学位論文要旨



No 118545
著者(漢字) 福家,英之
著者(英字)
著者(カナ) フケ,ヒデユキ
標題(和) 宇宙線反重陽子の探索
標題(洋) Search for Cosmic-Ray Antideuterons
報告番号 118545
報告番号 甲18545
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4409号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蓑輪,眞
 東京大学 教授 川崎,雅裕
 東京大学 助教授 徳宿,克夫
 東京大学 教授 高橋,忠幸
 東京大学 教授 鈴木,洋一郎
内容要旨 要旨を表示する

近年の宇宙線反陽子の高精度な測定により、一次宇宙線中の反陽子のエネルギースペクトラムが運動エネルギー2GeV付近にピークを持つことが明らかになってきた。これにより、宇宙線反陽子はその大半が二次起源、即ち銀河宇宙線と星間物質との衝突により生成されていることが広く認識されるようになってきている。しかし一方で、観測された反陽子スペクトラムの1GeV以下の低エネルギー領域部分は、二次起源反陽子のスペクトラムとして予測されているよりもややフラットな形をしており、その他の起源を持つ未知の成分が含まれている可能性を示している。二次起源反陽子は、その生成における運動学的理由により、ピークよりも低いエネルギー領域では流束が急激に減少すると考えられている。従って、ややフラットな低エネルギー反陽子スペクトラムが観測されたという事実は、反陽子の非衝突起源、即ち一次起源が存在する可能性を示している。一次起源の候補としては超対称性ニュートラリーノ・ダークマターの対消滅や原始ブラックホールの蒸発などの未知の現象が考えられており、宇宙論的・素粒子物理学的に興味深いテーマとなっている。

しかしながら、反陽子の観測によって一次起源の存在の有無を決定することは容易ではない。反陽子の一次起源成分は低エネルギー二次起源成分を示すスペクトラムの形のずれとして検証しなければならないが、低エネルギー二次起源反陽子の予測スペクトラムの理論的な不定性が未だ無視できないからである。加えて、反陽子スペクトラムの測定精度そのものも現在の統計精度では不十分である。

この反陽子における不利な点を回避できる観測対象として宇宙線反重陽子が挙げられる。宇宙線反重陽子はこれまでに一例も観測されたことがないが、反陽子と同様の生成仮定、即ち二次起源或は一次起源により存在している可能性がある。一次起源の存在の有無を検証する上で反重陽子の観測が反陽子の場合よりも原理的に有利である点は、一次起源の反重陽子は二次起源反重陽子スペクトラムの形のずれとしてではなく、より直接的に探索することが可能であるという点である。これは、二次起源反重陽子の生成エネルギー閾値が反陽子の場合に比べて高くなることにより、二次起源反重陽子スペクトラムが高エネルギー側にシフトする為である。一方、非衝突起源の反重陽子は反陽子の場合と同様に低いエネルギーを持つと考えられる。その結果、約1GeV/n以下の低エネルギー領域にもし一例でも反重陽子が観測されれば、一次起源の存在が強く示唆されることとなる。ただし、反重陽子の存在量は、反陽子よりもさらに少ないと考えられる。そのような稀少宇宙線の探索は、大面積立体角の測定器を用いたBESS実験によって初めて可能となった。

paragraphにBESSの測定器の断面図を示す。BESS測定器は薄肉超伝導ノレノイドを使用した気球搭載型超伝導スペクトロメータであり、ソレノイドの採用により気球搭載型測定器としては、かつてない大面積・大立体角と一様な磁場を持っている。ソレノイドの内側の均一な磁場領域にはドリフトチェンバが置かれ、粒子の飛跡を測定することにより、その磁気硬度(運動量/電荷)を高い精度で決定する。磁気硬度の正負により粒子の電荷の極性が判別される。電荷の絶対値はTOFホドスコープなどで測定されるエネルギー損失から求められる。粒子の識別は、磁気硬度とTOFホドスコープで測定される粒子速度を用いて、粒子の質量を同定するという非常に確実な方法で行なわれている。これにより、低エネルギー反重陽子の探索において最も大きなバックグラウンド源となる反陽子との明確な識別が可能となる。また、閾値型エアロジェルチェレンコフカウンタを備えており、バックグラウンド源となり得る電子・ミュー粒子からの分離・識別も可能である。

