学位論文要旨



No 118637
著者(漢字) 小寺,敦
著者(英字)
著者(カナ) コテラ,アツシ
標題(和) 先秦家族關係史料の新研究
標題(洋)
報告番号 118637
報告番号 甲18637
学位授与日 2003.10.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第420号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平勢,隆郎
 東京大学 助教授 池澤,優
 東京大学 助教授 大西,克也
 東洋文化研究所 助教授 橋本,秀美
 秋田大学 教授 石川,三佐男
内容要旨 要旨を表示する

先秦時代における家族の如き人間生活の在り方は、經學的な觀點からは倫理道徳的秩序の基礎として、唯物史觀等の所謂社會構成體史觀では上部構造に影響を與える下部構造にあたるものとして、人類學・民俗學では當該時代の社會風俗研究の中心課題として扱われてきた。問題關心は研究者の立場によりそれぞれ異なるが、いずれも當該分野を重要かつ基礎的な研究對象としてきたことでは共通する。家族とは、研究者や研究對象により、表す範圍にばらつきがあり、實際のところはかなり曖昧な概念ではあるが、通常、最も身近で最小の人間集團の單位にあたる。從って、過去の家族について議論することは、その者の歴史認識に直結する意味を持ち續けてきたし、また過去のあらゆる事象の研究に對して影響を及ぼすことなのである。このように家族研究は人文・社會科學において極めて重要な一分野を構成し、先秦時代の家族はその家族研究の一分野である。また所謂「傳統的」な家族倫理の根據とされる經書は、成書年代はともかくとして、内容的にはいずれも先秦時代の要素を含んでいるとされ、その思想は現代日本の家族觀に大きな影響を與えている。すなわち先秦時代の家族研究は、日本の家族研究とも大きな關連性をもつのである。

その研究の基礎となるのは、當該時代の傳存文獻や出土史料である。出土史料はその分量の少なさと出土地域・年代の偏りのために補助的に利用され、傳存文獻が中心として扱われてきた。先秦家族史においては、『左傳』は春秋時代、『詩』は西周から春秋時代以前を解明する史料として、漢代以後の注釋による研究が進められつつ盛んに用いられてきた。だがそれらが古文系の經典であり成書事情が不明瞭であったため、古來、今文系の學派によりしばしば僞書として攻撃されてきた。近代に入ると、今文學の流れを汲む所謂「疑古派」により、清朝考證學の傳統と歐米の近代的な學問的方法とによる文獻批判がなされ、古典籍の本文とその注釋の間に違いがあるという指摘もなされた。前近代の先秦家族研究は漢代以後の概念に引きずられていたことになる。これは今日でも參照すべき見解であるが、傳存文獻を僞書と斷定する際間々強引な部分がみられ、今世紀に入ると僞書とされてきた書籍が出土史料として發見されるようになった。ために一種の反動として今日中國大陸の一部にみられるように、先秦古典籍の記事を無批判に史實として利用しようとする動きがみられるまでになった。『左傳』や『詩』もこのような流れの中で、體系だった史料批判が行われずにきたのである。先秦家族史研究もまた多くの場合、他の中國古代史の各分野と同様、傳存文獻の内容を一定程度信頼することを前提として行われてきた。史料に對ずる一種の思考停止である。そのため先秦時代家族の議論は、ともすれば論者の都合のよいよう恣意的な史料解釋が行われがちであった。そして一般に先秦家族史は、それら自體相當曖昧な概念である「宗法制」の崩壊とそれに代わる「家父長制」の成立の時代として位置づけられてきたのであった。これは史料を分析する方法論を缺いていたことによるところが大きい。

