学位論文要旨



No 118554
著者(漢字) 岡,恵利佳
著者(英字)
著者(カナ) オカ,エリカ
標題(和) ペチュニアの大気汚染物質 (PAN) 障害及び感受性のメカニズムに関する研究
標題(洋) The Mechanism of PAN Injury and PAN Sensitivity in Petunia hybrida Vilm
報告番号 118554
報告番号 甲18554
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4418号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,矩朗
 東京大学 教授 加藤,雅啓
 東京大学 教授 馳澤,盛一郎
 東京大学 教授 長田,敏行
 東京大学 教授 米田,好文
内容要旨 要旨を表示する

大気汚染物質ペルオキシアセチルナイトレート(PAN)は、光化学二次汚染物質(光化学オキシダント)の一種である。PANを含む光化学オキシダントの量は現在も横這いか若干増加傾向にある。また、PANは5ppb以下の低濃度で植物に可視障害を引き起こすため、都市やその近郊では今後もPAN障害が見られるであろうと予想される。

PAN障害には、他の大気汚染物質による障害とは異なる様々な特徴がある。野外における主なPAN障害は葉に銀色やブロンズ色の光沢が現れる金属光沢化と呼ばれるPANに特有の現象である。その他に脱水症状や退色も観察される。また、PAN処理開始から障害発生に至るまでの時間が他の大気汚染物質と比較して非常に長い。更に、PAN 障害は展開途中の若い限られた葉にしか現れず、展開を終えるとPAN耐性を示すようになることも特徴的である。つまり、一つの植物個体の中でも葉によってPAN感受性が異なるのである。この特徴を利用すれば、一個体の中でPAN感受性葉とPAN耐性葉の比較をすることによりPAN感受性のメカニズムを解明することができると考えた。

PAN感受性が高い植物として知られているのがPetunia hybrida Vilm.である。このペチュニアを用いた修士課程の研究で、PAN障害にいたる過程では光を必要とする反応と必要としない反応が起こっているこ二とが示され、障害発生部位の形態学的解析などから、PAN 障害への活性酸素の関与が示唆された。しかし、PAN障害に至るメカニズムと植物の持つPAN障害からの防御機構はどちらも未だ解明されていない。

本研究では、ペチュニアにおける葉の成熟に伴ったPAN感受性の変化を利用して、PAN感受性葉におけるPAN障害の発生機構、及びPAN耐性葉におけるPAN障害からの防御機構について明らかにすることを目的とした。中でも、植物の様々なストレス応答に関与する2つの物質、活性酸素とエチレンの挙動を解析することにより、PANに対する応答の解明に迫ることを目指した。

本研究ではペチュニアのホワイトチャンピオン(WHITE)とブルーチャンピオン(BLUE)を実験材料として使用した。

<葉の成熟に伴うPAN感受性の変化と気孔の発達との関係>

0.7ppm 前後の濃度のPANに1hさらしたペチュニアの葉を切り取り、マイクロプレート上でインキュベートすると、PAN処理開始から4〜8 hで脱水症状が現れ始めた。脱水が進行した葉では生重量の減少がみられた。そこで、葉の成熟によるPAN感受性の変化を、脱水による生重量変化を指標として測定した(Fig.1C)。Fig.1Aのように定義したleaf numberを横軸に示すと、leaf number 3以下の葉には生重量の減少が見られないが、leaf number 6〜9あたりで感受性のピークを迎え、leaf number 10以上になると葉は再び耐性になることが明らかになった。また、障害発生前に測った生重量(Fig.1B)が最大の葉の前後で、感受性から耐性への変化が起こることが分かったため、生重量が最大の葉を基準として、それよりleaf numberが小さく、かつleaf number 4以上の葉を“感受性の葉”、大きい葉を“耐性の葉”として今後の解析に用いることにした。PAN障害の発生部位は、leaf number が進むにしたがって、先端のみの障害から葉の中央部へ、そして葉の基部のみの障害、というように移動することが示され、PAN感受性が1枚の葉の中におけるわずかなエイジの違いによって厳密に制御されていることが分かった(Fig.2)。

