学位論文要旨



No 118610
著者(漢字) 上岡,玲子
著者(英字)
著者(カナ) ウエオカ,リョウコ
標題(和) ウェアラブルコンピュータによる主観的体験記憶の研究
標題(洋)
報告番号 118610
報告番号 甲18610
学位授与日 2003.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5629号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣瀬,通孝
 東京大学 教授 安田,浩
 東京大学 教授 伊福部,達
 東京大学 教授 堀,浩一
 東京大学 助教授 広田,光一
内容要旨 要旨を表示する

本研究は,ウェアラブルコンピュータのアプリケーションとして,人間の主観的体験を記録するための方式の提案を行う.現在の開発の早さで情報機器の小型化,高性能化が進むことで,近い将来,身体に常に装着することができる情報機器である,ウェアラブルコンピュータが,日常生活の中に浸透することは容易に想像できる.それは現在の眼鏡や時計,もしくは携帯電話のような存在で,それなしでは自身の日常生活の妨げとなるようなデバイスとなるだろう.ウェアラブルコンピュータはその使用形態の特徴から,現存する小型機器と違って,その入力インターフェースは皆無に近いと予測できる.それは,人間の意識的入力なしに情報機器が自動的に処理を行うようになることを意味する.そのような,これまで存在しなかった情報機器の形態が浸透することで,全く新しい情報が人間と情報機器との関わりを通して生成されることが予測される.

そうした新しい情報として最も注目すべきことの一つに,装着者自身やそれを取り巻く状況の記録情報が挙げられる.装着者の行動を妨げることなく,あますことなく記録できるシステムは現存する記録デバイスの中では存在しない.

すなわち,人間と行動を常に共にするウェアラブルコンピュータという道具の実現により,今まで記録されてこなかった人間の行動を客観的に記録し,人間理解を新しい視点で深めることができると考えられる.

それは,個人個人の体験や状態,またその時々の環境など,それぞれが体験として身体で感じる情報を,客観的かつ高密度に記録することで,個人が心的に形成するリアリティを捉えることさえ可能にするかもしれない.

従来,リアリティという言葉が想像させる意味は,現実の空間に在る客観的な環境や状況であることが多かった.しかしながら,人間が捉える真のリアリティとは,現実の環境から得られた情報を元に主観的に解釈した後の心的表象であると考えられる.すなわち,リアリティは,同じ空間,同じ時間を共有した人同士であっても,その人の属性,バックグラウンド,状態等で全く違う現実として印象付けられる.

そうした状況を客観的に記録することで,今まで内的表象でしかなかった,自分自身の体験を客観的な視点で見つめなおすことができるようになる.さらに,今まで人間が時間の経過により忘れてきた,もしくは無意識な行動から,本人も全く意識しないで行っていた事柄を再認識することも可能になる.

本研究ではそうした一人一人が持つ主観的な現実を取得するためのアプローチとして,ウェアラブルコンピュータによる体験記録という方式を提案する.この新しい道具を通し,人間の生活空間の中で,自然な行動形態を記録することで,今まで取得されることのなかった新しい情報が生み出されるだろう.そこから,人間自身についての新しい知見を導き出すことが本論文の目的である.

本論文では以下の構成で議論をすすめる.

研究の目的

第一章では本研究の目的を述べる.ウェアラブルコンピュータという新しい情報機器がもたらす可能性を人間自身についての知見を深めるための道具として注目し,新たな人間内観手法として,ウェアラブルコンピュータの提案をする.

研究の背景

第二章では研究の背景として,ウェアラブルコンピュータの歴史の概略を述べる.ウェアラブルコンピュータは,アメリカのマサチューセッツ工科大学の研究チームが1990年代に始めた研究で,デバイスの小型化にともない,いつでもどこでもアクセスが可能な装着型の情報機器が可能になったことを示し,それにともなう新しいインターフェースのあり方やアプリケーションの研究を行ってきた.現在のウェアラブルコンピュータの研究領域は,ハードウェアデバイス,インターフェース,アプリケーションの3種に分類できる.

次に研究の背景として,本研究の成果が社会的に与える影響について,その応用領域を示すことで議論する.主観的体験を記録することの社会的要請は大きく,知識としての活用や,言語化できない情報の伝達,個人の生活背景を含めた消費者行動分析のためのツール,産業現場での作業支援,また,失敗要因を探り創造活動を支援するための道具として等,人間が関与する状況の様々な場面で活用することが期待できる.

