学位論文要旨



No 118650
著者(漢字) 加賀見,一彰
著者(英字)
著者(カナ) カガミ,カズアキ
標題(和) 取引と取引制度の経済学
標題(洋)
報告番号 118650
報告番号 甲18650
学位授与日 2003.11.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第173号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,元重
 東京大学 教授 三輪,芳朗
 東京大学 教授 岡崎,哲二
 東京大学 助教授 松村,敏弘
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、ミクロ経済学の手法を用いて、取引および取引制度について考察することを主題としている。ただし、理論的な考察だけに拘泥するのではなく、実態把握との連繋のうえで議論することに力点が置かれる。本文を構成する各章は、概説的な議論を展開するもの、理論的に精緻化された考察を進めるもの、および、現実の取引・取引制度の実態を明らかにするもの、というそれぞれに異なる役割を与えられている。そして、全体として、統一の主題である「取引と取引制度の経済学」への接近が図られる。以下、各章ごとに、その具体的な内容を概観する。

まず第1章は、導入部として研究全体の方向性を提示する。まず、制度というものの理解は経済学黎明期からの主要テーマであったが、近年になって改めて強い関心を集めていることが指摘される。ゲーム理論や情報の経済学といった分析ツールが開発・高度化され、実用に耐えうるものになったのをうけて、従来の制度派経済学とは一線を画した制度の経済分析が、様々な領域で活発に展開されているのである。

ところが、ここで二つの問題点を指摘しなければならない。ひとつは、「そもそも制度とは何か」という問題である。これまでは、「ゲームのルール」という理解と「ゲームの均衡」という考え方に大きく二分されてきた。しかし、これらの定義は、必ずしも包括的なものではなく、通常は「制度」だと考えられていながらこの概念規定からはこぼれ落ちてしまうものが存在する。そこで、本章において、本研究を通じた「制度」概念を規定しておく。すなわち、「制度とは、複数の人間の行動を方向付けるような人為的な仕組みである」とする。

もうひとつの問題点は、分析ツールである契約理論に内在する。この手法に依拠して議論を展開する経済学者の多く(実は経済学者だけではないのだが)は、様々な制度・仕組みの実体的な側面にのみ着目し、手続的な側面を捨象してしまう傾向が強い。ごく最近になってenforcementの重要性が指摘され、手続的側面への認識が改められつつあるが、その射程も射界も限定されたものだといわざるをえないのが現状であろう。そこで、本章において、本研究の背骨となる考察課題として「不完全なenforceabilityのもとでの最適な制度設計」を設定することが提示される。

これを承けて、次の第2章「契約、取引および取引制度」では、取引と取引制度の基本的な概念と機能を整理し、研究全体の基礎的な方向性を深化させている。取引は契約という形式に依拠して実現されるが、契約の実現・円滑化のために、様々な統制機構(governance structure)が構築される。本研究では、これまでの議論と同様に、取引費用に着目して統制機構の選択と設計について考察する。問題は取引費用の発生因についての考え方である。ここで、取引過程における権利−義務を定めるルールを「実体法」と呼び、手続過程における諸ルールを「手続法」と総称することにする。そして、手続法の本質を「限定合理性や情報偏在という状況設定のもとで紛争に携わる主体達の行動を規定する制度」であると捉える。そして、取引費用の発生因について検討するうえで、従来の研究では統制機構の実体法に議論を集中してきたが、本章においては、手続法の重要性が指摘される。特に、これまでほとんど無視されてきた「限定合理的な世界で提訴がなされる状況」という極めて現実的な設定における取引費用について、実体的側面と手続的側面の両面から考察する必要性があることが主張される。

続いて、第3章「不完全な検証可能性と証明責任の分配」では、事実認定という機能に着目して、望ましい司法制度設計についてのモデル分析を展開する。また、これまでの議論において取り扱うことが困難であった契約法領域での証明責任の分配について、クリアな結論を導き出している。

証明責任の分配に関する先行研究では、社会的費用最小化という基準に従って、事前のモラル・ハザードの抑止と事後の裁判費用の負担とをバランスさせるような証明責任の割り当てが主張されていた。しかし、この基準は、十分な制裁によって事前の行動が適切に方向付けられ、従ってそもそも裁判が起こらないケースでは何も判断できない。契約の文脈では有効に機能しないのである。