BESS測定器が大面積・大立体角であることから、高感度の探索が可能である。ドリフトチェンバでは複数の飛跡の検出も容易であり、測定器内で相互作用を起こした事象を識別できるため、相互作用を起こしていない明瞭な反重陽子事例を探索することができる。また、同軸円筒状に配置された検出器はその面積立体角を精度良く見積もることが容易である。これらの特徴から系統誤差についても低く抑えることができる。

宇宙線反重陽子の探索には、1997年度から2000年度の4回に亘る気球観測データを用いた。実験はカナダ北部のリンレークにおいて行なわれ、高度約36km(残留大気圧約5g/cm2)の高空における計約89時間の観測によって、総事象数約7100万のデータが収集された。

解析ではまず、上下のTOFホドスコープを通過しドリフトチェンバの中で飛跡を一つだけ残した事象を選び出し、アクシデンタルな事象や僅かに存在する測定器内で相互作用を起こした事象を取り除く。続いて、トラックのフィッティングのχ二乗や 飛跡とTOFホドスコープのヒットとの整合性など、トラッキングの質に関わるパラメータについてのカットを施す。これにより、入射粒子の速度と磁気硬度の測定値をより信頼性の高いものとする。選ばれた事象からの反重陽子事象の識別は、先に述べたように、磁気硬度と粒子速度を用いた質量の同定 およびエネルギー損失からの電荷の算出によって行なう。エアロジェルチェレンコフカウンタによる電子・ミュー粒子の排除も併せて行なう。

paragraphは1998年度データに関する電荷±1の事象についての速度と磁気硬度の分布である。正電荷側に陽子・重陽子事例が、また負電荷側の陽子と対象な位置には反陽子事例が、明確に識別されている。これに対し、重陽子と対称な位置に存在すると期待される反重陽子の候補事例は一例も存在していない。解析の結果、四年分のデータ中に反重陽子候補事例は存在しなかった。

この解析結果を踏まえ、大気頂上における宇宙線反重陽子の微分エネルギースペクトラムに対する上限値を算出した。BESS測定器の反重陽子に対する検出効率は、主に同じ観測データ中の重陽子事例を用いて見積もった。検出効率のうち反重陽子の核相互作用に関わるものや大気中での反重陽子数の損失などはGEANTを用いたモンテカルロ・シミュレーションによって求めた。反重陽子の反応断面積は実験データが無いため、反陽子のそれからスケールするモデルにより仮定し、GEANTに組み込んだ。各種系統誤差も、主に重陽子事例を用いて見積もった。

これらにより得られた、系統誤差を含む確からしさ95%の上限値は、運動エネルギー0.17GeV/nから1.15GeV/nの範囲で1.9×10-4 (m2s sr2GeV/n)-1であった。なお、この上限値は宇宙線反重陽子流束に対して世界で初めて得られた実験結果である。

最後に、この得られた上限値を、現在までに提案されている一次起源反重陽子に関する理論的な予測スペクトラムと比較した(paragraph)。原始ブラックホールを起源とする反重陽子の予測スペクトラムを用いることにより、太陽系近傍の原始ブラックホールの蒸発頻度に対する上限値1.8×100 pc-3 yr-1が得られた。これはガンマ線バーストの観測から得られている上限値よりも五桁低く、宇宙線反陽子の測定から得られているものよりは二桁高い。その他、いくつかの理論パラメータに対する特定の仮定のもとに、反重陽子をプローブとして、原始ブラックホールやニュートラリーノ・ダークマターの密度パラメータに対する上限値 ΩPBH<1.2×10-6、Ωx<3.6×100などが、初めて得られた。ただし、これらの解釈に当たっては、一次起源反重陽子スペクトラムの予測が多くの理論仮定を含んでいることに留意する必要がある。特に、反重陽子と反陽子の生成確率の比が持つ不確かさは、全ての起源に共通して、反重陽子流束の絶対値の予測に対する不定性をもたらしている。

なお、宇宙線反重陽子は、BESSの次期計画である BESS-Polar 実験を始め、様々な将来計画において探索される予定である。本研究で得られた結果は、それら次世代の反重陽子探索における基盤となるものである。

BESSの測定器(1999年時)

速度と磁気硬度の分布(1998年度データ)

得られた宇宙線反重陽子流東に対する上限値と各種予測スペクトラムの関係。BESSによる反陽子測定結果と反陽子予測スペクトラムも併せて示す。二種類ある原始ブラックホールからの反重陽子スペクトラムの差異は、主に、異なる銀河内伝播モデルを用いていることに起因している。

