学位論文要旨



No 118563
著者(漢字)
著者(英字) MANUSTHIPAROM,CHAYANIS
著者(カナ) マヌチパロム,チャヤニス
標題(和) タイ・チャオプラヤ川流域における統合的水資源管理のための水文気候予測
標題(洋) HYDROCLIMATIC PREDICTION FOR INTEGRATED WATER RESOURCES MANAGEMENT IN THE CHAO PHRAYA RIVER BASIN IN THAILAND
報告番号 118563
報告番号 甲18563
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5582号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 沖,大幹
 東京大学 教授 小池,俊雄
 東京大学 教授 柴崎,亮介
 東京大学 助教授 楊,大文
 東京大学 助教授 堀田,昌英
 国連大学 上席研究員 Herath,A. S.
内容要旨 要旨を表示する

アジアモンスーン域に位置し農業従事者も多いタイは、水に関わる様々な災害に直面している。洪水、干魃、水質汚濁、その他水にまつわる問題はタイの多くの人々や環境に影響を与えている。その望まざる結果として人命や財産、ビジネス機会が失われたり、公衆の健康が心身共に損なわれたりしてしまっている。残念なことに、タイにおける水問題の深刻さと頻度は特にタイ最大の河川であるチャオプラヤ川流域において増大している。

著者はまず、この河川流域における水資源と水問題に関する基礎的な研究を行った。その結果、発生頻度や期間、影響する人間や地域、紛争、社会経済的な損失や将来展望を考えると、渇水がもっとも危機的な問題であることがわかった。当該流域で渇水が発生すると、通常では競合セクター間の優先順位が各セクターへの水の配分に適用される。しかしその実態は、権限を持つ水管理者の判断やユーザからのリクエストに応える形で、一貫性なく配分されることも多く、いくつかのセクターにとっては非効率的で非組織的な水配分になる。そこで、優先順位概念による水配分の平等性と効率性を確保するために、限られた水を分配するルールカーブを新たに作成した。このルールカーブは、様々な深刻度合いの渇水に対して公正で体系的な水配分を行うための標準的なガイドラインとなりうるものである。ここでの基本的な提案は、ルールカーブは常に優先順位と一体化しているべきであり、同じ優先順位を持つ水ユーザは平等に水供給を受けるべきであるということである。現実的には、商業経済的も追加的な因子として考慮可能である。また、平等という観点から、便益を失うユーザに対しての補償も考えなければいけない。さらに、水利用者に水節約と水利用効率向上の動機付けを与えるために、この研究では農民に対する固定料金ではなく、従量制も提案している。

持続性を実現するためには、水分配機構の改善の他に、別の戦略も講じられねばならない。水不足に対処する直接的な手法は水供給を増やし、需要を減らすことである。タイの経済危機状況下では水関連プロジェクトを推進することは困難であり、また、人口増大の状況下では水需要を減らすことも難しい。折衷案としては、農業や工業セクターにおける水生産性を上げたり、水道供給における非収水量を減らしたり、そして家庭における水消費スタイルを変化させることが考えられる。それに加えて、もし水文気候学的予測が充分に精確であれば、より適切な水資源管理が可能となると考えられる。しかし実際には、そうした予測の信頼性と品質が不充分であるため、水管理者は季節予測に依拠することはほとんどない。概念モデルや経験的モデルが季節予測精度の向上を試みているが、それらも一長一短がある。例えば概念モデルや物理的モデルは大量の入力データが必要ではあるが、物理現象を理解するには有益である。一方、経験的ないし統計的モデルは、利用可能な、従って限られたデータに依拠しているので現実のメカニズムを理解するのには不向きである。関連研究によると、非線型的な予測誤差の増大を引き起こす力学的不安定性のためこの地域のモデル化並びに予測は難しいとされ、物理的モデルによるアジアモンスーン域の季節予報精度は現在のところ充分ではない。そこで本研究では、エルニーニョ南方振動(ENSO)の地域の水文状況に対する影響と人工知能ネットワーク(ANN)により、水文気候状況の定量的な長期予測をタイに対して充分な精度で実現し、降雨・流出の長期予測手法の提案を試みた。

本論文の水文気候予測に関連する研究は4つに分けられている。最初に、チェンマイにおける雨量・流量がENSO指標のカテゴリごとにどの様な関係になっているかが調べられた。次に、ENSO指標と降雨量との1ヶ月〜3年間のラグ相関が調べられ、可能な予測期間、代表的予測因子、そしてモデル構成が吟味された。その結果、チェンマイにおける月降水量を1年前に予測する様なANNモデルが構築された。第3の部分で、多変量解析による月流量の長期予測手法も試され、より洗練されたANNによる統計モデルと比較された。そして最後に、予測結果の現実社会における潜在的な利用可能性に関して議論された。以下に各部分の詳細を述べる。

