学位論文要旨



No 118551
著者(漢字) 張,燕
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,エン
標題(和) 海洋における銀の地球化学
標題(洋) The Marine Geochemistry of Silver
報告番号 118551
報告番号 甲18551
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4415号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野津,憲治
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 巻出,義紘
 東京大学 助教授 中井,俊一
 東京大学 講師 小畑,元
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

銀は周期表では金や銅と同じ IB 族に属し、貴金属元素の一つとして取り扱われてきた。海洋学では、塩素量測定のための硝酸銀標準溶液として用いられてきたため、溶液化学的にもなじみが深い元素である。海水中では塩化物錯体(AgCl0, AgCl2-およびAgCl32-)を形成すると考えられ、比較的濃度が高いと予想された。しかし、Murozumi(1981)が同位体希釈質量分析法で測定した南太平洋の海水中の濃度は0〜30pmol/kgと非常に低い値であった。銀の鉛直分布は深さとともに着実な増加を示す、いわれる「栄養塩型」であり、その分布は生物地球化学過程で支配されるものと推察されている。Martin et al. (1983)は、東部北太平洋での測定から、同族の銅との類似性について議論を進めた。また、Flegal et al. (1995, 1999, 2001)は大西洋における銀を測定し、大西洋深層水の濃度は太平洋に比べてはるかに低いという点でも栄養塩と似ていることを明らかにした。銀は栄養塩の中でも溶存ケイ素と最も相関が良いことが知られている。しかし、外洋域における銀は未だ測定データが少なく、特に太平洋における銀の深層海水中の詳細な濃度分布は明らかにされていない。さらに、銀の溶存化学種や生物地球化学的循環過程についても不明な点が多い。海洋における銀の地球化学的挙動についての論議を深めるためには、高精度な分析法を用いて海域による差異を明らかにし、結果を解析する必要がある。そこで本研究は、同位体希釈ICP質量分析法を用いて、太平洋とその周辺海域(日本海、オホーツク海、ベーリング海)における溶存銀の濃度を高精度に測定し、その分布を支配する生物地球化学的要因を解明する。

試料と方法

海水試料は、白鳳丸航海(KH-98-3, KH-99-3, KH-00-3, KH-01-3)で西部北太平洋、日本海、オホーツク海、ベーリング海、中央北太平洋、赤道域また南太平洋から採取したものである(図1)。採水には、CTD-カローセルシステムに搭載したX-ニスキン採水器を用いた。海水は採取直後に0.04μmの中空糸膜あるいは0.2μmのステラデッスクフィルターでろ過し、塩酸酸性(pH〜1.5)にして持ち帰った。東京湾の海水試料は、淡青丸KT-01-2、KT-01-12次航海で採取した。河川水は2002年3月と8月に荒川と多摩川の7ヶ所で採取した。サンプルは採取後、直にヌクレオポアフィルター(0.4μm)またはステラディスク(0.2μm)でろ過した。pH=1.5の塩酸酸性にした未ろ過試料を測定し、溶存Agとの差から粒子状Agを求めた。

銀の分析は、107Agをスパイクとする同位体希釈ICP質量分析法を用いた。分離濃縮操作には、APDC/DDDC-クロロホルム系による、溶媒抽出-逆抽出法を用いた(Bruland et al. 1985)。繰り返し測定の分析精度は2%以内であり、ブランクは0.16pmol/kg程度であった。

結果と考察

外洋域における銀の鉛直分布

図2に示すように、南緯50度の南大洋に近い南太平洋(Sta. 10)や、中緯度北太平洋(BO-3)、ベーリング(Sta. 5)の各海域において、銀は表層で少なく深くなるにつれて濃度が増加する「栄養塩型」の分布を示した。これらの海域においてもその分布は特に溶存ケイ素の分布によく似た形を示した。北大西洋や南大西洋のおける結果(Flegal et al.,1995)と本研究の結果を比較すると、銀は北大西洋<南大西洋<南太平洋<北太平洋<ベーリング海の順に高くなっていることが分かる。この傾向はケイ素などの栄養塩と全く同じ傾向であり、海洋大循環の経路に従って銀濃度が増加していることが明らかである。

中深層における銀の挙動

溶存の銀とケイ素は非常に似た分布を示すが、細かく見るとその挙動は異なる。各海盆におけるAg/Si比の鉛直分布を示した(図3)。それぞれの海盆の深層水では異なったAg/Si比となり、太平洋と大西洋における比の違いは明らかである。これらのことから、銀の生物粒子からの再生がケイ素より遅れていると考えられる。また、ベーリング海やオホーツク海など堆積物から深層へのケイ素の供給が顕著である半閉鎖系海域では、海底に向かってAg/Si比が増大している。生物粒子からの再生がケイ素よりも遅い銀が、間隙水中には比較的豊富に含まれている可能性を示唆している。

表層における銀の挙動

太平洋および大西洋における銀とケイ素の分布を緯度に対してプロットした(図4)。太平洋と大西洋の高緯度海域で銀、ケイ素共に濃度が高い傾向を示した。アマゾン川の影響を強く受けた亜熱帯域を除き、熱帯域では両元素共に濃度は低い値を示した。これらの結果は、表層の鉛直混合により、銀、ケイ素共に深層から供給されている可能性を示している。しかし、表層水中のAg/Si比(0.2〜22pmol/μmol)は深層水のAg/Si比(0.1〜0.3pmol/μmol)に比べて高い。これは、1)人為起源の銀が海洋に供給される;2)鉱物粒子が大気を経由して供給される;あるいは3)表層でSiが優先的に生物に取り込まれ、銀は表層水に残るという過程を反映していると考えられる。以前の研究結果(Zhang et al., 2001)から地球規模の銀の汚染は未だ観測されていない。また、図4において、サハラダストや、黄砂の影響の大きい海域ではAg/Si比が高くないことから、大気からの供給が表層中のAg/Si比をコントロールしているとは考えにくい。深層から供給された銀とケイ素は、表層の生物活動によって、その比を変化させられていると考えられる。

報文目録

1. "Oceanic profiles of dissolved silver : precise measurements in the basins of western North Pacific, Sea of Okhotsk, and the Japan Sea" Y. Zhang, H. Amakawa, Y. Nozaki, Mar. Chem. 75 (2001) 151-163.

