学位論文要旨



No 118662
著者(漢字) 大久保,直樹
著者(英字)
著者(カナ) オオクボ,ナオキ
標題(和) 事業法及び反トラスト法における差別的取扱規制の確立
標題(洋)
報告番号 118662
報告番号 甲18662
学位授与日 2003.12.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第174号
研究科 法学政治学研究科
専攻 民刑事法専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 白石,忠志
 東京大学 教授 落合,誠一
 東京大学 教授 中山,信弘
 東京大学 教授 石黒,一憲
 東京大学 教授 斎藤,誠
内容要旨 要旨を表示する

事業者が取引を拒絶したり相手に応じて対価を違えたりする差別的取扱いに関する規定は、事業法にも反トラスト法にも置かれているが、両法を比較してみると、実体面でもエンフォースメントの面でも違いがある。

事業法は、差別的取扱いが競争に弊害を及ぼすことを要件としておらず、また、取引を義務づけると同時に対価の合理性も要求している。これに対して、反トラスト法の規制対象は、競争に弊害を及ぼす差別的取扱いのみであり、そうでないかぎり、事業者は対価をいかなる水準に設定してもかまわないとされている。これが、実体面における両法の違いである(下表参照)

エンフォースメントの面でも、事業法が監督機関に委ねられているのに対し、反トラスト法は裁判所が中心的な役割を担っている。

これまで、事業法と反トラスト法は次のようなパラダイムを構成しているとされてきた。

すなわち、通常は、ある事業者が独占的地位を利用して対価を設定すれば、他の事業者が利潤を求めて参入して来る。したがって、反トラスト法は、競争を阻害する行為を禁止して競争が行われるようにすることを目的とし、直接的な対価規制はしない。しかし、市場競争に委ねるべきでない事業活動もある。こうした事業活動については、参入規制によって競争を抑制すると同時に、競争抑制により生ずる弊害を防止するため直接的な対価規制を行う。こうした規制を行うのが事業法である。合理的な対価を算定する能力を裁判所は欠くなどの理由から、事業法の運用は、監督機関に委ねられることとなった。

上記パラダイムは、両法の差違を合理的に説明可能である。

しかし、これまでに引用されてきた文献を見るかぎりでは、上記のことが言われるようになったのは、両法が現在と同じ様な姿になった後のことである。とすると、上記のパラダイムに従って両法が作られたというよりも、両法の差違を説明するために、あとづけ的に前々段落のようなことが言われるようになったのではないか、という疑問が生じる。裁判所が事業法をエンフォースしていた時代、対価等の取引条件はどのように規律されていたのであろうか。監督機関が事業法について中心的な役割を担うようになった理由は、裁判所が専門的なリソースを欠いていたからだというのは本当なのだろうか。直接的な対価規制を反トラスト法でも行う、という議論は存在しなかったのだろうか。

本稿は、以上のような問題意識を背景に、事業法及び反トラスト法において差別的取扱規制が確立するまでの過程をたどることとした。なお、鉄道に関する法規制が他の分野の範となったので、それによって事業法を代表させることとした。

こうした研究は、現代日本との関係でも重要な意義を有する。

昨今、独禁法の差別的取扱規制に対する期待は増大している。

その原因の一つは、規制緩和である。技術革新によって競争が可能になったとはいえ、事業法を改正して新規参入を妨げないようにしさえすれば十分である、とは言えない。既存事業者が、当該事業活動に不可欠な商品役務を支配している場合もしばしばであり、こうした商品役務に関する差別的取扱いを野放しにしてはならない。

もう一つの原因は、「事業法なき独占」である。コンピューター・ソフトウェア産業やバイオ産業など、これまで事業法の規制対象とはなってこなかった事業活動について独占的事業者が現れている。

こうした状況において、独禁法の差別的取扱規制は、事業法に然るべき制度が存在しない場合の最後の拠り所として、あるいは、事業法に然るべき制度が存在する場合であっても、その解釈指針として、注目を集めている。

以上のような事情は、独禁法の母法であり世界的にも大きな影響力を有する反トラスト法についても妥当するが、先に見たように、反トラスト法においては、競争に影響を及ぼさないかぎり、差別的取扱いは違法ではなく対価の水準も問わないとされている。また、たとえ競争に影響を及ぼす場合であっても、差別的取扱規制は対価への介入を必要とすることが多く、エンフォースメントを委ねられている裁判所が対価介入に適さないことを理由として、規制に慎重な見解が支配的である。これらの議論は、独禁法上も無視しえない。

本稿の研究は、「反トラスト法は、競争とは無関係な差別的取扱いを規制せず対価への直接介入もしない」及び「裁判所が取引条件に介入することは困難だ」という二つの固定観念を見直す契機となりうる。

