学位論文要旨



No 118629
著者(漢字) 橋本,幸彦
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ユキヒコ
標題(和) 秩父山地におけるツキノワグマの生態学的研究 : 特に食性と生息地の保全について
標題(洋) An ecological study on the Asiatic black bear in the Chichibu Mountains : with special reference to food habits and habitat conservation
報告番号 118629
報告番号 甲18629
学位授与日 2003.10.06
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2656号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 助教授 高槻,成紀
 東京大学 助教授 宮下,直
 東京大学 教授 古田,公人
 森林総合研究所 グループ長 大井,徹
内容要旨 要旨を表示する

ツキノワグマ (Ursus thibetanus) はアジアに分布するクマ科の1種で,他のクマ類同様絶滅が心配されている(Servheen 1991).幸い我が国では東北地方を中心に相当数のツキノワグマが生息しているが,過剰な狩猟圧と生息地である落葉広葉樹林の伐採によって減少し,西日本や東北地方の一部では6つの集団が絶滅危惧個体群に指定された(環境庁1991,1998).ツキノワグマの保全には個体数管理と生息地保全の2つが不可欠である.個体数管理については,社会的にもクマ類の保護の必要性が認識され,狩猟者側からも捕獲自粛がおこなわれるなど,全体に個体数維持の動きがあるので比較的問題は小さい.しかし森林の改変は現在も続いており,とくに太平洋側では森林が縮小傾向にある.環境省や林野庁を中心にツキノワグマ保全の動きはあり,生息地保全については「緑の回廊構想」などのアイデアはあるが,いずれも具体性を欠いている.その最大の原因はツキノワグマの生態が不明なことで,これまで各地で散発的な調査は行われてきたが,それらを生息地の保全を指向して総合的に調査されたことがなかつた.このような背景をふまえて,本研究ではツキノワグマの生態を生息地保全に焦点をあてて解明し,これに基づいて保全のための提言をすることを目的とした.

野外調査は埼玉県の東京大学秩父演習林においておこなった.本調査地はツキノワグマの密度が比較的高く,原生的な森林を含む落葉広葉樹林が卓越しており,森林に関する情報も蓄積している.

1993年から1994年に野外で採集した193個の糞をもちいてツキノワグマの食性を調査したところ,春には草本類・樹木の葉,夏には漿果,膜翅目昆虫,草本類・木本の葉など多様な食物,秋には堅果(ナラ類 Quercus spp., ブナ類 Fagus spp.)が重要であった.ツキノワグマは夏や秋には高質の食物を利用するが、春は比較的低質な食物を多量に摂食することが示唆された。これまでの他地域の結果と比較すると、春と秋については同じ傾向が見られたが、夏には主要採食カテゴリーに地域変異が見られた.

ツキノワグマは他の高緯度地域に生息するクマ同様,大型哺乳類としては特異な冬眠を行うことを大きな特徴とする (Nelson et a1. 1983).そのために秋に良質の食物を大量に摂取する生理的な変化が起きるものと予測されるが,これを実証的に示した研究はない.これらの点を研究する初期のステップとして,飼育下のメス個体の体重を5月から12月まで測定し、季節変化のパターンの生態的な意義を考察した.メスの体重変化には3つの時期がみられた.第1期は5月(46.2±4.4kg,平均±標準偏差)から8月(57.3±3.5kg)までで、体重は漸増した(増加率5〜10%).第2期は8月から11月(59.4±4.3kg)までで,体重は安定していた(増加率5%未満).第3期は11月から12月(68.4±4.7kg)で、体重は急増した(増加率10%以上).第1期の体重増加は,冬眠からの回復と飼育下における運動不足によるもの,第3期の体重の急増は,冬眠するための適応と考察した.そこで飼育条件下の7頭のメスについて春から秋までの体重変化を調査した.その結果,5〜8月の回復期,8〜11月の安定期,11月以降の急増期の3フェイズが認められ,秋に体重が急増することが示された.このことは,秋にツキノワグマにとって脂肪蓄積が可能な良質な食物が多量に存在することが必要であることを示している.

このように秋の食物は特別に重要であり,これが堅果類(ブナ科のドングリ類)であることがわかっている(橋本・高槻1997).堅果類は澱粉質に富み,摂取したあと脂肪に変換しやすい.しかし堅果類は結実に大きな年次変動があるため(金沢 1982, 前田 1988, 今田ほか1990),ツキノワグマの秋の食性はその影響を受けることが予測される.そこで5年間の秋の食性を糞分析法によって調べた.その結果,5年間とも堅果類は重要な食物であり、そのうち4年はミズナラが主食であったが,1年はクリ,他の1年はマタタビ属(Actinidia spp.)の漿果が重要であった.これら,堅果凶作年の代替食は生息地内では少量した存在しないが,長期的には重要な意味をもっていることが示された.

食物の分布状態やその量はツキノワグマの行動圏利用に影響するものと予測される.そこでラジオテレメトリー法によって2頭のメスの行動圏利用の季節変化を調査したところ,春に3km2前後であったが,夏に10km2前後と最大になり,秋に再び1.5km2程度に縮小した.一方,森林の植生調査から,春の新葉は落葉広葉樹林に広く分布したが,夏の主要食物であった漿果類を生産する樹種は細い木が分散しており,秋の主要食物である堅果を生産する樹種は太い木が連続的に分布していることから,行動圏サイズの季節変化はこれら主要食物の分布でよく説明できた.

