学位論文要旨



No 118540
著者(漢字) 寺井,公子
著者(英字)
著者(カナ) テライ,キミコ
標題(和) 所得分配政治の経済分析
標題(洋) Economic Analysis on Redistributive Politics
報告番号 118540
報告番号 甲18540
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第171号
研究科 経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井堀,利宏
 東京大学 教授 藤原,正寛
 東京大学 教授 福田,慎一
 東京大学 教授 八田,達夫
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

最適課税論は、特定の社会厚生関数を仮定したうえで、資源配分の効率性と所得分配の公平性の最適なバランスを考慮した課税体系を分析する。しかしながら、現実に行われている課税政策は、様々な立場の経済主体が参加する政治過程の結果であり、それはしばしば、最適課税論に基づく規範的分析が望ましいと考える課税制度と乖離する。このような現実認識が、課税に関する事実解明的分析の発展を促してきた。

民主主義国家は、選挙によって選出された議員に、課税と再分配に関する政策決定を委ねる。全国民の所得のうち政府によって強制的に再分配される所得の割合は、しばしば政府の規模の代理変数と見なされるが、その大きさは国によって異なる。しかしながら、政治学・政治経済学分野における比較政治学的アプローチは、比例代表制・多党制国家の政府規模が、小選挙区制・2大政党制国家に比べて大きい傾向があることを、しばしば指摘してきた。このような実証結果は、政治制度と政府規模の間に何らかの関係が存在することを示唆している。

政治過程は少なくとも二つの部分に分解される。一つは有権者による投票が議会における議席数に変換される過程であり、もう一つは議会での議席数が最終的政策決定に及ぼす影響力の大きさに変換される過程である。前者は選挙過程と呼ばれ、その結果は採用されている選挙制度に依存する。後者はしばしば議会内政治過程と呼ばれる。課税と所得再分配に関する事実解明的政治モデルは、一般的に、選挙ゲームおよび議会内交渉に参加するすべてのプレーヤーは次の意味において合理的であると仮定する。すなわち、経済状況に関する情報、および再分配政策の結果を予測するのに十分な情報を有し、効用最大化を行う有権者は、自分の効用を最大化する政策ポジションに正直に投票する(sincere voting) という意味において、あるいは自分にとってより望ましい政策ポジションを結果として実現させるために戦略的に投票する (strategic voting) という意味において、自分にとって「もっとも望ましい」候補者に投票する。政治家は、選挙制度、税制、議会制度を詳細に知悉し、資源配分をコントロールすることで、権力を増大し、あるいはあるイデオロギーを実現しようとする。このように、現実の所得再分配政策は、合理的個人が参加する政治過程の結果として実現される。

本論文では、所得再分配政策に関するいくつかの現実的問題を、政治ゲームの均衡として説明するための政治経済学的モデルを提示する。多党制のもとでの選挙ゲーム、および選挙後の連立政権樹立のための交渉に関するゲーム理論的分析は、近年急速に盛んになってきた。初めに、第2章において、比例代表制のもとで、所得税率の選択という1次元上の政策選択に関して、2つの支配的政党と1つの参入政党が競争を行う空間競争モデルを構築する。この章の目的は、比例代表制と所得再分配規模、すなわち政府規模との関係を理論的に検証することである。政党行動のタイミングについては、二つの支配的政党はクールノー・ナッシュゲームのプレーヤーであり、同時に参入政党に対しては、シュタッケルベルグ・ゲームの先導者となっており、一方参入政党は追随者として、支配的政党の選択を所与として行動するという、戦略的ヒエラルキーを仮定する。空間競争における3政党の均衡政策ポジションを求めた後、選挙後の連立政権形成について考察する。その結果、連立政権によって実行される所得税率は必ずしも中位投票者の選好を反映せず、所得分布に依存して、手厚い再分配政策を行う経済、あるいは対極的なレッセ・フェール経済さえも実現され得ることが示される。平等な所得分布を持つ国家であっても、低所得層の選好が政治的均衡として採択され、大きな政府が実現されることもあり得る。以上の結果は、北欧・ベネルクス諸国のような大きな政府、あるいはスペイン・ポルトガルのような比較的小さな政府など、比例代表制を採用するヨーロッパ諸国の中でも多様な政府規模が観察される事実を理論的に裏付けるものである。

