学位論文要旨



No 118697
著者(漢字) 祁,建民
著者(英字)
著者(カナ) キ,ケンミン
標題(和) 近現代華北農村における社会結合と国家権力 : その構造及び変容
標題(洋)
報告番号 118697
報告番号 甲18697
学位授与日 2004.02.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第460号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 高見澤,磨
 東京大学 助教授 田原,史起
 京都大学 教授 濱下,武志
内容要旨 要旨を表示する

中国における国家と社会との関係は人類の社会文化を歴史的に研究するうえで、大きなテーマの一つである。しかし、これまでの研究は県レベル以下の段階においては「統治-被統治」という関係の接点に対して、非常に曖昧な部分を残した。国家権力の行使される場所と社会生活とは特定の空間で展開する。筆者はある地域社会の範囲で国家権力と社会との関係についての研究は有効と考えている。即ちある地域社会の範囲内に、国家が如何にミクロ的に統治権を行使し、地域内の人々はどのようなルートを経由してどのように統治されるかという研究が重要であるとの立場に立っている。よって、ある地域範囲内において国家権力と住民との接点を明らかにしようと思う。本稿では、近現代華北村落内における人々の間の総合的関係を対象としてとりあげたい。華北地域の村落範囲内において総合的人間関係、即ち社会結合は、その構造の主な部分は、血縁、地縁、信仰縁と業縁との関係からなっている。よって、本稿は具体的に、宗族結合、村落地縁結合、民俗宗教結合と互助合作結合などの四つの社会結合の形を総合的に取り上げて、四つの社会結合の有り方と特質及び四つの社会結合の間の互いに交錯する関係を明らかにし、その上で、国家権力とこの社会結合との連動関係を究明したい。同時に、近現代においてこの四つの社会結合の変化及び国家権力との関係の変容の過程に留意したい。その最終的な狙いは、近現代国家体制に対応する社会結合の構造とその変容の視点から、現代中国における国家権力と社会結合との関係像を再構築してみることにある。

本稿は権力及びその表象を絞って、比較の手法をもちいて華北村落における国家権力と社会結合との関係を弁証法的に分析したい。まず、本稿で権力に関する理解を示す。権力を関係=機能としてとらえる立場から村落における国家権力を分析する。国家権力のもつ強制的側面以外に合意的側面も注目する。次は、国家権力と社会結合との関係を相対的かつ連動するものとして把握し、その複雑なイメージに接近する。国家権力の拡張及びその限界と、村落社会での受け止め及び抵抗という両方を把握し、国家権力と社会結合構造との関係をシステムとして総合的に認識する。政治的な象徴や表象をめぐって国家権力と社会結合との関係の理解を示す。

本稿は、華北の五つの村を例として国家権力と村民との接点を明らかにしようという視点から考察した。次は各章の要点をまとめたものである。第一章では先行研究を分析した上で、本稿の課題を提起した。第二章では華北農村おける国家権力の特徴として「専制的権力が強く、基礎的権力が弱い」ということを考察した。第三章は国家権力に対応する社会結合の特徴とその変化を考察し、華北村落の社会結合の弱さや、個人が中心であったこと及び国家権力の介入などを証明した。第四章は土地改革と集団化が村落に与えた影響を考察し、国家権力は村落の社会構造の再編に対して圧倒的な力を持ち、同時に固有の社会結合関係が階級の区分と互助組の結成の際に、一定の影響を与えたことを検討した。第五章は四清運動と文化大革命の際の、国家権力と村落社会結合との相互作用を考察した。第六章は1990年代の社会結合の実態を考察し、1940年代の社会結合と比較して、さらにその特質を究明した。第七章は暫定的な結論である。本稿の以上各章の分析と論証に基づいて、中国の国家権力と対応する社会結合の特質について、以下のようにまとめることができる。第一は、自然村落は華北農村の基本的地域単位で、共同体ではない。村落の中において、会首集団と村民との間には断絶があり、村民は一般に村政に対してさほど関心を持たず、「全員一致」という慣習や約束は存在しなかった。第二は、華北村落は多くの場合が雑姓村であり、村落内部の統制構造は村政と宗族の混成体である。村落内では、村政の運営は宗族組織の協力とは切り離せない。村落のエリート集団は血縁と地縁との関係の混合体を代表した。第三は、村落内は、主に個人関係によって構成された社会結合であり、リーダー格も固定していなかったことである。このような社会結合から国家権力に対抗できる、固定的で強力な権力・権威が生まれることはありえなかった。本稿は華北村落における地域社会結合と国家権力との関係について、次の特徴をまとめることができる。第一は、国家権力は村落社会結合の中核である。個人関係によって構成された社会結合とリーダー格が固定されていなかったことによって、国家権力に対抗する組織が形成されにくい。しかし、華北村落において国家権力に対抗する組織が形成されにくいということは、村落から国家権力への反乱がないということを意味しない。第二は、村落の「自律」の内発的要素が不足しており、村落秩序の維持にも国家権力の介入が不可欠であった。華北村落のエリート集団と村民との間に断層が存在して、村政の運営は少数の会首によって握られていた。村落全員は参加させず、全員による公議のような習慣がないことから、村落内部には紛争を自律的な、権威的に或は民主的に解決するシステムが欠けており、このことは国家権力の調停の手助けを求めざるを得なくしている。第三は、国家権力と社会結合は個人的な関係によって交錯し、国家は社会に対して完全な整合を実現しなかった。国家は個々人を完全にコントロールできるような膨大な行政のシステムを建設できず、よって、社会結合関係も利用しなければならなかった。しかし、この社会結合関係は共同体のように固定的ではなく、権力と個人利益をめぐって、柔軟に再建したものである。個人としては国家権力関係を含むすべての社会関係を利用して、個人を中心とするネットワークを構成しようとする。国家も様々な社会関係を利用してその統治を強化しようとする。国家権力は強大であるが、しかし政策を実施する時によく変形されたので、国家は社会に対して完全な整合を実現しなかった。このような特徴はかつての華北村落だけではなく、現代中国にも存在している。

