学位論文要旨



No 118571
著者(漢字) 北村,久美
著者(英字)
著者(カナ) キタムラ,クミ
標題(和) 環境における情報との出会いに関する研究
標題(洋)
報告番号 118571
報告番号 甲18571
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5590号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
 東京大学 助教授 千葉,学
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

本研究では、建築設計のひとつの手法として建築図面などで表現されていない環境の情報を記述することに着目した。図面では記述できない使い手の行為・行動を記述することによる、使い手側の視点に立った環境デザイン理論の構築の必要性を感じるからである。これらは決して平面図や立面図にとってかわるものではなく、設計の過程の思考ツールとしてのあり方を目指すものである。それは使い手の環境での体験を環境とのかかわりを記述することによって実現すると考える。

そこで、本研究では行為・行動と環境の情報とのかかわりからなる生態学的事象を「きっかけ」と「かまえ」という概念をもちいて記述する環境デザイン理論を構築することを目的とする。本研究では環境と動物は相補的であるという生態心理学的観点に基づき 、分析・考察を進める。そのため行為の「記述」に着目している。生態心理学的視点からみると、行為は原理的に周囲と関連しているので、行為・行動の「記述」は重要な意味を持つ。その記述を利用することにより、使い手の行為から見出した情報を実際のデザインへ発展させるための方法になり得ると思われる。また、行為を記述するためには充分な観察が欠かせない。使い手の行為を主体にしたデザインの先駆的な手法として、ローレンス・ハルプリンやフィリップ・シールの提案がある。これらは行為分析からデザインをおこす手法であり、両者は独自の行為の記述法に基づいた理論を展開している。

研究の概要

1章では本研究の背景と目的を提示するとともに既往研究の知見を整理した。2章では本研究全体を通じてテーマとした「きっかけ」と「かまえ」とを定義し、相互の関係について仮説を提示した。3章においては今回、回遊式庭園を研究対象とするための検討・考察を行った。4章では回遊式庭園における被験者の1年間に渡る行為・行動の記録を整理、報告し、5章では、描画・発話・観察による総合的分析を通じて「きっかけ」と「かまえ」の具体的、実態的な変化の様子等を考察し明らかにした。6章では、以上の調査検討を踏まえ、特に「かまえ」の変化に着目し、「きっかけ」、「かまえ」、ヒトの行為・行動が相互に連動しながら、新たな「かまえ」が構築されていくプロセス(経過)に関するモデルを検討した。これにより、「きっかけ」と「かまえ」は、それぞれ変化しつつ、相互に深く関与し、影響を与えながら、その関係をダイナミックに変化させること、並びにその中でヒトは行為・行動を積み重ねていくことによって新たな「かまえ」を獲得する、さらにその新たな「かまえ」をもって環境の探索を続けるというモデルを示すことができた。最後に7章では研究の総括と展望を述べた。

調査結果の概要

先に提示した仮説を検証するための調査の概要を報告する。

調査の方法は行動観察である。こどもと共に行動する母親という二組の行動単位(母+ベビーカー、母+幼児)を被験者に、一年を通して月に一度(2001年11月-2002年11月)都立小石川後楽園(東京都文京区)を自由に散策してもらった(約60分)。被験者には小型ビデオカメラを頭部に装着、実験者は被験者の追跡しビデオカメラで撮影をするという方法で被験者の行為・行動を記録した。調査対象地で過ごした後、インタビュー調査をおこない、さらに体験した場所を描画してもらった(約15-30分)。

調査の結果、ビデオ撮影により被験者の見ている方向・動線・姿勢・発話・利用された場所などが記録され、インタビュー調査・被験者の描画からは被験者の印象に残った場所や出来事、行為・行動のてがかりとしたものが明らかになった。発話の分析を通して観察からは判断できない被験者の思考、感情などが明らかになり、被験者の行為・行動がより明確になった。さらに行為・行動とスケッチマップの関係を分析することにより、本研究の目的である「建築図面などで表現されていない情報」を見いだすことができた。

「かまえ」構築のプロセスに関する試論

被験者A(母+ベビーカー)、B(母+子)について、環境の情報としての「きっかけ」、心身の状態としての「かまえ」、そして、これらの中での行為・行動について、それぞれの関係や変化の様子を観察してきた。本章では、この調査結果をもとに、特に「かまえ」の変化に着目して、ヒトが環境の情報とのかかわり、体験の蓄積、新たな発見や、社会・身体・精神的変化によって、いかにその「かまえ」を変化させ、自らの「かまえ」を構築していくプロセスについて考察すべく追加の調査をおこなった。