第3章は、連立政権を構成する2政党が野党に対抗して選挙協力を行う場合の所得分配政策を理論的に考察する。そこでは、経済政策に対して異なるスタンスを取る2政党が、連立政権を維持するために選挙協力を行うとき、政治的均衡として、再選された連立政権が中位投票者が望ましいと考えるよりも大規模な所得再分配政策を施行することが示される。このような結果は、日本の連立政権が拡張的財政政策、所得移転政策をたびたび行っている事実と符号する。

第4章は、都市・地方間の国会議員定数の不均衡を是正する選挙制度改革によって、地方交付税による地域間所得再分配がどのように変化し、そのことが地域間格差にどのような影響を及ぼすかを定量的に分析する。シミュレーション分析の結果は次の通りである。第一に、議員定数を人口比例配分するための選挙区割りの変更は地域間所得再分配を縮小させる。第二に、地域間所得再分配の縮小は全地域において労働意欲を高め、再分配前労働所得を上昇させる。その効果は経済力の弱い地域で顕著である。第三に、地域間所得再分配の縮小は再分配後可処分所得と消費を全地域で上昇させる。第四に、経済力の弱い地域の労働努力増加による不効用は消費の増加による効用によってほぼ相殺されるので、過密・過疎問題に配慮した現行区割りを人口比例配分に変更しても、それによって過疎地域が経済的不利益を被るとは言えない。第五に、このような選挙制度改革は経済全体を平等に評価するとき社会厚生を改善する。

最後に第5章では、日本の世代間所得移転政策の効率性に焦点を当てる。日本の社会保障負担・給付水準が適切であるかどうかを論じた先行研究は、そのほとんどが生涯負担の世代間比較に基づいている。第5章では、家計の異時点間資源配分と世代間再分配システムの理論的関係を明確にしたうえで、効率的な社会保障制度が年齢層間消費分布に与える効果を表現した条件式を導出し、条件式からの乖離の度合いを社会保障制度の非効率性に起因する「厚生の損失」と定義した。そのうえで、家計の最適な異時点間資源配分に関するオイラー方程式の推定結果を利用して、政府の世代間再分配による厚生の損失を計測したところ、1973年の大幅な社会保障制度改革以降一貫して、世代間の公平性を満たす水準より高年齢者世帯は過大消費、若・中年齢者世帯は過小消費であり、この傾向は世帯主の年齢が低いほど顕著であった。このことは、日本の公的世代間所得移転システムが高年齢層を優遇する分配を継続しており、経済成長が鈍化して経済全体の資源が減少するとき、より若い世代ほど現役時代の過小消費が引退期に十分に補償されないことを意味する。このような分析結果は、世代間の不公平を是正するための、新たな制度改革の必要性を強調するものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、所得再分配政策に関わる現実的問題を説明するための政治経済学的モデルを提示して、いくつかの興味ある理論・実証分析の結果を得ている。日本における所得再分配政策については,その規模が大きくなってきていること,配分対象が硬直的なこと,社会保障政策で世代間不公平が顕著であること、地域間再配分が地方圏に偏り過ぎであることなど,多くの問題が指摘されるようになってきている。これらの点を政治経済学の手法を用いて、理論的、実証的に明らかにすることは、今後の所得再分配政策のあり方を検討する上でも、重要な研究課題である。本博士論文の要旨は第1章でまとめられているが、実際の内容は、こうした問題意識による2つの理論分析(第2,3章)と2つのシミュレーション・実証分析(第4、5章)からなっている。本博士論文の内容を簡単に紹介すれば、以下のようになる。

