学位論文要旨



No 118541
著者(漢字) 呂,寅満
著者(英字)
著者(カナ) ヨ,インマン
標題(和) 1910〜50年代日本における自動車工業の形成と展開 :「小型車」部門と「大衆車」部門との比較を中心に
標題(洋)
報告番号 118541
報告番号 甲18541
学位授与日 2003.09.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第172号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 教授 橘川,武郎
 東京大学 教授 和田,一夫
 東京大学 助教授 中村,尚史
内容要旨 要旨を表示する

1910〜50年代日本における自動車工業の形成・展開過程には小型車部門と大衆車部門といった二つの経路が見られた。こうした二つの経路の存在と動向は、日本の市場状況と競争相手としての外国メーカーの存在如何に規定されていた

まず、第一経路としての大衆車部門では、すでに1910年代にアメリカで確立した大量生産方式に基づいて、フォードやシボレーが日本市場においても圧倒的な競争力を有しており、国産大衆車はこれらの外国車と競争しなければならなかった。実際には、主に価格競争力の劣位のため、1930年代前半までは直接のそれとの競争を回避して一回り大きな中型車の生産を、政策的の保護の下で行わざるを得なかった。しかし、その中型車も、外国大衆車の使用範囲が拡大することによって間接的にそれの影響を受けるようになり、そのために結局停滞をつづけていた。

一方、この期間は「日本独特」の三輪車が国産自動車工業の展開を主導していた時期でもあった。これが本論で強調した第二の経路であった。価格・性能の両面で大衆車とは直接的に競争しない自家用貨物運送向け小型トラックが大いに求められており、その需要を満たしたのが三輪車であった。三輪車の製造技術は、自転車・原動機など当時日本に存在していた技術からの流用、あるいはその漸進的な改良によって確保することができた。

こうした国産大衆車(中型車)の停滞と小型車の成長を背景に、30年代半ばには小型車を中心とした国産自動車工業の確立を求める議論が台頭し、運輸業者からも支持を得ていた。しかし、主に軍からの要求によって急速な大衆車国産化政策が採られ、36年に自動車製造事業法が成立した。もっとも、同法は大衆車以外の国産小型車・中型車を抑制する意図を有していたわけではなかった。しかも、同法は上限枠を設けて生産台数を制限していたとはいえ、外国メーカーを直ちに日本から締め出すものではなく、外国大衆車との競争を前提にしつつ、大量生産による国産車の競争力向上を通じて大衆車の国産化が可能になると判断していた。従って、事業法の制定が二つの経路のうちの一つを直ちに不可能にしたわけではなかった。

大衆車による第一の経路を決定的にしたのは経済統制の本格化であった。事業法が実施されてから1年後に起こった日中戦争を契機とする統制政策は、国産大衆トラック以外のすべての車種の衰退を余儀なくさせたのである。しかし、こうした集中的な資源投入によって推進されたこの時期のに大衆トラック生産は量的には急増したものの、質的な側面、すつまり生産方法としての大量生産には至ることはなかった。その主な原因は自動車工業の外部にある、大量生産をバックアップするような材料・素材工業の発展が欠けていたためであったか

こうした状況を引き継ぐ形で自動車工業の戦後は始まった。復興期には市場状況が戦前と変わらなかったために、小規模な貨物運搬用として、戦時期に抑圧されていた小型車部門が大衆車部門より先んじて再建され、車種も戦前からの三輪車が中心であった。ただし、50年代には小型車の規格が戦前の750cc以下から1,500ccまで拡大したこともあって、三輪車は高価格・高性能となり小型四輪車と競争するようになった。戦前の小型車市場に孕まれていた三輪車と四輪車との競合という可能性がこの時期に現実化したのである。

そして、50年代半ばには小型四輪車の大幅な価格引下げによって「大型」三輪車の競争力が弱化した。それに対して三輪車メーカーは360cc級の軽三輪車を開発して新たな三輪車市場を開拓するようになった。

