学位論文要旨



No 118671
著者(漢字) 松川,豊
著者(英字)
著者(カナ) マツカワ,ユタカ
標題(和) 衝突動力学による酸素分子の振動緩和に関する研究
標題(洋)
報告番号 118671
報告番号 甲18671
学位授与日 2004.01.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5641号
研究科 工学系研究科
専攻 航空宇宙工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安部,隆士
 東京大学 教授 久保田,弘敏
 東京大学 教授 森下,悦生
 東京大学 助教授 鈴木,宏二郎
 東京大学 助教授 小紫,公也
内容要旨 要旨を表示する

極超音速飛行体周りの高温流れ場における非平衡過程のうち、振動緩和は2000K程度の比較的低い温度から顕在化してくる非平衡過程である。振動緩和は気体分子の微視的な分子衝突過程に起因する現象であり、本質的にその過程は微視的な分子論的観点から記述される。気体の微視的な振動分布の時間変化はマスター方程式により与えられ、この方程式において気体分子の振動状態間の遷移頻度を表す定数である振動遷移速度定数(以降では単に速度定数と呼ぶ)が現れる。実用的には実験的に求められた速度定数のモデルが用いられているが、それら既存のモデルは概ね5000K以下の温度領域における実験から求められたものであるので、その限られた温度領域がそれらのモデルの本来の適用範囲である。適用範囲外であるそれ以上の高温領域に対しては低温領域におけるこれらのモデルを「外挿」して用いているのが現状であり、モデルのこのような適用手法においては本質的にこの「外挿」に伴う不確実性が伴う。この不確実性を解消してゆくために、実験が困難であり知見が得られていない高温領域に対しては理論的手法により研究を進めてゆく必要がある。

理論的には、分子の状態の遷移は微視的な分子衝突過程に起因する現象であるから、この微視的な分子衝突過程を解いて衝突における分子の始状態と終状態との関係を調べて遷移の頻度を求める事により速度定数を求める事ができる。このように微視的な分子衝突の観点から速度定数を求めてゆくというのが衝突動力学(collision dynamics)または分子衝突論(molecular collision theory)の立場である。極超音速飛行体周りの流れ場に現れる窒素や酸素などに関する化学種は重粒子であり、かつ、数千度以上の高温場すなわち高い衝突エネルギーでの衝突の場合となるのでそのde Broglie波長は短くなる。従って分子衝突過程の波動的性質は弱くなると考えられるので、高温の極超音速流れ場における分子衝突過程の力学として本来用いるべき量子論の代わりに古典論を用いる事は良い近似であると考えられる。また古典論に基づく分子衝突過程の計算は量子論に基づくものよりも非常に少ない計算労力で行なえる。衝突の始状態と終状態における衝突系の量子論的状態を古典論的状態に対応付ける一方で分子衝突過程を古典論で解く準古典論的衝突論は上記した長所を有しているため、高温場における速度定数を求める有効な理論的手法として期待されている。本研究の目的はこの準古典論的衝突論を極超音速飛行体周りの流れ場に現れる高温場における振動緩和の問題に適用してその理論的研究手法としての有効性を検討する事である。具体的な問題として酸素分子に注目し、酸素分子−アルゴン衝突および酸素分子−酸素原子衝突における酸素分子気体の振動緩和の問題を取り上げる。本論文においてはまず分子衝突論の観点からの速度定数の定式化を行ない、続いて上記した二つの具体的な振動緩和の問題への適用を行なう。

まず酸素原子−アルゴン衝突による酸素分子気体の振動緩和への適用を行った。この衝突系の振動緩和に対しては準古典論的衝突論により求めた速度定数と実験的に求められたものとの間には大きな不一致が見られる事が過去に溝端の研究により報告されており問題とされていた。この不一致を解消できる可能性を探るために、量子論的衝突論に対する近似として準古典論的衝突論を適用した事による誤差とポテンシャルのモデルに含まれる誤差との二つの考えられる原因に対して検討を行った。

