学位論文要旨



No 118638
著者(漢字) 大川,玲子
著者(英字)
著者(カナ) オオカワ,レイコ
標題(和) クルアーンとその解釈書に見られる啓示と書物
標題(洋)
報告番号 118638
報告番号 甲18638
学位授与日 2003.10.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第421号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹下,政孝
 東京大学 助教授 柳橋,博之
 東京大学 助教授 市川,裕
 東洋文化研究所 教授 鎌田,繁
 東京大学 教授 杉田,英明
内容要旨 要旨を表示する

イスラームの聖典クルァーン(コーラン)は、預言者ムハンマドの口から発したアッラーの言葉である啓示が、書きとめられて書物(聖典)となったものである。つまりこの書物は口承から書承への移行を体験している。本論はこのことを踏まえ、クルアーンにおける啓示と書物(キターブkitab)に関する句やその解釈を分析し、この移行をイスラーム思想がどのように認識し理論化しているのかを明らかにするものである。またアラビア語の「カタバkataba」という単語は「書く」という意味と同時に「運命を予め定める」という意味を持つ。本論ではこのような言語の意味論的背景を有すこの宗教思想体系において、「書かれたもの」であることが独自の意味を持つことを明らかにし、イスラームの聖典観への新しい理解のあり方を示すことを目指した。

それにあたって主に用いた文献は、アラビア語のタフスィール(クルアーン解釈書)である。これらのなかには、伝承引用によって解釈を示すという方法論によるものと主に個人見解を用いて解釈するという方法論によるものがある。ここでは前者としてタバリー、イブン・カスィール、スユーティー、後者としてザマフシャリー、ラーズィー、バイダーウィーが著したスンナ派の主要なタフスィールを用いた。イスラームの聖典観研究はこれまでクルアーンのテキスト分析が中心であったが、本論はこれらのタフスィール文献を主たる資料として用い、中世(10-15世紀)のスンナ派の主要な見解のあり方を解明することを可能とした。さらにスンナ派の主要な歴史書やハディース集(ムハンマドの言行録)、クルアーン学文献といったアラビア語原典も適宜用いた。

まず第1章においては、クルアーンのテキスト成立をめぐる意味の検討とテキストに見られる啓示と「書くこと」や「書かれたもの」に関する概念分析を行い、次のことが明らかになった。

最も権威を認められているブハーリーのハディース集はクルァーンの結集に関する伝承を伝えている。それによれば、啓示は多少記録されてはいたが主に口頭で伝えられ、ムハンマドの死後に書物として結集された。だがこの口承から書承への移行という画期的な出来事の背景には、口承社会における「書くこと」への抵抗があった。そのクルアーンに描かれている啓示に関連する句は視覚的なビジョンとして始まる。次いで啓示は天使に「誦め」と命じられるという体験を経て聴覚的な言葉となり、そして天から下された「書かれたもの(=キターブ)」とし自己を認識するという変遷が示唆されている。またクルアーンにおいては筆や板などの筆記具も言及されるほか、頻繁に「キターブ」という用語が現れ、これは形而下と形而上の存在に分類できる。前者としては手紙などの一般的な「書かれたもの」に加え、地上に下された諸聖典(新旧約聖書やクルアーン)が意図される。後者としては、全ての事柄が含まれている「天の書」や人間の言行の「記録の書」を示唆すると思われる「キターブ」に加え、「定め」を意味すると考えられる抽象的な意味での「キターブ」の用法が見られる。このことはクルアーンにおける「カタバ」動詞の用法にも表れており、アッラーもしくは天使が「書く」という記述においては実際に書き記すという意味以外に、規則などを定めるという用法で用いられている。但しこれらの関連章句は不明瞭な内容であることが多い。

次に第2章では、タフスィール文献において、視覚から聴覚へと移行する啓示形態に関する不明瞭な句がいかに解釈されているのかを分析し、次のことが明らかになった。

まず視覚的なビジョンとして現れる啓示に関する句(53章3-11節)の解釈に焦点を当てた。解釈者たちはこの句を天使ジブリール(ガブリエル)がムハンマドにアッラーからの啓示を仲介して伝えたものとして解釈している。すると11節「心は見たものを偽らない」はムハンマドがジブリールを見たと解釈されることになる。だがラーズィーは目ではなく心で「見る」と解釈することで人間であるムハンマドがアッラーを見た可能性を提示している。次に、啓示を受けている時にムハンマドが舌を動かしたという句(75章16-18節)の解釈においては、その啓示が聴覚を通して伝えられ、舌を動かすという人間が再現可能な言語であるとみなされている。さらに啓示の3様態に言及する句(42章51-2節)の解釈では、他の啓示形態よりもジブリールが介在するムハンマドへのものが優れていることが主張されている。