第2章”Redistribution under Proportional Representation”では、比例代表制を想定したうえで、所得税率に関する選挙公約のオファーという1次元上の政策選択に関して、2つの支配的政党と1つの参入政党が政治的競争を行う空間競争モデルを構築する。全国民の所得のうち政府によって強制的に再分配される所得の割合は、しばしば政府の規模の代理変数と見なされるが、その大きさは国によって異なる。しかしながら、政治学・政治経済学分野における比較政治学的アプローチは、比例代表制・多党制国家の政府規模が、小選挙区制・2大政党制国家に比べて大きい傾向があることを指摘して、政治制度と政府規模の間に何らかの関係が存在することを示唆してきた。このような実証的先行研究の成果を踏まえたうえで、比例代表制と所得再分配規模の関係、すなわち選挙制度と政府規模との関係を理論的に検証することがこの章の目的である。

政治過程モデルは二つの部分に分解される。一つは有権者が政党の政策ポジションに対して投票を行う選挙過程であり、もう一つは選挙後に、最終的に施行される政策が決定される議会内政治過程である。選挙過程における政党行動のタイミングについては、二つの支配的政党がお互いに対するクールノー・ナッシュゲームのプレーヤーであり、同時に参入政党に対してはシュタッケルベルグ・ゲームの先導者であり、一方参入政党は追随者として支配的政党の選択を所与として行動するという、戦略的ヒエラルキーを仮定する。政党の目的は得票数最大化である。有権者は、自分の効用を最大化する至福点からの距離が最も近い政策ポジションを提示する政党に投票する。本章の理論モデルを用いた分析によると、政治的空間競争における均衡では、支配的政党のうち1つの党が中位投票者の至福点よりも再分配的な政策ポジションを選択し、もう1つの党はレッセ・フェール政策を選択し、参入政党は支配的政党と同じか、その中間の政策ポジションを選択することが示される。

続いて第2章の後半部分では、選挙後の連立政権形成について考察する。そこでは、参入政党と、参入政党と政策の距離が近い支配的政党のうちの1つの党が連立政権を構成し、連立政権によって最終的に実行される所得税率は必ずしも中位投票者の選好を反映せず、所得分布に依存して、手厚い再分配政策を行うケースや、あるいは、対極的にレッセ・フェール経済のケースさえもが実現され得ることが示される。また、平等な所得分布を持つ国家であっても、低所得層の選好が政治的均衡として採択され、大きな政府が実現されることもあり得ることも示される。このような結果は、北欧・ベネルクス諸国のような大きな政府、あるいはスペイン・ポルトガルのような比較的小さな政府など、同様に比例代表制を採用するヨーロッパ諸国の中でも多様な政府規模が観察される事実を理論的に説明し得るものとして、興味深いものである。

第3章”Electoral Alliance and Implemented Redistribution: An Interpretation on Non-Competitive Politics of Japan”は、連立与党が野党に対抗して選挙協力を行う結果履行される所得再分配規模を理論的に考察する。経済政策に関して異なるスタンスを取る2政党が連立政権を構成し、連立政権を維持するために選挙協力を行って連立与党全体での得票数最大化を図るとしよう。初めに連立与党がシュタッケルベルグ先導者として選挙公約を公表し、それを所与として参入者がシュタッケルベルグ追随者として選挙公約を公表する。有権者は、自分の効用を最大化する至福点からの距離が最も近い政策ポジションを提示する政党に投票する。シュタッケルベルグ・ゲームの均衡として連立与党が再選され、中位投票者が望ましいと考えるよりも大規模な所得再分配政策を施行することが示される。このような結果は、選挙ゲームにおける現役与党の有利さと選挙協力の有効性を示唆するものである。また、1990年代以降日本の連立政権が拡張的財政政策、所得移転政策を頻繁に行ってきた事実とも符号する。

第4章”Electoral Reform and Interregional Redistribution”は、都市・地方間の国会議員定数の不均衡を是正する選挙制度改革によって、地方交付税による地域間所得再分配がどのように変化し、そのことが地域間格差にどのような影響を及ぼすかを定量的に分析する。わが国の選挙制度で国会議員選挙における1票の不平等、すなわち議員1人が代表する投票者数の格差が、地方への利益誘導を促進しているという指摘はしばしばなされる。この章では、現行選挙制度のもとでの中央政府による地域間所得再分配の政治的均衡と、人口比例の原則に則って議員定数を配分する選挙制度のもとでの地域間所得再分配の政治的均衡とを比較し、1票の平等という政治学的要請に対して、経済学的アプローチによって、制度改革の判断基準となり得る理論的示唆を提示することを目的とする。