検討の結果、次のことが明らかとなった。

第一に、裁判所が専門的リソースに不自由していたから、監督機関が設立されたわけではない。約100 年前の裁判例の中には、細かな取引条件の設定をマスター(連邦民事訴訟規則53 条参照)に委ねた上で取引を命じているものがあった。この時代にも、裁判所がこうした命令を発するべきではないという立場があったが、その理由は、「裁判所は、過去の出来事に法を適用する過去指向の機関であり、これから行われる取引の条件を決めることは立法権に属するから、裁判所による取引条件への介入は権力分立に反する」というものであった。しかし、当時の裁判例の中には、そうした立場を予め織り込んで、商品役務を先に提供させ、後から対価を決定するという仕組みを採用しているものもあった。また、「権力分立に反するのは、訴え提起を待たずに裁判所が対価を設定したり、裁判所の設定した対価が個別事例を超えた効力を持ったりすることであって、訴えの提起を受け個別事件限りで裁判所が取引条件に介入することは権力分立に反しない」という理解もあった。

1887 年、連邦レベルで鉄道事業者を規制する州際通商法が制定され、監督機関である州際通商委員会(以下、「ICC」)が誕生した。ICC の設立理由は、鉄道会社とそれを訴える側とのあいだに証拠の偏在等の不均衡が存在したので、そのような不均衡を是正するためであった。同法は、ICC の命令が訴訟を経て初めて効力を発するものとし、ICC の認定事実を訴訟において一応の証拠とすることによって原告の負担を軽減しようとしていた。当初は、従前どおり、ICC を経由せずに裁判所へ直接訴える余地も残されていた。

1907 年の連邦最高裁判決によって、ICC を経ない訴訟提起は大きく制限されることとなり、事業法の運用についてICC が主導権を握ることとなったが、その理由も、そうした訴訟提起を認めると「不当な差別対価の禁止」という州際通商法の目的に反する事態が生じうる、ということであった。この理由づけにかえて「裁判所は専門的なリソースを欠く」ということが前面に押し出されたのは、1922 年判決においてであった。

以上のような経過を見てみると、「十分な経験を積んだ監督機関が存在する場合に、それを理由として裁判所が譲歩するのも頷けるが、それに匹敵する監督機関が存在しない反トラスト法についてまで、同じことを言って救済に躊躇していてよいのか」という疑問が湧く。

実はアメリカでも、RESTATEMENT (SECOND) OF TORTS を見てみると、裁判所は「○○を原告に引き渡せ」という命令をとりあえず発しておき、問題が生じたら申し立てをさせる(複雑な場合には、履行を監督するマスターを任命する)といったことが書かれている。

この点独禁法について見てみると、具体的にどのような判決主文とすべきかについては今後の議論の展開及び具体例の登場が待たれるが、「裁判所が中心的な役割を担っているにもかかわらず、命令の実効性確保の困難さを理由として救済を躊躇するのか」という心配は杞憂のようである。

第二に明らかとなったのは、次のようなことである。

反トラスト法と事業法が構成するとされてきたパラダイムは、あとづけの理屈ではなかった。

しかし、それと同時に、「事業法の規制対象事業(以下、「公益事業」)に共通する特質は独占である」と言われるようになったのには、次のような事情・目的があったことも分かった。

19 世紀半ば過ぎまでは、「公益事業者は、州又は連邦から種々の恩典を付与されているから、そのような事業者に取引を義務づけ対価を規制しても合憲である。」と考えられていた。しかし、19 世紀末になると、州又は連邦から種々の恩典を受けているわけではないが独占的に事業活動を行う事業者が登場し始めた。それまでの考えによれば、こうした事業者は、どのような取引を行おうとも完全に自由であった(1890 年に最初の反トラスト立法がなされたが、この点を修正するものではなかった)。独占的事業者に無制限の自由を認める弊害は無視しえないものであったので、公益事業に共通する特質を独占に求めることによって、新たに現れた独占的事業者の行為を鉄道等と同様に規制することが主張された。

このように、「公益事業に共通する特質は独占である」という主張は、反トラスト法の文脈においてこそ重要な意味を持っていた。

残念ながら、1914 年の反トラスト法改正に際しては、競争阻害行為を規制すれば当面は十分であるという考えが多数を占め、論者の意図は実現しなかった。しかし、ちょうどこの頃から、公益事業に該当する事業活動の範囲は拡大していった。