一方、戦後の大衆車部門は潜在的な国際競争に備え、大量生産方式によるコスト節減・品質向上に全面的に乗り組んだ。戦前に制約要因となっていた素材・材料の問題は鉄鋼業界の協力によって50年代前半までに解決し、戦時期に老朽化した工作機械などの設備機械は輸入による更新が進んだ。そして、50年代末までには、トラック部門に関する限り、価格・性能の面で国際競争力を有するようになった。

要するに、1910〜50年代の日本自動車工業の歴史は、アメリカ製大衆車に代表される、標準化された製品部門における大量生産方式の確立による外国車から国産車への代替・国産化過程であったと共に、非標準化製品部門における「適正技術」に基づいた市場維持・拡大過程でもあったのである。この両部門のうち、三輪車という非標準化製品部門が解体し、四輪車という標準製品に市場が統合されるのが1950年代末であった。

以上の分析によって明らかになった日本自動車工業史像は、以下に示すように、大衆車部門のみを対象とし、供給・政策要因を強調してきた従来のそれを大いに修正するものといえるである。

第1に、方法論的に需要要因をも強調し、小型車を含めて分析することによって、日本の自動車工業史は欧米のそれを単線的にキャッチアップする過程のみではなかったことが明らかになった。とりわけ小型車部門の発展は「創造的適応」ともいうべき過程であったのである。

第2に、大衆車部門についても、従来実証研究の足りなかった戦時・戦後期を分析に含めることによって、欧米自動車メーカーに対するキャッチアップの目標や内容、そしてその限界や克服過程がより具体的に明らかになった。ただし、この点に関連しては、とくに戦後における小型車の生産方式にも立ち入って検討する必要があるだろう。小型車メーカーにとって、そのキャッチアップの対象は外国メーカーではなく、日本の大衆車メーカーに変わったと推定されるが、小型車メーカーがそれをどのように認識し、いかに解決していったかが解明されねばならないからである。史料面で厳しい制約があるが、今後可能な方法を模索してみたい。

第3に、先行研究で議論の焦点となっていた自動車製造事業法など自動車工業政策の効果は、それほど大きくなかったことが明らかになった。この点については、本稿の分析対象とはならなかった戦後の乗用車の国産化過程をも視野に入れれば、別の評価もあり得るという批判も考えられる。しかし、トラック部門での資金・技術蓄積によって乗用車の国産化が可能となったと本稿では捉えており、そうした点を考慮すれば、乗用車部門を含めたとしても政策に対する評価が大きく変わることはないと思われる。

では、こうした日本自動車工業史は世界自動車工業史の中でいかなる特徴を持っているのであろうか。これを大衆車と小型車の発展過程に分けて考えてみよう。

まず、大衆車部門の発展過程はヨーロッパでのそれと共通性を持っていた。アメリカの大衆車がヨーロッパで本格的に現地組立を行った1920年代に、ヨーロッパ各国ではそれと拮抗しながら自国の自動車工業を発展させていた。その過程では関税引上げなど政策的な保護措置も採られた。日本自動車工業の特徴とされてきた軍事的性格・国家の保護政策は、程度の差こそあれ、ヨーロッパでも見られたのである。ただし、日本では乗用車よりはトラックの発展が先行したことと、大衆車メーカーは初期から原価問題を強く意識したことをに、欧米のそれとの差としてを指摘することができよう。

一方、日本における小型車の発展過程では、アメリカはもとよりヨーロッパ諸国のそれとも大きな差がみられた。アメリカ車の影響の下で、ヨーロッパでも小型車開発が進められたが、それは小型乗用車が中心だったのに対して、日本の小型車は三輪トラックが中心であだったのである。三輪車それ自体はヨーロッパにおいても戦間期や戦後復興期にある程度生産されたが、軽三輪乗用車を中心にほとんどが短期間の小量生産に終わった。それに対して、日本の三輪車はトラックを中心とし、小型から「大型」三輪車までの広い範囲で、長期間に渡って生産されていたのである。こうした差をもたらした原因は購買力と技術基盤の差にあった。