これらの結果と従来のツキノワグマの生態学と森林生態学の知見をもとに,ツキノワグマの保全のためには,落葉広葉樹が連続的に存在すること,その落葉広葉樹林には堅果を結実するブナ科が優占するだけでなく,それらの凶作年に代替食となりうるクリや漿果類を結実する樹種が生育していること,場所によっては昆虫類が生息することが必要であることを指摘した.またツキノワグマの保護区を設置する上では,行動圏が最大になる夏の行動圏面積を基準にすることが重要であることを提言した.ツキノワグマの生態学的研究において,食性,行動圏利用,生息地の森林などについて統合的に取り組み,しかも5年間継続した研究は本研究が初めてのものである.

審査要旨 要旨を表示する

ツキノワグマ (Ursus thibetanus) はアジアに分布するクマ科の1種で,他のクマ類同様絶滅が危惧されている.幸い我が国では東北地方を中心に相当数のツキノワグマが生息しているが,近年過剰な狩猟圧と森林の伐採によって減少し,西日本や東北地方の一部では6つの集団が絶滅危惧個体群に指定されている.ツキノワグマの保全には生息地である森林の管理が非常に重要な意味をもつにもかかわらず,これまでのツキノワグマの生息地保全計画等は漠然と自然林の保護を推奨するなど具体性が乏しく,ツキノワグマの将来は予断を許さない.その最大の原因はツキノワグマの生態が不明なことであり,これまでは各地で散発的な調査が行われてきたにすぎない.このような背景から,本研究ではツキノワグマの生態,特に生息地の食物供給,食性,栄養要求,行動圏利用,繁殖などの項目を有機的に関連させて解明し,これに基づいて生息地保全のための提言をすることを目的とした.

調査は埼玉県の東京大学秩父演習林でおこなった.ここはツキノワグマの密度が比較的高く,原生的な森林を含む落葉広葉樹林が卓越しており,森林に関する情報も蓄積しているため,このような調査に適している.

ツキノワグマの食性は糞分析法によって分析し,春には樹木の葉,夏には漿果,膜翅目昆虫など多様な食物,秋には堅果(ナラ類,ブナ類)が重要であることを示した.これはこれまでの他地域の結果をほぼ支持するものであった.

ツキノワグマは冬眠をすることが知られている.そのために秋にエネルギーとなる脂肪を蓄積するために栄養要求が高まるものと予測されるが,これを実証的に示した研究はない.そこでほぼ飽食条件で飼育した7頭のメスの春から秋までの体重を測定した.体重には5〜8月の回復期,9〜11月の安定期,12月の急増期の3フェーズが認められた.これにより,秋にツキノワグマの栄養要求が大きくなると考えられる.

このように秋の食物はツキノワグマにとって特別に重要であり,その主体はブナ科の堅果類であった.堅果類は澱粉質と脂肪に富み,摂取したあと脂肪に変換しやすい.しかし堅果類は結実に大きな年次変動があるため,ツキノワグマの秋の食性はその影響を受けることが予測される.そこで5年間の秋の食性を調べた.その結果,5年間のうち3年はミズナラが最も多く利用されており,重要な食物であることがわかった.これに対して,これまで日本海側ではブナが重要とされており,この違いは森林の樹種構成の違いと考えられた.また堅果凶作年のうち1年はクリ,他の1年はマタタビ属などの漿果など,生息地内では少量しか存在しないが栄養価の高い代替食が重要であった

また5年間にわたる秋の堅果の結実とツキノワグマの繁殖との関係を調べ,秩父山地ではミズナラの豊作年の翌年には泌乳個体(出産個体)が増加する傾向がみられたこと,さらに4年分の有害獣駆除された個体の年齢データから,日本海側においてもブナの豊作年に産まれた個体数が有意に増加したことを示した.これらのことから堅果類の豊凶はクマの繁殖に重要な影響を与えていることが示唆された.

食物の分布状態やその量はツキノワグマの行動圏利用に影響するものと予測される.そこでラジオテレメトリー法によって2頭のメスの行動圏の季節変化を調査したところ,春には2km2前後であったが,夏に15km2前後と最大になり,秋に再び1km2程度に縮小した.一方,森林の調査から,春の新葉は落葉広葉樹林に広く分布したが,夏の主要食物であった漿果は少量が分散しており,秋の主要食物である堅果は大量に連続的に分布していたことから,行動圏サイズの季節変化はこれら主要食物の分布で説明できた.

これらの結果と従来のツキノワグマの生態学と森林生態学の知見をもとに,ツキノワグマの保全のためには,秋にブナ科の堅果が豊富に生産される落葉広葉樹が連続的に存在すること,その落葉広葉樹林にはそれらの凶作年に代替食となりうるクリや漿果類を結実する多様な樹種が生育していることが必要であることを指摘した.

以上,本論文は適切な保全が必要とされているツキノワグマのうち,太平洋側の落葉広葉樹林帯に生息する個体群の生態を,食性を中心に行動圏などとともに明らかにし,ブナ科の堅果の結実変動がツキノワグマのメスの繁殖に影響していることを初めて示した.そしてこれらに基づいて,その生息地を保全する上では堅果を生産する落葉広葉樹林が不可欠であること,その森林には堅果凶作年の代替食物が存在する多様性が必要であることなど,具体的な提言をした.これらの成果は応用動物科学や保全生物学に貢献するところが少なくない.よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

UTokyo Repositoryリンク