わが国の独禁法には、競争に弊害を及ぼす差別的取扱いを規律する規定のみならず、直接的な対価介入の根拠となりうる規定もある。しかし、「たとえ独占的地位にあったとしても、非公益事業者はどのような取引をしようが自由である」という考え方は依然として根強い。「公益事業に共通する特質は何か」が論じられたそもそもの目的が明らかになったことによって、こうした考え方を相対化する視点が得られたのではないかと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、米国における事業法(特定の事業分野のみに適用される事業規制法)と反トラスト法(事業分野を問わずに適用される独占禁止法)との相剋を歴史的に跡づけることによって、独占禁止法の理念や実現体制に関する常識的通念に疑問を投げかけ、独占禁止法による独占規制のあり方という極めて現代的かつ根本的な政策課題にまで示唆を与えようとする作品ものである。

独占禁止法は、入札談合・価格協定や再販売価格拘束などに対しては伝統的に厳格な態度をとってきたが、他方、独占的事業者による排除行為や搾取行為に対しては、法律の通称から得られるイメージとは正反対に、消極的な姿勢をとることが少なくない。そして、そのような消極的姿勢の根拠として、しばしば、次の2つの点が言われる。第1は、「独占禁止法の実現主体である裁判所が、独占的事業者の違反行為をやめさせる命令を出そうとしても、裁判所は、独占的商品役務の取引価格や取引条件を設定するための判断能力を欠いている」というものである。第2は、「独占的事業者に対して独占禁止法が介入する場合があるとしても、その対象は、公的な特権のもとで当該独占を構築した者だけとするべきである」というものである。

本論文は、これら2つの常識的通念の淵源が米国における常識的通念にあり、また、それらに疑問を提起するための鍵もまた米国での議論のなかに見出せるとの認識のもとに、事業法と反トラスト法のとの関係をめぐる米国での展開を素材とした基礎的検討をおこなっている。

「第1章 問題の所在」は、米国において反トラスト法(米国の独占禁止法)が独占規制を躊躇する理由として、前述の「裁判所の判断能力不足」と、「反トラスト法は、競争とは無関係な差別的取扱いを規制せず対価への直接介入もしない」という2点がしばしば挙げられることを指摘し、米国での事業法と反トラスト法との歴史的関わり合いを検討する必要性を示している。同時に、このような検討が、日本の独占禁止法による独占規制という現代的な政策課題に有益な示唆を与えるであろうことを明らかにしている。

「第2章 鉄道会社の差別的取扱規制」は、鉄道の分野での事業法が、米国での事業法の先駆けとなり他の事業分野での事業法の範となったとの認識をもとに、鉄道をめぐる事業法規制の歴史的・理論的展開を、19世紀から20世紀にかけての事例等を素材として、検討している。そこにおける中心課題は、前述の第1の常識的通念、すなわち、「裁判所の判断能力不足のゆえに独占規制は事業法に委ねられている」という通念の検証である。

結論を述べれば、米国の事業法の実現主体として、20世紀に入ってから、裁判所よりも行政的監督機関が中心的な役割を果たすようになった背景には、裁判所の判断能力の不足、という認識は、関係していない。

具体的には、第1に、20世紀初頭前後の裁判例のなかには、細かな取引条件の設定をマスター(裁判手続を補佐させるために裁判所が指名する専門家であって、事実認定や法的判断をおこなう場合もあるとされる)に委ねたうえで取引を命じているものが見られるのであって、裁判所の判断能力の不足、という指摘はあたらない。この頃は、マスター制度の利用は例外的ではなく、むしろ、複雑な事案については利用が勧奨されていた。

第2に、行政監督機関が中心的な役割を果たすようになった背景は、裁判所の判断能力の問題よりもむしろ、権力分立の問題であった。すなわち、裁判所は、発生した紛争に法を適用するという意味で過去指向の機関であり、他方、将来の行為の拠り所となる基準を決めることは議会の権限に属するから、裁判所が独占規制として取引命令を出すことは権力分立を損なうものである、というのである。この考えに対しては、権力分立に反するのは、訴えが提起されてもいないのに命令を出す場合だけである、といった反論が可能であるが、ともあれ、当時の議論がは、裁判所の判断能力の問題に着目したものではなかった。

第3に、州際通商委員会が設立された理由は、裁判所の判断能力不足や議会との権力分立にあったというよりも、証拠の偏在等により、鉄道事業者の相手方が訴訟手続において圧倒的に不利であるという事態を改善する必要性にあった。裁判所の判断能力不足が言われるようになったのは、行政的監督機関が設立されてから四半世紀以上を経て、行政的監督機関に経験が蓄積したあとのことであった。

