学位論文要旨



No 118673
著者(漢字) 劉,文兵
著者(英字)
著者(カナ) リュウ,ブンペイ
標題(和) 映画における上海イメージの形成と変遷
標題(洋)
報告番号 118673
報告番号 甲18673
学位授与日 2004.01.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第453号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 刈間,文俊
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 助教授 野崎,歓
 東京大学 助教授 中島,隆博
 東京大学 名誉教授 蓮實,重彦
内容要旨 要旨を表示する

この論文のテーマは、映画における「上海」の表象の形成と変遷である。この研究は、次の新しい視点を取り入れている。それは、二十世紀の百年間に亘り、ハリウッド映画をはじめとし、日本映画、香港・台湾を含めた中国語圏映画における複数の「上海」を包括的に考察する視点である。分析の対象を大きく四つにカテゴライズし、そこに描かれる上海の表象の差異と関連とを緻密に分析する。第一に、上海を傍観者として描き、表象上の上海のイメージ生成に寄与したハリウッド映画と日本映画。第二に、ハリウッドで達成された映画技法を用いつつ、ハリウッド製の「上海」への批判として、その生活者を描く戦前の上海映画。第三に、ハリウッドに対抗する上海イメージをつくった共産主義政権成立後のプロパガンダ映画。第四に、ハリウッドが製作したイメージと積極的に戯れる90年代の中国語圏映画という枠組み。この四つの枠組みは、単なる歴史的区切りというだけでなく、映画とその映画が描く対象の関係においても、大きな変化を見せるもので、映画における都市表象というテーマを考察する上でも、重要な意味を持つ。

様々な地域の様々な監督たちが、上海に向けたまなざしとそのまなざしを規定する欲望、これらが映像そのものに物質的に定着している様を、本論は描いてきた。上海をめぐる記憶の歴史は、映像の外部から押しつけられたイデオロギーにではなく、映像そのものの中に胚胎している。我々がこの記憶を探ろうと触手を伸ばすとき、それは不意に我々の眼前に生々しい手触りを伴い、回帰してくる。本論が言葉によって定着しようと努めた上海の映画表象の持つ特異な感触は、「ステレオタイプの反復と逸脱」のテーゼに集約されるだろう。第五世代の監督たちが、時に自由に、時に彼ら自身や観客の欲求に即してハリウッドの上海イメージを断片化し再構成する時にも、そのカットの合間から溢れ出る上海らしさは、このテーゼにおいてこそ最もよく現れるのである。

映像を通して表象される上海イメージの形成は、常にステレオタイプを媒介することによってなされ、場合によっては、抑圧が映像をくぐり抜けることにより快楽に変わるといったイメージの反転が、生じていた。すなわち、ステレオタイプを用いつつ、敢えてそれ自身に固有のイメージを裏切るような仕方でそれを表象することによって、反転が初めて可能になり、ステレオタイプの多用がかえってそこからはみ出すイメージのリアリティを強調するのである。表象には、映像の主題性、すなわち作り手の意図を端的に反映するにすぎない言語・物語的な記録性の次元にとどまらず、その意図やそれを生じせしめたところの作り手の欲望をも超えた表象の次元を現出させる特異な性格がある。このような意図と表象との乖離は、二つの仕方で現れる。一つは意識して乖離したイメージの形成をねらう場合、もう一つはその乖離を極力なくそうと意図しつつも、結果的に乖離を生じさせてしまう場合である。前者の例として、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『上海ジェスチャー』が挙げられる。この映画は、一見現実の上海とかけ離れたイマジネーションであるが、その虚構性と裏腹に上海という都市の本質に迫っている。後者の例としては、50年代中国の「記録性芸術映画」が挙げられる。過剰なまでに細部にわたり忠実に現実を再現しようと苦心したように見えるが、その実プロパガンダの要請に答えようとした作為性が際だつ。スタンバーグの作品も「記録性芸術映画」も、この表象手段によって、単なるエキゾチズムやプロパガンダを超えた、独特な上海の姿の刻印となることができた。このように映像は、作り手の当初の意図に限定されない表象世界を生み出す固有の能力を持っているのである。そしてこのような意図と表象との乖離という視点は、時代を経たまなざしによってこそ可能になった。しかし、このような眼差しはまさに記録芸術としての映像の側面によって成り立っている。というのは、作り手の意図は、彼の生きた時代そのものと不可分であり、そのために新しい時代のまなざしにさらされるたびに、作品は変貌を遂げるからである。第二次大戦中の日本映画における大東亜共栄圏の調和のイメージは時代の変遷につれ崩壊していき、文革時代に大まじめに作られたプロパガンダの作品が、現代人にとってはむしろ滑稽に見える。このようにしてイメージの乖離が形作られるのである。