まず初めに、1960年から2000年の16地点の雨量計データ、2 地点の流量データ、南方振動指標(SOI)、そして全球SSTを収集し、チェンマイ県地点の雨量や流量に対するENSOの影響をエルニーニョ、ラニーニャのカテゴリごとのコンポジットにより評価した。その結果、チェンマイ地点の平年以下、平年以上の雨量並びに流量はそれぞれエルニーニョ並びにラニーニャとそれぞれ関係していることが明らかとなった。エルニーニョ年とラニーニャ年の雨量、流量の差はENSOイベント年の5月から6月頃にピークとなる。それらの関係の有意性をStudentのt検定で検討したところ、カテゴリ分析と一致した。また、流量には雨量よりもより有意な差が見られた。これは、良く知られたENSOと流量との強い相関関係に対応している。また、月雨量と全球海面水温(とSOI)とには3年ラグに対しても有意な相関が見出されたため、雨量の長期予測は可能であるとの立場から研究を進めた。

次に、後方伝播(BP)アルゴリズムを伴うANNが一年後の月雨量を予測するために導入された。まず、70%以上の有効指数という充分利用可能な誤差で予測できることがわかった。追加実験により、5つの領域ではなく、3つの領域のSSTデータを利用することで多くの場合良好な予測が得られることもわかった。こうした問題に対しては、しばしば他の研究で結論される様にANNは単なる"ブラックボックス"ではなく、表層の影に潜む、物理的性質、特に非常に感度が強いか弱い入力に関する情報をANNはもたらしてくれる。ちなみに、この場合特に強い感度を持っていたのはアンダマン海のSST、最も弱い感度を持っていたのはその地点の雨量そのものの時系列であった。雨の季節変化がチェンマイ地点と似ている場合には、ANNの学習過程を経ずとも、同じANNに対するアップデート過程のみで充分な予測が可能であることもわかった。

第3の部分では多変量解析(MR)とANNの2種類の統計的手法がチェンマイの月流量予測ツールとして適用・比較された。結果としては、ANNの方がMRよりも予測精度に関しては優れていた。その一因は、キャリブレーションデータに対してオーバーフィッティングをしてしまうことである。すなわち、観測値には本来的に誤差が含まれているのに、MRでは本来の変動因子間の関係づけよりは、そうした誤差に伴う変動にまでも合うようにモデルパラメータを調整してしまっている。また、多くの変数が使われた際の独立変数間の相互相関も一因と考えられる。ANNがMRに比べて有利な点として、ANNはどんな線型、非線型システムもモデル化可能であり、関連するどんな時系列データも特定の月等を考慮せずに取り込める点があげられる。従って、MRの場合に比べてサンプルサイズは12倍大きくなっている。充分な量のトレーニングデータと適切なトレーニングにより、ANNモデルは充分信頼のおける流量予測を行うことができる。具体的には、74%の効率と充分な精度で12ヶ月先の流量を予測することが可能となった。

これら3つのパートでは、タイにおける雨量や流量に対するENSOの影響をより深く理解し、ENSO指標とSSTとを用いた長期降雨予測の可能性を示唆し、そして実際に、チャオプラヤ川流域の1年先の降雨量・流量を充分満足の行く精度で定量的に予測した。これまでANNモデリングによる予測は数ヵ月から数年といった長期ではなく、短時間、実時間の予測に用いられてきたため、本研究の成果を従来の研究と比較することは難しい。しかしながら、他の地域に対して他の手法による降雨量・流量の長期予測に関する研究に比較すると、精度と予測時間の面で非常に改善されている。降雨量予測に関しては、本研究の様な好ましい結果が得られたのには次の2つの理由が考えられる。ひとつには本研究ではいくつかの適切な降雨の予測因子、すなわちSOIや特定地域のSSTそしてその場の雨量が用いられたことである。従来の研究では上記の内のいくつかのみが利用されていて、それでは雨の変動を捉えるのには充分ではなかった。もう一つの要因は、充分な物理的関連を理解するのは難しいにしても、複雑な問題を計算的に安定して取り扱えるモデルを用いたことである。充分な複雑性を持つANNでは、従来の多くの統計的な手法の様な仮定をおかずとも、任意の精度で任意の関数を近似することができる。ANNモデルによる本研究の予測結果は、他のよりENSOとの相関が高い地域における研究の成果にも匹敵しており、ANNモデリングが降雨の長期予測に重要な役割を果たすものと考えられる。

最後の4つ目の部分では、予測情報の現実社会での潜在的利用可能性が検討されている。長期予測ではなく、予測結果を用いて算定した場合の穀物用水量がどの程度異なるか、という面から予測情報の有用性が検討され、平年と大きく雨量が異なる場合には、用水量予測値も大きく異なり、予測情報が重要な役割を果たす可能性があることが示唆された。

現在では、ENSOイベントは約1年前に予測可能である。もしENSO予測精度が充分に高ければ、水文気候条件はさらに事前に予測可能と期待される。この先導的本研究を除いては、タイにおける長期予測に関する研究はない。本研究によって示された長期予測手法は、現在のタイにおける水資源マネジメントの仕組みを改良できる可能性がある。