このようなPAN耐性→感受性→耐性という変化をもたらす要因として、気孔からのPAN吸収量の違いが考えられる。そこで、葉を透明化し、葉表面の気孔装置の顕微鏡観察を行ない、気孔の発達について調べた。孔辺母細胞やまだ気孔が形成されていない若い孔辺細胞から成る気孔装置をステージI、気孔が観察される気孔装置をステージIIとしてカウントしたところ、葉の先端の気孔装置は基部の気孔装置よりステージIIのへ発達が早く、ステージIIが全体の90%を占めるようになるleaf numberと耐性から感受性への変化はほぼ一致した(Fig.3)。

PAN処理に先立ってABAを根から処理し気孔の閉鎖を誘導すると、感受性の葉の可視障害が抑制された(Fig.4)。PAN耐性から感受性への変化には、気孔の発達によるPAN吸収量の増加が関与していることが示唆された。気孔を開かせる効果のある薬剤フシコクシンを葉にスプレー処理し気孔を開孔させてPANにさらしても、耐性の葉は開孔とは無関係に耐性を示した(Fig.4)。耐性の葉は吸収したPANを解毒する機構を獲得している可能性が示唆された。

PAN 障害が起こる一因であると考えられている活性酸素に対する耐性を比較した。葉内でスーパーオキシド(O2-)を発生させる薬剤であるパラコートを処理したリーフディスクにおけるクロロフィル a の分解は、感受性の葉の方が顕著であった(Fig.5)。この結果から、活性酸素耐性の獲得がPAN耐性にも関与している可能性が示唆された。

<PAN障害における活性酸素の関与>

活性酸素がPAN障害の発生に関与している可能性を検証するため、活性酸素の発生を抑えることを試みた。PAN処理後のペチュニアを窒素通気装置に入れて嫌気条件下で培養したところ、PAN 障害はほぼ完全に抑制され(Fig.6)、活性酸素の生成が PAN 障害の発生に関与していることが示唆された。次に、PANにさらした葉を用いて、活性酸素のうちO2-と過酸化水素を染色により観察した。その結果、PAN処理した感受性の葉の葉肉細胞に、PAN障害に先立ってO2-を示す染色が見られた(Fig.7)。PAN障害が発生した後にはO2-はみられず、過酸化水素の染色がみられた(Fig.7)。耐性の葉には感受性の葉のようなPAN処理による活性酸素の増加はみられなかった。感受性の葉にのみ、葉肉細胞に活性酸素の蓄積が引き起こされたことから、感受性の葉と耐性の葉の活性酸素消去系に違いがあるのではないかと考えた。活性酸素消去系の主な酵素、スーパーオキシドジスムターゼ(SOD)、アスコルビン酸ペルオキシダーゼ(APX)、グルタチオンレダクターゼ(GR)、カタラーゼ(CAT)及び葉の総ペルオキシダーゼ(POX)の活性を測定したところ、耐性の葉において感受性の葉より高い活性がみられたのはSODとCAT、POXであった(Fig.8)。また、これらの酵素のうちでも耐性の葉のPOX活性が非常に高いことが明らかになった。

<PAN障害におけるエチレンの関与>

植物ホルモンのエチレンは、様々なストレス応答において障害の促進効果が報告されており、PAN障害におけるエチレンの効果にも興味が持たれる。PANにさらした葉から放出されたエチレンを経時的に測定した結果、PAN処理開始6-8 hから、障害発生(脱水)とほぼ並行してエチレン生成が始まることが示された(Fig.9)。クロロフィルの分解はエチレン生成の開始より約20h遅れて始まった。PANにさらした葉にエチレンの受容阻害剤ノルボルナジエン(NBD)を処理したところ、障害が抑制されたため、エチレンがPAN障害を促進する効果を持つことが示唆された(Fig.10)。

<まとめ>

本研究により、活性酸素とエチレンはどちらもPAN障害に関与していることが示された。しかし、活性酸素の蓄積とエチレン生成、及びPANによる被害症状の時間経過は独特であった。PAN障害の発生過程は、(1)可視障害発生に先立つO2-の蓄積、(2)脱水と並行して起こる過酸化水素の蓄積とエチレンの生成、(3)クロロフィルの分解 という少なくとも3つの段階に分かれていた。この結果から、O2-の蓄積は、直接的にはPANによる脱水の引き金とはならないことが示唆された。O2-から過酸化水素の蓄積への変化が障害発生のカギとなっていることが考えられる。脱水が発生するまでの過程としては、O2-と過酸化水素の反応により生成するOHラジカルの関与や、O2-による過敏感細胞死の誘導などが考えられるが、重なる検証が必要である。O2-と過酸化水素の蓄積に明確な時間差があったこと、また、エチレンの生成がオゾンや二酸化硫黄に対する反応と比べて非常に遅かったことなどは、今後、これらの物質それぞれの役割を解明するのに役立つであろう。