映像の持つ記録性と表象性の乖離を、本論の流れに沿ってまとめておこう。このような乖離は、第1部の外国人の表象において最も顕著に現れる。ここには西洋対東洋という単純な権力関係の記録性の次元が目立つが、西洋人がつり目などの特殊なメーキャップをして画面に登場するという視覚効果によって、そこからの逸脱が生じ、表象の次元も顕著に現出し、イメージの二面性を獲得するのである。例えば『袁将軍の苦いお茶』における夢のシーンにおいて、植民者の見下ろしの視線にさらされるはずの袁将軍はつり目のメーキャップの操作によって、西洋人女性の憧れの眼差しの対象へと昇華する。第2部で考察した女性身体にも、乖離を容易に見いだすことができる。様々な女性のイメージを軸に物語が集結し、女性像が物語の展開の原動力になったのは、映画を見続ける眼差しの欲望を集めることや、過剰な暴力性やイデオロギー性を緩和することが、その理由として挙げられるであろう。このような暴力性・イデオロギー性の緩和といった社会的・歴史的な要素が、まさに映像の記録性の次元に属するとすれば、エロスの演出や身振り、衣裳、ファッション、メーキャップを含めたあらゆる身体的特徴が、表象性の次元に属する。さらに性差の記号性をなくさせようとする文革期の中国映画においても、その肉体の描く女性らしい曲線を現出させる視覚性は、媒介の役割にとどまらない表象の次元に属するものであり、これによりプロパガンダの要請からの逸脱として女性固有の身体性が不意に現れている。こうして女性身体は時代の要請によるコードに従順に形を変えようとしつつも、その身体そのものや物語におけるその説話的役割や映像により映し出された視覚的表象の間で様々な表象機能の揺れ動きが否応なく打ち現れる。そこには、女性固有の身体性を政治的指導者の地位の確立に利用しようとした文革後期の、江青をめぐる特異な現象も含まれる。都市イメージを扱った第3部においては、ハリウッドとやや異なる視線で上海を見つめる軍国主義時代の日本映画や、ハリウッドに対抗する新たな上海イメージを作り出した50、60年代の中国映画が分析の対象であったが、それぞれ時代の要請に忠実に答えなければならないため、そこからはみ出すものは多くはなかった。しかし、上海イメージは、その形成において現実の上海が置かれている歴史的状況に左右される一方、次世代の上海イメージの形成にはこのようにして醸成されたステレオタイプのイメージが、その反転という形を取って働きかける。これは90年代の第五世代の監督による作品に顕著である。彼らはハリウッドの既成のステレオタイプを引用しつつも、その表象機能を変容させた。それと同様に、90年代以降の都市上海は、植民地時代のノスタルジアを利用しながら、先進都市の性格を獲得しつつある。こうして第1部のステレオタイプの揺れ動きから第2部の表象機能の揺れ動きを経由して第3部の都市イメージの揺れ動きに至るまでのプロセスそのものが、イデオロギーに収斂されない映像の多義性という複雑な構図を描き出しつつ、映画における上海イメージの核心を形成したのではないだろうか。

変装は、この論文の重要なテーマであり、表象のもつ記録性と表象性、ステレオタイプと現実との弁証法がこのテーマに凝縮されている。第1部で扱ったつり目などの記号により成立した中国人表象、第2部における女カンフー使いの男装趣味や複数の仮面を渡り歩く女優劉暁慶の変身、そして、第3部で考察した日本人であるアイデンティティを偽ることにより可能となった李香蘭の神話などは、それに当たる。変装のプロセスにおいて生じる効果は、表象の記録性と表象性の両者のうち、表象性を強調するということであり、そこに共存した善悪美醜などの異質な要素が自在に混濁し合い、融合離散し、重層的なイメージを形成することにある。またこのような変身は、ステレオタイプと現実の間に介在して行われ、日中両国に跨る李香蘭のイメージや、スクリーン上のステレオタイプを積極的に現実の世界に持ち込む劉暁慶の変身は、その証左にほかならない。表象性=ステレオタイプ、記録性=現実という単純な対応関係にとどまらず、表象はステレオタイプと現実の間を往復する二重性をもつ。さらにステレオタイプと現実との戯れの背景に、技術を通じたイメージの生産と消費が横たわっている。女カンフー使いの身体の動きを写す逆廻し、コマ落とし、二重撮影などの特撮、文革期の女性共産党員のスーパーウーマンの側面を強調するための曲芸的な身体テクニック、劉暁慶の若返りをを可能にした特殊なメーキャップ、李香蘭を日本人から中国人への変身を実現させた語学力と歌唱力などによって、様々なステレオタイプが生産され、消費され続けてきたのである。