審査要旨 要旨を表示する

タイはアジアモンスーン域に属し、世界でも有数の農作物輸出国である。熱帯というイメージからは水資源量も多いと思われがちであるが、年降水量は日本よりも概して少なく、しかも5月〜10月の南西モンスーンの期間中にそのかなりの分が降ってしまうため、乾季の耕作は灌漑に頼らざるを得ない。そして、その乾季作の作付面積は水資源がどの程度利用可能であるかに依存し、ひいてはそれが乾季作物の収穫量に大きく影響を及ぼす、という風に、水資源問題が食料生産、国としての輸出量に密接に関連しているのである。

本論文は、そうした背景の下、論文提出者の母国であるタイの水資源問題に真っ向から取り組み、よりよい水資源マネジメントのあり方を提言したものである。

筆者は、洪水、干魃、水質汚濁、その他の水問題の中で、発生頻度や影響の深刻さを考えると、渇水がもっとも深刻な問題であることを抽出している。そして、現状の水配分システムが、本来定められた競合セクター間の優先順位に従っておらず、いくつかのセクターにとっては、非効率的で非組織的な水配分になっていたことを指摘した上で、優先順位概念による水配分の平等性と効率性を確保しつつ限られた水を分配するルールカーブを新たに作成、提案している。このルールカーブの採用により、様々な深刻度合いの渇水に対して公正で体系的な水配分が可能になるのみならず、経済評価的にも全体として利益が向上することが示されている。

さらに、現状の問題点として、水文気候学的予測の精度が十分ではないため、実際の配分計画に用いられることがほとんどなく、結果として不適切な水資源配分になってしまっている点が指摘された。

関連研究によると、非線型的な予測誤差の増大を引き起こす力学的不安定性のため、この地域の特に降水量に関する物理的数値モデルによるならびに予測は難しく、季節予報精度は、現在のところ充分ではない。そこで本研究では、エルニーニョ南方振動(ENSO)が当該地域に及ぼす影響を利用して、人工知能ネットワーク(ANN)により、タイの水文気候状況の定量的な長期予測が試みられた。

まず、チェンマイにおける雨量・、流量がENSO指標のカテゴリーごとにどの様な関係になっているかが調べられた。その結果、チェンマイ地点の平年以下、平年以上の雨量並びに流量はそれぞれエルニーニョ並びにラニーニャとそれぞれ関係していることが明らかとなった。エルニーニョ年とラニーニャ年の雨量、流量の差はENSOイベント年の5月から6月頃にピークとなる。それらの差の有意性をStudentのt検定で検討したところ、カテゴリー分析と一致した。また、流量には雨量よりもより有意な差が見られた。これは、良く知られたENSOと流量との強い相関関係に対応している。また、月雨量と全球海面水温(とSOI)とには3年ラグに対しても有意な相関が見出されたため、雨量の長期予測は可能であるとの立場から研究が進められた。

次に、ENSO指標と降雨量との1ヶ月〜3年間のラグ相関が調べられ、可能な予測期間、代表的な予測因子、そしてモデル構成が吟味された。その結果を利用して、チェンマイにおける月降水量を1年前に予測する様な後方伝播(BP)アルゴリズムを伴うANNが一年後の月雨量を予測するために導入され、70%以上の有効指数という充分利用可能な誤差で予測できることがわかった。

さらに、多変量解析による月流量の長期予測手法も試され、より洗練されたANNによる統計モデルと比較された。結果としては、ANNの方がMRよりも予測精度に関しては優れていて、ANNを用いた場合には、74%の効率と、充分な精度で12ヶ月先の流量を予測することが可能であることが示された。

最後に、予測結果の現実社会における潜在的な利用可能性に関して議論された。長期間の平均的な気候値ではなく、予測結果を用いて算定した場合に穀物用水量がどの程度異なるか、という面から予測情報の有用性が検討され、平年と大きく雨量が異なる場合には、用水量予測値も大きく異なり、予測情報が重要な役割を果たす可能性があることが示唆された。

現在では、ENSOイベントは約1年前に予測可能である。もしENSO予測精度が充分に高ければ、水文気候条件はさらに事前に予測可能と期待される。この先導的本研究を除いては、タイにおける長期予測に関する研究はない。本研究によって示された長期予測手法は、現在のタイにおける水資源マネジメントの仕組みを改良できる可能性がある。

これまで、本研究の様な長期の水文予測にANNが用いられたことはなく、本研究の様に高い精度で1年後までの月雨量が予測可能であることが示されたのは極めて画期的である。しかも、そうした高精度予測が得られる場合、水資源マネジメントにどのようにすれば生かすことができるか、という点にまできちんと包括的に取り組んでいる点は、ややもすれば予測計算の精度向上で終わりがちな当該分野の研究としては極めて稀であり、高く評価される。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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