学位論文要旨



No 118718
著者(漢字) 高橋,原
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ハラ
標題(和) ユングの宗教論 : 分析心理学の神学的傾向について
標題(洋)
報告番号 118718
報告番号 甲18718
学位授与日 2004.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第427号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金井,新二
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 助教授 市川,裕
 東京大学 助教授 池澤,優
 南山大学 教授 渡辺,学
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、本来心理療法であり、常に経験科学を自称するC・G・ユング(C.G.Jung,1875-1961)の分析心理学(ユング心理学)が、しばしば形而上学的であると言われ、さらには神学的であると批判的に言及されるのは何故なのか、その必然性について分析心理学の内的論理に即して明らかにしようという試みである。

従来の日本におけるユング研究は、ユングの文化的背景や思想形成の文脈を度外視して、東洋思想との一致を強調したり、日本文化論などへの「応用」が盛んに行われてきた。本論文はそうした性急な受容のあり方とは一線を画して、ユングの思想を西洋精神史、あるいはキリスト教思想史のなかに位置付ける、思想史的アプローチをとる。

分析心理学が「宗教的」であるのは広く認められているところであるが、それが宗教そのものであるという指摘も批判的意図をこめてなされることがある。そこで、まず、「分析心理学は宗教か?」という近年なされた議論を吟味することによって、分析心理学が宗教的であるというのはいかなる意味においてであるかが検討される。何人かの論者達の見解を総合すると、分析心理学が宗教的であると言われる場合には、概して、分析心理学の臨床実践における治癒をもたらす内面的体験が念頭に置かれていると言える。このように、宗教の心理療法的機能を分析心理学が引き継ぐというのはユング自身も自覚していたことであるが、これによって分析心理学が宗教の実践に接近することが示される。

次に、分析心理学が「神学的」であると評され、またユングが「神学者」と呼ばれる文脈が分析される。一つには、ユングの枠組みが一神教のバイアスを被っているという、分析心理学の内部からの批判がある。また、方法論的には、フロイトなどの還元的な宗教分析に対抗する形で、ユングが宗教的、擬人的カテゴリーを分析に持ち込むことによって神学的傾向が生じる。「神」は心理学的には「自己」に対応するという論理が、ユングの心理学を神学的にする。治療と直結する内的体験をもたらすシステムとして宗教を見る見解と、その応用としてのキリスト教論には分裂があり、前者においては神学者との良好な協働関係が築けるが、後者においてユングは、形而上学的または神学的という謗りを受けて神学者と対立することになるという構図が確認される。

次に、分析心理学の治療的実践が、宗教的であると言われ、さらに神学へと転化する必然性について、ユングの治療論から検討する。ユングによれば世界観には本能的衝動をコントロールする働きがあり、それこそが伝統的に宗教が人々の魂の健康に貢献してきた所以である。ユングは自分の患者の多くが人生の意味の喪失に苦しんでいると述べているが、その意味とは、患者の空想と伝統的キリスト教を紡ぎあわせることを可能にする世界観であるので、分析心理学は積極的にキリスト教の世界観理解に関与し、自らも患者のよき世界観の構築に関与する。心理学がこのようなキリスト教の神話を語り直す作業に関わっていくことで神学の領域に近付くことになることが示される。

分析心理学がすぐれて世界観的営みであることを決定づけているのが、ユングの死後に公刊された自伝である。ユングはこの中で私的な宗教体験から学問的思索、さらには死後の生命の存続などを一体のものとして語り、ユング自身の人生が神話的パラダイムとして提示されている。自伝にはっきりと示されるように、キリスト教の神話を発展させるということがユングの宗教論の中心テーマであることが示される。また、ユングの「神話」の語の用法が検討される。神話とは無意識の内容の象徴的表現として、宗教の教義と同列に扱われていることが示される。そして、宗教の教義も神話もともに、人間の無意識内容を表現することで、無意識のエネルギーを適切に意識に取り込むことに貢献出来る。神話は上述のような意味での世界観を形成するものである。