最後に、本稿の考察を裏側から支える問題意識の一つの軸は、解放前と後の時期の社会結合と国家権力との関係を比較の俎上に載せることである。これまでの国家権力と社会結合との強弱対極の正反対関係という構図を越えることを試みた。近現代にわたり、華北村落における国家権力と社会結合との関係の行方は、国家権力は段々強くなり、伝統・自発的社会結合はしだいに弱くなるという西洋近代国民国家の形成モデルとは異なっていた。ここでは、解放前と解放後とを比べて、「双弱」と「双強」という観点を提起したい。解放前は国家権力と社会結合とはともに弱く、清末以降、国家は物理的、経済的な要因から、さらに内憂外患と国家権力の分裂により、自治を遂行したが、村落への統治は主にもとからの会首と慣習に任せ、主動的に村政に干渉しなかった(村民の抗税と村落からの提訴を除く)。一方、村落の内部の共同的な結束力も非常に弱く、断層が存在し、バラバラになっていた。解放以後、国家権力と社会結合とはともに強化された。国家は集団化を遂行して、村落社会を再編し、村落への統制を強化した。しかし、互助組を組織したときには、様々な人間関係を利用した。生産隊の区分は宗族共居と関連しており、生産大隊は自然村落の範囲によって編成され、農民の戸籍と身分を固定した。このような固定的な範囲において、限りのある資源の配分をめぐって、村民達は個人の利益を守るために、もとからある血縁と地縁などの関係を頼りにしなければならなかった。そのため、村落での宗族、地縁結合も強化された。一般的に、国家と社会とがともに強化されるということは、近代における国家(State)と市民社会 (civil society) との同等で対抗的な関係を指し、これは近代国民国家の標識である。しかし、華北村落における社会結合の基礎は近代国民国家の市民社会的な社会結合とは異なっていた。現代華北村落における社会結合は、まず、血縁、地縁などの基礎的集団を基礎として、出生により運命的に所属する。その社会関係は排他的に結びつき、互酬的 (reciprocal) な財のやりとり(贈与の交換)などの特徴をもっている。次に、その機能集団としては、主に個人関係によって構成され、もっと広い範囲の社会関係が地縁・血縁関係の延長線に広がっている。その内部には民主的な制度は存在しておらず、国家権力は村落社会結合の中核である。ここには、国家権力と社会結合は個人的な関係によって交錯し、社会結合は国家権力をめぐって展開されている。公共性の領域と私の領域とが幾重にも複雑に入り込んでいるので、公共性の領域を明確に意識できない。第三に、伝統的華北村落の地縁結合の内部は、宗族結合と近隣結合によって分断され、エリートと村民の間に断層が存在しているので自律性が低く、バラバラになっていた。自治資源が乏しい。解放以後に、国家権力に対抗するために、この社会結合は強化されたが、現代社会の組織化と比べて未だ低く、そして不安定である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、中国華北の農村社会を対象として、村落社会の社会結合の構造的な様態とその歴史的な変容過程について、利用可能な長期間にわたる具体的な調査資料に即して分析し、そうした作業を通じて華北農村にみられる国家権力と村落社会との関係の特質を明らかにし、さらに中国農村の社会的・歴史的な視角を展望しようとした力作である。

中国の国家と社会に関する従来の研究史には、巨大な官僚制に支えられる大規模な国家機構と、相対的に社会の基層にあって自律的な秩序を有していたとされる村落社会との並存という重層的な社会構造を想定し、国家権力と村落社会を二元的なものとして捉える見方が存在してきた。このような観点からすると、強力な国家権力のもとでは、村落社会はうえからの抑圧的な力によって整序されて自律的な力を弱め、逆に村落社会の力が強い場合には国家権力は社会の末端に及ぶことなく、国家は分裂への傾向を示し弱体化するという図式的な理解を生むこととなる。例えば、中国の専制的で巨大な国家権力の基礎は、孤立分散的な村落共同体の存在にあったとする見解は、従来の研究史における一つの典型であった。