2. "Silver in the Pacific Ocean and the Bering Sea" Y. Zhang, H. Obata, Y. Nozaki, submitted to Geochem. J.

参考報文

1.「海水中の貴金属元素」野崎義行、張燕、海洋 現代海洋化学(II)25(2001)127-132

講演目録

1.「海水中の銀の鉛直分布とその地球化学的支配要因に関する研究」張燕、天川裕史、野崎義行、日本地球化学会、山形大学、2000年10月

2.「東京湾及び日本近海における表層海水中のAgの挙動」張燕、天川裕史、野崎義行、日本地球化学会、学習院大学、2001年10月

3.「東京湾の河口域における銀の地球化学的挙動」張燕、野崎義行、日本地球化学会、鹿児島大学、2002年9月

試料の採取観測点

各海域におけるAgとSiの鉛直分布

各海域におけるAg/Si比の鉛直分布

緯度による表層水中のAgとSiの濃度変化

審査要旨 要旨を表示する

本論文は5章からなり、第1章は本研究の背景と目的、第2章は試料採取と化学分析法、特に海水中の溶存銀の分析の高精度化、第3章は分析結果、第4章は太平洋外洋域の溶存銀の鉛直分布にもとづく全海洋の銀循環モデルの提唱や、表層における銀の動態および海洋における銀の平均滞留時間についての検討、第5章は本研究のまとめについて述べられている。

第1章では、海水中の銀の挙動に関するこれまでの研究のまとめを行ない、溶存濃度が著しく少ないため過去の定量は分析精度に問題があったこと、大西洋では1995年以降組織的なデータが出ているが、太平洋では測定点が少なく、鉛直分布は明らかにされていないため、海洋を通しての銀の全地球的な循環が議論できなかったことが指摘されている。そこで、本研究では、高精度な銀の分析法を工夫し、太平洋とその周辺海域(日本海、オホーツク海、ベーリング海)における溶存銀の濃度を高精度に測定し、その分布を支配する生物地球化学的な要因を解明する研究目的が述べられている。

第2章では、まず分析試料の採取について説明がなされ、太平洋とその周辺海域のほかにも東京湾内の海水と東京湾に注ぐ河川水、雨水を採取したことが述べられている。銀の分析は、107Agをスパイクとする同位体稀釈-ICP質量分析法を採用したが、分離濃縮には、APDC/DDDC-クロロホルム系による溶媒抽出-逆抽出法を用いた。分析条件に工夫をこらして分析法を確立した結果、ブランクが0.16pmol/kgという超微量分析を可能にし、再現性が40pmol/kg試料で1.07%と高精度分析に到達した。この分析精度はこれまでの報告例に比べ1桁近い改善であり、世界最高水準の海水中の銀の定量システムを作ったことは高く評価される。

第3章では、すべての試料について、本研究で確立した方法で定量した銀の分析値と、採水直後に船上で行なう塩分量、溶存酸素量、ケイ酸塩、リン酸塩、硝酸塩など栄養塩濃度などのデータがまとめられている。

第4章では、まず、太平洋における銀の鉛直分布が、場所によらずすべて表層で濃度が低く深層に向かうにつれて濃度が増加する「栄養塩型」の分布を示し、溶存ケイ素の分布によく似ていることを示した。また、すでに報告されている大西洋のデータと合わせると、深層水中の銀濃度が、北大西洋<南大西洋<南太平洋<北太平洋<ベーリング海の順序で高くなっていることを示し、海洋大循環の経路に従って銀濃度が増加していることを初めて明らかにした。次に、銀とケイ素の表層水の分布の類似性を詳しく検討し、表層海水ではAg/Siが深層海水より明らかに高いことを見つけ、その原因を詳細に検討した結果、表層における生物活動に由来する可能性が大きいと結論づけている。また、東京湾と流入河川の結果から、河川から運ばれた銀は河口域において、粒子状物質によって取り除かれることを示した。河川や降雨の分析結果から海洋全体への銀の供給フラックスを見積もると、海洋における銀の平均滞留時間が1900年と計算されたことが述べられている。

第5章では、以上を箇条書きでまとめているが、本論文では、海水中の超微量銀の定量精度を1桁向上させる分析法を確立し、これまで測定データがなかった太平洋とその周辺海域(日本海、オホーツク海、ベーリング海)における鉛直分布を初めて報告した。その結果、全地球的な海洋大循環の経路に従って深層水中の銀濃度が増加していることを明らかにしたこと、表層海水では銀の挙動が生物活動に支配されている可能性が大きいことを示したことにより、海洋の地球化学の分野に多大な貢献を行った。

なお、本論文の一部は故野崎義行博士、小畑元博士、天川裕史博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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