学位論文要旨



No 118639
著者(漢字) 友岡,邦之
著者(英字)
著者(カナ) トモオカ,クニユキ
標題(和) 文化の有用化と公共圏の構造変容 : 文化政策における社会学的問題の考察
標題(洋)
報告番号 118639
報告番号 甲18639
学位授与日 2003.10.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第422号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 武川,正吾
 東京大学 助教授 吉野,耕作
 東京大学 助教授 佐藤,健二
 清泉女子大学 教授 庄司,興吉
 埼玉大学 助教授 後藤,和子
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、現代の文化政策の諸事例に見出せる社会学的諸問題を検討している。こうした問題に取り組む際の背景的関心としては、ヴェーバーからハーバマスにいたる文化的貧困化論の問題提起がある。すなわち、実存的意味を喪失するプロセスとしての近代化の現状を、文化的領域を支える諸制度の変容のうちに見出すという目的が、本論文の背景的問題関心として存在する。この、実存的意味の基盤としての文化的領域に注目するということは、文化の受容・消費の側面よりも、より能動的な自己表現や他者に向けてのメッセージの発信が要求される、文化的創造・生産の側面に注目することを意味する。本論文は、そうした文化的生産活動を支えるシステムの一つである文化政策という領域に注目し、文化的貧困化論の問題がより具体的な形で現れたものとして、文化的公共性および共同性の問題と、文化の有用化の問題に焦点を当てた。

こうした議論の展開に関わる重要な先行研究としては、本論文と同様に、近代社会論の延長上で文化政策研究を発展させようとしているトニー・ベネット、ジム・マグウィガンらのものがある。また本研究上の理論的バックボーンとしては、上述のヴェーバー、ハーバマスの他、ピエール・ブルデュー、ミシェル・フーコー、ジャン=フランソワ・リオタールらの議論を参照している。他にも文化的活動の制度的側面に関する既存の社会学的研究を精査するなら、1.米国の文化生産論、2.ブルデューをはじめとするフランスの文化社会学、3.英豪両国の文化政策研究という三つの潮流が存在するが、それらの議論を吟味してみると、芸術活動に関係する諸制度の内的・具体的なメカニズムを明らかにすることに主眼が置かれている研究と、芸術活動やその所産、関係する諸制度などが、マクロな社会的文脈との関係でどのような意義をもつのかを論じることに主眼が置かれているか研究とが存在する。そうした異なる二つのアプローチ双方の特性を踏まえた上で、本論文は、1.全体社会システム、2.文化・芸術<場>、3.生活世界という三種の社会関係領域を分析枠組として、a.文化・芸術<場>の自律性と、b.文化的活動の所産の生活世界への還元に関する、現代社会の諸制度の現状を、組織論的観点も交えて分析した。

以上のような枠組の下でまず検討されたのが、公共圏構築の問題に直接結びつく、文化の統合機能の問題である。文化の共有、あるいは文化的価値理念についての合意は、人々に集合的アイデンティティを提供するという形で、社会の安定的運営に関してのみならず、実存的意味の涵養にも寄与しうる。この点について、本論文は、グラムシ主義的な戦略の下で大規模に展開された1980年代のフランスの文化政策に注目し、社会の文化的統合を意識レベルでの積極的な合意形成と理解することに疑義を呈した。文化レベルでの社会の統合と認識される事態とは、何らかの積極的な共通の意志や価値観が、強固なものとして人々のあいだで現実に共有されているということではなく、文化に関する諸制度や、それに基づいた政策実行がある程度自明視されているという事態が成立していることだという見解が、本論文では示された。

このような意識や価値、理念の非共有としての社会の文化的統合という状況は、社会の情報化によって、より明確なものになっている。すなわち、現代では物理的・地理的空間と、通信メディアに依存したコミュニケーション・ネットワークが合致しないために、地域社会を共同性の基盤とみなすことはできなくなっている。本論文では、この問題の検討のため、沖縄県の事例に注目した。沖縄は、一般的には現在でも共同体に根差した伝統文化が息づいている地域として理解されている。しかしそのような沖縄という地域においても、伝統文化活動は一部の公共的な使命感を抱かざるをえない人々による強力な活性化によって維持・再開発されているされているのであって、前近代的な意味合いでの文化の共有がなされているわけではない。