そうした状況下で、近年、鶴間和幸、平〓隆郎、藤田勝久のように先秦・秦漢の史料に對し、體系的に史料批判を展開してそれらの成立状況を解明し、ひいては當該時代に對する歴史觀を一變させる研究が次々に現れた。鶴間和幸は『史記』や漢代畫像石など、平〓隆郎は『左傳』などの戰國文獻、藤田勝久は『史記』を扱った。先秦家族史の研究は各氏が檢討した傳存文獻に依據するところが大きい。從って以上の研究成果は、先秦家族史にも影響を與えるところが少なくないと考えられる。更に近年、中國大陸における新出出土史料は増大の一途をたどり、それが先秦家族史にも大きな影響を與えつつある。そこで本論文では、先秦家族史の重要史料である『左傳』を中心に、それ以外の傳存文獻や出土史料もあわせて檢討した。そうした史料の家族關係部分について、尾形勇や松丸道雄らは「政治性」による作爲を指摘する。平〓隆郎は戰國中期において「戰國的正統觀」ともいうべき複數の正統が競い合い、その中から後に經書と稱されるようになったものが成書されたとする。古典籍の編纂作業において、こうした政治性・正統觀が影響を及ぼした可能性が考えられる。先秦家族制の議論は無意識の中にそれらの觀念に影響されていることが想定される。その影響を排する方法として、小倉芳彦にその客觀性から利用され、その後平〓隆郎によって修正され、未だ實證部分で批判のなされていない『左傳』の内容分類を使用することにした。そして『左傳』の家族關係部分を洗い直すことを手始めに、先秦家族關係史料の再檢討を開始した。その順序は、まず『左傳』をはじめとする春秋三傳、續いて『左傳』と出土史料、最後に『左傳』に引用された『詩』である。

序章。先秦時代婚姻・家族史の先行研究を整理し、日本では加藤常賢を畫期とし、その後研究は個別化・細分化して停滞を迎えることになった。その一方、中國においては文革後、朱鳳瀚らにみられるようにその研究は進展したものの、提示される見解には多様性が不足していることを述べた。そして、日中双方の研究は、近年女性のあり方に注意が払われるようになったことにおいて共通し、また同時に、成書の事情が未だ十分に明らかにされていない傳存文獻を根據としていることを指摘した。そこで先學の中、宇都木章らの系譜史料、尾形勇の姓の政治性、松丸道雄の宗法における政治性の議論を繼承しつつ、新たに先秦家族關係史料の批判的再檢討を行わなければならないとした。

家族研究には様々な課題があるが、戰國時代の列國の正統觀が最も強く現れるのは、血縁原理を反映する系譜關係史料である。田齊が陳、韓が晉の公室、魏が姫姓の血統を引くというように、彼らは、自己の王權の正當性の根據の1つを周代の王や諸侯の血統によっているからである。傳存史料における系譜關係史料の中では、『春秋』三傳の婚姻關係記事が數量的にも多く扱いやすい。そこでまず、檢討對象を先秦時代家族研究の最重要史料の1つである『春秋』三傳の婚姻記事に絞った。そして、個々の婚姻記事に對するそれらの評價から、戰國時代の列國の正統觀の反映としての三傳編纂の傾向を、『左傳』の内容分類を利用して探ることにした。その結果、平〓隆郎の春秋三傳成書を檢證する結果を伴いつつ、『左傳』の家族關係記事が戰國中期の正統觀の影響を受けており、春秋時代以前の家族の實態を解明するには、戰國中期の思想を反映している部分を取り除く必要があることを明らかにした。このことは、從來の先秦家族史研究について抜本的な見直しが必要であることを意味する。

『左傳』のような傳存文獻の記事は、どの部分が材料とされた傳承の古い部分を残しているかが判別されねばならない。そこで、傳存文獻と同時代史料である出土史料の女性關係記事を比較し、傳存文獻の史料的性格・信用性を明確にしようとした。そして、傳存文獻の婚姻記事には出土史料と共通し、時代を遡って議論し得る部分と、戰國中期の王權正統觀の影響を受けた新しい部分とがあり、傳存文獻における時代の層を正しく辨別することによって春秋時代以前の家族を明らかにすることが可能であるとした。それから、家族關係列國金文に關する檢討結果は、從來の編年をはじめとする金文に關する議論が、『左傳』など傳存文獻の記事の影響を受けている可能性を示すものともなった。こうした出土史料についても從來の議論を整理した上で再檢討を行う必要があるといえる。