端的にいうなら「大衆車を小型化」したヨーロッパの小型車に対して、三輪車を中心とした日本のそれは「自転車を大型化」したものだったのである。欧米での三輪車は技術的にはフォードのT型が「ドミナント・デザイン」として確立するまでの、様々な試みの一形態として現れた過渡期的な車であった。日本でも三輪車は結果的には過渡期的な存在であったが、市場・技術能力の差によってその存続期間は欧米に比べて遥かに長く、市場におけるその比重も高かったのである。

ただし、小型車部門にみられたこうした日本と欧米との差は、戦後途上国での発展過程をも視野に入れると、日本の特殊性という側面が弱まくなり、むしろ世界自動車工業史の普遍的な現象と呼ぶ方が妥当ともいえるようになる。日本における三輪車は1920年代から70年代初頭まで生産されたが、その後70年代には一時的であったとはいえ韓国で三輪車が大量に生産・使用され、また東南アジアの一部では現在にもそれが使用され続けているからである。その意味では、市場と技術基盤を中心とした本稿の分析視角は途上国における自動車工業の形成・展開過程を分析する際にもある程度のインプリケーションを与えるものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1910-50年代を対象として、日本の自動車工業の形成・展開過程を実証的に検討することを課題としている。

あらかじめ構成を示すと、産業史の方法を含めた研究史の検討に基づいて課題を設定した序章と総括と展望を示した終章を挟んで、以下の8章からなっている。

第1章 1910年代における自動車工業の形成

第2章 1920年代における外国メーカーによる大衆車工業の展開

第3章 1920年代における小型車工業の形成

第4章 1930年代前半における国産普通車工業の停滞と小型車工業の成長

第5章 自動車製造事業法と戦時統制政策による自動車工業の再編成

第6章 戦時期における国産大衆車工業の形成と展開

第7章 戦後における小型車工業の復興と再編

第8章 戦後におけるトラック部門を中心とした自動車工業の確立

まず本書の構成に従って主要な論点とこれについての著者の貢献を明らかにし、その上で審査委員会の評価を記すこととしたい。

序章では、これまでの主要な産業史研究、自動車工業史研究を再検討することを通して、分析視角と課題が明らかにされる。すなわち、これまでの自動車工業史研究が、市場分析を軽視してきた結果、戦前期の自動車工業の全体像を明らかにし得ていないことを指摘し、この批判に基づいて、とくに「小型車」を視野に入れた2つの発展の経路を検討することを課題として設定する。この小型車への注目は、これまでの研究が当時の呼び方に従えば、「大衆車」−輸入のフォードやシボレークラスの、当時の国際的な標準車−に関心を集中してきた研究史に対して、新たな視点を提示したものである。

第1章から第3章では、2つの経路の形成が論じられる。まず、欧米の自動車工業において、アメリカで大衆車が標準的なモデルとして確立し、大量生産によって市場に提供される一方で、ヨーロッパではこれより小型の自動車が独自の展開を示したことが概観された後、日本における自動車生産が、軍用自動車補助法などの影響下で開始されたこと、しかし、そうしたなかで自動車生産を支えうる機械工業の基盤を欠き、営業用中心の乗用車市場の量的な限界から、自動車工業の発展には制約が大きかった。

このような市場の制約は、1920年代に関東大震災を契機にアメリカの自動車が日本市場に進出してくると一層強まった。フォードやシボレーは日本市場においても圧倒的な競争力を有しており、国産大衆車はこれらの外国車と競争しなければならなかった。そのため、価格競争力が劣位であった国産大衆車生産部門は、1930年代前半までは競争を回避して一回り大きな中型車生産を政策的保護の下で継続するにとどまった。

停滞をつづけていた大衆車に対して、この時期には「日本独特」の三輪車が国産自動車工業の展開を主導した。都市内の短距離の輸送需要を中心に、低価格の自家用貨物運送向け小型トラックが求められており、これを満たしたのが、三輪車であった。価格・性能の両面で大衆車とは直接的に競争しない三輪車は、製造技術などその生産の基盤も大衆車とは異なっていた。それは、自転車・原動機など当時日本に存在していた技術からの流用、あるいはその漸進的な改良によって実現したのである。