今回の調査研究により、同じヒトでも環境とのかかわりのプロセス(経過)を経て、あるいは社会的・身体的・精神的条件の変化から、環境に臨む「かまえ」は短期的または長期的に変化することが明らかになった。この変化は、実際の行為・行動の体験や新たな発見、その他の場所での生活体験等が相互に関係し影響しあって発生するものである。また「かまえ」の変化は比較的不連続に起こり、フェーズの切替点があることも明らかになった。この切替の要因についても環境の体験や発見による行為・行動の変化や子の成長等、社会的・身体的・精神的要因の変化等によることも観察された。このような変化は一定の体験回数を経ることにより収束に向かうのが一般的と考えられるが、環境が十分に豊かな情報を内包していれば、すなわち「おく」をもっていれば、何らかの契機によってヒトの「かまえ」が大きく変化し、さらに新しい情報の発見がされる可能性はゼロにはならないだろう。

以上のように、本研究において「きっかけ」と「かまえ」は、それぞれ変化しつつ、相互に深く関与し、影響を与えながら、その関係をダイナミックに変化させ、その中でヒトは行為・行動を積み重ねていくことにより、新たな「かまえ」を獲得し、さらにその新たな「かまえ」をもって、環境の探索を続けるというモデルを示すことができた。

考察-得られた知見の適用

あらゆる人間-環境系への適用

今回の研究では、回遊式庭園を対象として選定したが、本研究の提示する視点は庭園に限定されるものではなく、都市空間、公共施設、住宅等、あらゆる環境とヒトのかかわりに適用されるものである。また、被験者についても、今回は母と子の行為・行動を対象としたが、これについても、母子に限らず、複数のヒトがひとつの行動単位となって環境とかかわり、体験や発見をしていく際の、ひとつのパターンとして捉えることができる。ヒトはその社会的特性から、多くの場合、複数のヒトによって構成される行動単位で環境とのかかわりをもつことから、このようなアプローチは、現実の人間-環境系の研究において、有意義であると考えられる。

奥行きある環境デザイン

環境デザインに対して提示する視点としては、本研究で得られたヒトの「かまえ」の構築プロセスを視野に入れたデザインをおこなうということが考えられる。対象となる環境を初めて訪れたヒトにもわかりやすく、すぐに構造を把握できるという空間構造の明快さ=リジビリティも、ユニバーサルな環境デザインの視点から勿論重要なことではある。しかし、体験と発見を重ねることによって段階的に「おく」からさまざまな情報が引き出され、リピーターにも新たな発見と提供し、受容するような、奥行きと豊かさのある環境デザインをおこなうことが望ましいだろう。「おく」に豊富な情報が積層されていれば、個々人がもつ「かまえ」をもって、多様な環境の情報とヒトとの出会いが生まれる可能性が高まる。「おく」にある情報との出会いは、行為・行動のプロセス(経過)を経ることによっても起こるだろうし、別の要因による「かまえ」の変化によっても発見される可能性がある。

このような視点は、一回限りではなく長く使われ愛される環境を創出するためには欠かせない視点だろう。

視点の移動によるアプローチ

豊かな環境デザインのためには、環境を構築する側のデザイナーの視点とともに、このように「かまえ」を変化させつつ環境に臨むユーザーの視点も取り込み、さらには、環境やヒトの変化までを見込んだ、複数の視点からのアプローチが重要であると考えられる。

横山らの研究によれば、Thomas and Tsalimi(1988)によって行われた、一定の型の描画順序にとらわれていた子供が異なる描画順序の方略を獲得した結果、より歪みの小さい描画をするに至ったという実験結果を示しながら、非専門家が住宅平面の高度な「図式」を獲得し、間取り設計のスキルを向上させるためには、それぞれがとらわれている方略を変換させるための知識が必要であるとしている。また、宮宇地によるシールの記述法の有効性として、視点の移動が教育に役立つとの提言がされている 。

これらの研究成果は、さまざまな視点から環境にアプローチすることにより、ヒトと環境との新たな関わりを創出し、より豊かな環境のデザインを実現させる可能性があることを示唆している。

今後の課題

本研究では、主にヒトの内的な「かまえ」と「きっかけ」に関する考察を行ってきたが、実際の環境とヒトとのかかわりにおいては、ヒトの知覚システムや姿勢等、フィジカルな要素も重要な意味をもつと考えられる。このような視点から、今後の課題のひとつとして、ヒトの内的な「かまえ」と、その「かまえ」の身体的なあらわれとしての知覚システムや姿勢とのかかわりをより明確にしていくことが考えられる。