一方、従来の契約理論に対する批判的な展開という役回りも本章の議論に賦与されている。すなわち、まず、これまでの議論では、検証不可能=完全には証明できない事実について提訴が為されることはないと「想定」してきたが、この想定を一般的に正当化する根拠を与えることは難しい。そして、この想定を斥けると、検証不可能な事実について裁判がなされるというサブゲームが存在することになる。すると、このサブゲームの帰結が定まらない限り、実現される取引に関する予想はサブゲーム完全性を満たしていないことになる。これは理論上の重大な瑕疵であるといわざるをえない。

そこで、本章は、事前の行動が適切に選択されかつそのときに限り提訴が為されないという基準を採用してモデル分析を行う。このモデルは、過誤を伴って事実認定を行う裁判所を前提とする。このため、契約違反が認定された場合の賠償金について、濫訴を抑止するための上限(最適提訴条件)と同時に、契約履行に十分な誘因を与えるための下限(履行条件)が設定される。そして、これら二つの条件が同時に満たされるように証明責任が分配されるべきだと主張される。

第4章「下請取引関係における取引の失敗と下請系列の形成」では、視点を変えて、現実経済のなかに題材を求め、1950年代におけるわが国の組立機械工業の取引実態の解明に努める。これまでの研究では、わが国の産業組織の重要な特性のひとつとされる下請系列について、その形成過程の実態とメカニズムについて十全たる説明を提示できていない。ここでは、市場という取引統制機構が限界に直面するときに、これを克服する私的な制度として系列が形成されたと主張する。

まず、当時の経済概況として、大量生産−大量消費社会への移行が進展していた。本章が着目する組立機械工業では、この動きに適合した合理的な生産システムを速やかに確立を企図していた。そこで、その初期段階では、多くの元請業者は、急速な量的拡大を達成するために、外部に豊富に存在していた既存の中小事業者を下請として生産システムに組み込んだ。しかし、更なる発展のためには、生産システム全体としての機械設備の更新と工程管理の徹底が必要とされた。

ここで下請業者の立場で考えると、特定の元請業者との専属取引は自らの交渉力や情報レントの喪失につながるので、分散取引をすることが望ましかった。従って、関係特定的な支出や技能形成には消極的であった。一方、これに対する元請業者の最適反応は、経営支援を行ったとしてもその効果が他の元請業者に漏出してしまうので、援助等を行うことなく交渉力を行使して余剰を可及的に抽出することであった。そして、これに対する下請業者の最適反応は分散取引であった。結局、元請業者は搾取・しわ寄せを行い、これに対して下請業者は納期違反や手抜作業をするという行動の組合せがNash均衡になっていた。そしてこの状態では、生産システム全体としての効率性向上は阻害されることになる。この事実はこれまでの研究では指摘されていない。

下請系列は、この非効率な均衡からより効率的な均衡への移動であると考えられる。この移動は、取引の継続性や信頼資産によってサポートされないので、単発的な取引の中における当事者達の経営判断の一環として選択された。そして、このようにして形成された下請系列が信頼資産や評判資産を次第に蓄積していくことで、1970年代以降の取引制度へとつながっていったと考えられる。

第5章「優越的地位の濫用規制への新視点」は、第3章で展開された理論モデルと第4章において確認された取引実態を前提として、独禁法上で運用される優越的地位の濫用規制とその特別法と位置づけられる下請法について検討している。本章では、これまでこの規制は取引関係に公的介入を行う実体法であると考えられてきたが、その実態を丹念に調べてみると、むしろ手続法として重要な位置づけを与えるべきであると結論づける。すなわち、提訴や裁判活動を、下請業者に代わって公正取引委員会が展開することが下請法の中心的な内容であると主張する。

そして、第6章「私法的救済システムの限界と公的介入」は、第5章の議論を理論面からサポートするために用意されている。まず、前提として、第3章のモデルにおける「最適提訴条件」と「履行条件」が同時には満たされない−すなわち、手続法の不備によって取引の効率性が損なわれている−状況を想定する。ここで、公的主体が一定の確率で、私的取引を強制的に(疑似)裁判過程に進行させるような司法政策を考える。これは、第5章で明らかにした下請法の中心的な機能そのものである。そして、この政策によって、効率性が改善する可能性があること(介入コストのために最善は達成されないけれども)を明らかにする。この結論は、下請法についてのこれまでの見解を大きく修正するものであると同時に、私的取引への公的規制についての新たな視点を拓くものでもある。

