学位論文要旨



No 118691
著者(漢字) 王,天華
著者(英字)
著者(カナ) オウ,テンカ
標題(和) 行政裁量の観念と取消訴訟の構造 : 裁量処分取消訴訟における要件事実論へのアプローチ
標題(洋)
報告番号 118691
報告番号 甲18691
学位授与日 2004.02.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第176号
研究科 法学政治学研究科
専攻 公法専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小早川,光郎
 東京大学 教授 廣瀬,久和
 東京大学 教授 高田,裕成
 東京大学 教授 交告,尚史
 東京大学 教授 石川,健治
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、裁量処分取消訴訟における証明責任分配の問題に焦点を当てて、この問題についての行政法学の発展の方向性、ならびに、日本の現行法秩序の下における裁量審査のありうべき姿を追究しようとするものである。

まず、「緒論」において「裁量処分取消訴訟における証明責任論」の課題を看取した。学説における見解の対立(第一節)、および、学説と裁判例との対応関係(第二節)への考察によって、(1)“原告説”と“非原告説”とが根本的に対立していること、(2)両者は証明責任論としてそれぞれ不満の点ないし限界があること、が明らかになった。そして、さらなる分析によって、(1)と(2)を解決するためには、複雑な作業が必要となるという問題意識を得た(第三節)。すなわち、“原告説”と“非原告説”との対立の本質は、<裁量論と証明責任論の交錯>(第一節第三款)にあるため、その対立を解消しようとすれば、<今日においていかなる行政裁量の観念が通用されてしかるべきか>を追究しなければならない。また、“原告説”にある不満の点-行政庁の<当該裁量処分の正当性を根拠づける理由を主張する>という義務を免除したこと、および、一般的な証明責任分配の指導理念を排斥していること-も、“原告説”がそれ自体で健全な論証によって支えられているため、これを除去することが可能かどうかということ自体、行政裁量の観念の探求の結果を待たなければならない。他方、“非原告説”の限界-訴訟進行を表出していない(したがって、司法審査の実態を把握していない)こと-を克服するためには、訴訟進行を表出できている証明責任論すなわち要件事実論の視点を導入する必要がある。

より明確に言えば、「緒論」で看取した「裁量処分取消訴訟における証明責任論」の課題は、(1)行政裁量の観念の探求、(2)要件事実論の視点の導入、に集約されるが、この二つは、その相互の関連性およびこの問題についての特殊な理論状況からして、前者の方がより本質的で、かつ、優先的に行われなければならない。

そこで、「本論」で行政裁量の観念を探求し、「結論」で要件事実論の視点を導入する、という論文構成をとることにした。

「本論」において、“原告説”と“非原告説”との基礎にある行政裁量の観念の対立-<行政裁量は、当該授権規範から拘束されるか否か>-に対応して、日本の行政裁量論における見解の相違を裁量二元論と裁量一元論との対立として捉え、そのうえで、整合性・問題志向・流動性・客観性という四つの視点から、日本における行政裁量論の展開に省察を加え、裁量二元論と裁量一元論との対立(したがって、“原告説”と“非原告説”との対立)に決着をつけることを試みた(「本論」の概説)。内容的には次のような議論を行った。

第一章において、「裁量二元論の生成と後退」という題目のもとで、“裁量論の古典的枠組み”と“「逸脱審査方式」をささえる裁量論”を論じた。総じていえば、裁量二元論に限界があるということになるが、要点は、次のとおりである。すなわち、<法律問題と裁量問題の区別>および<裁量不審理原則>(裁量二元論)を大前提として、そのうえで、それと矛盾する要素を内包する<「裁量の限界」の法理>を付加する、という形で、一つの行政裁量論の枠組みを組み立てようとした“裁量論の古典的枠組み”は、構造的な不整合を抱えるものであった(第一節第一款、第二款)。しかし、その不整合は、立憲君主制と結びつく権力分立制によって規定されたもので、この意味で、“裁量論の古典的枠組み”の「歴史的限界」であった(第一節第三款)。他方、<「裁量の限界」の法理>を一般的に許容しながら裁量二元論を放棄しようとしなかった“「逸脱審査方式」をささえる裁量論”(第二節第一・二・三款)は、機能主義的な見地から<裁量二元論は原則であって、≪「裁量の限界」の法理≫はその例外にすぎない>という論理で両者の両立を図ったのであるが、しかし、この論理によって新たな理論上の不整合が惹起されただけでなく、枠組みそれ自体にも、<「裁量の限界」の法理>を厳格に見ない、かつ、その展開を受け止めきれないという欠陥があり、いずれその歴史的使命を終えることにならざるをえない。この意味で過渡的性質のものであった(第二節第四款)。