葉の成熟に伴うPAN感受性の変化 展開を始めた最も若い葉を1とし、若い方から古い方へ数えた葉の番号をleaf numberとした(A)。各1eaf numberのBLUE(●)とWHITE(○)の葉の生重量(B)とPAN障害による生重量の変化(C)を示した。leaf number 1〜3ではPAN耐性、leaf number 6〜9あたりでは感受性を示し、leaf number 11(BLUE)・14(WHITE)で再び耐性を示すようになった。

PAN障害発生部位の変化 PAN障害発生部位は、leaf numberにしたがって葉の先端から中央、基部へと移っていった。

気孔の発達 葉を3等分して先端と基部の表層を微分干渉顕微鏡で観察し、孔辺母細胞あるいは一対の孔辺細胞の間に気孔が形成されていない気孔装置をステージI(□)、気孔の見られる気孔装置をステージII(■)としてカウントし、ステージIの気孔とステージIIの気孔の比率を示した。ステージIIの増加は基部より先端の方が早く、PAN耐性から感受性に変わるleaf numberとステージIIの出現の間には相関がみられた。

気孔開度とPAN感受性・耐性との関係 ABAを処理して気孔の閉鎖を誘導した後にPANにさらすと、PAN感受性の葉の障害が抑制された。一方、開孔を誘導するフシコクシンを処理しても、PAN耐性の葉には障害が起こらなかった。赤い矢頭は障害の起きなかった耐性の葉を示す。

パラコート耐性の変化 活性酸素を生成する薬剤パラコートによるクロロフィルの分解は、BLUE(●)とWHITE(○)のどちらにおいてもPAN耐性の葉より感受性の葉の方が顕著であった。

嫌気条件によるPAN障害の抑制 PAN処理直後のペチュニアを窒素通気装置を用いて嫌気条件に置くと、PAN障害(ピンクの矢頭)が抑制された。N2:嫌気条件、PAN:PAN処理、N2+O2:窒素80%酸素20%

PAN処理による活性酸素の生成 PANにさらしたペチュニアの葉を用いて、B:NBT(ニトロブルーテトラゾリウム)によるスーパーオキシドの染色と、C:DAB(ジアミノベンジジン)による過酸化水素の染色を行なった。Aにはそれぞれの時間に対応した植物体の写真を示す。スーパーオキシドの存在を示す青い染色はPAN処理から2hですでにみられ、可視障害発生以降にはみられなくなっていた。過酸化水素による茶色の染色は可視障害発生以降の組織にみられた。Bar:50 μm

活性酸素消去系関連酵素の活性 APX(アスコルビン酸ペルオキシダーゼ)、GR(グルタチオンレダクターゼ)の活性はPAN感受性の葉において耐性の葉より高い値を示した。SOD(スーパーオキシドジスムターゼ)CAT(カタラーゼ)、POX(総ペルオキシダーゼ)の活性はPAN耐性の葉において高く、PAN感受性から耐性への変化に関与している可能性があるのはSOD、CAT、POXであると考えられる。〓A:1分間における吸光度変化

PAN処理によるエチレンの生成 エチレンの蓄積はPAN処理開始から6 h以降に顕著になった( )。この時間は可視障害の発生時間と一致していた。●:コントロール

PAN障害に対するNBD処理の影響 PAN処理後の葉にエチレンの受容阻害剤であるNBD(ノルボルナジエン)を処理すると、可視障害、生重量の減少、クロロフィルの減少が抑制された。PAN処理後に発生するエチレンは、PAN障害を促進していることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は3章からなり、第1章では葉の成熟に伴う大気汚染物質ペルオキシアセチルナイトレート(PAN)に対する感受性の変化と気孔の発達との関係について、第2章ではPAN障害における活性酸素の関与について、第3章ではPAN障害におけるエチレンの関与について述べられている。PANは、低濃度で植物に可視障害を引き起こす大気汚染物質であるにも関わらず、PAN障害に至るメカニズム及び植物の持つPAN障害からの防御機構はどちらも解明されていなかった。

