学位論文要旨



No 118644
著者(漢字) 中谷,洋子
著者(英字)
著者(カナ) ナガタニ,ヒロコ
標題(和) 嗅細胞における嗅覚受容体遺伝子の単一発現機構
標題(洋)
報告番号 118644
報告番号 甲18644
学位授与日 2003.10.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4421号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 助教授 飯野,雄一
 東京大学 助教授 榎森,康文
内容要旨 要旨を表示する

ヒトやマウスにおいて嗅覚受容体 (Olfactory receptor; OR) 遺伝子は1000種類に及ぶ多重遺伝子系をなしており、数個から数百個のOR遺伝子を含むクラスターとしてほぼすべての染色体に散在している。OR遺伝子は嗅上皮に数百万個存在する嗅神経細胞において発現し、各々の嗅細胞においてはただ一種類のみが、mono-allelic に発現している。嗅細胞の嗅球への軸索投射は糸球という構造をターゲットに行われ、約2000個ある糸球のうち特定の一対に投射する。従って嗅球上の各糸球は1種類のORに対応しており、嗅上皮でOR分子によって受容された匂いの化学情報は、嗅球においては活性化された糸球という情報に変換される。個々の匂い分子は複数の種類のOR分子と異なる親和性で結合するので、匂い情報は嗅球上で、約一千対ある糸球を素子とした発火パターンとして二次元的に展開され、それを脳が識別すると考えられている。従って匂い認識においては、嗅細胞におけるOR遺伝子の単一発現と、嗅細胞軸索の OR-instructed な投射がその要となっている。

本研究ではOR遺伝子の単一発現とその調節機構について、YACトランスジェニックマウスにおけるOR発現系を用いて解析した。まず、同じ構造を持つ2つのORトランスジーンを同一染色体上に並列に挿入し、相互排他的に発現することを確認した(図1)。この相互排除は maternal/paternal、二つのallele間の対立形質排除のモデルとして提唱されている allelic inactivation では説明がつかず、これとは別の新たなメカニズムによって、相同遺伝子の相互排除が保証されていると考えられる。

OR遺伝子の単一発現機構には、一つの遺伝子が選択される活性化過程と、残りの遺伝子を発現させないための抑制的な調節機構を想定する必要がある。本研究により、発現の為の正の調節には、OR遺伝子クラスターが一定の頻度で任意に活性化され、活性化されたクラスターにおいて1つの遺伝子が選発現する過程の存在することが示唆されている。

次に、1つのOR遺伝子が発現された後、他のOR遺伝子の選択を抑制する負の制御機構を検討するため、OR遺伝子のコーディング領域を欠失したトランスジーンやフレームシフト変異を持つOR偽遺伝子を用いて、これら変異遺伝子が他のOR遺伝子と共発現するかどうかを検討した(図2,3)。その結果、ORタンパク質がOR遺伝子の新たな選択に対し抑制的な制御機能を担うことが示された。

以上の結果をふまえ、OR遺伝子の単一発現の機構として、stochasticなOR遺伝子クラスターの活性化とクラスター内における1つの遺伝子の選択過程、及びその結果産生されるORタンパク質による選択抑制過程からなる2段階調節モデルを提唱する。

OR トランスジーン間の相互排他的発現 トランスジェニックマウス line E の嗅上皮におけるlacZ標識、及びEGFP標識のトランスジーンMOR28を検出した。トランスジーンとして導入した各コンストラクトはMOR28をlacZ (▲) あるいはEGFP (▲) で標識されている。トランスジェニックマウス lineE は第4染色体の同一領域にトランスジーン(YAC-200 ; 5コピー、YAC-200G ; 1コピー)が存在する。嗅上皮切片に対して、lacZ発現細胞は抗lacZ抗体を用いた免疫染色により赤色に、EGFP発現細胞はEGFPの蛍光により緑色に検出された。写真は2種の標識マーカーの検出画像を重ね合わせたものである。両トランスジーンを共発現する嗅細胞は黄色に共染色されると予想されるが、現在のところ全く観察されていない。このことから、同一染色体上に並んで存在する同一構造を持つ二つのORトランスジーンが相互排他的に発現することが示された。

コーディング領域を欠失した MOR28 (del-MOR28) を持つトランスジェニックマウスの作製 del-MOR28のDNA構造を示す。YAC-290GコンストラクトはMOR28をトランスジーンとして発現するために充分な領域を含むことがすでに確かめられている。YAC-290GdCコンストラクトはYAC-290GコンストラクトからMOR28遺伝子のコーディング領域である exon 2 を欠失させて作製した。MOR28は IRES-tau-EGFP によって標識されているため、del-MOR28調節領域を活性化した嗅細胞においては標識タンパク質EGFPが発現されるが、ORタンパク質は発現されない。YAC-290GdCコンストラクトを持つトランスジェニックマウスにおいてdel-MOR28発現細胞の嗅上皮における分布(細胞密度、局在)を調べた結果、内在性MOR28および野生型の外来性MOR28と同様であることが確認された。