「第3章 通常事業者の差別的取扱規制」は、すべての事業者に適用され得る反トラスト法による独占規制について、鉄道分野の事業法規制の展開を追ったのとほぼ同時期を素材としながら、その歴史的・理論的展開を検討している。本章にかかわる本論文の問題意識は、もともと、前述の、「反トラスト法は、競争とは無関係な差別的取扱いを規制せず対価への直接介入もしない」という通念が、あとづけ的に言われるようになったものか否か、という点にあったが、これを検討するうち、前述の第2の常識的通念、すなわち、「独占的事業者に対して独占禁止法が介入する場合があるとしても、その対象は、公的な特権のもとに当該独占を構築した者だけとするべきである」という通念が、重大な批判を受けていたという事実が解明された。

この議論を主導したのは、ハーバードロースクールのブルース・ワイマン教授である。19世紀後半の段階では、「public calling」(事業法による規制が正当化されるような事業分野)と「それ以外のprivate business」を分けるメルクマールは、公用収用権等の恩典を州ないし連邦から付与されているかどうか、にあると考えられていた。そして、「private business に従事する者は、状況・理由を問わず、取引を拒絶しても、相手方に応じて異なった対価を設定しても、かまわない」というのが当時の常識的通念であった。しかし、19世紀末から、private business の中にも独占的事業者が登場し始めた。そのような独占的事業者をどう規制すればよいかの議論が盛んとなり、そこで登場したのがワイマンであった。

ワイマンは、「public calling に共通する特質は、『独占』である」という議論を、1910年頃にまとめ上げた。これを前提としてワイマンは、「したがって、これまでの基準によればprivate business に分類されるものであっても、独占的におこなわれるようになった事業活動については、public calling と同様の規制を行うべきである」と主張した。ワイマンは、反トラスト法の実現権限をもつ連邦取引委員会(FTC)に、独占規制をおこなわせることを構想していた。彼の構想が立法において取り入れられることはなかったが、しかし、1914年の連邦最高裁判決以降、public calling に属する事業活動(すなわち、対価規制の許される事業活動)の範囲が拡大していったことは、ワイマンの議論が実際の法運用に対して影響を与えたことを示唆している。

「第4章 日本における議論」は、現代日本の独禁法における支配的見解などを参照しながら、本論文が検討対象とする2つの常識的通念がいかに無批判に受け入れられ、「事業法なき独占」への独占禁止法による規制が軽視されているかを示し、しかし他方、民事差止請求をめぐる裁判官らの研究のように、そのような現状を相対化する萌芽も見られることを指摘している。

以上が、本論文の要旨である。

本論文の長所としては、以下の点を挙げることができる。

第1に、現代の内外の多くの議論が当然の前提として疑わない2つの通念を洗い直そうとする批判精神であり、また、その論拠として米国の歴史的素材を用いることを構想し、堅実な手法で丹念に資料を渉猟・検討しようとした姿勢である。その成果は、基礎的であるだけに、射程距離が広く、著者の今後の発展を期待させるとともに、今後の研究者・実務家が必ず参照しなければならない成果となっている。

第2に、本論文による米国の歴史的素材の研究は、実はそのまま、喫緊の現代的課題への示唆を与えている。独占禁止法は、すべての商品・役務に適用可能な法律であり、したがって、「事業法なき独占」への唯一最大の処方箋であるのだが、しかし他方、独占禁止法の独占規制の適用対象として、事実上、「事業法のある独占」のみが強調される傾向は根強い。本論文は、そのような傾向を支える通念が、実は十分な根拠をもたないことを示すものであり、現代の解釈論・立法論に鋭い批判を提示するものである。

第3に、米国での事業規制の歴史的研究という観点からも、本論文には意義がある。米国での事業規制について、行政的監督機関によるものについては既に評価の高い先行業績があるが、裁判所によるものについては必ずしも十分な先行業績はなかった。本論文は、その欠を埋めるものである。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第1に、文章の論理的脈絡が、読者にとって必ずしも明快ではない箇所が見受けられる。論理構造の提示が整然としていない部分や、主張の核心を引き出すには少々変化球的な論旨を辿る部分もある。個々の文章は平明で読みやすいのであるから、それと同様のことを本論文全体においても実現させる必要があろう。

第2に、経済法全体における独占禁止法の役割を論ずるにあたって、米国の反トラスト法の状況を参照するに際しては、実現主体としておもに裁判所が想定される米国と、公正取引委員会という行政機関がおもな実現主体となっている日本との違いが影響するか否かを念頭に置く必要がある。この点は、あくまで相対的・傾向的な違いに過ぎないが、この点を踏まえた論述が展開されていれば、なお、説得力を増すであろう。

しかし、これらの短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文が、独占禁止法をはじめとする経済法の研究に多くの示唆を与える大きな貢献であることは明らかである。本論文の著者は、博士(法学)の学位を授与するに相応しいと認められる。

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