第二章において、「裁量一元論の台頭」という題目のもとで、戦後初期にすでに芽生えていた行政裁量論のもう一つの潮流すなわち裁量一元論を論じた。裁量一元論は、裁量二元論が抱える構造的な不整合および法的正当性の問題を克服しようとするもので(第一節)、かつ、多くの裁判例からその端緒を見出すことができる(第二節)が、<司法審査を限界付けよう>という目的意識に欠ける面があり、行政裁量論としては根本的な疑問を抱えるものであった(第三節)。

前二章の考察で得た認識から判断すると、裁量二元論と裁量一元論とはそれぞれ限界ないし問題点を抱えているため、両者の対立を解消することは困難である。そこで、第三章でその後の行政裁量論の変遷に目を向けることにした。

第三章においては、裁量本質論の後退という理論現象を受け止めて、「新しい司法審査方式(論)の展開」という題目のもとで、<裁量処分取消訴訟における司法審査は、いかなる形で行われてしかるべきか>に問題を設定した諸説を考察した。考察によって、そのなかで定着することができた「判断過程審査方式」は、その根底には裁量一元論があり、かつ、<司法審査を限界付けよう>という目的意識に仕える道具立て-この道具立ては、範疇的には行政裁量論ではなく“取消訴訟構造論”に数えられる-も備わっている、ことを知った。換言すれば、裁量一元論は、「新しい司法審査方式(論)」によって継承され、かつ、補完されていることを知った(第四節)。

第三章の考察で、裁量二元論と裁量一元論との対立(したがって“原告説”と“非原告説”との対立)に決着をつけるための判断材料を得たと思われるので、これをもって「本論」を終えることにした。

「結論」において、まず、「本論」における行政裁量の観念の探求を総括し、裁量二元論の終焉と“原告説”の破綻を確認した(第一節)。“原告説”の破綻を確認したということは、「緒論」の問題意識によれば、「裁量処分取消訴訟における証明責任論」の課題としては<要件事実論の視点を導入して、“非原告説”を、訴訟進行を表出できるように止揚すること>が必要となることを意味する。そこで、次に、“非原告説”の止揚を念頭において、<なぜ、要件事実論が訴訟進行を表出できているのか>、<はたして、要件事実論の視点を導入することで“非原告説”と結びつく裁判例の訴訟進行が表出されるのか>などの問題に答えるべく、「要件事実論の本質的特徴」を考察し(第二節第二款)、“非原告説”と結びつく裁判例を要件事実論で解読することを試みた(第二節第三款)。要件事実論で“非原告説”と結びつく裁判例を解読することで、<そこでの訴訟進行を表出するには要件事実論が必要かつ充分である>という認識を得た。そこで、「裁量処分取消訴訟における要件事実論」という概念を提起した(第三節第一款)。“非原告説”を「裁量処分取消訴訟における要件事実論」へと再構成することは、各個の行政法規を解釈してそこでの要件事実を抽出するという作業が不可欠であるため、本稿はこれをやり遂げることができないが、裁量処分取消訴訟における司法審査の実態に言及した裁判官の論説などの材料から一般的な訴訟進行を知りうるので、本稿は、最後において、「裁量処分取消訴訟における要件事実論」へのアプローチとして、この新しい概念と既存の理論との関連性を確認するとともに、その具体的な作業について初歩の構想を立ててみた(第三節第二款)。