量子論的衝突論を適用する事は実際上不可能であるが、量子論的衝突論の代用となり得ると期待して、分子の振動運動を量子論で記述する一方で回転運動は古典論で記述するという既存の半古典論的衝突論を適用した結果、それらは準古典論的衝突論による値と同じオーダの値を与えた。しかしながらその計算手法に関して考察を行った結果、分子の振動回転相互作用を表す遠心ポテンシャルの扱い方に不明確な部分がある事が判明し、それによる影響は定性的には温度が高くなってゆくほど大きくなってゆくと考えられた。従って半古典論的衝突論を量子論的衝突論の代用として適用するにはまだこの点に関する定量的妥当性の検討を行う余地があると言える。

溝端が分子間ポテンシャルとして用いたLennard-Jonesポテンシャルの妥当性を検討した結果、ポテンシャルの斥力部分について改善する余地が見られたので、この点に注目してLennard-Jonesポテンシャルに代わるモデルとして新たにBorn-Mayerポテンシャルを構築した。このBorn-Mayerポテンシャルに基づいた準古典論的衝突論による計算は実験的に求められた速度定数と同じオーダの値を与えるようになり、実験的に求められた速度定数を再現するようになった。このように、問題とされた不一致はポテンシャルのモデルを改善する事により解消される可能性が示された。

次に酸素分子−酸素原子衝突による酸素分子気体の振動緩和への適用を行った。この衝突系は地球大気を飛行する極超音速飛行体周りの流れ場に現れる実際的な衝突系である。

この衝突においては分子衝突過程は九つのポテンシャル面において起こるが、それらのポテンシャル面のうちモデルが構築されているのはわずかに一つだけであったので、量子化学の分野における分子軌道法に基づいて九つのポテンシャル面のモデルを新たに構築した。構築したポテンシャル面は実験的研究により知られているポテンシャル面に関する情報を良く再現していた。

構築したポテンシャル面のモデルを用いて2000Kから7000Kまでの温度範囲における全ての振動状態間の遷移に対する速度定数を準古典論的衝突論により求めた。そしてこれらの速度定数のうち振動緩和においてまずはじめに顕在化してくる基底振動状態と第1励起振動状態間の遷移に対する速度定数に関しての分析と検討を行ない、以下のような結果を得た。この衝突系のように複数のポテンシャル面において分子衝突過程が起こる場合の速度定数は各ポテンシャル面における速度定数の統計的平均として求められるので、各ポテンシャル面における速度定数の特性を調べたところ、九つのポテンシャル面のうち11A'ポテンシャル面における速度定数は温度依存性が弱くほぼ一定値となっており他のポテンシャル面における速度定数とは傾向が異なる事、11A'ポテンシャル面以外のポテンシャル面における速度定数の温度依存性は強く、温度が高くなってゆくほど11A'ポテンシャル面における速度定数の値と同じオーダの値になってゆく事、が分かった。前者に関しては分子衝突論の観点から考察した結果、この特性は11A'ポテンシャル面が持つ深いポテンシャルの井戸に由来する結果であると考えられた。後者は温度が高くなってゆくほど11A'ポテンシャル面以外のポテンシャル面からの速度定数への定量的な寄与が大きくなってゆく事を意味している。実際、11A'ポテンシャル面からの寄与のみを考慮して求めた速度定数と全てのポテンシャル面からの寄与を考慮して正しく求めた速度定数との比較を行うと、その場合速度定数の値を大きく過小評価してしまう事が分かった(3000Kで約2倍、7000Kで約10倍)。このような近似的な速度定数の求め方は従来よく行われてきた手法であるが、このように定量的に温度が高くなってゆくほど全てのポテンシャル面からの寄与を考慮して速度定数を求める必要がある事を示した。また、本研究の計算により求められた速度定数を実験的に求められたもの(Kiefer-Lutsモデル、Breen-Quy-Glassモデル、Parkモデル)と比較すると、実験が行われた3400K以下の温度範囲においては本研究の計算により求められた値は実験的に求められたものと同じオーダの値を与え、それらを良く再現していた。そしてそれらのモデルを7000Kまで「外挿」したものに対しては、本研究の計算による値はBreen-Quy-Glassモデルを「外挿」した値と同じオーダの値を与えていた。