del-MOR28 トランスジーンは種々の内在性の OR 遺伝子と共発現した (a) YAC-290GdC マウスの嗅上皮切片において種々の内在性OR遺伝子の発現を in situ hybridization 法によって検出した(赤い嗅細胞)。さらに同一切片上に於ける del-MOR28 の発現を抗EGFP抗体を用いた免疫染色によって検出した(緑の嗅細胞)。2枚の写真の重ね合わせ (merge) によって黄色く染色された嗅細胞は共発現細胞を表す。3種の内在性OR遺伝子(244-2, 248-2, 及び 246-2)の例を示した。(b)平行してYAC-290Gマウスの嗅上皮切片における野生型 Tg MOR28 と内在性OR遺伝子との共発現を調べた。現時点において解析したどのプローブにおいても共発現細胞は見つかっていない。

del-MOR28発現細胞においては他の種類のOR遺伝子との共発現が観察された。このことはOR遺伝子産物がさらなるOR遺伝子の発現を抑制する機能を持つことを意味している。さらに、OR遺伝子産物のうち転写産物、あるいは翻訳産物のいずれがその機能を担うのかを検証した。翻訳が途中で止まることが想定されるOR偽遺伝子発現細胞においては他のOR遺伝子との共発現がおこることが観察された。以上より、OR蛋白質がさらなるOR遺伝子の発現を抑制するnegative feedback機能を持つことが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究の目的は哺乳類の嗅覚系の基本原理の一つである1神経細胞-1受容体というルールが、どの様な分子機構により支えられているかを明らかにしようとするものである。

ヒトやマウスの嗅覚受容体 (Olfactory Receptor; OR) 遺伝子は1000種類を超える多重遺伝子系をなしており、数個から数十個のOR遺伝子がクラスターを形成してほぼすべての染色体に存在している。OR遺伝子は嗅神経細胞において特異的に発現し、個々の嗅神経細胞においてはただ一種類のみが mono-allelic に発現している。嗅神経細胞の嗅球への軸索投射は糸球という構造をターゲットに行われ、軸索投射位置の決定に際しては様々な細胞接着因子とともにORタンパク質自体も主要な役割を担っている。嗅上皮で受容された匂いの化学情報は、嗅球においては活性化された糸球という位置情報に変換され、嗅球上の発火パターンとして脳によって識別されると考えられている。

本研究ではOR遺伝子の単一発現とその調節機構について、YACトランスジェニックマウスにおけるOR発現系を用いて解析が行われた。まず第1章に記述されている様に、同じ構造を持つ2つのORトランスジーンを同一染色体上に並列に挿入し、相互排他的に発現することの検証がなされた。ここで示された同一遺伝子間の相互排除はmaternal/paternal、二つのallele間の対立形質排除のモデルとしてすでに提唱されている allelic inactivation の機構では説明がつかず、新たなメカニズムによって相同遺伝子間の相互排除が保証されていると考えられた。そこで本研究では、OR遺伝子の単一発現機構には1つの遺伝子が選択される活性化過程と、残りの遺伝子を発現させないための抑制的な調節機構を想定する必要があると想定し、第2章に述べられている様に、1つのOR遺伝子が発現された後、他のOR遺伝子の選択を抑制する負の制御機構の検討がなされた。具体的には、OR遺伝子のコーディング領域を欠失したトランスジーンやフレームシフト変異を持つOR偽遺伝子を用いて、これら変異遺伝子が他のOR遺伝子と共発現するかどうかの検討がなされた。その結果、ORタンパク質が他のOR遺伝子の新たな選択に対し抑制的な制御機能を担うことが明確に示された。これらの研究により、OR遺伝子の相互排他的かつ mono-allelic な発現機構について初めて統一的な理解が得られるようになり、その学問的意義は大きい。第3章ではこれらの結果に基づき、1嗅神経細胞-1受容体遺伝子という基本ルールを支える分子メカニズムのモデルについて考察がなされている。提出者は、第1、及び第2章の実験から得られた結果をもとに、OR遺伝子を正に選択する過程と、それ以外のOR遺伝子の選択を負に抑制する過程からなる2段階のモデルを提唱し、その可能性と生物学的意味を議論している。

本研究は、これまでそのメカニズムについて全く道筋のついていなかった嗅覚受容体遺伝子の単一発現機構に、抑制的な発現制御機構の存在することを実験的に初めて示した点極めて重要であり、この研究分野におけるインパクトも非常に大きいと考えられる。ここに述べられている研究成果は、複数の研究者との協同研究によるものであるが、このプロジェクトの主要部分を占める、第1章と第2章に述べられている実験については、提出者が大学院の5年余りの間、一貫して主体的に進めてきたものであり、その寄与は充分であると認められる。なお、提出者を筆頭筆者とした論文は現在、欧文誌に印刷中であり、他4篇の共著論文も評価の高い欧文誌に掲載されている。

以上の事柄を踏まえ、博士(理学)の学位が授与できると判定した。

UTokyo Repositoryリンク