さらにこの見解を確認するために、本論文では栃木県と群馬県における地域文化政策の事例が比較された。すなわち、地域社会での文化的価値の共有が困難であるという状況において、地域文化政策はいかなる根拠をもって正当化されるのかが検討された。その結果指摘されたのは、価値観の相違を埋めるために万人に共有可能な“わかりやすさ”によって文化政策を正当化しようとする試みは、結果的に成功しない可能性が高いこと、そのように政策によって支援される文化活動の内容的価値を共有することを目指すのではなく、むしろ内容の共通理解可能性を犠牲にしても、文化政策の実施にあたっての理念と方針を明示し、説明責任を徹底するという方向性のほうが正当性を得られやすいということだった。つまり、手続による正当化こそが、現代の文化政策の実施においては重要だと考えられるのである。文化的公共性の形成に関わる従来の文化政策においては、その政策の正当性を保証する根拠として、特定の美的表象や価値観の共有がめざされてきた。しかし近年ではそうした方向性での文化政策の正当化はむしろコンフリクトを招きやすくなっており、具体的な施策内容ではなく、政策の基本理念、および手続の透明性といった文化政策のプロセスによって合意を形成することが必要になってきている。また、これに続いて補論として、ハーバマスの議論を踏まえて「代表的具現性」概念の再評価を行なった。

以上のような文化と公共性との関係についての議論を経た後、本論文では文化の有用化、すなわち文化的資源を何らかの社会目的のために効果的に活用しようとする傾向をめぐる問題がとりあげられた。つまり「文化の有用化」とは、近代社会において独立した価値基準を確立させたはずの文化的領域が、当該領域にとっては外在的な目的のために従属するという事態を意味している。ここではまず、ミシェル・フーコーの統治性論の意義を検討している。この統治性論でフーコーが語ろうとしているのは、いわば自己や実存的な生が、国家あるいは全体社会システムの運営における手段として位置付けられるような事態である。そうした視角に依拠すると、近年の日本をはじめとする先進社会の文化政策についても、文化や芸術の社会的意義・有用性をアピールするような、リベラルあるいは社会民主主義的な施策が、結果として統治の技術として機能するという事態を説明することができる。またこうした文化の有用化傾向は、近年の先進社会の文化政策において、説明責任を求める声の強まりなどにより顕著なものとなってきているが、この有用化が経営合理性の観点から強化されることは、文化の自律性を弱体化させる恐れがある。すなわち、文化的活動とその受容は、いわばその“役に立たなさ”、すなわち非有用性こそが特色であるにもかかわらず、その文化的活動を機能的に従属させることが重要案件になる、という事態が生じうるのである。

また、これに続いて本論文は、文化的活動や作品の価値評価に対する公的機関の関与の仕方に基づいて、文化政策の施策パターンを4分類し、これに基づいて日本の文化政策がどのような変遷をたどったのかを論じている。そしてさらに、本論文は現代日本の文化政策の淵源と考えられる問題である、明治期の文化政策と、最新の状況としての、文化に関する基本法の制定という二つの事例を概観した。この二つの異なる時期の文化政策を考慮してみて明確になったのは、日本社会においては、未だ文化に関する自明視されうるような理念(制度論における「合理的神話」)を行政制度の内部において確立できず、その結果文化の問題が制度論的・組織論的要因の影響を受けて自律的に機能できない状況にあるということである。この状況の転換のために、本論文では美的価値判断と民主主義的手続との関係を再考する必要が指摘されている。

ともあれこれらの問題の検討を経て明確になったのは、文化的領域の相対的自律性の脆弱さだといえる。ブルデューによれば、近代における文化的領域の自律的な発展こそが、様々な利害から超越した存在としての知識人による、「純粋な政治」としての社会批判を可能にした。この点を鑑みるならば、文化的領域がその外部の論理に従属するという事態が、経営合理性や行政上の都合のもとに積極的に肯定されるという状況は、単に文化の領域にとどまらない問題を内包しているのではないかと考えられる。

