学位論文要旨



No 118538
著者(漢字) 宮本,直美
著者(英字)
著者(カナ) ミヤモト,ナオミ
標題(和) 教養の歴史社会学 : ドイツ・市民・音楽芸術
標題(洋)
報告番号 118538
報告番号 甲18538
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第417号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,千鶴子
 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 助教授 吉野,耕作
 東京大学 助教授 佐藤,健二
 東京大学 助教授 佐藤,俊樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀前半のドイツにおける「教養」理念に注目し、それを市民層と音楽という文脈の中で分析することにより、この理念自体への信頼がどのように作られ、またその信頼がどのように維持されたかを明らかにするものである。

ドイツではすでに歴史学における教養市民層研究が成果を重ねているが、本論文の問題意識は、理念の次元に照準して歴史を分析することであり、理念に対する価値づけがどのように行なわれたかを考察することにある。したがって歴史学におけるような「実体」としての教養市民層の特定を試みるものではなく、彼らの実態を詳述するものではない。本研究はむしろ、従来の教養市民層の歴史と音楽史を読み直して再解釈するものとなり、その意味で歴史社会学的考察であると同時に音楽社会学的考察でもある。

このような問題関心に従って、第1章では先行研究の概要としてドイツにおける教養市民層研究を取り上げ、従来の研究成果を援用しつつも、新たな知見を提起する。ここでは18世紀末ドイツの「市民」が積極的には定義できない残余カテゴリーとなっていたことが強調される。貴族と農民以外、という形でしか自己定義できなかった当時の市民たちは市民としての積極的なアイデンティティを獲得するべく、特に貴族に対抗して「教養」という標識を掲げた。それは生まれながらにして何者かが決定する貴族の血統や称号に対して、生きている限り努力を続けて自力で自身を高めることに価値を見出そうとするものであった。しかしこの理念が意味するのはつまるところ、生ある限り発展途上にあるという到達不可能性であった。市民であることの積極的な証明であるはずの教養は、常に過程にあることを重視するがゆえに決して明確に規定されることはなかった-規定され得なかった-のである。この教養について、これまではしばしば大学教育と官吏任用試験を経た「資格」の問題として議論されてきた。当時の公務員試験は人間性の証明であり、教養の証明であるはずであった。しかし本論文は、教養を(従って市民であることを)証明されたはずの公務員自身が、自らその証明の無効性を体現していることを明らかにした。すでに教養が証明されているはずの人々が、別の場に本来の教養を求めたということは、彼ら自身が試験による証明が十全ではないことを示してしまっているのである。資格によっても何によっても教養を規定することはできない。ここから、まずは教養が到達不可能なもの、何によっても規定されないもの、空虚なものであることを前提として主張した。

公務員自身による無効性の体現とは、彼らが「本来の」教養を求めて、本職以外に文芸・芸術活動を行なっていたことを指す。19世紀ドイツ全土に広がったフェアアイン活動は、地域に密着した自発的で自律的な組織であり、その組織の目標には教養が掲げられていた。このことを、第2章において合唱協会の活動とそれに連結する音楽祭活動を取り上げることによって示したわけであるが、しかしここでも、最終的には芸術による教養の証明が十全ではなかったことが導かれる。教養としての音楽活動が、個人的にはなされずに常に共同性を伴っていたということは、教養の証明が芸術によってではなく、多数性によって支えられていたことを意味していると考えられる。

到達不可能な空虚な理念としての教養が人々にとってリアルであり得たのは、教養理念そのものには具体性を持たせないままに、しかし市民的なものとしての具体像が構築されたためである。決して明確に規定しえないものが、どのように具体性を持って人々の意識の中に生き延びたのかを考察したのが第3章である。市民性の具体像は、故人となった芸術家・天才を記念碑に仕立て、そこにイメージを照射することによって保持された。今や不在の天才は、その仮象としての記念碑の中に生かされ、その人物像が理想的な教養を備えた人間の例として立ち上げられる。ここではいかに具体的であっても、それを備えた人物はすでに故人であるために、到達不可能性は守られる。音楽界において、過去の音楽を演奏する慣習は19世紀前半に成立したのだが、故人を市民的な天才としてシンボル化した時期との一致に注目しなければならない。コンサート会場ではプログラム編成が見直され、聴取作法が規範化された。その会場は不在の天才の市民性に直接触れる場となった。聴衆はそれによって、天才の市民性に肖り、自らも教養実践によって市民たろうとすることができた。しかしこの現象もまた、市民性に直接触れていることが、共同で相互的に確認されることを物語っているのであり、理想的な市民性の体現者であるはずの天才は、共謀による不在確認によってその存在が確認されるのである。