そして求めた速度定数をマスター方程式に適用し酸素分子−酸素原子衝突による酸素分子気体の振動緩和の計算を行い、以下のような結果を得た。マスター方程式の解として得られた熱的平衡における酸素分子気体の振動回転エネルギーは統計力学が与えるものと良く一致していた。そしてこの計算により求められた振動回転エネルギーの時間変化は振動緩和の研究においてよく用いられているBethe-Teller方程式により記述できる事が分かり、2000Kから7000Kの温度範囲における振動緩和時間のモデルを構築した。それはこの温度範囲において弱い温度依存性を有すものであった。また、近似的に11A'ポテンシャル面からの寄与のみを考慮した速度定数を用いて求めた振動緩和時間との比較を行ない、そのような近似により求められる振動緩和時間は過大評価される事、その程度は温度が高くなるほど大きくなる事が分かった(7000Kにおいて1桁異なる)。そして振動緩和時間について、これまでに3400Kまでの低い温度範囲に対して構築された実験式モデルを7000Kまで「外挿」したものと比較を行った。3400Kまでの温度領域においては三つの実験式モデルの間には最大で2倍程度の差が見られ、本研究の計算による振動緩和時間はこれらのうちBreen-Quy-Glassモデルと近い値となっていた。7000Kまでの「外挿」領域においては、Kiefer-Lutsモデルは約5500Kにおいて負の値となり非物理的な振動緩和時間を与えるようになる。ParkモデルはBreen-Quy-Glassモデルよりも短い値を与え、7000Kにおいて約4倍ほど短い値を与える。Breen-Quy-Glassモデルは「外挿」領域を含めて本研究の計算による振動緩和時間と近い値となった。従ってこれら三つの実験式モデルの中では「外挿」領域を含めてこのBreen-Quy-Glassモデルが最も妥当であると分子論的観点からは言える。このように本研究において、既存のモデルが適用範囲外としていた7000Kまでの高温領域を適用範囲とする新たなモデルを分子論的観点から構築した。

以上のように、本研究はまず酸素分子−アルゴン衝突による酸素分子気体の振動緩和における速度定数を準古典論的衝突論により求め、それらを検討した結果、妥当性を有するポテンシャルのモデルを用いる事によって実験的に得られた結果を良く再現する事を明らかにした。そして次に酸素分子−酸素原子衝突による酸素分子気体の振動緩和への適用を行ない、求めた速度定数のマスター方程式への適用を含めて、この場合も妥当性を有するポテンシャルのモデルを用いる事によって実験的に得られた結果を良く再現する事を明らかにすると同時に、現状において知見が得られていなかった高温領域における速度定数及び振動緩和についての知見を与えた。これらの結果より、本研究で具体的に取り上げた振動緩和の問題に対する準古典論的衝突論の適用は理論的研究手法として有効である事を示した。現状において不足している、航空宇宙工学の分野に現れる高温における速度定数についての知見を集積してゆくために、準古典論的衝突論は理論的研究手法としてこれからも本格的に用いられてゆくべきである。

