学位論文要旨



No 118607
著者(漢字) 須山,英悟
著者(英字)
著者(カナ) スヤマ,エイゴ
標題(和) 細胞運動,浸潤、転移関連遺伝子の解析
標題(洋) Analyses of genes involved in cell migration, tumor invasion and metastasis
報告番号 118607
報告番号 甲18607
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5626号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多比良,和誠
 東京大学 教授 渡辺,公網
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 後藤,由季子
 東京大学 講師 鈴木,勉
内容要旨 要旨を表示する

がん細胞は様々な遺伝子変異が蓄積して悪性癌に至る。その変化には細胞増殖異常、分化異常、細胞の不死化、血管新生能の獲得など様々あるが、治療にとって最も深刻な変化の1つが“転移能の獲得”である。転移はがん細胞が元の腫瘍から離脱し、血管などをつたって体の他の部位に移動し新たな腫瘍を形成することで、これまでに様々な転移に関与する因子・遺伝子がその治療標的候補としてあげられてきた。しかしながらがん細胞特異的な治療標的となる決定的な因子はまだ得られていないのが現状であり、また、がん転移は様々なステップが複合して成立する複雑な現象であり、その分子メカニズムにはまだ明らかにすべき事象も残されている。

DNAの2重らせんモデルが James Watson と Franscis Click によって発表されてから50年が経過した。そして生命科学の発展における1つの集大成とも言うべき国際的なヒトゲノムプロジェクトにより解読不能な1%を除くヒトゲノムのDNA塩基配列の解読完了が宣言された。現時点で3万2615個とも推定されるヒト遺伝子について、生体内での機能やそのネットワークを高効率に解析することが今後の生命科学研究において重要な鍵となる。すなわち疾病などに関わるいわゆる“キー遺伝子”をピックアップする技術、また遺伝子機能の迅速で効率の良い解析技術は、人が抱える様々な問題の解決糸口を提起する事ができる可能性をも秘めている。ハンマーヘッド型リボザイム(以下リボザイム)はRNA切断活性を持つRNA分子であり、基質となる(切断される)RNA分子と結合し、切断する。触媒部位と基質認識部位からなるリボザイムはその基質認識部位と基質RNAが塩基対形成により結合するために、様々な配列を持ったRNAの中から基質と成りうるRNAを配列特異的に切断することが可能である。この特性からリボザイムを細胞内で働かせて目的遺伝子のmRNAを特異的に切断させ、タンパク質へ翻訳させないことにより遺伝子発現を抑制させる試みが行われ成功を収めてきた。特異的遺伝子発現抑制を目的とする場合、目的遺伝子にあわせてリボザイム基質認識部位の配列を設計するが、この部位をランダム化したリボザイムのプールは、様々な配列を持つ遺伝子mRNAに対応するライブラリーとなり得る。ライブラリーを細胞群に作用させれば、様々な遺伝子がそれぞれ特異的に発現抑制された細胞集団を作り出すことが可能となり、その細胞群中に何らかの表現型が変化した細胞が出現した場合、表現型の変化を指標にそのリボザイムを単離することが出来る。また、得られたリボザイムの配列から、標的とする遺伝子の断片的な配列情報を手にすることになる。これはリボザイムの基質結合部位の配列が標的遺伝子のmRNAと相補的な配列をとるからである。この遺伝子の配列情報を元にDNAデータベースを検索して、リボザイムの標的遺伝子=細胞の表現型の変化に関わる遺伝子の同定が可能となる。本研究では主にリボザイムライブラリーを用いてがん転移に関与する遺伝子の探索を行い、治療標的因子の同定も視野に入れたがん転移の分子メカニズム及びその遺伝子ネットワークのー端を明らかにすることを目的とした。