教養の理念が関わる様々な活動は、そのいずれにおいても教養が何であるかを示してはいない。それは常に代わりの証明によってしか確認されないのである。教養理念のこうした非規定性を、極端な形で示すのは、音楽芸術の領域である。第4章では、音楽という理念と教養との関係を考察した。19世紀前半において音楽観に決定的な変化をもたらしたのは、その器楽についての考え方である。それまでは音楽は芸術でもなく、認められるとしてもせいぜい歌詞を持つ声楽のみで、テクストを持たない器楽は不完全なものと考えられていた。それが19世紀に入ると、テクストを持たないため、音響のみによって成り立つものであるため、器楽こそ最も純粋な音楽であるという見方が急速に広まる。器楽への注目によって、音楽は、それ以外の何によっても到達できないものであり、語りえないものとなったのである。言語によっては決して表現され得ないものとして位置づけられた音楽は、最も明瞭で具体的な到達不可能性の典型となった-それゆえに、分析対象としての価値があるのである。このような、音楽についての語りの無効性は、当時の音楽雑誌で度々表明されていた。しかしここで、音楽についての語りが無効とされたその時点で、音楽ジャーナリズムが活性化したことの意味を考察する必要が生じる。本論文は、当時の言説から「教養段階」という表現に注目した。音楽を作り、演奏し、聴く態度のすべてにおいて、楽曲形式の理論を地道に時間をかけて学習し続けることがアマチュアに向けても訴えかけられる。それはっまり、素朴な鑑賞から、より高度な学術的理解へと連なる、音楽へのアプローチの序列化であったと解釈できよう。音楽についての語りは、教養段階としてランク分けされるようになったのである。しかし、このように語りの長い道のりが設定された音楽は、それでもなお語りえないものである。ジャーナリズムが活性化し、音楽についての語りが急増したときに、それでも到達することのできない音楽の理念は、無効な語りの集積ゆえに一層高められ、理念そのものは不可侵で疑われることがない。このような構造は、この時期の音楽観を対象にしてこそ、明瞭に抽出することができるのである。

これらの分析から本論文で論証したのは、一言で言えば、空虚な理念の「本質化」のメカニズムである。つまり、そもそも内実=本質が不在のところで、その理念を内実豊かなものであるかのように信じさせる構造である。このような本質化こそ、ドイツの教養理念の奥に仕組まれていた論理なのである。そしてこれは、不明瞭なポジションに置かれていた市民が市民たろうとして教養を求めた帰結であり、意図せざる結果である。理念そのものの価値を高めようとして取った行動の結果ではない。

音楽という領域の典型性ゆえに導いた教養の論理は、当時のドイツが現実に置かれていた状況を想起するとき、同様に見出し得る。「ドイツ」という名称自体は古くから存在しているにも関わらず、統一的で中央集権的な国家は成立しておらず、産業の面でヨーロッパを先導する立場にもなかったドイツは、積極的に自己定義できる条件を持っていなかった。政治・経済における後進性ゆえに「文化」に縋るしかなかったことは、従来の歴史学においても繰り返し主張されているが、まさにこの「文化」に頼らざるを得なかったという状況が、当時の市民の置かれていたポジションと重なると考えられよう。ドイツは明確に定義できるものではなかったし、むしろ明確に定義できないものと見なされた。到達不可能であり把握不可能なものであるという、空虚な理念は、教養と同じ論理で動き得る。教養への人々の一般的な信頼、音楽への信頼、そしてドイツという理念への信頼は、同様に本質化を起こし、その不可侵性を維持しつつ、時には強烈な信仰の対象にまでなる準備が整えられると考えられるのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀前半のドイツにおける「教養」理念の考察にもとづいて、音楽活動が教養理念の内在的論理の典型的な表現として教養市民層によって担われたことを歴史に考察し、教養理念の非規定性(何をもってしてもその内容を定義し、かつそれに到達することができない)にとって、音楽芸術の非言語的な性格がひとつの典型性を持っていたことを示す。さらに教養理念が教養の本来性を到達不可能なものとしたために、音楽芸術における本質化が成立した機制を明らかにしたものである。

本論文の構成と内容は以下のとおりである。

序章で問題を設定し、第1章では近年のドイツの教養市民層をめぐる先行研究が社会階層としての教養市民層という実体的な対象ではなく、教養によって定義される市民性に向かっていることを検討する。それにもとづいて教養理念が誰にでも接近可能な階層を越えた普遍性と、同時にその内容がどのようにも定義しえないという非規定性を持っていることを示す。この教養理念の歴史的考察にもとづいて、次章以下では、言語によっては規定できないという教養の非規定性が最も顕著な領域として、音楽芸術に焦点化する。本論文が歴史的事例としてとりあげるのは、とりわけ19世紀の合唱音楽とバッハ復興である。2章においては、アマチュア合唱活動の克明な社会史的記述と分析を通じて、教養理念の集団性、すなわち合唱活動が市民性の証明と結びついていたことを示す。3章では、19世紀におけるJ.Sバッハの復興過程に注目し、バッハの「天才」化が到達すべき市民性のモデルとして構築されたことを明らかにしている。4章では、非言語的な音楽芸術を言語で表現するという行為が、到達し得ない目標としての教養理念と同型性を持っていることを示し、とりわけ器楽の純粋音楽としての特権化が起きたことを論じている。5章の結論では、教養理念と音楽芸術とがその抽象性・非規定性において論理的に同型であったことを示すことで、音楽芸術が、何によっても到達できず、代用されないという性質を持つことで、不断の充填活動を要請しており、その行為によって教養理念そのものが本質化される機制を示す。こうした理念の本質化が、教養理念のみならず、市民性やドイツという理念にも同様の論理で通底していることを最後に示唆している。

社会学的な分析の点では、教養、市民、音楽芸術、ドイツという理念に論理的な同型性を指摘することまではできても、そのあいだの因果関係を証明することができないという限界があるが、この責めは著者ひとりが負うべきものではない。

著者は東京芸術大学で楽理を専攻し音楽学修士号を取得したのちに本研究科で社会学を専攻した者であり、本論文は教養としての音楽芸術そのものの歴史的な構築過程をあきらかにしながら、音楽における理念の本質化を論じ、従来の音楽社会学の限界を超える本格的な歴史社会学的研究として評価に値する。

合唱活動とバッハの復興については、一次資料にあたり、詳細な記述をしており、歴史研究としても評価に耐える。本審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位を授与するにふさわしいものと判断する。

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