学位論文要旨



No 118708
著者(漢字) 小松,孝至
著者(英字)
著者(カナ) コマツ,コウジ
標題(和) 幼稚園での経験に関する母子の会話 : 幼児の「経験に関する物語」の場としての特徴と意義
標題(洋)
報告番号 118708
報告番号 甲18708
学位授与日 2004.03.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第99号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 助教授 田中,千穂子
 東京大学 助教授 針生,悦子
 東京大学 助教授 秋田,喜代美
内容要旨 要旨を表示する

本論は,保育場面での子ども自身の経験を話題とする幼児期の日常的な会話を,生活の中で子どもの「自己」が対象化され,表現される場として意義づけた上で,この会話の中で,子どもの経験がどのように取り上げられ,園生活の中の子ども自身がどのような存在として表現されるのか,この会話が生活の中の活動としてどのように位置づけられるのかを実証データから考察した。

第1章では,子どもが自己の経験を捉える場として会話を考えるにあたって重視されてきた「物語」の定義・特徴を論じ,こうした物語を含む会話に着目することの重要性を指摘した。物語は「事象(event)を対象化し,伝える」ことであり,主に時間的な連鎖をもつ表現である。そして,我々の日常会話にも多く含まれる。この,幼児期に経験を物語ることについてなされた近年の研究では,それが周囲の他者と子どもの共同的な活動としてなされ,語り方の「スタイル」が共有されること,文化的背景を持つことなどが指摘される。さらに,社会構成主義的な視点からは,このような物語を(1)物語られる世界の中で(2)現在の自己との関係の中で(3)ともに物語る他者との関係の中でそれぞれ子ども自身を位置づけ,他者との関係の中の子どもがどのような存在であるかを明確化する行為として捉えることができる。本論ではこの,社会構成主義的な視点を基礎として,子どもの経験を取り上げた日常の会話から生活上の背景とともに幼児の「自己」を考察しうることを指摘した。しかし,幼児の経験に関する物語を扱った心理学研究は,その生起の文脈を問題にせず,表現形式としての物語のみを扱っており,上記の視点からの検討がなされていない。本論ではこれに対し,こうした物語を含む会話を具体的に取り上げてその実践を記述した上で,物語についてもその会話の一部として捉える必要性を論じた。

第2章では,前章の議論をふまえ,生活の中の明確な背景をもち,子ども自身の経験が取り上げられる会話として「保育における経験に関する会話」が持つ意義を考察した。そして,(1)この会話の中で,子どもが家庭とは異質な保育の場に自分自身を位置づけて捉えなおすと考えられること(2)通園に伴う分離・再会の中で,子どもと家族が関係を形成する相互行為としての意義を持つ会話であることを指摘し,家庭と保育の場という2つの生活世界の接点において,固有の重要性を持つ活動としてこの会話を位置づけた。その上で,(1)会話の中で,園生活における子どもの経験がどのように描かれるのか,特に園で出会う他者との関係の中の子ども自身がどのような存在として描かれるのか(2)この会話が生活の中の活動としてどのように位置づけられるのかの2点を視点として,大規模な質問紙調査と,具体的な会話記録の分析によって検討する課題を示した。

第3章では,都内の幼稚園児の母親を対象とした質問紙調査から,この会話が,家庭において実践される状況を検討した。具体的には(1)幼稚園での経験に関する会話の場と話題(研究I-1)(2)子どもの会話への参加の特徴(研究I-2)(3)会話における母親から子どもへの働きかけと会話に対する母親の意義づけ(研究I-3)を検討した。調査は1999年7月(3歳児クラス〜5歳児クラスの園児の母親581名が回答)・11月(7月の協力者中235名が回答)に実施した。

研究I-1では,この会話が登降園時を中心に生活の中の様々な場面で繰り返されることを示した上で,園で出会う他者の特徴や,他者と子ども自身の関係を中心とした話題の多寡に関する母親の評定結果を検討した。その結果,この会話においては,子どもが参加した具体的な活動(遊び),自己の有能さを感じた経験,肯定的な情動等が主な話題であり,その中で,園で出会う他者と様々な形で関係を持つ存在として子どもが位置づけられていることが示された。また,話題のいくつかについて,学年(3・4・5歳児クラス)間の差,調査時期(7月・11月)による差がみられ,園における社会的関係の変化との関連が推測された。これらの結果から,この会話が,多くの家庭で毎日の通園を基礎として繰り返され,行為者としての子どもを肯定的に描くと同時に,園生活やその変化を背景として,子どもを園で出会う他者との関係の中へ位置づける場となっていることが示された。