関連研究

第三章では本研究の関連研究として,ウェアラブルコンピュータの研究の中で,特に装着者側の情報を取得する研究をとりあげる.はじめに情報取得の目的として,人の行動を予測して情報機器が必要な情報を提示したり人に次の行動を即すための研究を行っている例を3件とりあげる.取得する情報は,カメラからの画像やGlobal Positioning System(GPS)からの位置情報,人間の関節に装着した加速度センサからの情報など多岐にわたる.それらの情報を特定のアルゴリズムに適用し学習させ人間の行動が予測できるかを検討している.次に人間の生体信号を取得する研究をとりあげる.これは人間の内的な情報を客観的情報として取得して,機器の制御を行うものである.生体情報として,皮膚伝導の抵抗値の違いをモニタリングし,驚き,興奮状態を検出している.次に屋外活動の中にウェアラブルコンピュータを適用したケーススタディの一例として,考古学で行われる発掘作業の過程や発掘品の記録作業支援としてウェアラブルコンピュータの利用をとりあげる.次に人間の人生記録を目的とし,その記録の要約方式についての研究をとりあげる.要約方式としては,生体情報から興味を推測し要約する方法や,画像から頭部の動き情報を推測し,静止状態から要約する方法,頭部の姿勢角度から動きを推測し要約する方法などがある.次に備忘録としての日常映像記録と画像情報の抽出方式についての研究をとりあげる.そして,最後に短期記憶の補助システムとして,装着者の動きや場所に応じてその次の行動を提示するウェアラブルコンピュータの研究をとりあげる.

主観的体験の定義と記録すべき要素について

第四章では,本論で議論する主観的体験の定義と記録すべき要素について議論する.主観的体験は,人間と環境との相互作用の過程を人間側からとらえたものとし,相互作用により生じる個人の身体的変化も含め主観的体験と定義する.このように定義された主観的体験を客観的に記録するための要素を決定するために,人間の主観をつかさどる記憶構造のうち,特に自らの体験についての記憶であるエピソード記憶の特性に注目した.エピソード記憶とはその生成段階に,自らの感覚が大きく影響を与えていることが大きな特徴である.そうした感覚と類似した情報を記録するには,人間が持つ5感を考慮した記録要素を含むことが必要である.そこで,人間の5感を客観的に記録可能な要素として変換する.その際,物事を客観的に伝達するために必要とされる5W1Hと一般に総称される構造に注目し,提案を行う.

体験記録装置の評価実験

第五章では,前章で取りあげた提案内容について,具体的にプロトタイプデバイスを作成し実験を行うことで評価した.具体的には,人間の意識的な興味の入力を合わせた視聴覚および生体情報記録方式を用い,意識的な記録の特性や情報量について評価した.また,人間の取得する感覚的情報を考慮したセンサを装着した体験記録の実験を行った.

体験記録装置の実装

第六章では第五章での評価をふまえ,体験記録装置を3種類に大別し実装する.3種類の大別については,人間の内観手法として,自分自身,環境,他者の視点という点にそれぞれ重点をおいた方式で装置を実装した.自分自身の内観システムについては,自らの内的な情報を含め,自分では気づかない無意識な情報や感覚情報を記録する仕組みである.環境情報重視型の内観システムについては,周辺視野を含む人間の視野角を記録するシステムとして実装し,特に環境の変化による自らの行動を内観するようなシステムとした.他者の視点を取り入れたシステムとしては,遠隔地にいる他者が装着者のカメラの1つをコントロールすることで,記録する視覚情報の一部に他者の視点を含める.これは,自らの体験の一部を他者と共有することで,第三者の目を通した体験をも同時に再生することで,自身の体験を新しい視点で内観することができる.

ケーススタディ

第七章では実装した体験装置を実際に使用したフィールドワークのケーススタディから,ウェアラブルコンピュータが現場で使用されることで得られる知見について議論する.