第3章では、タフスィール文献において書物が形而上化されていく様相を分析し、以下のことが明らかになった。

タフスィールでは書物や筆記道具が形而上の存在として解釈され、天における神話的な枠組みで理論化されている。特に筆は天地創造以前に、「天の書」である「護られた書板」に復活の日までに起こる全事象を書くようにアッラーに命じられたとされる(68章1節など)。そしてこの神話的枠内で「キターブ」も形而上化され、かつ具象化されて「天の書」として解釈される(6章59節など)。またこれらの句に関して、「キターブ」を具象化せず抽象化する解釈もあり、それは「キターブ」を「アッラーの知識」としている。さらに「記録の書」として解釈される「キターブ」の句もある(17章13-14節など)。これは復活の日の最後の審判において報いの判断のために用いられる。またこの書に記録される人間の言動は予め「天の書」に書かれているとされ、ここで運命論と人間の自由意志論の相克が2つの書物の関係を通して描かれている。「天の書」は絶対不変ともされるが、解釈者のなかには、人間が祈り(ドゥアー)を行うことでその内容が書き換えられる可能性を指摘する者もいる(13章39節)。

さらに第4章では、タフスィール文献において「天の書」とクルアーンの関係性を分析し、独自の啓示理論が形成されている様相を明らかにした。

クルアーンには、地上のクルアーンが「天の書」に存在するということを示唆する句がいくつか存在する(85章21-22節など)。解釈者たちは「天の書」を地上の諸聖典の「源」とする解釈を示すが、これらの句の解釈においては具体的な両者の関係性には詳しく言及していない。むしろ「天の書」と地上の聖典の関係が詳細に読み込まれている句は、キターブのインザール(下されること)に言及しているものである(25章32節など)。これらの句においては、クルアーンが「護られた書板」から二段階に分けて下されたという解釈がなされる。これは、第一段階は「書板」から最下天(全部で7つの天があるとされる)に一度にまとめて下され、次いで第二段階としてそこから分割して地上に下されるという理論である。一方、同じく「天の書」を源とするタウラー(トーラー)を与えられたムーサー(モーセ)への啓示は、アッラーからに一度にまとめて書板が下されたというもので、つまりムハンマドと異なりムーサーには分割されず、また言葉ではなく板という書物が与えられたとされている。ムハンマドへの啓示は実際には状況に応じて分割されて下されたものであり、これは第二段階に相当する。そこに第一段階を挿入したことによって、クルアーンももともとは「一度に」かつ「天の書」という書物から下されたと設定することが可能となった。ここにはムーサーへの啓示様式に劣らないことを証明する意図があったと考えられる。実際に解釈者たちはこの二段階インザール様式が最も優れたものであることを様々に主張している。また、この理論においては暦が重要な鍵となっている(2章185節など)。啓示が最下天に下された日が「カドルの夜」か「シャアバーン月15夜」かということに関して解釈の相違が存在したが、双方とも運命が定められる日と考えられており、この暦の解釈からクルアーンの現実世界への登場と運命論の結びつきが見て取れる。

以上から次のような結論を導き出すことができると考える。クルアーンにおいては不明瞭な文言でしか言及されていなかった「キターブ」は、タフスィールにおいては形而上化明確に示されていたのである。

またこの「天の書」の一元化の動きは、それが「運命の書」であるという側面の枠内でも生じていると言うことができるのではないだろうか。このことは、人間の意志と責任を象徴する「記録の書」の内容が、人間の意志の否定を象徴する「天の書」に含まれていたとする解釈の存在から見て取ることができる。ここには運命の絶対性を強調しようとする意識がうかがえ、それによって「天の書」の包括的存在としての絶対化がなされていると考えられるのである。

さらに「天の書」とクルアーンの関係も「一元化」と表現することができるかもしれない。なぜならば、クルアーンも「天の書」に含まれているとされているからである。このことは二段階降下理論によって支えられている。この理論の存在の背後にはクルアーンが「キターブ」であることを正当化する意図があると考えられる。この理論はクルアーンが分割されて断続的に下されたという現実と、天にある「書かれたもの」を原型として持つという理想を折衷したものだと言える。この理想を持つことでクルアーンは元来「書かれたもの」であることを正当化できるのである。