最後に第7章では、研究全体のまとめと、残された課題について整理している。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は裁判所における審議や公的機関による私的取引への介入が、私的取引の効率性の向上に貢献しうるのかという視点から、私的取引と公的主体との関わりについて分析したものである。取引を行っている経済主体の間の行動の一部が公的機関のような外部の第三者に対して検証可能(verifiable)でない状況では、取引当事者にとって必ずしも最良な取引が実現できるとは限らない。モラル・ハザードが生じる可能性がある。しかし、かりに第三者である裁判所や公的機関が取引当事者と同じレベルの情報を持つことができないとしても、こうした公的主体が取引へ介入することで取引の効率性が改善する余地がある。現実的に考えても、公的主体は不完全な情報の中で取引に介入せざるをえず、どのような条件の下で公的主体の介入に意味があるのか検討することは、経済学的にも重要なテーマである。本論文ではこのような問題について理論モデルによる分析が行われるとともに、その背後にある制度や法律問題について考察が行われている。理論的分析の応用として、本論文では1950年代の「下請代金支払遅延等防止法」(以下「下請法」)の実態やそこで行われた下請法による公的介入についての考察が行われている。本論文は、第1章 取引制度分析の現状と本研究の構成、第2章 契約,取引および取引制度−手続過程における公的主体の機能と役割、第3章 不完全な検証可能性と証明責任の分配、第4章 下請取引関係における取引の失敗と下請系列の形成、第5章 下請法の目的、機能および効果への実態分析−私的取引関係への公的介入の可能性、第6章 私法的救済システムの限界と公的介入−証明責任の分配と下請法への経済分析的アプローチ、第7章 要約と残された課題、の7章から構成されている。各章の内容を簡単に要約すると以下のとおりとなる。

導入部にあたる第1章に続いて第2章では、取引と取引制度についての基本的な概念と機能を整理した上で、手続過程の重要性についての説明が行われている。取引は契約という形式に依拠して実現されるが、契約の実現・円滑化のために、様々な統制機構(governance structure)が構築されている。従来の研究では統制機構の実体的な側面に多くの議論が集中していたが、ここでは手続き的な側面の重要性が強調されている。とくに、契約が実現されるため、契約違反を発見して処罰する紛争解決過程に着目している。不完全な情報しか持ち得ない公的主体(裁判所や政府機関)が契約違反の事実認定活動を行うことにどのような社会的な意義があるのか一般的な考察が行われている。

第3章では、司法制度について、事実認定という機能に着目してモデル分析が展開されている。事後的に提訴がなされる可能性を含む不完備契約取引のモデルで、適切な裁判制度の設計が取引の効率性を改善する可能性について考察が行われている。この章のモデルにおける裁判制度の設計とは、どの当事者に証明責任を求めるのかということを意味する。契約の不完備のために取引がモラル・ハザードの危険に曝されているとき、事前の取引行動が事後的な紛争処理過程において裁判官が獲得するシグナルに影響を与える状況を想定して、どのような形で当事者に証明責任を振り当てればモラル・ハザードを抑止することが可能になるのか考察されている。事後的に提訴しないことを事前にコミットすることは困難であるが、事後的な裁判で支払われる費用と判決のリスクについては事前にコミットできる。そして、この章のモデルの望ましい均衡は、各当事者が取引をきちっと遂行し、事後的にも提訴が行われないような状況として提示される。裁判費用と判決リスクを規定する証明責任を、当事者間に分配することで、それぞれの当事者が望ましい行動をとるインセンティブを構築することができるのである。

第4章では、不完備な取引の事例として、1950年代におけるわが国の組立機械工業の取引実態についての考察が行われている。この時期は、速やかに合理的な生産システムを確立することが望まれていたにも関わらず、元請業者と下請業者は非協調的な行動を選択し、取引関係の生産性向上を阻害していたというのが筆者の主張である。需要動向、技術・設備状況、資金制約、取引関係の状況などを考慮すると、産業発展のためには当事者達の協調行動、とりわけ下請業者の経営能力改善が求められていたが、1950年代前半頃は、元請業者と下請業者が互いに非協調的な行動を選択すること(取引の失敗)が、ナッシュ均衡的状況にとなっていたというのがこの章の主たる主張である。この主張は、次の章での下請法の分析につながっていく。