しかし、第3部で扱った戦時中の日本映画や50、60年代の中国映画は、このような変装性の要素をちらつかせながらも、イデオロギーの要請によりその効果を骨抜きにし、善人・悪人という単層的図式が徹底されることとなった。同様に善人・悪人という図式を用いつつも、ハリウッドは、政治的なテーマをも徹底したエンタテインメントに結実させてしまうのに対して、戦時中の日本映画や50、60年代の中国映画は、政治的な眼差しを表象の領域から隔離しようとする傾向が顕著である。これは、両者の政治に対する距離の取り方の違いに由来するだろう。ハリウッドは事実の如何にとらわれるどころか、それ自身がリアルな表象としての政治的現実を演出し、その現実を流通させてしまう。ハリウッドの上海表象は軽薄でありながら、そこにおいてしか成立しない独特な政治的リアリズムを生み出す。それは虚構性を帯びた映画の本質に深く結びついている。ハリウッドは独自の真偽を自国、他国、人種などの様々なステレオタイプの形や勧善懲悪の図式によって流通させると同時に、リアリズムにとらわれない映画的空間を構築し、現実の上海に先行した上海イメージを流通させてしまう結果となった。その実現はアメリカの強力な経済的・政治的力に裏打ちされているが、表象の効果によるところが大きい。

あらゆる都市には歴史の層が積み重ねられているが、上海はとりわけ多様かつ重層である。「魔都」上海のイメージとは、西洋・東洋、人種、ジェンダー、プロパガンダ、都市・農村などの不均等な関係がすべて集まる、世界で最も常軌を逸した奇怪な場所の一つだったと言ってよい。そこではどんな異常事もごく当たり前のことのように起きていた。上海とは享楽的歓楽街であり、陰惨な闇の社会、困苦に満ちたスラム街であることに加え、「摩登」(モダン)文化の発信地であったが、このように様々に異質なものが混ざり合っているがゆえにつねに新しく意外なものが生まれてきたとも言えるであろう。その一方で、19世紀からの租界の記憶、20世紀初頭のモダン都市のイメージ、50年代に形成された社会主義の工業都市のイメージ、文化大革命の中心という革命都市のイメージ、そして、80年代以来の商業都市上海への回帰、といった上海の歴史が蓄積され続けている。これらの歴史的な要素がすべて可視化された形で混在できることは、上海という都市の魅力の一つである。こうした現実の多様性に加えて、映画における上海の表象には、作り手の様々な欲望が投影されてきたのである。

本論が上海において成立した独特な歴史性を映画表象を通じて考察してきたのは、映画が都市の歴史性を圧縮するジャンルであり、上海が19世紀末から今に至るまで映画の都としてその製作の拠点となってきたためだ。上海で映画を撮り続ける監督、上海で行われるロケーション、映画に現れる様々な上海のイメージといった具合に、映画システムのあらゆる部分で上海が顕在している。映画の登場によりモダン都市という上海の性格が一層強まり、表象の次元では歴史性の共存や時代錯誤の許容が拡大した。20年代の上海製作の時代劇にはビキニ姿の女性が登場し、90年代に作られた租界時代の上海を描く中国映画では、おへそを出したファッションの女性が登場するのである。これらは、いずれも上海という場と無関係ではない。ある表象ジャンルの伝統性をゆっくり変化させるのではなく、それぞれの時代の観客にモダンを想起させることで上海イメージが作られていく。その意味で、上海はきわめて特権的な都市である。映画作品に現れる上海のもつ表情の多様性、そして上海イメージが奏でる歴史的あるいは地理的な差異を分析することにより、中国の一都市が、二十世紀に映画表象の領域で果たしてきた、また現在なお果たしている機能が明らかになったはずである。

審査要旨 要旨を表示する

劉文兵氏の博士学位請求論文「映画における上海イメージの形成と変遷」は、上海という都市イメージが、ハリウッド映画をはじめとする多くの映画によって、どのように表象され、ステレオタイプ化されたイメージが反復と逸脱を繰り返しつつ、ついには現実の都市をも規定するに至る過程を、多量の映像資料からまとめ上げた論考である。これは、大量消費時代における映画の「神話的意味作用の強度」という点からいっても、分析に値するテーマであり、日本語における先行研究がこれまでなかった中での主題選択の先見性と、資料収集及び分析に対して払われた努力が評価される労作と言えよう。