審査要旨 要旨を表示する

この論文は、一次宇宙線中における反重陽子の存在を、大型気球に搭載した超伝導荷電粒子スペクトロメータBESS(Balloon-borne Experiment with a Supercon-ducting Spectrometer) により探索した結果についてまとめられたものである。

論文は7章からなり、第1章は一次宇宙線中の反物質に関する導入説明、第2章はBESS実験装置の説明、第3章では気球の飛行履歴について、第4章ではデータ解析の方法について、第5章では観測データから反重陽子 flux を計算する方法、第6章では理論モデルとの比較検討について詳しく記されている。そして、第7章で結論が述べらている。

一次宇宙線中にはもっとも基本的な反物質である反陽子が存在することがわかっている。そのエネルギースペクトルを見ると、運動エネルギー2GeV付近に山のある形をしており、それは通常の物質である銀河宇宙線と星間物質の衝突により発生したものであると考えられている。一方、反物質はこれ以外にも、宇宙の暗黒物質の候補であると考えられているニュートラリーノの対消滅や原始ブラックホールの蒸発など未解明の現象によるものが考えられ、宇宙論・素粒子物理学の興味深い主題となっている。この場合は、エネルギースペクトルのやや低い方にあらわれると考えられるが、衝突により発生したものとの違いは微妙で、上記のような未解明現象の有無を検証するのは容易ではない。

反重陽子の場合は、事情がかなり簡単になる。すなわち、星間物質との衝突による発生のために必要なエネルギーが反陽子の場合より高くなることにより、発生した反重陽子のエネルギースペクトルが高いほうに変移すると考えられている。そのため、ニュートラリーノの対消滅や原始ブラックホールの蒸発などにより発生する低エネルギーの反重陽子との区別が簡単になるからである。これまで宇宙線の中で反重陽子は一例も観測されてはいない。

BESS測定器はこれまでカナダの極地方にあるリンレークより毎年定期的に打ち上げられて、主として一次宇宙線中の反陽子の測定を行ってきた。福家氏は、このBESS測定器の1997年度から2000年度の4回の高度約36kmにおける約89時間の気球観測データを用いて新たに反重陽子の探索を行った。BESS測定器は気球搭載の宇宙線測定器としてはかつてない大面積・大立体角を持っているので高感度の探索が可能となった。また、スペクトロメータは、均一な超伝導ソレノイド磁場領域にドリフトチェンバーが置かれ、粒子の飛跡から磁気硬度(運動量/電荷)が高精度で測定できる。さらに、飛行時間 (TOF、Time of Flight) 測定器で電荷の絶対値と速度がわかるので、粒子の質量を確実に同定できる。バックグラウンド源となり得る電子やミュー粒子の分離のためのエアロジェルチェレンコフカウンタも備えている。

以上のような原理に基づき反重陽子を探した結果、4年分のデータ中に反重陽子候補事例は存在しなかったことより、大気頂上における宇宙線反重陽子の微分エネルギースペクトルに対する信頼度95%の上限値1.9×10-4 (m2s str2GeV/n) -1(ただし運動エネルギー範囲0.17から1.15GeV/nにおいて)を得ている。これは、宇宙線反重陽子 flux に対してつけられた世界で初めての上限値である。

この結果を使って、いくつかの理論パラメータに対する特定の仮定のもとに、原始ブラックホールやニュートラリーノ暗黒物質の宇宙の質量密度パラメータに対する上限値、ΩPBH<1.2×10-6、Ωx<3.9×100などが初めて得られている。

以上に述べたように、この論文は一次宇宙線中の反重陽子を高感度で確実な方法で探索し、その flux に世界で初めて制限をつけ、またその起源の候補である原始ブラックホールとニュートラリーノ暗黒物質の宇宙における量に制限をつけたものである。この論文は、学問的に大変有用なものであり、また論文提出者の独創性も十分であると認められる。

また、この論文はBESS実験グループの他の共同研究者との共同研究に基づくものであるので、論文提出者がどのような主導的な寄与があったのか審査委員会において念入りに審査した。その結果、データ解析は論文提出者が単独で行なったものであり、そのための手法もみずから考案していること、また実験装置の保守・改善に対する寄与も十分であることから論文提出者の主導性が十分であると判断した。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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