シミュレーション分析の結果は次の通りである。第一に、議員定数を人口比例配分するように選挙区割りを変更することは地域間所得再分配を縮小させる。第二に、そうした地域間所得再分配の縮小は全地域において労働意欲を高め、再分配前労働所得を上昇させる。その効果は経済力の弱い地域で顕著である。第三に、そうした地域間所得再分配の縮小は再分配後可処分所得と消費を全地域で上昇させる。第四に、経済力の弱い地域の労働努力増加による不効用は消費の増加による効用によってほぼ相殺されるので、過密・過疎問題に配慮した現行区割りを人口比例配分に変更しても、それによって過疎地域が経済的不利益を被るとは言えない。第五に、このような選挙制度改革は日本経済全体を功利主義的に評価するとき社会厚生を改善する。

最後に、第5章”Intergenerational Income Transfer Scheme and Welfare Loss”では、日本の世代間所得移転政策の効率性に焦点を当てる。日本の社会保障負担・給付水準が適切であるかどうかを論じた先行研究は、そのほとんどが生涯負担の世代間比較に基づいている。ここでは、世代間分配の公平性の最適条件を導出したうえで、条件からの乖離の度合いを社会保障制度の非効率性に起因する「厚生の損失」と定義し、消費データを用いてそれを計測することを試みている。家計の異時点間資源配分に関するオイラー方程式を推定することで、効用関数のパラメータの推定値を得たうえで、その推定結果を利用して厚生の損失を計測している。その結果、1973年の大幅な社会保障制度改革以降一貫して、世代間の公平性を満たす水準と比較すると、高年齢者世帯は過大消費、若・中年齢者世帯は過小消費であり、この傾向は世帯主の年齢が低いほど顕著であった。このことは、日本の公的世代間所得移転システムが高年齢層を優遇する分配を継続しており、経済成長が鈍化して経済全体の資源が減少するとき、より若い世代ほど現役時代の過小消費が引退期に十分に補償されないことを意味する。このような分析結果は、世代間の不公平を是正するための、新たな制度改革の必要性を示唆する。

もとより、本論文には改善が望まれる点や問題点も多く抱えている。まず、論文の叙述やモデルの展開、理論・実証分析の結果の解釈において、適切な検討が不十分であるために、読者にとってわかりにくい箇所がかなりみられる。標準的な政治経済学の理論仮説がアメリカなどの大統領制度やヨーロッパの比例代表制の選挙区制度を念頭に置いて展開されているため、こうしたモデルをわが国の政治的な意思決定や所得再分配政策に適用する際に、より周到に理論モデルを修正することが求められるし、また、より慎重に分析結果や政策的な含意を検討することも必要である。特に、第2章と第3章では、いくつかの仮説を理論分析しているが、わが国の現実の所得再分配政策と関連づける議論の展開にやや恣意的な箇所も見受けられる。また、第4章においては、効用関数がコブダグラス型に特定化されていることが、シミュレーション分析の結果を極端にしてしまった点もある。さらに、第5章では理論的な分析結果をわが国における社会保障制度の世代間所得再分配の評価に適用する際に、その理論的な枠組みと政策的含意がどう関連しているのか、今ひとつ明快ではない箇所もある。

とはいえ、これまでわが国の政治的な意志決定の仕組みを当然と受け止めるか、あるいは、分析手法面での制約などから、あまり厳密な理論的分析が行われてこなかった所得再分配政策の政治経済学的な含意について、きちんとした理論モデルによる理論・計量分析を行って、まとまった分析結果を得たことは、高く評価できる。それぞれの章は独立した学術論文としてみても、きわめて高い水準にあり、実際にそれぞれの章では、審査付き雑誌に公刊されたものを踏まえた内容になっている(第2、3,4,5章)。したがって、審査委員会は、著者が博士(経済学)の学位を取得するにふさわしい水準にあるという結論に達した。

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