がん転移が成立する際、特にがん細胞が基底膜や周辺組織などへの浸潤の際に細胞運動は必須なステップの1つである。これまでの研究から、高転移性の細胞は運動性が顕著に上昇している事が知られており、運動性を低下させれば転移も抑制されることが期待できる。さらに、細胞増殖や細胞死(アポトーシス)などを治療標的にするよりも正常細胞への毒性が低いという利点も予想される。そこでリボザイムライブラリーを用いて、細胞運動に関与する遺伝子の同定を試みた。運動性の高い悪性ヒト由来 HT1080 fibrosarcoma をリボザイムライブラリーで処理した後、ケモタキシスアッセイを行った。ケモタキシスアッセイは細胞運動能の測定に頻用される実験法1つであり小孔を有するファイルターを装着した2層培養槽(ボイデンチャンバー) を用いたものである。通常ではHT1080細胞は誘因物質にひかれて培養槽上層からフィルター小孔を通過して下層へと移動を行う。ここで細胞運動・下層への移動を阻害するリボザイム、すなわち細胞運動に働く遺伝子を標的とするリボザイムを導入された細胞は移動できずに上層に残る。この残存細胞を回収し、リボザイムを単離した。さらに得られたリボザイムの塩基配列を決定し、DNAデータベースを利用してその標的遺伝子を同定した。細胞運動には細胞骨格フィラメントの1つであるアクチンの再構築が必要であるが、解析の結果、アクチン骨格制御に関与することが知られているROCK1遺伝子に対するリボザイムなどが同定された。ROCK1に対するリボザイムは、ROCK1と相同性の高い遺伝子であるROCK2の発現に影響することなくROCK1の発現を抑制し、HT1080細胞の in vitro での運動、浸潤を阻害したが細胞増殖は阻害しなかった。遺伝子同定のみならず、ライブラリーから得られたリボザイムを用いてこの様な機能解析も併せて行った。また、解析がなされていない機能未知の遺伝子を標的とする細胞運動阻害リボザイムも得られている。この様な同定された候補遺伝子の機能解析を詳細に行うことで、細胞運動における遺伝子ネットワークのー端が明らかとなり、また癌細胞の運動を抑制することにより転移抑制につながる治療標的因子を示唆することが出来ると期待している。

浸潤はがん細胞が周囲の正常組織へと侵入することで、悪性腫瘍の最も特徴的な現象の1つである。小孔の開いたフィルターで仕切られた2層培養槽を用いるケモインベージョンアッセイは、細胞の浸潤能を測定する擬似的な実験として頻用されている。フィルターに細胞外マトリックス(ECM)成分をコートし、細胞を上層に、誘因物質を下層に注入すると細胞はケモタキシス(誘因物質を感知し、その方向へ移動する現象) により下層へと向かうが、移動の際にECMを分解し小孔を通過する必要があり、この過程が擬似的な浸潤ステップとなる。ECMのコート量をある程度増してやると低浸潤性細胞であるマウス線維芽細胞細胞株NIH3T3はECMのバリアを突破できずに上層にとどまる。そこでNIH3T3細胞をリボザイムライブラリーで処理し、アッセイを行った。リボザイムの効果により“浸潤”に成功し下層へと移動した(浸潤を抑制する遺伝子の発現を阻害することにより、細胞の浸潤を昂進させるリボザイムが導入された)細胞からリボザイムを単離した。そしてデータベース検索によりリボザイムの標的となった浸潤関連遺伝子同定を行った。その1例として Gem GTPase を標的とするリボザイムが同定された。 Gem GTPase は細胞運動に働くアクチン骨格制御系のRho-ROCK経路において負に働く因子であることが最近の研究から明らかになった遺伝子である。細胞運動は浸潤の際に必須な現象であり、実際に Gem GTPase を標的とするリボザイムは細胞運動を昂進することによりNIH3T3細胞の浸潤能を促進していることが明らかとなった。上記の細胞運動関連遺伝子の探索においてもROCK1を標的とするリボザイムが得られたことも併せ考えると、Rho-ROCK経路は低分子阻害剤や関与する遺伝子の発現を調節することによって人為的に癌細胞の振る舞いを制御しやすい経路であることが予想される。また Gem GTPase を標的とするリボザイムとは逆に細胞の運動性に影響を与えずに浸潤能を促進するリボザイムなど興味深いものも得られている。この他既知遺伝子、また機能未知の遺伝子を含めて複数の遺伝子が浸潤に関与する候補としてあげられた。さらにリボザイムライブラリーを用いたがん転移関連遺伝子の探索として、マウス個体を用いた経尾静脈転移実験モデルを利用して低転移性がん細胞の転移能を亢進するリボザイムの単離、及びその標的遺伝子を同定する試み、すなわちより vivo に近い状態での癌転移関連遺伝子の探索も併せて行った。