このように、「裁量処分取消訴訟における証明責任論」の現状に不満を感じ、行政裁量の観念の探求(換言すれば、行政裁量論の反省)、および、要件事実論の視点の導入を経て、「裁量処分取消訴訟における要件事実論」の提起に到達した、というのが本稿の骨子である。大胆な試みと思われるが、行政法学とりわけ行政裁量問題についての議論の活性化にわずかに貢献することができれば幸甚である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「行政裁量の観念と取消訴訟の構造-裁量処分取消訴訟における要件事実論へのアプローチ-」は、わが国における行政裁量論を歴史的に鳥瞰し、取消訴訟の証明責任論を横軸として絡ませることによって、「取消訴訟の訴訟進行を表出できる証明責任論」の構築という新味のある主張を展開する作品である。「取消訴訟の訴訟進行を表出できる証明責任論」とは、裁量処分の取消訴訟において実際に行われる当事者間のやりとりを反映させるような証明責任論という意味である。換言すれば、どの時点で、どのような事柄について、原告被告のいずれが主張立証活動を行わなければならないのかということが見てとれる証明責任論である。

行政裁量論は、行政法学における最重要課題の一つであり、その論点は多岐に及ぶ。たとえば、「行政庁の裁量はその本質として行政処分の要件の認定に認められるものなのか、それとも効果の選択に認められるものなのか」、「行政庁に裁量が認められるか否かの指標は、法律の文言に求めるべきなのか、それとも行政庁の権限行使と国民の権利義務との関わりの有無・態様に求めるべきなのか」、「行政庁の裁量権の行使が裁判所によって違法と判断されるのはいかなる場合か」、「裁量処分の審査に際して裁判所は行政庁の判断にどこまで踏み込むべきなのか」といった、さまざまな論点を挙げることができる。こういった論点の一つ一つにつき、これまで集積された知識を集めてそれぞれを理解することは、それほど難しいことではない。しかし、行政裁量論には古くからの議論の流れがあるので、その全体を把握して脈絡をつけなければならず、その作業には相当の労力を要する。とりわけ、明治憲法下と現行憲法下では議論の背景となる訴訟制度が異なっているし、現行憲法下に限ってみても、それぞれの議論がそれぞれの時代状況に見合った思考法を反映している。したがって、総合的な考察を進めるためには、これまでに現われた多数の文献についてその論理の運びを厳密に辿ることとあわせて、その文献が執筆された当時の時代状況に即した理解に努めることも肝要である。本論文において著者は、真摯な態度でこの作業に取り組んでいる。

本論文は、「裁量処分取消訴訟における証明責任論の問題点と課題」を提示する緒論、「行政裁量の観念の探求」を行う本論、そして「「裁量処分取消訴訟における要件事実論」の提起」を試みる結論の、3部から成る。

まず緒論で、本論文の骨格が示される。全体としての狙いは裁量論と証明責任論がどのように交錯するかを明らかにするところにあり、その作業は、「原告説」と「非原告説」の対立を提示することから始まる。原告説とは、「裁量処分の取消訴訟においては、当該裁量処分の違法事由のすべてについて原告が主張責任と証明責任を負う」という考え方である。それに対して非原告説とは、原告説とは異なる証明責任の分配を唱える説の総称である。著者は、両説の対立に決着をつけるためには、背景にある行政裁量の観念を探求する必要があるとする。そして、原告説が法に拘束されない行政裁量の観念を前提にしたものであるのに対し、非原告説はそのような行政裁量の観念を脱却したものであるという対比を提示し、そのような両説のそれぞれの限界を明らかにしようとするのである。

