間にわたる総力戦のなかで、教育環境は著しく劣悪化し、義務教育の規律も低下することになった。このことは、強化されたドイツ愛国教育のメッセージの伝達を困難なものにすることになった。

1918年11月、エルザス・ロートリンゲンは47年ぶりにフランスのもとに帰還し、フランス人としての『最初の授業』が行われることになる。しかし、そのフランスは47年前のフランスとは大きく異なるものであった。フランスにおいては20世紀初頭に政教分離が断行されたが、エルザス・ロートリンゲンでは公教育における宗教の重要な地位が維持された。この50年間における両国の国民統合のあり方の相違は、言語問題とともに、今後のフランスへの「再統合」にとって大きな負荷となるものであった。ただし、世俗・中央集権的国民国家フランスによる統合が、国教・連邦主義的国民国家ドイツよりも抑圧的であったとすることは短絡的である。エルザス・ロートリンゲンは、1940年、1945年にふたたび『最後の授業』、『最初の授業』を経験することになるが、ドイツかフランスかにかかわらず、そのたびに統合の圧力が強化されることになるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1870/71年のいわゆる普仏戦争の結果、フランスから割譲され、ドイツ帝国に併合されたエルザス=ロートリンゲンの帝国直轄領下での変容・展開、さらにその歴史的性格を、初等教育を中心に教育制度・教育政策・教員養成・教育課程など多面的分析を通じて解明しようとしたものである。その際、著者はこれまでドイツ史研究者があまり手をつけなかったストラスブールなどのフランス公文書館所蔵の未刊行史料を利用し、また膨大な英・仏・独の関連研究文献をも参照している。

エルザス=ロートリンゲンは、独・仏間の係争地という外交史的関心から、またとりわけ独・仏両国家で実施された言語政策が国民国家の国内統合や同化政策の特徴を示す事例として取りあげられ、研究されてきた。本論文では、そうした成果を踏まえつつも、統合政策・教育政策を中央政府の一方的・強権的導入としてではなく、当該地域との相互交流の所産、地域内での行政・住民・教会などの利害調整の結果としてとらえ直す、新しい研究視角が設定されている点にその独自性が認められる。さらにドイツ東部のポーランド人居住地域と比較し、エルザス=ロートリンゲンの事例を安易に一般化せず相対化しようとする姿勢や、一国的歴史研究の限界を克服しようとする意欲も、今後の地域史や比較史研究に重要な指針をあたえるものと評価できる。

本論が明らかにした主要な結果は、1)ドイツ政府の教育政策は、初期を除けば譲歩・妥協策へと転換しており、相対的に「寛容」とみなされること、2)教員にドイツ本国出身者が少なく現地出身者が多数を占めていたこと、3)初等教育でのドイツ人意識の注入は郷土意識の涵養の延長という間接的な形で行われたこと、4)第一次大戦前には、エルザス=ロートリンゲンではフランス復権派は後退し、ドイツ帝国内での地域利権や権利の拡大を志向する勢力が多数派となり、その限りでドイツ政府の統合政策は一定の成功とみなされること、などであり、またドイツ本国ではみられない初等教育における修道女教員の大きな役割という事実も近代における教会の地位を再考させる重要な発見である。

もっとも、著者は、エルザス=ロートリンゲン研究がドイツ帝国の歴史的性格を規定するうえで重要な素材となっていたことを指摘しながら、本論の分析結果を踏まえてこれまでの見解に修正を迫る提起には禁欲的で、本論の成果の射程を狭めているほか、文章の推敲が必要な個所や注記方法や文献目録の説明不足など、少なからぬ問題点も存在する。したがって、改善すべき点も多く残されているが、本委員会は、本論文の内容とその成果が博士(文学)の学位の求める水準を充分満たしているとの結論に達した。

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