こうした図式的理解とは異なる先行研究においても、専制国家の官僚システムやイデオロギーの面から社会構造に接近しようとする方法と、宗族や共同体といった基層社会集団の構造・機能の側面を重視して国家権力から相対的に離れた空間を想定しようとする方法などが存在してきており、この双方向の交差する領域については、なお十分な分析が加えられてきたとはいいがたい。本論文の著者は、こうした先行研究を批判的に総括し、国家と社会の接点を改めて構造的に明らかにしようと企図して、本論文を構想したといえる。

かつて日本による華北支配が行なわれていたころ、満鉄調査部などを中心として、華北農村に対する大規模な農村慣行調査が実施され、膨大な調査資料が残された。その後、中国には社会主義国家が建国され、学術的な農村調査の条件は制約されたが、戦前日本の調査から半世紀を経て、1980〜90年代以降には、かつての調査村落に対する再調査が可能となり、中国内外の研究者による再調査の試みが実施されるようになった。本論文の筆者もそうした華北農村に対する再調査の企画に参加し、本論文の主要な資料的根拠を実地に採集する機会を得るとともに、華北農村の社会結合の歴史的な変遷および現状の把握に関して、独自の分析成果と判断を形成するに至った。本論文は、そのような成果をまとめたものにほかならない。

本論文は、第一章で研究課題の設定と先行研究の整理を行なったのち、戦前の慣行調査に依拠した第一部(第二章・第三章)および1990年代の再調査の成果を利用した第二部(第四章・第五章・第六章・第七章)によって構成される。各章の内容の概略を述べると、第二章では、華北農村に及ぼされる国家権力の様態と農民の国家に対する意識を検討し、第三章では、華北農村の社会結合について、宗族組織、地縁的な村落集団の様態、民間信仰による社会結合、農耕および日常行事に由来する互助的な諸関係という四つの側面から、華北の村落に存在した社会結合の構造とその変容を分析する。

第二部の四つの章では、人民共和国建国以後の華北農村がたどった変遷のあとが、時期に従って具体的に検討される。まず第四章では、1950年代の土地改革と集団化が村落に与えた影響が考察され、第五章では1960年代の「四清運動」から「文化大革命」にかけての時期の国家権力と村落社会の相互作用が考察され、第六章では文革が終結し「開放・改革」政策が進められて以後の華北農村について、とくに再調査が行なわれた1990年代の状況に即して分析が加えられる。

第七章は、第二部の結論を述べる部分であるとともに、本論文の全体に関する結論ともなっており、そこでは以下のような総括と展望が展開されている。すなわち、華北農村は村落の内部に宗族・地縁・信仰・共同作業など多様な社会的結合が混在していながら、共同体的な関係や強力な支配関係は存在せず、国家権力に対抗しうるような自律的なシステムを欠いていた、他方、国家権力が村落社会に浸透する経路は組織的なものというよりも個人的な利益を媒介にした個別的な経路を通じてなされ、そのためには村落内部の多様な社会結合がさまざまに利用されることとなった、とする。

以上の分析をふまえて、本論文の筆者は、本論文の結論として、中国華北の村落社会は国家権力の介入をまって社会結合の強化を実現する受動的な傾向を有しており、他方、国家権力は村落の個別的な社会結合に依存し、それらを利用しながら村落への統制を現実化する、という相互依存関係が存在しているという。人民共和国建国以後を対象とした第二部において、筆者は再調査資料の具体的なデータから、このような相互依存関係が、国家の農村政策の変転にもかかわらず、それぞれの時期において、さまざまなかたちで現れたことを明らかにしており、この点は本論文の重要な貢献であると評価される。

なお、本論文には、いくつかの弱点も指摘される。論文審査に際して審査委員からは、国家権力と村落社会の接点を問題とする本論文の課題に接近するためには、村落の社会結合を分析対象とするだけでなく、地方政府を構成する複雑な行政機構の存在形態やその変容について、もっと分析を加えるべきではないかという意見、また、筆者が直接に一次資料に基づいて議論しているのは、満鉄調査の対象であったいくつかの農村についてのデータによるところが主要なものであり、そのような限定的な作業によって広く華北農村、さらには中国農村を議論しようとするには、留保が必要ではないか、などの疑問が提起された。

このような点には、なお議論を深める余地は認められるものの、これらの点は本研究の価値と学界への貢献を減ずるものではなく、さらに、1990年代に行われた華北農村再調査による膨大な資料を全面的に利用した研究として、本論文は最初の規模の大きな業績の一つであると評価される。したがって、本審査委員会は「博士(学術)」の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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