証明責任の分配の指標という観点から見ると、原告説では裁量処分の違法事由について常に原告が証明責任を負うことになり、明快である。しかし、今日、学説ではこの説を積極的に支持する者はいない。ほとんどの学説は非原告説であり、証明責任の分配を方向づけるために、当事者間の衡平、法治主義、自由の推定といった指導理念を提唱している。しかし、著者は、行政法学における証明責任論の現状に満足することができない。なぜなら、これまでの証明責任の考え方では、行政裁量についての司法審査の動態、すなわち原告と被告との間に繰り広げられる攻防の実際が見えてこないからである。訴訟の勝敗を決するのはまさに当事者間の攻防なのであるから、どの時点でどちらがどのような事項について主張立証活動を求められるかということが決定的に重要である。時の流れのなかで訴訟審理を捉え、その進行具合を投影できるような証明責任論の構築への道を切り開くことが、本論文の目的である。そして著者は、その手がかりは要件事実論に求められるとする。

続いて本論に入り、まず第1章において、原告説の思考の基盤となっている裁量論の古典的枠組みが明らかにされる。それは、「裁量は法の拘束を受けない領域であり、そこには裁判所の審査は及ばない」という考え方である。つまり、ここでは、裁量問題と法律問題の峻別と裁量不審理原則とから、一つの基本的な枠組みが形成されているわけである。裁量問題と法律問題が区別されるということから、著者はこれを裁量二元論と呼ぶ。裁量二元論は、「古典的」な枠組みであるとはいえ、1962年における行政事件訴訟法の制定に至るまで諸家の思考を支配した。代表的論者として、美濃部達吉、佐々木惣一といった戦前の大家のほか、戦後の行政法学の基礎を固めた田中二郎等が挙げられる。

著者は、それらの学説とさらには裁判例を精読したうえで、裁量二元論の枠組みが「裁量の限界」の法理を受け容れたことで不安定なものになっていく有様を描き出す。「裁量の限界」の法理とは、自由裁量と言えども全く法の拘束を受けないわけではないとする考え方である。裁量の限界を越えれば、それは裁量の逸脱となる。たとえば佐々木惣一によれば、自由裁量の場合、行政庁は公益を誠実に考量して直接の標準を定める義務を負い、その標準が公益に適することの信念を得ないで行動することは違法である(佐々木の用語法では裁量濫用)。そうすると、裁判所は裁量の逸脱の有無について審査を求められることになるが、そうした審査を行うこと自体、裁量問題の審査には入らないという裁量不審理原則と相容れない。そこで、裁判所は、裁量処分の取消しを求められたならそれを却下するのが従来の扱いであったところを、一応本案の審理には入るが、その代わり裁量の逸脱はあくまで例外現象だという前提に立つことで、窮境を切り抜けようとした。これが「逸脱審査方式」である。

この逸脱審査方式は、1962年の行政事件訴訟法の制定によって、現実の制度となった。すなわち、同法の30条において、裁量処分については、裁量権の範囲をこえた場合(踰越)または裁量権の濫用があった場合にのみ裁判所はこれを取り消すものと規定されたのである。この条文の起草に当たっては田中二郎の所説が理論的支柱になったとされるが、著者は、新法の下では田中学説は理論的に齟齬を来していると評価する。すなわち、裁量権の濫用については、そこに「程度の要素の操作」を観念できるので裁量の逸脱を例外として扱う論法も成立しえようが、裁量の踰越に関しては、もはや裁量の逸脱を例外と見る根拠がないというのである。また、田中学説では、裁量権の行使を拘束するのは条理法の諸原則であって当該授権規範ではないと説明するのであるが、著者は、田中の説く条理法の観念に揺れが見られることをも指摘している。結局著者の見るところでは、逸脱審査方式は、裁量の逸脱が例外であることに固執する限りで裁量二元論の色合いを残すが、実際には裁量一元論へと向かう過渡期の思考法である。

その流れで、第2章において、裁量一元論の台頭が語られる。裁量一元論とは、裁量問題と法律問題の截然たる分離を否定し、裁量問題は法律問題に取り込まれているとする考え方である。この考え方の下では、もはや裁量不審理原則は妥当せず、むしろ裁判所が審査を尽くしたあとに残るものを行政の裁量と観念することになる。こうした観方は、憲法構造の転換を背景に渡辺洋三や杉村敏正らによって打ち出されたものであり、著者は、彼らの作品を丹念に読み、その思考法を探っている。さらに著者は、裁量一元論に立つ幾つかの裁判例に着目し、それらを分析して、そこでの審査方式に2つの傾向を発見する。その一つは、行政庁には法律の終局目的を達成するために何らかの基準を設定する義務があると考え、それが設定されているか、そしてそれは正しく適用されているか、という角度から審査を行う方式である。もう一つは、訴えの対象となっている行政処分をそれだけ取り上げて評価するのではなく、行政処分をめぐって生じている具体的社会的関係に照らして当該行政処分が違法であるかどうかを判断するという審査態度である。

こうした成果を得つつも、裁量一元論について著者は、それが司法審査の範囲を画する働きをしていないことをなお不満とする。古典的な裁量論の枠組みでは裁量不審理が原則であるから指標として明快であるし、逸脱審査方式でも裁量の逸脱は例外であるという原則で対応できる。それに対して裁量一元論では、司法審査が尽きたところに行政の裁量を観念するわけであるから、司法審査の範囲の指標を事前に提示することはできないのである。

そこで、著者は、第3章において、その後の審査方式の発展に目を向ける。ここで取り上げられるのは、手続的審査方式と判断過程審査方式である。手続的審査方式とは、裁判例のうえでは、いわゆる白石コート(白石健三が裁判長)の個人タクシー判決(東京地裁1963年)と群馬中央バス事件判決(同)を嚆矢とするもので、要するに行政処分が適法であるか否かを実体面で判断することは差し控え、必要とされる手続を行政庁が誠実に履践したかどうかを審査しようという考え方である。それに対して判断過程審査方式とは、土地収用法の事業認定が争われた日光太郎杉事件判決(東京高裁1973年、これも白石裁判長)において採用された方式で、考慮すべき事項を考慮したか、考慮すべきでない事項を考慮してはいないか、あるいは過大に評価すべきでない事項を過大に評価してはいないか、という角度から審査を行うのである。この審査方式については、実体と手続を融合させた審査方式だと評価されることが多いが、著者はそれが手続的統制としての性格を失っていないことを重視している。いずれにせよ、著者は、先に裁量一元論を論じた段階では、それでは司法審査の範囲が明確にならないというので、いまだ裁量二元論と訣別することができなかった。しかし、新しい司法審査方式、とりわけ判断過程審査方式について詳しく検討したうえで、これを、裁量一元論を継承し裁量二元論から脱却しているとともに、司法審査の範囲をも画することができると評価し、一応の満足を示して本論を閉じている。

結論の部において著者は、まず、裁量二元論の終焉と、それを思想的基盤とする原告説の破綻を確認する。しかし、裁量一元論に立脚する非原告説では、これまで、司法審査の実際の進行が反映されていない。著者にはやはりそこが不満である。

著者は、裁量処分取消訴訟に関して証明責任を語る場合には、証明の過程の動態に着目すべきであることを強調する。具体的には、「まず原告が裁量行使の不合理性について何らかの主張をする」、「裁判官が行政庁に充分な説明を求める」、「しかし行政庁が何ら内容のある回答をしない」、「そこで裁判官が原告の主張内容を正しいものと認める」、というようなやりとりを表出できる証明責任論を構築すべきだということである。すなわち、著者は、民事訴訟法学の枠組みでいえば客観的証明責任よりも行為責任的な証明責任論に力点を置いている。

そうした方向での立論の支柱として、著者は、民事法分野で語られている要件事実論に注目し、そこから有益な手がかりを引き出そうとする。すなわち、要件事実論においては、請求原因、抗弁事実、再抗弁事実というように、主張立証を要する事項が原告と被告の間に割り振られていく。まさに原告と被告との間のやりとりが想定されていることになる。著者は、裁量処分の取消訴訟においても、そうしたやりとりないし論争の構造を念頭におきつつ、どの時点でどの事項をどちらが主張立証するのかを決めることが、大切であるとする。

以上が本論文の要旨である。以下、それについての評価を述べる。

本論文は、わが国における行政裁量論および裁量処分の審査のあり方の変遷を、裁量二元論と裁量一元論という明確な枠組みによりつつ、全体として適切に分析している。冒頭にも述べたように、こうした歴史的変遷の全体像を捉えることは決して容易ではないが、著者はそれを明快な言葉遣いで、一貫した筋道のもとに描いてみせた。その際、著者は、各時代の学説を単に時系列上に置いて事足れりとするのではなく、時代を隔てて存在する見解と見解の間の関連を注意深く検討することに意を注いでいる。たとえば、本論文は、近時の裁判例では判断の基準に着目した審査方式(行政庁に基準を設定する義務があることを前提に、「当該事案で合理的な基準が設定されたか、それは正しく適用されたか」という角度から審査する方式)が用いられるようになっているが、この審査方式には佐々木惣一が唱えた裁量濫用の法理を想起させるものがあり、また、現代の研究者の所説(亘理格、小早川光郎ら)のなかにも佐々木学説の系譜に連なるものが見出されるとしている。こうした思考の連続性は、従来の研究では必ずしも十分に明らかにされておらず、本論文によって初めてその構図の全体が明確に提示されたと言えよう。考察の切り口の面でも、たとえば逸脱審査方式とそれを支える裁量論を検討するなかで田中学説の構造的不整合性を指摘したところなど、独自性が認められ、従来の研究を深化させている。

本論文の核心は、何と言っても「裁量処分取消訴訟の進行を表出できる」証明責任論ないし主張立証ルールの構築の重要性を強調するところにある。この提案は、取消訴訟における証明の負担を原告被告間のやりとりに着目して分配しようというものであるが、こうした動態的な思考法は、いわゆる原発訴訟において若干の展開を見せているものの、わが国の議論ではまだ広く採用されているものではない。それを明確に記述して見せたことは高く評価できる。しかも、単なる観念的な考察に止まらず、裁判例を丹念に分析して結論を導いているので、総じて今後の行政訴訟研究の一つの方向を示す研究となっている。

本論文の構成は明確であり、文献の読みも正確である。また、読み取った内容を慎重かつ的確に整理し、そこから厳密に論理を展開させて結論を導いている。強靱な論理的思考力という研究者に最も必要な能力を、充分に持ち合わせていることが窺われる。

もっとも、本論文にも至らぬ点がないわけではない。第1に、外国法、とくにドイツ法について、正面からの言及がなされていないことである。著者は、ドイツ語を読む力があり、現にある程度のものを読んでいることが脚注からも窺われるが、そのうえで、対象を日本に限定するのが適切であると判断したものと解される。しかしそれにしても、たとえば日本の様々な学説についてその思考の淵源をドイツ法にまで遡って分析することが試みられていれば、研究の厚みはさらに増したのではないかと思われる。

第2に、論理の厳密さに意を注ぐ反面、それぞれの言説の背後にある文化的社会的な諸事情に目が行き届いていない場合がある。種々の文献を検討する際には、著述している人物の職業的あるいは学問的な立場が意味をもつことがあり、そのために、直接テーマに関係しない文献に幅広く目を通してみるようなこともすべきではなかったか。

第3に、著者は、自らの「証明責任論」の具体的な展開の手がかりとして要件事実論に着目するのであるが、この後者については、もっと深く掘り下げる必要がある。また、そのほかにも著者の「証明責任論」を補強し得る論理は存在するはずであり、それを探求することも、著者の今後の課題とされよう。

しかしながら、これらの短所も本論文の価値を著しく損なうものではない。著者が日本の資料を正確に読みこなし、論理的な分析力と達意の日本語でまとめあげた本論文は、日本における行政裁量および行政訴訟についての従来の研究水準を大きく向上させるものであると評価することができる。したがって、本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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