考察

第八章では本研究の考察および今後の課題について論じる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,個人の日常的体験を記録するための方式を提案することを目的としている.方式の提案として,ウェアラブルコンピュータを使用し,装着者の内的情報から環境との相互作用により生成される情報まで記録するシステムを挙げている.はじめに個人の体験を記録するために必要とされる記録要素について5つの要素(Emotion, Location, Vision, Audio, Ambience)を仮説としてとりあげ,5つの要素を記録するための,具体的なセンサーを選出し,3種類の体験記録実験を行い,記録される情報が個人の体験を記録できているか,その妥当性や意味解釈について議論している.次に,体験記録実験をふまえ,要素間の関係性や潜在的に含まれる情報について議論の後,2種類の体験記録のためのウェアラブルコンピュータのシステムを提案している.ケーススタディより,提案したシステムから取得される体験についての知見を得て,記録された人間の体験についての議論を行っている.

本論文は8章で構成されており,第1章では,研究の目的を述べている.第2章では研究の背景として,ウェアラブルコンピュータの歴史の概略を述べている.次に研究の背景として,本研究の成果が社会的に与える影響について,その応用領域を示すことで議論している.

第3章では本研究の関連研究として,ウェアラブルコンピュータの研究の中で,特に装着者側の情報を取得する研究をとりあげている.

次に第4章では,本論で議論する「主観的体験の記録」の定義と記録すべき要素について議論している.主観的体験の記録とは,日常の中で体験者自身が自らの感覚を使い取得するであろう情報を記録し,それを外在化させることと定義している.また,体験は,人間と環境との相互作用の過程を人間側からとらえたものとし,相互作用により生じる個人の身体的変化も含め,体験と定義している.すなわち,このように定義された体験を記録するための要素を決定するために,人間の体験の記憶であるエピソード記憶の特性に注目した.エピソード記憶とはその生成段階に,自らの感覚が大きく影響を与えていることが大きな特徴であり,そうした感覚と類似した情報を記録するために,人間が持つ5感を考慮した記録要素を含むことが必要であると述べている.すなわち,環境の情報から,それを受ける人間の感覚情報,さらにその情報から変容する人間の内的情報までを要素として記録することを主観的体験の記録の要素とし,具体的に,Emotion, Location, Vision, Audio, Ambienceの5つの要素を挙げている.

第5章では,仮説としてあげた5つの記録すべき要素の具体的センサーを選出し評価実験を行っている.具体的には,人間の意識的な興味の入力を合わせた視聴覚および生体情報記録方式を用い,意識的な記録の特性や情報量について評価している.また,人間の取得する感覚的情報を考慮したセンサーを装着した体験記録の実験を行っている.

第6章では,はじめに第5章での結果および考察をふまえ,体験の記録要素である5つの要素の関係性について議論している.ここでは,5つの要素は個別に存在するのではなく,ある要素の中に別の要素が包含し,その組み合わせによりさらに別の要素へと拡張している可能性があることを述べられている.そのような要素間の組み合わせを2種類考案し,主観的体験記録のためのウェアラブルコンピュータの提案を行っている.具体的には,「5要素統合型体験記録システム」と「空間要素統合型体験記録システム」の提案を行っている.

第7章では実装した体験装置を使用したケーススタディについての議論を行っている.ケーススタディでは,提案したそれぞれの装置の特性を考慮した実験を行っている.5要素統合型体験記録システムでは装着者の状態の変化が記録できるように屋外,屋内での作業を伴う体験を記録し,また,空間要素統合型体験記録システムでは,空間的に異なる特徴をもつ2つの街並みを歩き,その体験の相違を知見として得ている.

第8章では,ウェアラブルコンピュータを用いた主観的体験の記録についてのまとめを述べている.はじめに,提案した5つの要素で主観的体験記録は実現できたのかを整理している.5要素統合型体験記録システムでは,体験者さえも意識することができない潜在的な状態をストレスや体感温度などで記録することができ,それを視聴覚情報と統合させることで個人の体験を,内面状態をふくめ記録することができ,空間要素統合型体験記録システムでは,視覚情報を中心に記録を行い,周辺視野を含めた記録を行うことで,体験の空間的状況から導き出される体験者の興味が明らかに認められたことが示されている.また,こうした主観的体験記録のシステムの展望について議論している.

以上のように本論文では,ウェアラブルコンピュータという新しいシステムを用い,人間の主観的体験記録を行い,これまで記録されることのなかった主観について焦点をあてることで,システム自体の新規性を示すとともに,社会的な意義を示すことができたという点で大きな功績があると考えられる.

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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