審査要旨 要旨を表示する

修士(工学)松川豊提出の論文は「衝突動力学による酸素分子の振動緩和に関する研究」と題し、本文6章及び付録3項から成っている。

大気中を高速飛行する飛行体周りに生じる極超音速流れにおいて、さまざまな実在気体効果が生じるが、まず基本となるのは分子振動緩和、あるいは分子振動励起過程である。分子振動励起の励起率、あるいは振動遷移定数に関して実在する実験データはその数が限られる上、有効な温度範囲は比較的低温領域に限られているのが現状である。即ち、極超音速流れで必要となる高温領域でのデータが少ないのが現状である。一方、理論的には、衝突動力学的手法により、振動遷移定数を算出することが出来るが、実験データとの一致という点からは、さらなる研究が必要となっている。しかしながら、衝突動力学的手法によれば実験的には困難である高温領域における予測が可能となるという特徴がある。そのため、本研究では衝突動力学的手法の可能性を追求することとし、実験データとの一致の可能性を追求すると同時に、実験的には得られない高温領域におけるデータを予測することを目的としている。具体的には、比較的データのそろっているO2-Ar間の衝突に着目して検討を加えるとともに、地球大気の飛行において重要となるO2-O間の衝突についての検討を行う。

第1章は序論であり、極超音速流れにおいて、分子振動緩和あるいは分子振動遷移過程の重要性を指摘するとともに、研究の現状が述べられ、それを踏まえて本研究の目的が述べられている。

第2章では、準古典論的衝突動力学に基づく振動遷移定数の計算法が述べられている。この手法では、分子原子間の衝突過程が直接数値的に計算され、始状態に対応する終状態を求め、振動状態の遷移確率を計算し、平衡分布にあるさまざまな始状態に関して平均を取るものである。この際、分子並進運動、回転運動、振動運動は古典的力学に従うが、振動運動に関しては量子論的に定まる振動準位への割り振りを行なうものである。

第3章では、半古典論的衝突動力学に基づき振動遷移定数の計算法が述べられている。準古典論的衝突論とは異なり、分子並進運動、回転運動は古典論的に扱われるのに対し、振動運動を量子論的に扱うものである。

第4章では、O2-Ar間の衝突によるO2分子の振動励起に関する考察を行っている。この系は、従来から、よく研究が進められており、比較的信用できる実験結果が存在するものの、過去の研究により、衝突動力学的手法による振動遷移定数の値は、実験結果に対し一桁以上の相違を示すことが知られていた。これに対して、本論文では過去の研究で用いられていた分子・原子間ポテンシャルを吟味し、より妥当なポテンシャルを用いることを提案している。具体的には、ab initio分子軌道法によるポテンシャルデータをもとに、ポテンシャルモデルを再構成し、そのポテンシャルによる準古典論的衝突動力学法による結果が実験的に得られたものによく一致することを見出している。また、半古典論的衝突動力学法に基づく結果は、準古典論的衝突動力学法によって得られた結果にほぼ一致し、比較的低い温度領域でも量子論的な効果がそれほど大きくなく、準古典論的衝突動力学法でも実験結果を再現できることを示している。

第5章では、O2-O間の衝突によるO2分子の振動励起に関する考察を行っている。この衝突過程は、大気中を飛行する際に生じる重要な過程であるが、理論的な検討が十分行なわれていないものである。まず、原子・分子間ポテンシャルをab initio分子軌道法により求め、それに基づき、ポテンシャルモデルを構成するとともに、このようにして求めたポテンシャルモデルの妥当性を検討している。さらに、このポテンシャルモデルに基づいて、準古典論的衝突動力学法を適用し、O2-O間の衝突によるO2分子の振動遷移定数を算出している。このようにして得られた定数は、実験結果のある比較的低温域において、ほぼ、実験結果と一致する結果を与えているばかりでなく、さらに高温領域においても予測値を与えるものである。

第6章は結論であり、O2-Ar系、O2-O系の振動遷移定数について、適当な分子・原子間ポテンシャルを用いることにより、実験結果を再現する結果を衝突動力学法が与えうることを示すのみならず、実験データの得られていない高温領域における振動遷移定数を新たに提案している。また、そのようなポテンシャルは、ab initio分子軌道法により算出可能であることを示し、具体的なポテンシャルを提案したことが述べられている。

以上要するに、本論文は極超音速流れにおいて重要となる分子振動遷移定数について、衝突動力学法に基づく理論的予測の妥当性を示し、さらに、その応用性を示した点で宇宙工学に貢献するところが大きいと認められる。

よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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