本論文の独自性は、第一に1920年代から2000年にかけての上海に関係する映画表象を洗い出し、その変遷を描いた網羅性にある。ハリウッドや日本にとどまらず、中国語圏の映画が広く扱われ、上海を描いた映画の多くがカバーされている。またサイードの「オリエンタリズム」的な視点と「ポスト・コロニアリズム」的な分析方法が意識され、「画面の物質性に即した分析」が意図されている。この方法論の自覚は、従来の中国映画研究に見られたイデオロギー重視の分析を避けるものであり、中国や香港、台湾から距離を取ることが可能な日本で研究を行う意義を示すものでもある。さらに、上海イメージを政治的なステレオタイプと風俗的なステレオタイプに区分し、ステレオタイプ論として論じる努力も、中国映画史の記述として新たな可能性を見せるものである。

本論文は三部によって構成される。第一部の「ハリウッドの上海、上海のハリウッド」では、1930年代のハリウッド映画とその影響を受けながら成長した上海映画における上海イメージが検討される。まずハリウッド映画における中国人の説話的役割と、その他者イメージの身体性の記号が分析され、スタンバーグ監督の『上海特急』と『上海ジェスチャー』が上海イメージの原点として論述される。とくに後者の「中国にあって誰の場所でもない、おのれの欲望を表出することを許された自由な都市」のイメージが、日本軍占領地区に包囲されながら繁栄を続けた「孤島」期の租界の現実を踏まえたものであり、世界大戦という時代にあって、単なるエキゾチズムを超えた上海イメージの特権化をもたらしたとする指摘は、説得力をもつ。一方、上海映画は「生活者の上海」を提起し、アパート映画という神話を生み出したとする。ハリウッドの作り出すステレオタイプに対して、貧しい労働者のイメージの反転や欲望の対象である女優の見返す視線が対抗軸として提起され、これらの表象によって中国人の自画像の獲得がなされたと結論づけている。これらの指摘は、上海映画論として新しい展開を可能とするもので、高く評価される。

女優イメージが上海という都市イメージと重複する点に着目し、「女の都・上海-上海映画における女性像の変遷」と題して女優論から中国映画史の再構築を目指した第二部は、本論のユニークさを示す重要な部分である。第一章では1920年代から30年代の映画で人気を博す女性像が、カンフー映画の女性戦士からメロドラマのヒロイン、さらにモダンガールヘと変化していく過程を分析し、モダンガールの身体性と上海イメージの連携が示され、50年代の社会主義下で労働による女優の身体性の変化がプロパガンダの対象となる必然性が論証された。文革期を扱う第二章では、映画によって大量に複製されたプロパガンダ演劇が取り上げられ、その主人公となる男性化した女性共産党員像が、毛沢東の神聖性を侵食しない英雄として用意されながら、江青を女性指導者として暗示する過程でセクシュアリティをにじませるプロセスが、的確に記述され評価された。文革後を扱う第三章では、70年代から90年代までスターであり続けた劉暁慶を縦糸に、セクシュアリティを明示し、欲望の対象としての女優というシステムを復活させることで、時代を象徴する存在となるプロセスが分析される。第二部については、新しい視点で映画史を再構築し、これを読ませる論述の力を評価する一方で、一部の用語についてはより適切な表現を工夫すべきという意見が、審査委員から出された。

第三部「上海イメージの政治学-ハリウッドの上海イメージとの葛藤」では、ハリウッドが形成した上海イメージが日本や中国にどのような葛藤をもたらしたかが分析される。日本映画ではハリウッドの上海イメージを借用しつつ、エキゾチズムと羨望の交じり合う複雑さを見せるとし、逆に社会主義下の中国映画では、上海を労働者の世界として再規定しながら、30年代の租界イメージを否定するあまり、農村共同体的な表象を生み出したと指摘する。「ハリウッドの上海イメージの回帰」と題された第三章は、本論の中でも重要な位置を占める。90年代の第五世代監督がハリウッドの上海イメージを断片化し、観客の想像の中に都市イメージの再構築を求めたことで、経済発展を遂げる現在の上海が、社会主義期のイメージを脱却し、自らの都市イメージを獲得する道を開いたという分析は、本論の独創性を示すものであろう。

上海イメージというきわめて映画的なステレオタイプに注目し、その形成と流布、反発と借用、反復と逸脱を広範囲な映画資料の収集によって分析し、80年に及ぶ中国映画史を再構築してみせた本論文の論考は、その日本語運用能力とともに高く評価される。三部構成の各部がやや相互の連携を欠き、一部に筆の走りや細部の訂正、方法論のさらなる意識化が求められる箇所も残るが、中国映画論に新たな可能性を示唆する興味深い指摘も随所に見られ、現時点での「上海イメージの形成と変遷」の分析としては、十分に成果を上げえた論文であるという点で、審査委員の意見は一致を見た。

したがって、本審査委員会は全員一致で、劉文兵氏の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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