クルアーンが「書かれたもの」でなくてはならなかった理由は2つ考えられる。1つは先行聖典(=キターブ)と同様のものとして自らの存在を定義付ける必要があったということであろう。これはクルアーンの句のなかにすでに見られていた意識の継承である。さらにもう1つは、クルアーン自身が口承の段階から書承を含む段階に移行していったという、その結集以降の現実と関係すると考えられる。クルアーンが実際に完結し構成を持った「書物」となった現実を正当化することができるのが「天の書」の存在だと考えられたのではないだろうか。

このことは次のようにも言うことができるだろう。「天の書」を設定したことで、アッラーの知識の伝達構造は、言葉から書物へという構造から、書物から書物へという極めて書物を重視する構造に変化した。そしてそこに寄り添っているのが運命論である。全ての事柄が予め書き込まれているという「天の書」を設定し、そこにクルアーンも含まれているとすることでその書物性を強調した後、クルアーンが現実の書物となるにあたって、やはり運命(カダル)が定められると考えられる日が選ばれているとする発想には、クルアーンという聖典が「運命の書」に根ざすことと深くつながっていると考えられるのである。

このようにイスラームの聖典クルアーンは、それが「書かれたもの」であることを十二分に強調された存在論-「存在神話」と呼べるかもしれない-を持ち、この側面からもその聖典性を保証されている。この存在論は、主にユダヤ教やキリスト教の聖典イメージを受け継ぎながら、それを独自の枠組みのなかで理論化したものである。それは神の言葉が「書かれたもの」であることを最初から意識していた宗教の思想上の必然的な帰結であるとも言えよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、イスラームの啓典であるクルアーン(コーラン)のキターブ(書かれたもの)として側面に注目し、クルアーンの中にあらわされたさまざまな「キターブ」の用例を調べ、それぞれの解釈の発展を主要なクルアーン注釈書の中に探ったものである。

論文は序章と3章それに結語から構成される。序章では、「書くこと」や「書かれたもの」の神話化が古代オリエントにまで遡ることが指摘され、キターブの語根の持つ意味の構造が明らかにされる。また、本論文で使われた六人のクルアーン注釈家の時代的背景やそれぞれの注釈の特徴が述べられる。第1章第1節においては、語られた言葉として啓示されたクルアーンにおいて、先行する諸啓典がクルアーンとともにキターブとして、明確にとらえられていることの持つ意味を探っている。第3説では、クルアーンの中で「書くこと」と「書かれたもの」に関連した単語の用例が検討され、クルアーンには、地上的なキターブのほかに天上的なキターブが存在し、後者は運命の書と記録の書に分けられることが明らかにされる。第2章は本論文の中心的部分であり、第1章で検討されたクルアーンの該当箇所が、後生の注釈者によってどのように発展されてきたかが歴史的に綿密に跡付けられる。天上的な書物として、運命の書のほかに、天に存在するクルアーンの原本に概念も包括されるようになったことが指摘される。次に天使たちが人間の行動を記録するという「記録の書」に関する注釈を検討し、注釈家たちが、イスラム神学の主流である運命論とこの考えとをいかに調和させようと試みたかを明らかにする。最後の第3章では、クルアーンが、神の許にある原本から、直接にムハンマドに下ったのではなく、一度最下天に下って、それから、分割されてムハンマドに下されたという二段階降下論を取り上げ、注釈家がこのような理論を作り出した思想的背景について考察する。

本論文の主題となった中世のクルアーン注釈書は、膨大な数が存在するにもかかわらず、従来はクルアーン研究の参考として使われるだけで、主題として研究されることは少なかった。本論文は、「キターブ」(書かれたもの)という概念に絞って主要な注釈書を検討し、注釈家によるクルアーン解釈を主題として取り上げたという点では独自な研究であり、その意義は大きい。ただし、本論で取り上げられた注釈書は、代表的なものではあるが、膨大な注釈書文献のほんの一部にすぎない。また、本論文で扱われた問題は、注釈書以外でも神学書などでも扱われており、それらを利用することで問題のより深い理解が得られると思われる。しかし、本論文が、注釈書を利用してイスラム思想史を研究する上での今後の研究の基礎を提供したことに疑問はない。よって審査委員会は一致して、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判定する。

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