さらには、このような視点で得られた環境とヒトとのかかわりあいの知見を、実際の環境デザインに反映させるための、より具体的、実際的な分析・記述法やデザイン法等を開拓していくことが望まれる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、行為・行動と環境の情報とのかかわりからなる生態学的事象を「きっかけ」と「かまえ」という概念をもちいて記述する環境デザイン理論を構築することを目的としている。それは、建築図面などでは記述できない使い手の行為・行動を記述することによる、使い手側の視点に立った環境デザイン理論である。そのため、環境と動物は相補的であるという生態心理学的観点に基づき、行為の「記述」に着目している。

本研究は7章からなる。

1章では本研究の背景と目的を提示するとともに既往研究の知見を整理した。2章ではテーマとした「きっかけ」と「かまえ」とを定義し、相互の関係について仮説を提示した。3章では回遊式庭園を研究対象とするための検討・考察を行った。4章では回遊式庭園における被験者の1年間に渡る行為・行動の記録を整理、報告し、5章では、描画・発話・観察による総合的分析を通じて「きっかけ」と「かまえ」の具体的、実態的な変化の様子等を考察し明らかにした。6章では、以上の調査検討を踏まえ、特に「かまえ」の変化に着目し、「きっかけ」、「かまえ」、ヒトの行為・行動が相互に連動しながら、新たな「かまえ」が構築されていくプロセスに関するモデルを検討した。これにより、「きっかけ」と「かまえ」は、それぞれ変化しつつ、相互に深く関与し、影響を与えながら、その関係をダイナミックに変化させること、並びにその中でヒトは行為・行動を積み重ねていくことによって新たな「かまえ」を獲得する、さらにその新たな「かまえ」をもって環境の探索を続けるというモデルを示した。最後に7章で研究の総括と展望を述べている。

調査の方法は行動観察である。こどもと共に行動する母親という二組の行動単位を被験者に、一年を通して月に一度、都立小石川後楽園を自由に散策してもらった。ビデオ撮影により被験者の見ている方向・動線・姿勢・発話・利用された場所などが記録され、インタビュー調査・被験者の描画からは被験者の印象に残った場所や出来事、行為・行動のてがかりとしたものが明らかになった。発話の分析を通して観察からは判断できない被験者の思考、感情などが明らかになり、被験者の行為・行動がより明確になった。さらに行為・行動とスケッチマップの関係を分析することにより、本研究の目的である「建築図面などで表現されていない情報」を見いだすことができた。環境の情報としての「きっかけ」、心身の状態としての「かまえ」、そして、これらの中での行為・行動について、それぞれの関係や変化の様子が観察された。

同じヒトでも環境とのかかわりのプロセスを経て、あるいは社会的・身体的・精神的条件の変化から、環境に臨む「かまえ」は短期的または長期的に変化する。この変化は、実際の行為・行動の体験や新たな発見、その他の場所での生活体験等が相互に関係し影響しあって発生する。また「かまえ」の変化は比較的不連続に起こり、フェーズの切替点があることも明らかになった。この切替の要因についても環境の体験や発見による行為・行動の変化や子の成長等、社会的・身体的・精神的要因の変化等によることも観察された。このような変化は、環境が十分に豊かな情報を内包していれば、すなわち「おく」をもっていれば、何らかの契機によってヒトの「かまえ」が大きく変化し、さらに新しい情報の発見がされる可能性があることを示した。

本研究において「きっかけ」と「かまえ」は、それぞれ変化しつつ、相互に深く関与し、影響を与えながら、その関係をダイナミックに変化させ、その中でヒトは行為・行動を積み重ねていくことにより、新たな「かまえ」を獲得し、さらにその新たな「かまえ」をもって、環境の探索を続けるというモデルを示すことができた。

豊かな環境デザインのためには、デザイナーの視点とともに、このように「かまえ」を変化させつつ環境に臨むユーザーの視点も取り込み、さらには、環境やヒトの変化までを見込んだ、複数の視点からのアプローチが重要であり、それにより、ヒトと環境との新たな関わりを創出し、より豊かな環境のデザインを実現させる可能性があることを示した。

以上のように本論文では、使い手の環境とのかかわりを記述することにより、行為・行動と環境の情報とのかかわりを「きっかけ」と「かまえ」という概念をもちいて記述することに成功した。またそのために試みた観察などの調査分析の方法の可能性を明らかにした。

本研究では、図面などでは表現できない環境の情報を記述し、設計の過程の思考ツールとして、使い手側の視点に立った環境デザイン理論の構築への一歩を得ることができたと位置づけられ、それは建築計画学の発展に大いなる寄与を行うものである。

よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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