実存的意味という、個々人の主観的判断に関わる問題でありながら、しかも単純に市場原理に委ねることもままならない要素をはらんだ領域として、「文化」という領域は存在している。本論文の最後では、この領域に関する残された課題として、第一に、文化政策の実施効果を検証するための、妥当な手法を開発すること、第二に、文化政策における文化的表現の取捨選択という政治的判断と、民主主義的手続とのあいだの関係についての評価基準の検討が挙げられた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、文化政策の社会学という、これまで本格的研究の少なかった領域における、堅実でありながら同時に問題提起的な研究である。著者によれば、文化とは分類と意味付与の機能を果たすコードであり、それをふまえて文化政策とは、対内的に価値基準や使用言語によって成員を文化的にまとめ上げつつ階層的に分類していくとともに、そのことをつうじて対外的に他との相違・境界を明確にしてその「集団の卓越化」を示そうとする企図である。本論文は、その文化に「有用化」への圧力がかかり、そのもとで文化政策が功利主義的かつ効率論的にゆがめられて来ている現状を批判し、情報化が進んで共同性が地域性と乖離していくなかで、そうした歪曲を乗り越える新しい文化政策のあり方を探ろうとしている。

全体は5つの章からなり、第1章の序論で、以上の問題を文化による「統治性」の問題と「美的判断と公共圏」の問題として提起したうえで、第2章では文化政策をめぐる従来の研究を、文化活動の内的側面に照準する「組織論的アプローチ」と、文化活動とマクロな社会的文脈との関連に照準する「批判的アプローチ」とに分け、両者の統合を図るために、文化政策の受け手にたいする効果ばかりでなく送り手の側の理念や組織構造が分析されなければならない、と説いている。情報化に伴って文化的共同性が地域性を超えて形成されるようになった今、それに即応した新しい公共圏が構築されなければならない、というのが著者の主張である。

続く第3章では、そのことを具体的かっ歴史的に示すために、1970年代以降のフランスの文化政策と明治期以降の日本の文化政策が取り上げられ、固有な文化政策をもっとみられてきたフランスでも多様性を包摂する文化の再定義が必要になってきたなかで、伝統的に美的価値判断の基準が自律していない日本ではなおいっそう行政的論理が優先されかねない事態が生まれてきている、と論じている。さらに第4章では、もともと文化の有用性を強調しがちなアメリカの例と、それを受けて、経営合理性を追求するはずの芸術NPOですらが、そのメリットを軽視されがちになっている事態とが、分析されている。

第5章では、以上をふまえて、フランスの例を見直すとともに日本の群馬、栃木、沖縄などの事例を取り上げ、文化の有用化が進むなかでの文化的価値擁護のための公共圏の形成が、作品の価値そのものではなく芸術の理念の承認や、伝統文化を担おうとする人びとの「代表者的使命感」への依拠などを梃子に行われてきていることを述べている。第6章における結論は、こうしたなかで、文化政策の遂行にあたっては、受け手のみでなく送り手の意向を尊重し、彼らの文化的生産活動の自律性を支えるための政策が、多様な価値観やライフスタイルをふまえて成立する、狭い意味の地域性を超えた公共圏を前提になされなければならない、というものである。

このように、本論文は、広義の芸術を意味する文化と、それをめぐってそれを利用し、「集団の卓越化」を図ろうとする政策が、経済合理性をふまえた政治的意図の達成に傾きがちな現実を分析し、それを、情報化の動きをふまえた新たな公共圏形成の方向に軌道づけまおす可能性を探った、ユニークな研究である。現代社会が成熟の域に達し、両性平等や高齢化や少子化の動きにたいする直接的対処としての社会政策に加えて、「パンのみに生きるにあらざる」人間のより高度な欲求に応える文化政策の重要性がますます認識されつつある今、この研究はまさに時代の要請に意欲的に応える内容のものとなっている。

よって審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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