研究I-2では,子どものこの会話への参加にみられる特徴を母親の報告から検討した。幼児はこの会話への積極的な参加者として認知されると同時に,3歳から5歳にかけ「1つの話題の繰り返し」「他者の真似」といった参加形態の一貫した減少が示された。これらの変化は従来十分検討されていない点ではあるが,園生活の中の子どもの経験に関する表現の獲得過程において,子ども自身の観点の明確化と表現の洗練が,これらの点で具体的に現れるものと推測された。

研究I-3では,会話へのもう一方の参加者である母親に焦点を当てた。母親の自己評定では,子どもへの働きかけとして「楽しい経験をいっしょに喜ぶ」「知りたいことを積極的に質問する」ことが最も高く評定され,会話への意義づけは,「情報収集」を筆頭に,「教育・援助」「経験の共有」の3領域が全般的に高く評定された。このことから,母親にとっては,子どもの通園を背景として,この会話が生活上重要な意義を持つことが示されると同時に,意義づけと働きかけの評定結果の相関から,この意義づけが母親の会話への参加を支えていることが示唆された。特に,3歳児の母親において意義づけと働きかけの関連が強く,子どもの語り手としての成長等とあいまって,母親の意図と実際の働きかけの関連が弱まるという変化の存在が推測された。家族が一定の信念・目標を持って幼児との会話に参加することは従来推測されてはきたが,本研究はそれを実証するとともに,子どもの年齢に沿った意義づけの役割の変化が示唆されている。

第4章(研究II)では,研究Iの質問紙調査を補足するデータとして,幼稚園3歳児クラスに在籍する園児と母親(7組)に依頼して降園時に録音した会話の記録,および母親へのインタビュー結果を検討した。録音記録では,母親が会話を主導する中で,子どもが経験した遊びや活動が話題となる点,子どもの経験を母親が肯定的に評価する点などで,研究Iの結果を具体的に示す会話の展開がみられた。また,子ども自身の対人世界への位置づけとして,子どもが保育者との関係で「してもらった」こと,友だちとの関係で「一緒に遊んだ」ことへの言及が多く,ここでも研究Iの結果がより具体的に示された。一方,子ども自身の特徴や他者との関係について,時間的・空間的連続性を強調する母親の働きかけが見られ,子どもの通園がこれらの連続性への着目を生むことが推測された。

母親へのインタビューにおいては,研究I-3と同様,会話を通して子どもの社会的関係を知り,それに働きかけることが母親の関心として語られたが,その一方で,過度な問いかけが独自の経験を持つ存在としての子どものあり方に好ましくないとする信念もみられ,母親の意義づけと働きかけの関連が単純なものではないこと,母子が共有できない園生活を取り上げる会話が,この時期の母子関係において,子どもの独自性を明確化する役割を持つことが推測された。

第5章(研究III)では,保育園に通園する女児1名について,主に帰宅時に,母親が運転する車内において録音した縦断的な記録(4歳3ヶ月〜5歳8ヶ月154日分総会話時間約34時間)をもとに,保育場面において出会う他者,特に同年代の友人と対象児自身が関連づけられる会話の特徴と変化を検討した。録音をほぼ3ヶ月単位で5つの時期に分けて検討した結果,演劇や遊びでの役割等,園生活の中で明確になる視点から複数の友人を列挙し,その中に対象児自身を対比して位置づける表現が,5つの時期を通してみられた。一方,友人と対象児自身を個別具体的なエピソードを物語る中で関連づける表現は,縦断的な記録の途中から対象児自身によってなされるようになった。いずれの表現も次第に洗練され,園生活を基礎として幅広く豊かな内容を含むものとなるとともに,母親が友人名や友人を捉える視点を示すことが減少し,対象児が自立的な語り手として成長する変化が観察された。さらに,友人との関係を物語ることは,単なる報告としてだけでなく,逸話としての面白さを母子が共有する意義も持って実践されていた。