第5章は、第4章の考察を受けて、下請法について、その制定当時(1950年代)の状況に着目しその果たした機能についての考察を行っている。本章では、下請法を通じた介入政策が下請取引の効率性を改善した可能性があると指摘されている。効率性の改善をもたらすメカニズムの理論的分析は次の章で提示されるが、取引当事者達の事後的な行動を事前段階で拘束する上で裁判制度が有効に機能しない状況を前提とするとき、通常の裁判制度の代わりに手続過程の役割を果たし、裁判制度を強化する政策として下請法による規制が正当化される可能性について指摘されている。

第6章では、完全情報下の合理的当事者達の取引関係において、私法的救済システムが限界に直面するようなモデルを設計し、そのような状況下で公的介入が効率性を改善する方法のひとつとして下請法が位置づけられることを主張する。ミクロ経済学における一般的な契約理論の枠組みでは、検証可能性(verifiability)のない変数を内包する契約は不完備契約(incomplete contract)のひとつとされ、そのような取り決めの履行について、外的な強制(enforcement)を利用することはできないと仮想される。しかし、検証不可能な変数について提訴することは可能であり、また、裁判所はこれに対して必ず何らかの判断を下す。裁判過程の設計について考察したのが第3章であった。この章では、若干異なったモデルでこの点が確認された上で、さらにモデルを拡張して私的当事者のいずれかに証明責任を分配して自由に証明活動をさせる「当事者主義(弁論主義)」よりも、公的主体が事件を積極的に司法過程に持ち込み、証明活動を展開する「職権主義」が望ましい状況が生じることを明らかにしている。すなわち、当事者間で対称情報である私的取引関係に公的介入を行うことが正当化される可能性があるというのだ。本章のモデルでは、私的主体達と公的主体のいずれが挙証活動を行うべきかという観点から当事者主義と職権主義の領域分担について議論し、さらに職権主義のもとで展開される公的介入の方法を考察する。

第7章では、本論文からどのような方向に研究を発展していくことができるか、今後の研究の展望について簡単にまとめられている。

以上整理したように、本論文は情報劣位にある公的主体が介入することで、不完備契約に基づく取引の効率性を改善することができるということを簡単なモデルで明らかにしたことが評価できる点であろう。こうした理論分析を通じて、裁判所における裁判過程の設計や下請法に基づく介入が私的取引に及ぼす影響に光を当てようとしている点も評価できる。ゲーム理論的な枠組みを用いて裁判制度について分析するという試みは最近いくつか見られるが、そうした制度の設計が事前における取引主体の行動に影響を及ぼすメカニズムについて考察を行っている点に本論文の特徴があるだろう。また、理論的な分析にとどまらず、こうした理論的な考察の具体的な事例として1950年代の機械産業における下請関係の考察や、その時代に下請法が果たしたと考えられる役割にまで考察の対象を広げようとしていること、さらには法学者による契約法などについての文献も積極的に取り上げていることなどに、本論文の著者の旺盛な研究意欲を感じる。

ただ、そうした意欲的な取り組みは、本論文の弱点ともなっている。(1)裁判過程や公的介入が私的取引に及ぼす影響について理論的なモデルを構築して考察を進める、(2)具体的な事例(この論文の場合には1950年代の下請関係とそこでの下請法の役割)の上で考察する、(3)法律の分野の文献にもコメントする、という3つの作業をこの論文の中で同時に行うと試みているために、後者の二つの点については必ずしも十分な成果をあげていない。特に第4章と第5章の実態分析は当時の政府の資料やアンケート調査を整理するという域を出ていない。第3章や第6章で得られた理論的分析結果を実例で検証するというという著者の意図は、必ずしも十分に達成できているとはいえないだろう。この点については今後の研究課題として残されている。理論的分析についても、証明責任の配分という形で著者が提示した現象が、実は当事者の裁判費用の配分の問題と本質的に違いがあるのかどうか必ずしも明らかではない。裁判費用の配分によって裁判過程の設計を分析するという意味ではこれまでにもいくつかの研究が存在しており、これらの既存の文献とこの論文で得られた理論結果との関係についてもう少し踏み込んだ説明が必要だろう。

とはいえ、モラル・ハザードが起きうる私的取引に関して裁判過程の設計や公的介入がどのような形でモラル・ハザードの解消に貢献しうるかという、これまで必ずしも十分な研究が行われてこなかった問題についてきちんとした理論分析を行って、まとまった分析結果を得たことは、高く評価できる。したがって、審査委員会は、著者が博士(経済学)の学位を取得するにふさわしい水準にあるという結論に達した。

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