次に、ユングが十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム思想をどのように受け止めたのかが検討される。ユングはまず第一に、牧師であった父親を通してキリスト教に触れた。父親は合理主義的風潮の中で懐疑に苦しみ、ただ盲目的な信仰のみを強調し、独自の宗教体験のリアリティに基づいて、神の直接体験を訴えるユングは苛立った。学生時代の講演においても、ユングは神を体験することの必要性を訴え、倫理主義的なリッチュルの神学を批判した。ユングは体験対信仰、神秘対倫理といった対立軸でキリスト教を考えていたことがわかる。

次に、ユングの宗教観に対してフロイトとの出会いと決別が果たした意味が検討される。一般に知られているように、フロイトは宗教に対して批判的であり、また一九〇〇年頃からの約十年間は、ユングも少年時代からの宗教的関心を封印していた時期にあたる。しかし、フロイトとの協力関係のほころびの中で、潜伏していたユングの宗教へのこだわりが浮上し、心理学的知見によってキリスト教の神秘を現代に甦らせようというユングの方向性が明らかになる。ここでは、「情動をイメージに変換する」というテクニックを見出したことを、ユングがフロイトの精神分析とは異なる独自の体系構築に向かうことを可能にした契機として評価した。イメージを重視するユングの象徴解釈を検討することによって、宗教とは治療体系であるというユングの論理が明らかになる。無意識のエネルギーを適切に表現して人間を直接体験から保護することが宗教の果たしてきた役割であるが、この観点から、プロテスタントよりもカトリックのキリスト教を評価するユングの議論が概観される。この評価が必ずしもキリスト教の自己評価とは一致しないことも、ユングを神学との対立関係に巻き込むことになる。

ユングはグノーシス主義者と呼ばれることもあるが、この呼称が分析心理学の理論とどのように関係するかが検討される。ユングが「情動をイメージに変換する」という技法をもとに定式化したのが、『自我と無意識の概念』に述べられる個体化過程のプロセスであり、これが分析心理学の中心概念となっていく。この定式化に際して、ユングがグノーシス主義の神話の枠組みを借用したことが明らかにされる。グノーシス主義の救済神話と分析心理学の共通点と相違点がそれぞれ検討される。この結果、ユングはグノーシス主義に触発されて個体化論を定式化したことは確かであるが、最終的には錬金術の象徴論によって理論を修正した可能性が示される。しかしいずれにせよ、分析心理学がその主要概念の形成を宗教的カテゴリーに依存していることが明らかになり、ここにも、分析心理学の神学的傾向性が確認された。

次に、代表的なユング批判として、マルチン・ブーバーによる批判をとりあげた。ブーバーは自らの「我と汝」というカテゴリーによって、ユングの宗教心理学を批判した。両者の議論を通じて明らかになるのは、ユングの心的現実の立場への無理解が、ユングは心理学者としての分際を超えて形而上学的発言をしているという批判を生むということである。ユングは「心的現実」の立場を採用したことで、自由に「神」を語る資格を得たと考えていたが、反面、まさにそのことが神学への領域侵犯と見做されたという構図が示される。ブーバーはユングが神を心内的なものに貶めたとしてユングをグノーシス主義者と呼んだが、ユングの心的現実という方法論が持つ独我論的性質は否定しがたく、ユングの体系が他者性に対して開かれていないという批判の妥当性は認めざるを得ないであろう。一方で、ユングが善悪の相対主義に陥るという批判の妥当性は限定的なものであることは、ユングの「良心論」を参照することで示された。また、本来心理学的な自己限定と表裏一体をなす「心的現実」の立場が結局、形而上学的発言と衝突してしまうということは、分析心理学がいかに経験科学を自称しようと、世界観という次元で扱われるという事態を表わしている。この点において分析心理学は、科学というよりもむしろ神話と呼ばれるべき側面を有することが明らかになる。