論文提出者は、一つの植物個体の中でも葉によってPAN感受性が異なるという特徴を利用して、一個体の中でPAN感受性葉とPAN耐性葉の比較をすることによりPAN感受性のメカニズムを解明することができると考えた。第1章では、PAN感受性が高い植物として知られているPetunia hybrida Vilm.を実験材料として使用した解析から、ペチュニアの葉が成熟に伴ってPAN耐性から感受性へ、そして再び耐性へと変化することを示した。このような成熟に伴ったPAN感受性の変化をもたらす要因として、気孔からのPAN吸収量の変化に着目し、気孔の顕微鏡観察、及び気孔の開閉を引き起こす薬剤処理を行なった。それらの結果は、PAN耐性から感受性への変化には、気孔の発達によるPAN吸収量の増加が関与していること、感受性から耐性への変化は、吸収したPANを解毒する機能の獲得によってもたらされることを示唆した。また、PAN耐性を示す葉は活性酸素に対する耐性も高いことが明らかになった。そこで、次の第2章では、活性酸素がPAN障害の発生に関与している可能性を検証した。

第2章では、まず、PAN処理後の植物を、嫌気条件に置くことによって活性酸素の発生を抑えたときの障害発生について調べた。PAN処理を行なったペチュニアを嫌気条件下で培養したところ、PAN障害はほぼ完全に抑制され、活性酸素の生成がPAN障害の発生に関与していることが示唆された。次に、PANにさらした葉を用いて、染色による活性酸素の検出を行なった。PANによる可視障害はPAN処理開始後4〜8時間経過してから現われるが、PAN感受性の葉の葉肉細胞には、PAN障害に先立って活性酸素の一種であるO2-の蓄積が見られること、PAN障害が発生した後にはO2-はみられず、過酸化水素の蓄積がみられることを見出した。PAN感受性の葉にのみPAN処理によってこれらの活性酸素の蓄積が起こったため、感受性の葉と耐性の葉について、活性酸素を消去する主な酵素の活性を比較した。その結果、測定した5っの酵素のなかでペルオキシダーゼ活性が耐性の葉で非常に高く、PANに対する耐性がペルオキシダーゼによる活性酸素消去能の増大によってもたらされる可能性を見出した。

第3章では、活性酸素とともに様々なストレス応答に関与している植物ホルモンの一つエチレンがPAN障害にも関与しているかどうかについて解析した。PANにさらした葉では、障害発生(脱水)とほぼ同時にエチレン生成が始まることを示した。また、エチレンの受容阻害剤ノルボルナジェン (NBD) の処理によりPAN障害が抑制されることを明らかにし、エチレンがPAN障害を促進していることを示した。

以上のように、論文提出者は、葉の成熟に伴ったPAN感受性の変化が、気孔の発達によるPAN吸収量の変化と、ペルオキシダーゼによる活性酸素耐性の変化という2つの要因によって起こっている可能性を見出した。また、様々なストレスへの応答に関与している物質である活性酸素とエチレンが、どちらもPAN障害に関与していること、しかしながら、活性酸素の蓄積やエチレン生成が開始する時間などが他のストレスとは異なる独特のものであることを明らかにした。また、一般に反応性が高いと考えられているO2-が直接的にはPANによる障害の引き金とはならないことを示した。他の大気汚染物質であるオゾンや二酸化硫黄による障害では、活性酸素やエチレンの生成から障害にいたるまでの時間が短く、それぞれの物質による効果を区別して考えることが困難であったが、PAN障害の場合にO2-の蓄積が起こり始めてから少なくとも3時間は障害が現われなかったこと、O2-と過酸化水素の蓄積に明確な時間差があったこと、また、エチレンの生成がオゾンや二酸化硫黄に対する反応と比べて非常に遅かったことなどは、今後、これらの物質それぞれの役割を解明するのに役立つであろうと考えられる。

なお、本論文は大橋毅氏、田上優子氏、村上優理亜氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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