以上3つの研究では,保育における子どもの経験を巡る母子の会話が,保育場面での対人関係の広がりの中に子ども自身を位置づけ,関係の中の存在として捉える場として重要性を持つことが示されるとともに,その中での子ども自身の表現のなされかたに,いくつかの特徴と発達的な変化が見出された。また,この会話は,生活の中で明確に意義づけられるとともに,その成立や具体的な内容は,会話に参加する子どもの発達や母親の信念,毎日繰り返される子どもの通園など,複数の要因が相互に関連する文脈に支えられており,表現される子ども自身の姿や対人世界の中への位置づけは,こうした多重な文脈と不可分なものであることが改めて示された。本論の結果は,子どもの自己について,生活に結びついた,より豊かなものとして捉えており,心理学研究者の枠組によるインタビューや定型的な問いに対して示される子どもの自己概念を相対化するものと考えられる。今後,個人差や具体的な園生活の特徴をふまえた上で,この会話の特徴と発達的な変化をより明確にすること,子どもが参加する他の様々な会話との対比,経験を物語る会話が持つ関係上の機能の明確化などを,方法論上の整備も含めて検討することが課題である。

審査要旨 要旨を表示する

子どもが自分自身の経験について物語るという行為は,子どもの自己概念や認知発達の研究において,その重要性が指摘されてきた。しかし,このテーマに関する従来の研究では,子どもの語りを実際の生活文脈から切り離し,研究者によって人工的に設定された場での語りを取り上げることがほとんどであった。本研究は,子どもの自然な生活の中で日常会話に埋め込まれた語りを取り上げることの重要性を指摘し,そうした会話において子ども自身がどのような存在として自らを語っているか,そしてこのような会話が生活の中でどのように意味づけられているかを,幼稚園・保育園(以下,園とする)に通う幼児を対象にして,初めて本格的に検討したものである。

第1章で上記の問題意識を述べた後,第2章では,園での経験に関する母子の会話を取り上げる意義を明らかにしている。園という,家庭とは質的に異なる空間で家族と離れて一定時間を過ごすことによって,子どもの側に物語る対象としての世界が成立する。降園による母子の再会は,そこでの経験を想起・再構成する契機となり,その会話は母子の親和的な関係の形成と子どもの経験の共有の重要な機会となることが述べられている。

第3章では,園児の母親を対象とした質問紙調査(6園581名,うち3園235名については時期を変えて2度実施)によって,子どもが園での経験を語るとき,どのような内容が語られるのか,その会話に子どもはどのように参加しているのか,そして母親自身はその会話にどのような意義を感じ,どのような働きかけを行っているのかを検討している。その結果,会話内容は子どもが経験した肯定的な感情や有能感を表すものが最も多く,子どもはこの会話に積極的に参加しており,この会話が肯定的な存在として自己を位置づける意味をもつことが示された。母親はこの会話に対して情報収集としての意義や経験を共有する意義を認めているが,その意義づけの程度と会話への働きかけの特徴に相関関係がみられること,またその関係のあり方が子どもの年齢によって異なることが示された。

第4章では,7組の3歳児母子の会話を録音して分析するとともに,母親へのインタビューを行っている。その結果,他者との関係の中に子どもを位置づける内容の会話は,この年齢では母親が主導していること,家庭と園との場面的および時間的連続性をもつ存在としての子どもが母親によって描かれること,母親は子どもの園生活についてもっと知りたいと思いつつ独自の世界も尊重したいという葛藤を感じていることなどが見出された。続く第5章では,1組の母子の会話を1年以上にわたって繰り返し録音して分析している。その事例を通して,友人と自分とのかかわりを描く物語の出現の時期や,友人の特徴記述の精緻化,会話における母子の役割の変化などについて,興味深い知見が得られた。

本論文は,母子の日常会話における子ども自身の経験に関する語りという日常的な活動がもつ意味を見出し,それに対して初めて心理学的に切り込んだ意欲的な論文である。自己概念などの研究に新たな道を開いた点で,今後の心理学的研究に重要な貢献をなすものと考えられ,博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

UTokyo Repositoryリンク