こうして、大衆車生産、およびこれとは異なる市場基盤・製造技術に基づく小型車生産という、2つの異なる自動車工業の発展の経路が生まれた。それは、日本の市場状況と競争相手である外国メーカーの存在によって規定されて生み出されたものであった。

第4章から第6章では、この2つの経路が1930年代から戦時経済期にたどった対照的な発展の姿を明らかにする。すなわち、30年代半ばには、それまでの国産大衆車(中型車)の停滞と小型車の成長を背景に、小型車を中心とした国産自動車工業の確立論が台頭し、運輸業者からも支持を得ることになった。実際、この時期の小型車生産は規格拡大に伴って小型4輪車が登場し、生産方法の改善、技術の向上によって普通車部門との差を詰めるような発展を示していた。これに対して、国産奨励を意図した標準車生産は失敗に終わった。

しかし、小型車生産が政府の助成・保護の対象となることはなかった。主として軍からの要求によって急速な大衆車国産化政策が採られ、36年に自動車製造事業法が成立したからである。もっとも、この事業法は大衆車以外の国産小型車・中型車を抑制する意図を有していたわけではなかった。しかも、同法は生産台数の枠を制限していたとはいえ、外国メーカーを直ちに日本から締め出すものではなく、外国大衆車との競争を前提にしつつ、大量生産による国産車の競争力向上を通じて大衆車の国産化が可能になると判断していた。この点について、これまでの研究における事業法の評価は正確さを欠いている。

外国車との競争関係は、事業法が実施されてから1年後に起こった日中戦争を契機とする統制政策によって、大きく変化した。大型・中型の国産大衆トラック以外のすべての車種が存続の基盤を奪われ、外国メーカーは日本から撤退を、小型車メーカーは軍需部門への転換を、それぞれ余儀なくされた。

こうして戦時期の自動車生産は、事業法の許可会社による大衆トラック生産に収斂することになるが、原価節減を目指した大量生産方式の追求は、材料・素材工業などの基盤の欠如のために徹底せず、十分な成果を上げ得なかった。

つづく、第7章と第8章は、戦後の自動車工業について、トラック生産を中心に検討が進められる。戦後復興期には市場状況が戦前と変わらなかったことから、戦時期に抑圧されていた小型車部門が大衆車部門より先んじて再建され、車種も戦前からの三輪車が中心であった。さらに50年代にはいると、小型車の規格が戦前の750cc以下から1,500ccまで拡大したこともあって、三輪車は高価格・高性能となり小型四輪車と競合する市場に位置するようになった。戦前の小型車市場に孕まれていた可能性がこの時期に現実化したのである。そして、50年代半ばには小型四輪車の大幅な価格引下げによって「大型」三輪車の競争力が弱体化したのに対応して、三輪車メーカーは360cc級の軽三輪車を開発して新たな三輪車市場を開拓することになった。

一方、戦後の大衆車部門は潜在的な国際競争に備え、大量生産方式によるコスト節減・品質向上に全面的に取り組んだ。戦前に制約要因となっていた素材・材料の問題は鉄鋼業界の協力によって50年代前半までに解決し、戦時期に老朽化した工作機械などの設備機械は輸入による更新が進んだ。その結果、50年代末までには、トラック部門に関する限り、価格・性能の面で国際競争力を有するようになった。

以上の分析を踏まえて著者は、「要するに、1910〜50年代の日本自動車工業の歴史は、アメリカ製大衆車に代表される、標準化された製品部門における大量生産方式の確立による外国車から国産車への代替・国産化過程と共に、非標準化製品部門における「適正技術」に基づいた市場維持・拡大過程が同時に展開したものだったのである。この両部門のうち、三輪車という非標準化製品部門が解体し、四輪車という標準製品に市場が統合されるのが1950年代末であった」とこの論文の主張を要約している。

本論文は、これまでの先行研究に対して、徹底した資料の収集によって実証的な側面から有効な批判を加えている点にもっとも大きな特徴があり、史料的な制約が大きいなかで、歴史的な因果関係をていねいにたどった論述は、論理的で間断するところがない。一貫して本論文の主題を追求してきた著者の努力が見事に結実した作品と認められる。