リボザイムライブラリーを用いた遺伝子探索は、研究対象の細胞にライブラリーを効率よく導入することができ、また効果のあるリボザイムの影響による細胞の表現型の変化を検出し、変化した細胞を単離することが出来れば原理的にどのような実験系においても適用可能であると考えられる。がん細胞は悪性化、転移能の獲得までに様々な悪性形質を獲得し、その表現型を変化させる。汎用性の高いリボザイムライブラリーによる遺伝子探索は多様なアプローチが必要とされる癌研究において有用なツールとなりうると思われる。本研究で明らかとなった知見と様々な癌研究によって得られた知見を照らしあわせることによってがん転移の分子メカニズム及びその遺伝子ネットワークに対する理解が深まると期待している。

審査要旨 要旨を表示する

申請者である須山英悟君は博士研究において細胞運動、浸潤、転移関連遺伝子の解析を行った。この研究は主に、生命現象において重要な機能を果たしている遺伝子の迅速かつ効率の良い探索法として開発されてきたランダム化したリボザイムライブラリーを用いて、がん、特にがん転移の複雑な分子メカニズムとその分子ネットワークに働く遺伝子の同定を目指したものである。またがん転移に対して、その治療及び新薬開発に向けた良い標的となり得る遺伝子の発見/同定も視野に入れており、非常に意義深い研究であると高く評価することが出来る。

その研究背景として、まずリボザイムライブラリーはハンマーヘッド型リボザイムと呼ばれるRNA酵素をランダム化したライブラリーで、国際的なヒトゲノムプロジェクトにおいて明らかとなった3万個とも推定される膨大な数のヒト遺伝子の機能を生体(個体レベル/細胞レベル共に)において網羅的に、迅速に、そして高効率に解析する技術、また疾病などに関わるいわゆる有用な遺伝子をピックアップする技術として開発されてきた。同君はこのリボザイムライブラリーを用いてがん転移に関与する遺伝子の探索を行っているが、がん転移はがん治療にとって最も深刻な現象の1つで、がん細胞がもともとの腫瘍から離脱した後、血管やリンパ管をつたって体の他の部位に移動し、そこで新たな腫瘍を形成することである。がん転移は非常に深刻な問題であるために盛んに研究が行われ、これまでに転移に関与する様々な因子・遺伝子が同定され、その治療標的候補としてあげられた。しかしながら決定的な因子はまだ得られていないのが現状で、また、がん転移は腫瘍からの離脱、移動、新たな部位での生着と言った様々なステップが複合して初めて成立する複雑な現象であり、その分子メカニズムにはまだ明らかにすべき点が残されている。この様な背景で、同君はがん転移が成立する際の必須なステップの1つである細胞運動(移動)や、がん細胞が周囲の正常組織へと侵入することであり悪性腫瘍の最も特徴的な現象の1つである浸潤などに着目し、がん転移研究で利用されるケモタキシスアッセイ、インベージョンアッセイ、経尾静脈転移実験モデルといった実験法とリボザイムライブラリーを用いて遺伝子同定のための実験系を考案した。そしてそれら組み立てた実験系により細胞運動、浸潤またがん転移に関与する遺伝子としてROCK1遺伝子、Gem GTPase遺伝子、Stim1遺伝子などの同定に成功を収めている。そればかりでなく、特にROCK1遺伝子については、悪性がん細胞でその発現を抑制することによって細胞運動や浸潤を阻害する一方でその増殖には影響を与えないという機能解析結果から、そのがん転移の治療標的因子としての有効性を検討し、その考察を行っている。この様に本論文は複雑ながん転移分子メカニズムに働く遺伝子を明らかにしたのみならず、がん転移抑制に向けた治療標的因子の同定につながる非常に重要な結果を示しているものである。

またこれらの成果は、何を研究対象とすべきか判断する力、その対象に適した実験系を注意深く組み立てて実行する能力と技術、また研究を展開させていく上で必要な情報収集能力、考察力、想像力を同君が有していることを端的に示している。また、口頭による試験では、構成や説明に工夫した非常に理解しやすい研究発表を行い、質疑おいても明快に応答しさらに研究における問題点と今後の展望にまで言及するプレゼンテーションスキルを発揮した。この点についても高く評価することが出来ると考えられる。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク