学位論文要旨



No 118694
著者(漢字) 関口,すみ子
著者(英字)
著者(カナ) セキグチ,スミコ
標題(和) 政治変動とジェンダー : 「埒もなき大名の妻」から「賢母良妻」へ
標題(洋)
報告番号 118694
報告番号 甲18694
学位授与日 2004.02.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第179号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 平石,直昭
 東京大学 助教授 野島,陽子
 東京大学 助教授 苅部,直
 東京大学 助教授 宇野,重規
内容要旨 要旨を表示する

「大名の妻ほど埒もなき者はなし」とは、荻生徂徠『政談』巻之四にある言葉である。従来、『政談』のジェンダーに関わる箇所についての研究はほとんどないが、じつは、徂徠は、巻之四で、武家の奥向きに関する問題を幅広く論じているのである。すなわち、大名の妻、妾(とくに御部屋)、女中などに関する問題点を指摘し、対処法を具体的に述べている。同様に、巻之二では、奥向きの奢侈(「内証の侈」)・「上方の者にだまされて出来たる格」・「大名をだまして物をとる事を専一とるする」京都の人情・「かの公家の娘に付来る女房」等、総じて、大名の妻と奥女中・公家をめぐる問題について論じている。さらに、巻之一では、「武家の妻娘も傾城・野郎のまねをして」(「種姓の混乱」)・武家の妻女の奢侈というように、武家一般に関わる問題について述べている。総じて、問題の根源は、「諸大名……一年はざみの旅宿也。その妻は常江戸なる故、常住の旅宿也」にあるというのが徂徠の診断である。したがって、武士を土着させ、妻女も「田舎」に住まわすべきだというのがその処方であった。

『政談』は将軍吉宗に上呈されたものである。徂徠の照準は、諸大名家の奥の元締めたる大奥にあてられていたであろう。中でも注目されるのが、綱吉の大奥を名指しで批判していることである。

たとえば、徂徠が口をきわめて批判している「子を持ちたる妾」で「御部屋と名付け」られ、もっともらしい「諸事の格式」に囲まれて、しかし、じつは「妓娼あがり」であるとは、いったいだれのことを指すのであろうか。

『政談』上呈と前後する頃、巷では、その頃流行った唐の玄宗・楊貴妃の物語に綱吉をなぞらえて、淫靡な空間として大奥を描き出すことが大流行だった。その‘最高峰'が『護国女太平記』であり、また、漢文体の格調も高い『三王外記』である。これらは、おそらく、最も打撃を与えることのできる隠微な政治的攻撃であった。

なお、「礼」をたてられよという徂徠の訴えを吉宗がどこまで実行に移したのかは明らかではないが、少なくとも、それまで身分に事実上制限がなかった将軍生母(つまり、将軍の妾)は、吉宗の子家重以降、基本的に旗本(ないし公家)となっている。また、御部屋様ないし御内証御方と称されるのは、産んだ子が世継ぎになってからで、それまでは女中にすぎないという原則がうち立てられていった。

徂徠は、家格の表示・家と家との姻戚関係づくりの環という従来の大名の妻像を批判したが、「田舎」に送れという以外にとくに対案は出さなかった。それを継いで、新たな「大名の妻」像を提示したのが、上杉鷹山とその師細井平洲である。上杉家(米沢藩)という、由緒ある大家でありながら極貧にあえぐ藩の当主となった鷹山は、藩政改革の奥の中心として機能しうる大名の妻像を提示した。すなわち、「女訓」を学び、夫(大名)をたて、奥向きの倹約を率先して行い、さらには藩内の民にまで目配りする「国民の母」である。

白河藩でこれを見ていた松平定信は、鷹山に倣いながら、大奥にのりんで老女たちと対決した。しかし、定信が大奥を改革するよりも、むしろ、定信の改革の方が大奥でついえてしまったようだ。

定信辞任によって自由になったのは、大奥であり、家斉であった。以後、文化・文政・天保と、「大御所」時代も含めて半世紀に及ぶ家斉の治世が始まる。

文化・文政期には、大奥を中心に、江戸女性文化が花開いたと言えるであろう。だれもが三味線を習い、できることならお屋敷勤めをめざした。大奥や、大名・旗本の家の奥の様子は、歌舞伎の舞台などから窺い知れた。また、豊かな家の妻たちは、「上つかた」の奥方をまねた。

それは、政治的には、奥(大奥と中奥)に閉鎖的に守られた将軍の御代であった。

会沢正志斎は『新論』で、「国家の用を貶して、以て婦女の玩好に供す」と指弾し、大塩平八郎は、「奥向女中之因縁を以、道徳仁義をもなき拙き身分にて、立身重き役に経上り」と幕政批判ののろしをあげた。

しかし、家斉は、今度は大御所として「西丸御政事」を始めた。とりわけ、側室お美代の方に連なる勢力が将軍隠居後も引き続き実権を握っていることに対して、「女謁」という非難が高まった。綱吉をめぐってささやかれた、愛妾と佞臣よりなる将軍家の奥(大奥・中奥)という物語は、ふたたび燃えさかった。

また、加賀前田家に降嫁した溶姫をはじめとする、家斉の大勢の子どもたちの養子・婿入り・降嫁問題が、御三家をはじめとする大大名家を痛めつけた。

そのとき、「牝?の害」の除去を掲げて大奥と幕政への介入を始めたのが、水戸徳川家を継いだ、正志斎の教え子徳川斉昭であった。だが、結局、隠居に追い込まれた。息子の徳川慶喜は、「老女は実に恐るべき者にて、実際、老中以上の権力あり」とつぶやいている。

家斉は、天保十二年(一八四一)に大往生し、大御所時代にようやく幕が下りた。とはいえ、その後の家慶・家定・家茂・慶喜の四代を合わせても、徳川幕府にはあと二十七年しか残されていなかった。『真佐喜のかつら』の筆者によれば、「家斉公御他界後、御改革より追々四民共衰微して安心の時を得ず 然のみならず両御殿数度の炎上、京都大内裏同断、諸国凶作飢饉も有之、殊には大ひ成地震風災、めづらしきは異国船渡来、於将軍家は御早世も打続、老若其外の役人、今日の盛は翌日衰へにいたる事、筆紙につくしがたく……。」

幕府は起死回生をかけて、「公武合体」のために、皇女の降嫁を願い出た。しかし、その皇女は、「内親王・皇妹」という地位を手にしてから大奥にのりこんできた。それゆえ、大奥は御所風と武家風に真っ二つに割れ、やがて瓦解の時を向かえてゆくのである。

さて、ついに権力をとった志士たちは、まず、大奥と入れ替わりに入城した宮中から、なんとしても「女権」を排除しようとした。女官から「数百年来の女権」を剥奪し、他方で、政事に口を挟むことを忌諱し、「国民の母」をめざす皇后を育成した。

そもそも、皇后が幼少の頃から学んでいたのは、加賀前田家の儒者西坂成庵が執念をもって刊行した『校訂 女四書』であった。また、侍講となった元田永叙が「上杉鷹山ノ女訓」を使って皇后をさとした。

さて、御一新によって大奥という頂上は瓦解したが、それによって、社会一般のジェンダー編成がただちに変わったわけではない。攻め上った勢力にとり、江戸(東京)は「御一新」の対象でもあった。同時に、「文明」社会に入るにあたって、日本のジェンダー・セクシュアリティ・システムへの「文明」(西洋人)の目を本格的に意識せざるをえなくなった。

西洋に本格的に対面した日本は、そもそも文明ではジェンダー秩序がアベコベだと感じて、当惑した。「男女同権」とは、なによりもまず、思想問題であったのである。西洋のレディ・ファーストの慣行が声高にとりざたされ、西洋風「男女同権」への警鐘が鳴らされた。その後、じつは西洋にも「男女同権」などはないのだと断じることで、「男女同権」ではなく、「男女同等」へと道が開かれた。

また、文明社会に入るにあたって、「一夫一婦」というハードルを掲げる西洋を前に、婚姻形態・妾・遊郭など、ジェンダー・セクシャリティの体制全般を見直す必要が生じた。西洋との認識のズレをめぐる大混乱を引き起こしながら、ジェンダー秩序それ自体が、世間一般の一大争点となっていった。大奥・奥なきあとの江戸女性文化、とりわけ、娼妓が攻撃にさらされ、なかでも福沢諭吉は、彼女たちを「人間外」の地位に追いやることで、文明国としての体裁をなんとか繕おうとした。以後、こうした、江戸女性文化の断罪、女性が性関係と絡めて何かを得ることへの侮蔑が、(上流婦人をもその標的にしながら)近代日本の言説の底流となってゆく。それは、弱者をさらに道徳的に断罪し、抵抗を禁じて、ただ汚名をひきうけることだけを求めるものであった。

創立されるべき国の、ヨリ広い政治の領域におけるジェンダー配置の問題に関しても、男女同権・女子参政の権論、女帝論など、様々な議論が噴出した。

しかし、こうした動揺と喧噪のただ中から生まれた大日本帝国のジェンダー秩序は、およそ政治の領域から女性を一掃するという徹底性をもったものであった。それは、西洋思想の洗礼を受けながらも、最深部で儒教思想に支えられ、(井上毅の考えでは)「陰陽」の実現をめざしたものであった。すなわち、近代日本のジェンダー・システムは、その創成期において、古代中国の理想の実現を読み込まれていたのである。それでいて、それは、西洋をも含めた普遍的真理として語られた。こうした思想的徹底性を根底にもちながら、つぎには、「国民の母」皇后を先頭とした「賢母良妻」の群れの育成をめざすものとして、女子教育が構想されてゆく。それは、儒教的世界観を根底に、西洋近代を選択的に摂取するものであった。

総じて、ジェンダーは「御一新」という政治変動に大きくかかわり、また、逆に、政治変動によって大きく影響を受けたのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、江戸時代中期から明治期中葉までにおいて、政治権力と女性との関わりがどのように論じられ、そして、それがどのように変化したかを、特に統治の中枢に関する言説に注目しつつ、綿密に実証することを試みた作品である。筆者によれば、それらの言説が、「御一新」という巨大な政治変動に深く関係し、また逆に、この政治変動によって大きな変化を受けたのである。

「はじめに」と「終わりに」に挟まれた、2編、計10章から構成されている本論文の内容は、概ね以下の如くである。

「はじめに」において筆者は、まず、最後の将軍、徳川慶喜が、後に回顧して、自分が13代将軍の世継になることを忌避した理由として「大奥の情態を見るに、老女は実に恐るべき者にて、実際、老中以上の権力あり、ほとんど改革の手を著くべからず。これを引き受くるも、とうてい立て直し得る見込み立たざりしによれり」と述べていることを引き、このような証言にもかかわらず、「大奥」が依然として真剣な研究の対象となることが少ないのは、江戸時代中葉以来の「大奥」への批判的・侮蔑的な視線が無意識に継承されているためではないかと指摘する。さらに筆者は、廃藩置県直後に「女官総免職」を決行した、西郷隆盛の腹心、吉井友実が、その日記に「是迄女の奉書などゝ諸大名へ出せし数百年来の女権、たゞ一日に打消し、愉快極りなし」と書いていることを指摘している。つまり、漠然と「江戸時代、女性の力は弱かった」などと言って済まされない面があるというのである。そして、筆者は、特に将軍周辺の女性のありようをめぐる諸言説を探ることを第1編の課題とする。そして、維新がその上記の「老中以上の権力」「数百年来の女権」に何をもたらし、ジェンダー編成がどのように再編されようとしたかを探ることを第2編の課題としている。

第1編は、「『埒もなき大名の妻』から『御一新』へ」と題されている。

その第1章で、筆者はまず、「奥」を問題として先駆的に採り上げた、荻生徂徠に注目している。徂徠は、将軍吉宗のために書いた『政談』において、大名の妻を「埒もなき」ものと呼び、当時多かった大名の公家との縁組みを批判し、また、主君の娘が家来に嫁いだ場合にも男女の序列が主従の序列に優先すべきことを主張し、さらに、低い身分出身の大名の妾が、出産によって、家来を平伏させる身分に成り上がることの問題性を指摘した。筆者の考証によれば、現に、徂徠が仕えた柳沢吉保(徳川綱吉の側近)の側室、公家の娘であったはずの正親町町子は、実は元遊女だった可能性がある。しかも、その息子は大名になっていた。徂徠は、漠然たる一般論を述べているのではないというのである。将軍・大名における女性の扱いは、武家と京都との関係という江戸時代における最も微妙な政治問題に関係し、主従関係と身分制という統治と社会の基本原理に関わる重大な問題であった。徂徠は、それに先駆的に気づき、憂慮し、改革の必要を唱えたのである。

第2章で、筆者は、徂徠以後、「奥」「大奥」、そして「奥女中」に対し、批判的視線が強まっていったことを、種々の具体例を挙げて詳述している。筆者は、匿名で書かれた「奥」をめぐる様々な史書(徂徠の高弟、太宰春台の執筆と言われる『三王外記』等)や小説、そして川柳や春画を分析し、それらが、淫靡でスキャンダラスな空間として「大奥」を描き出し、将軍の権威を密かに掘り崩していったと指摘する。さらに、筆者は、この現象と、フランス革命におけるルイ16世にかかわるポルノグラフィの流布との、一面での類似性を、リン・ハント氏の研究を引いて指摘している。

第3章では、筆者は、第2章で述べたような傾向の強まりと同時に、貧窮に苦しむ諸藩の改革の進行と共に、大名の妻について、新しい理想像が形成されていったことを指摘し、記述している。元来、大名の妻は、大名家にとって、親類のネットワークを拡げ、家格を表示する道具としての意味を持っていた。それ故、家格に相応しい贅沢は、当然であった。しかし、それを奢侈・浪費と見なして非難し、一方で、大名の妻に、より積極的な役割を期待する考えが抬頭したのである。例えば、最も困窮していた藩の一つ、米沢藩に養子に入った上杉鷹山は、極度の倹約を実行し、「奥」において養蚕を始めさせる等の改革を行うと共に、孫娘一人一人のために教訓書を書いて嫁入りさせた。それは、藩の改革の、「奥」における中心として機能するように、教え、勧めるものであった。例えば、彼の女訓の一つは、「政事の本は一家閨門の間より起る」と述べ、「御身は此の国民の母ならすや」と諭し、「婦徳」を養って「我が国に賢婦人と仰がれ」るようになれと教えている。儒教では「君子」を「民の父母」とするが、それは「父母」という一体となった概念である。ところが鷹山は、藩主を「国民の父なり」とし、その正室を「国民の母」とし、その自覚を促したのである。

第4章では、米沢の隣、白河の藩主、老中松平定信による大奥改革が詳細に分析されている。定信の老中就任自体、大奥の女中たちの反対を押し切って実現したものだった。当然、就任後も駆け引きは続いた。筆者は、史料の綿密な分析から老女たちの動きを再現している。そして、定信は、実力ある老女たちを次々と解任することによって大奥を封じ込めようとしたが、その結果、大奥に介入する手がかりをも失い、大奥に籠もった将軍(成長した家斉)に「表」からの歯止めをかけられない状態を、結果として造ってしまった、としている。

一方、定信自身、くりかえし女訓を執筆し、夫への従順・質素、そして政事への不介入等を説いたことに、筆者は注目している。そこには男が女色に溺れてその言いなりになることへの異常なまでの警戒心が現れている。定信にとって女性は、政治にかかわる重大な関心事であり続けたのである。彼の晩年の告白的手記によれば、彼は、年少の頃から「容儀いとよき」侍女に「けそう」して「こころまど」い、その気持ちを抑え込むべく長期にわたって苦闘した経験があった。その経験が反映しているのではないかと、筆者は示唆している。

第5章は、定信の老中辞任により、21歳で親政を始めた将軍、家斉を中心に扱っている。第1に、家斉は16人の側室から、27男、26女を儲け、諸大名に多数の養子と嫁を押しつけた。男子が産まれない大名に早々に養子をとらせ、その後に男子が誕生した例もある。尾張徳川家に至っては、家斉の子供が3度にわたって夫婦養子として入っている。そして、姫君たちは、数十名のお供をつれて降嫁していき、深刻な財政問題と軋轢とを引き起こした。それは、隠微な怨嗟を醸し、徳川宗家と御三家との、また他の大名家との共同性を掘り崩す行為だったと、筆者は指摘している。また、第2に、筆者は、家斉の下で、大奥という中心を志向する、女性を担い手とするサブ・カルチュアが成長したとする。いわゆる化政文化は、江戸女性文化という面を持つというのである。庶民の娘も芸を学んで「奥」に奉公に出ることは可能だった。それによって、新たな交際と商売の路も開けた。「大奥」「奥」の大きな需要が女たちによって担われている以上、女たちのネットワークが重要性を持ったのである。また、「江戸は特に小民の子といへども必ず一芸を熟せしめ、それをもつて武家に仕へしめ、武家に仕へざれば良縁を結ぶに難く、一芸を学ばざれば武家に仕ゆること難し」とさえ評される状況もあった。したがって、女性が三味線の師匠などととして市中で自活することも可能となっていった。広く読まれた為永春水の人情本『春色梅児誉美』は、芸で自活する女たちが色男を競い、支える話であり、芸事による女性の自活と、男を立て男に尽くす『女大学』的規範との、微妙な混合物であり、規範が挑戦されないままに空洞化していったことの現れであると、筆者は論じている。

第6章では、家斉以後の、「大奥」をめぐる混乱状態が複数の角度から描き出されている。第1に、家斉の下、大奥・奢侈・政事の頽廃を結びつけ、「女」を敵視する政治的言説が噴出した。大塩平八郎の檄文や水戸学の会沢正志斎の『新論』はその先駆であった。会沢に学んだ徳川斉昭は、当主になると藩政改革に乗り出し、さらに幕府に対し、くりかえし「奥向」改革を提言した。そして天保12年についに家斉が死去すると、「天保の改革」が始められた。そして、ペリー来航後、切迫する情勢の中で斉昭の諮問に応じた藤森弘庵は、上杉鷹山の改革を引きつつ、「奢侈の根元は婦女より起るなり」として、「御奥女中三分一に減少之事」という幕政改革案を提出した。斉昭自身も「女誡」を書いた。しかし、改革は容易ではなかった。現に、斉昭の子、一橋慶喜は、前引のように、「老女は実に恐るべき者にて…ほとんど改革の手を著くべからず」と考え、将軍継嗣となることに尻込みしたのである。すなわち、幕政改革の鍵が、同時に、改革の最大の障害であった。  第2に、財政や家風の維持のために、大名は、自分より家格が上の家からの嫁取りは避けるのが得策だという議論がなされていた。しかし、やがて徳川宗家自身が、政治的必要に迫られ、その「禁じ手」に手を出した。和宮降嫁である。彼女は「万事御所風」を維持することを約束させ、内親王宣下を受けてから江戸入りした。当然、「皇妹」と「御姑」の軋轢も、夫家茂との軋轢も生じた。かつて、家斉の娘が大名家に巻き起こしたような混乱を、将軍家自身が味わうに至ったのである。

第7章では、この江戸時代末期に、一方で、新たな「女教」の試みがなされたことが指摘され、詳述されている。例えば、西坂成庵は、嘉永7年に『校訂 女四書』を刊行し、女子が賢くなり、賢妻・賢母となるべきことを力説した。筆者によれば、それは明治の「賢母良妻」論の先駆であった。さらに、「女学校」を作るべきだという主張も出現した。吉田松陰も、「夫婦ハ人倫ノ大綱ニテ、父子兄弟ノ由テ生スル所ナレハ、一家盛衰治乱ノ界全ク茲ニアリ、故ニ先ツ女子ヲ教戒セスンハアルヘカラズ」と「女学校」を設けて教育すべきことを説いた。明治の女子教育論に連なるものが、こうして、早くも出現したのである。

第2編は、「『文明』の国へ」と題されている。

その第1章は、「御一新」と題され、まず、維新によって、「大奥」が瓦解し、諸藩の「奥」の権力もその基盤を失って崩壊したことを指摘している。一方、天皇をめぐる「女権」が問題として急浮上した。例えば勾当内侍(長橋局)は、中世以来、勅旨を奉じて仮名書きの書状を出し、実際上、天皇の秘書のごとき役割を果たし、さらに天皇と外部との取次を掌握していた。天皇の身体は、公家の各家としきたりとを体現した女官たちによって囲繞されていたのである。そこで、例えば大久保利通は、明治元年に宮廷改革に関する意見書を提出し、「表之御座 女房出入厳禁セラレ候事」と主張した。それは、斉昭の「牝鶏の害」を憎む「大奥」改革論と酷似していた。天子が将軍に代わっても、連続した問題があったのである(実際に、公家は、江戸城大奥の老女たちの供給源でもあった)。明治元年12月、一条家の3女、美子と天皇との婚儀が行われ、翌年、彼女は「東京城」に入った。そして、明治4年、彼女の「出御」を得て、前記の「女官総免職」が決行された。これによって、禁裏にある「女権」と、大奥にある「老女の権力」という、武家政権下で発生した連続した問題に一挙に断が下されたのであり、その意味で、明治維新とは、「女権」の排除、即ち「男権」の再定立だったと、筆者は指摘している。

では、皇后美子とは、いかなる存在であったのか。彼女は、幼時から西坂成庵の『校訂 女四書』に親しんだ女性であった。その師、若江薫子は、幕末には坂本龍馬を自宅に隠して死地から救ったといわれ、明治4年には強硬な反文明開化の主張によって鎖錮2年の判決を受けた女性である。つまり、尊王攘夷の「志士」ならぬ「烈女」であり、しばしば「女丈夫」とも呼ばれた人なのである。その若江が、皮肉にも「文明開化」の旗手となった皇后の旧師であり、彼女に「国母」たれと教え、彼女を女御とすべく運動したと言われている。美子は、『女四書』を尊び、明治26年の『女四書』刊行のきっかけをも作っている。

また、明治4年から24年まで天皇の侍講を務めた元田永孚は、美子にも理想の皇后像を教えようと努力を続けた。明治9年には、「上杉鷹山ノ女訓」をみずから手写して献上した。鷹山における「国民の母」の「国」とは藩を指していたが、今や日本という「国」が問題となったのである。そして、彼女はその意味での「国民の母」たらんとし、実際に宮城内で養蚕をするようにもなった。しかも、彼女は「質素」であるとされた。こうして、かつて徂徠に「埒もなき」と罵られた大名の妻、大奥に鎮座していた御台所に代わって、堂々と外国使節を接見し、養蚕をし、「国母」として女子の学問を奨励し、「女徳」を体して「女訓」を垂れ、兵士を慰問し、そして「質素」な生活をおくるという皇后像が確立したのである。

しかも、明治中期頃まで、彼女は、往々「御性質の雄々し」い、「神功皇后」の如き存在としても描かれている。それは、幕末以来盛んであった「女丈夫」「烈女」「烈婦」への賛嘆の延長にあるともいえる。現に彼女の師、若江薫子は、上記のようにそう呼ばれたのであった。但し、このような「強い女」への賛嘆は、男性中心秩序を破壊するものではない、既存の規範にしばられない女性も、結局男を活かすのであれば「烈女」「女丈夫」と、亡ぼすなら「毒婦」「妖婦」と区分された、筆者はそう付言している。

さらに、美子は『源氏物語』をも愛読していたとされる。それはかねて和歌と共に、優雅な女性の教養として、尊ばれていた。その内容は、明らかに『女四書』の説く教訓と矛盾する。しかし同時に、それは、新たな「源氏絵」の主人公には相応しかった。「源氏絵」とは、家斉の時代に大人気を博した、歌川国貞による柳亭種彦『偐紫田舎源氏』に付されたあでやかな錦絵である。その人気が、和宮の錦絵で再燃し、美子の「皇后図」に引き継がれて人々の心に浸透していったのである。彼女のあでやかな洋装姿を描いては他に追随を許さなかった楊洲周延は、現に国貞の孫弟子であった。

筆者によれば、以上のような皇后像は、「女権」を排除し、「女が政事に嘴をはさむ」ことを拒絶した「大日本帝国」に見事に対応するものであった。

第2章は、「『文明』の国へ」と題されている。「文明開化」の大波の中で進められた新たなジェンダー秩序の模索がその主題である。例えば岩倉使節団は、文明国では「婦人ヲ尊敬スル風俗」であることに驚愕した。当時盛んだったレディ・ファーストの習慣である。「一夫一婦」はさらに問題だった。当時の西洋人はそれを「文明」と「野蛮」とを区別する重要な基準としていたからである。福沢諭吉は断乎として「一夫一婦」を主張し、妾制度を批判した。やがて廃娼論も盛んになっていった。福沢は、せめて娼妓を隠し、排斥し、差別するように主張した。とりあえず外形だけでも西洋並にしようというのであった。それは、遊女が女性の一つのありようとして確立していた旧来の伝統への批判であった。福沢をはじめとする文明知識人の言論活動により、華やかで、しかも親のために身を売った「孝行娘」でさえあった「おいらん」の地位は、じりじりと低下し、「売淫婦」とさえ呼ばれるようになっていったのである。

一方、明治10年代には、一時、西洋の影響の下、「女子参政の権」が議論の対象となった。「女子演説家」岸田俊子や、景山英子・清水豊子等の女権活動家も登場した。『女権美談 文明の花』と題する女子参政権を主張する小説(明治20年刊)も出た。しかし、結局、衆議院議員選挙法・貴族院令によって議員は男子に限られ、選挙権も男子に限定され、集会及政社法によって女性の政治結社への加入、政談集会への会同も禁止されたのであった。

第3章は、「制度を立てる」と題され、まず、教育勅語が「夫婦相和シ」と規定するに至った過程が詳細に分析されている。筆者は、元田永孚の「夫婦和キ」という主張と、井上毅の「夫婦相和シ」という主張を子細に比較し、両者がいずれも「夫婦別有り」という儒学の教えと異なるように見えながら、実は後者は陰陽和合という儒学的色彩の濃い意味が込められていたと指摘している。ついで、中村正直による「賢母良妻」論の形成が取り上げられ、それが単に西洋の影響ではなく、江戸時代後期以来の「女教」「賢婦」「賢母」論を引き継いだものであることが指摘され、「高等女学校」も実は女子に「高等教育」への道を阻み、「賢母良妻」へと誘導するものであったとされている。それは、儒教的世界観を根底にして西洋近代を選択的に摂取するものであった。

こうして、ある意味で、明治の女は江戸の女より強くはないものにされていったのだと、筆者は、結論的に述べている。

以上が本論文の要旨である。

本論文の長所としては、次の点を挙げることができる。

第1は、「公」と「私」が分離していない権力の中枢において、女性が種々の意味で実際上重要な政治的存在としてあり、それ故そのことをめぐって男性知識人が議論を重ね、さらにそれらの議論が政治変動とも結びついていった、という構造と変化を、約2世紀という長期について、説得力をもって描ききったことである。無論、個々の点については先行研究もある。しかし、全体としてみれば、これは未曾有の試みであり、しかも相当の成功を収めているといってよい。特に、江戸時代に昂まっていった奢侈と腐敗への反感が「奥」への憎悪と結合し、それが維新改革に一面で連続し、西洋の衝撃の下、政治から「女権」を徹底的に排除する形で一応の決着を見たという、本論文の提出した仮説は、単純な、「抑圧からの解放」や「封建的抑圧から良妻賢母へ」といった図式を覆す、画期的な意味を持っている。

第2は、通常の政治史の表面には女性がほとんど登場しない時代について、「大奥」と「宮中」とを連続してとらえることによって、女性を政治思想史の主題として一貫して登場せしめることに成功したことである。そもそも明治維新をはさんで一つの主題で論文を書くこと自体、容易なことではない。しかし、筆者は巧みな問題設定によってそれを可能にし、日本史の無視されがちだった面に新たな光を当てたのである。

第3は、儒学者の経世論や史書、諸記録、女訓書、小説、絵画、雑誌、新聞等、多種多様の史料を渉猟し、綿密に分析し、活き活きとした文体で、その結果を表現したことである。その研究者としての力量は、相当のものがある。

但し、本論文にも短所が無いわけではない。

第1は、記述が時に細部の考証に沈潜して行き、あるいはやや離れた主題に及び、何が本質的主題で何が派生的論点なのかが、見えにくくなり、読者を戸惑わせる箇所があることである。無論、細部についての歴史的考証も重要な意味を持ちうるのは当然ではある。しかし、叙述には、さらなる工夫がありえたと思われる。

第2に、基本的には知識人の言説が問題とされているものの、時には、それが対象としている社会的現実へと議論が進んでいる。それは事の性質上やむを得ない面があるとはいえ、そのいずれを論じているのかが不明確になっている例が無いではない。また、推論の証拠がなお不十分と思われる箇所も無いとは言えない。

第3に、「政治変動」という語を含め、用語の正確さや明晰さにおいて、時に問題があることも、否定できない。

しかし、以上の短所も、本論文の意義と価値を大きく損なうものではない。これは、多様な史料の綿密な読みに支えられた大胆な推論によって、近世・近代の日本政治思想史研究、日本のジェンダー編成の史的研究に新たな視点をもたらす作品であり、明らかにその進展に寄与するものである。本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと認められる。

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