『詩』に關しては、白川靜、松本雅明、目加田誠らの先學による體系的な研究があるとはいえ、成立時期を始め、その史料的性格全般について未だに定説といえるものがない。それにもかかわらず多くの場合、『詩』各篇の成立を西周から春秋時代におくことを前提とし、その内容をもとに西周から春秋時代の社會を復元しようとする試みが進められている。確かに『詩』には西周金文に類似した表現がみられるなど、その成立の古さを示唆する部分があるが、それだけで成立年代を議論することは後代における表現の再利用を考えれば不安が殘る。とはいえ『詩』そのものには、『左傳』紀年關係史料のように成立年代を直接知る手掛かりがあまりない。そこで第1章における『左傳』の分析方法・結果を利用してそこに引用される『詩』を檢討し、『詩』の成立事情に關する考察を進めた。そして『詩』が中原を含む北および秦を含む西の地域で成立し、楚を含む南の地域に傳播していったことを論じた。更にここで提示された『詩』の成立と伝播が文字の擴大と軌を一にしている可能性も示した。

以上、先秦家族史の再構築を行う上の基礎作業として、先秦家族關係史料の新たな檢討を行った。先秦家族の基礎概念については加藤常賢や江頭廣、史料の政治性に對する觀點は尾形勇や宇都木章、史料の分析手法は平〓隆郎、『詩』と文字の關係については白川靜の影響と刺激を受けた。本論文ではこれら分野ごとで個別に行われていた議論を家族史のもとに統合する結果となった。そして本論文の方法論的基礎である『左傳』の内容分類は、家族史の側面からも有効であることが檢證された。それから『左傳』・列國金文・『詩』という先秦家族の基礎史料の成立に戰國中期が畫期となる可能性が認められた。同様に先秦家族制度についてもこの時代が畫期となることが想定された。この問題を更に詰めるには金文や『詩』の包括的・直接的檢討が不可缺である。今後の課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

中国の春秋戦国時代は、未曾有の社会変動を経験した。そのため、この時代に関する研究の一つの醍醐味は、その社会変動の有り様にいかなるメスを入れて取り組むかにある。

ところが、従来の研究は、様々な伝統を背負っている。漢代訓古学以来宋明理学を含む二千年の経典解釈史に、近代以来の民族学や歴史学などが加わる。加藤常賢によって、民俗学や歴史学の方法が総合的に議論された後、研究は個別化、緻密化の過程をたどるが、近年の動向には、経典の伝統的解釈に根ざした方法への回帰も見られ、民族学や歴史学的方法の成果が見にくい状況に置かれる傾向もある。

提出者の研究は、民族学的、また歴史学的方法を研究史としてたどりつつ、『左伝』など先秦史料に見える宗法制の研究、女性に関する研究、民族学的研究それぞれの研究対象を丹念にたどり、その史料の成り立ちを検討して、金文銘文という考古遺物との比較を試みるなど、従来なされてこなかった方法的検討を行って、従来の研究が背負っている様々な伝統が今日に残す影響を論じる。金文の研究史において、さまざまな研究史的伝統がなまの形で関わった結果、考古遺物としての史料を伝統解釈学の立場から説明しているなどの指摘は、同時代史料として使われやすい材料の中に、後代の解釈という異質の材料が混入していることを示すもので、今後の研究に投げかける意味は大きい。

ただし、婚姻記事を『春秋』三伝にしぼって検討し、出土史料と伝存の文献を、女性関係記事にしぼって比較し、その成果を使って、『詩』の成立を扱うと特徴的にまとめられる今回の提出論文は、全体に、先秦家族史の再構築を行う上での基礎作業に、多くの時間を費やしている。それだけに、今後になげかけられた論点が多岐にわたって存在し、その意味では今後の課題をも多く内包するものである。

たとえば、『左伝』に引用された『詩』をてがかりに、自分の方法をも加味した『左伝』の検討を援用して、検討を進め、『詩』が中原を含む北および秦を含む西の地域で成立し、楚を含む南の地域に伝播していったことを時期にからめて論じている点などは、従来の見解と大きく相違するもので、提出者が家族史関係史料としての検討を企図した当初の目的をはるかに越えて、関連する研究史上の議論を惹起することが予想される。

一部検討の粗さを指摘されるところもなくはないが、方法自体の問題ではなく、全体的に丹念な検討がなされている。家族史関係史料を扱う上での基本的スタンスも好感がもたれた。さらに、今後の研究上の発展が、さまざまな方面で期待できそうである。よって、当審査委員会は、提出論文が、博士(文学)を授与するに値するとの結論にいたった。

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