本論文が先行研究を批判し、具体的に提示した新たな自動車工業史像として、特に強調されなければならない点は、次のような諸点にある。

まず第一に、これまでの日本の自動車工業史は欧米のそれを単線的にキャッチアップする過程ととらえる傾向が強かったのに対して、本論文では日本の自動車需要のあり方に注目し、小型自動車の独自の発展が大衆車と並行して進んでいたことを明らかにした。しかも、その小型自動車は、アメリカの大衆車の側圧を受けて展開したという限りでヨーロッパにおける自動車生産との共通性を有しつつも、ヨーロッパのそれが「大衆車を小型化」したものであったのに対して、日本では三輪車を中心とした「自転車を大型化」したものだったという特異な性格を持った。そうした発展が可能になった理由について、著者はこれまで実証的な検討がほとんど行われていなかった小型車製造業の実態を可能な限り明らかにし、その市場の条件とともに、自動車生産の基礎となる素材、部品などの工業発展の差異が重要であったことを強調している。この2つの発展の経路に着目することによって、本論文は、第二次世界大戦後の自動車工業の本格的な展開に至るまで政策的な助成の対象となった大衆車部門と、その視野からはずれて自立的な展開をみせる小型車部門という対比を描き出し、1950年代までの自動車工業史像をそのダイナミズムとともに書き換えるものとなった。

第二に、こうした視点に支えられて、本論文は、自動車製造事業法を焦点とする自動車工業政策の評価を基本的に覆すことになった。軍用自動車保護法の政策効果の限定性に加えて、従来外国メーカーの撤退を決定づけたとされる事業法について、その立案過程を追うことによってこの政策が小型車生産に関心を払っていなかったこと、また、外国メーカーに対して一定の生産数量を保証し生産の継続を期待するものであったことを明らかにし、その上で、外国メーカーの日本市場からの撤退の原因が、戦時統制の開始に伴う諸制約にあったこと、そしてこの同じ制約が小型車生産に対しても決定的なダメージを与えたことを明らかにした。この主張は極めて説得的である。

第三に、戦後復興期の自動車工業について、トラック生産を中心に検討し、三輪自動車・小型四輪・軽三輪などに進出した企業の動向を明らかにした。これまでの研究が乗用車部門の有力メーカーによる「大衆車」生産に偏り、この時期の自動車需要に重要な位置を占めた貨物自動車については顧みられるところが少なかったことを考えると、この実証研究の成果は貴重であり、しかも、そうした部門の企業群から先発の二社に追随する乗用車メーカーが生まれたことを考えると、戦後の自動車工業の発展を論じる上で不可欠の論点に光が当てられたことの意味は大きい。

このような成果の反面で、本論文に残された課題があることは認めなければならない。最も重要な点は、著者自身が認めるように、自動車生産の具体的な現場で、どのような労働者がどのような技能と、機械体系の下で作業を行ってきたのか、それは歴史的にどのような進化を示したのか、という点について具体的な姿を十分には示し得なかったことである。こうした側面を明らかにしうる史料が極めて乏しいということを考慮すれば、こうした問題に答えることは無理であるかもしれないが、技術的な基盤の差異性などを強調する本論文の主旨からすれば分析が及び得なかった点は残念であり、あえて今後の研究への示唆として指摘しておきたい。

もう一つは、著者が強調する需要要因に関する分析に関わって、どのような輸送需要が小型車市場の発展に寄与したのかについて、さらに掘り下げた検討が可能ではないかという点である。著者は、終章において日本のような小型車生産の発展は、日本に特殊であったというよりは、戦後の途上国における自動車需要のあり方を含めてより普遍的な性格を持ちうるのではないかと指摘している。もしそうであれば、本論文のように主としてヨーロッパとの対比での議論を展開するのではなく、より広い比較史的な視点から需要要因についても再検討する必要があるように思われる。

しかしながら、このような問題点があるとはいえ、本論文に示された先行研究に対する批判的な検討と、実証的な研究の卓越した成果は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。従って審査委員会は全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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