最後に、カトリックの神学者ホワイトとの対話を通してユングの宗教論を検討した。ホワイトの対話によってユングはキリスト教の教義を詳細に論じることができるようになった。とりわけ問題になるのは悪の問題で、神のうちに悪も含まれるべきだというユングはカトリックの「善の欠如」理論を批判する。悪の意識化の問題は、分析心理学のもっとも初歩的な一段階でありつつ、究極の対立物の結合というテーマにとっても不可欠の契機である。またユングの少年時代の神体験に端を発し、晩年の神学的著作である『ヨブへの答え』で全面的に展開されたテーマでもある。最後に、『ヨブへの答え』で展開されるユングの「神学」の性質を検討し、ユングの著作がなぜ神学的傾向を帯びるのかを総合的に検討した。端的に、世界観が人間を癒しもし、病気にもする。分析心理学は世界観を癒すことで人間を癒そうとする一面があり、それがユングの神話を発展させるという企図を支え、あえて神学的営みに接することも厭わせなかったのである。

こうして、本論文でユングの神学的傾向の諸要素として取り上げてきたものが集約されて展開されたのが『ヨブへの答え』であることが示された。分析心理学は内的イメージによる治療を重視するので、それ自体が宗教的であると言われるが、それがなぜ、さらに既存のキリスト教の再解釈に積極的に関わり、神学と言われる領域と境を接するのか、その必然的な道筋を示すことができた。

審査要旨 要旨を表示する

高橋原氏論文「ユングの宗教論-分析心理学の神学的傾向について-」は、分析心理学の創始者C. Gユングの思想とキリスト教思想との関連を追求したものであり、この観点から、ユング思想をその歴史的生成の文脈に即して性格に再構築しようとした極めて堅実な研究である。このような問題意識を述べた「はじめに」およびそれを敷衍した第一章に続いて、第2章では、ユングと宗教またはキリスト教との関係についての先行研究を検討し、なお問題の解明は不十分であるとの結論を述べている。

続く第3章は主としてユングの自伝から、牧師であった父親との関係に始まるキリスト教との関わりを廻る。とくにユングのキリスト教理解の原点というべき有名ないくつかのイメージ(「大聖堂ヴィジョン」(大聖堂か糞尿があふれ出るというもの)や、人食いの木と重なったイエスのイメージなど)を分析し、ユングが幼少時からすでにきわめてアンビヴァレントな関係をキリスト教に対して有していたことを明らかにした。

第四章では、当時の代表的なプロテスタント神学者A.リッチュルにたいする若きユングの批判が取り上げられる。当時の倫理主義的なプロテスタンティズムへの批判であり、神話の現代的有効性を強調するユングの神話的かつ神秘主義的な立場がこれによって開始されたといえる。

第5章はフロイト問題である。ユングがフロイトに共鳴していた約10年間はかれが宗教への関心を封印していた時期といわれる。だが両者の相違はやがて顕著化する。すなわち、宗教的なものの価値を積極的には認めないフロイトにたいして、ユングはキリスト教的神話をより十分に展開させようとしたのである。このことは、フロイトの還元的主義な宗教解釈にたいするユングの構成的な宗教解釈という、きわめて対照的対立的立場へと両者を導いた。

第6章ではユングのグノーシス主義がテーマ化される。マルティン・ブーバーは、ユングが心理学の域を超えた形而上学的主張をもってユダヤ教やキリスト教などと競合するにいたったとして批判したものであるが、その際、ユングがグノーシス的枠組みを用いたことは明らかである。さらに、それは、情動を神話的イメージに変換することによって人がしだいに自己を確立するというユング的個体化論へと展開するが、この個体化論はたしかにユングの心理学的かつグノーシス主義的な救済論と言いうるものであった。

最後に第7章は、ユングとキリスト教の対話と相克の最終段階である『ヨブへの答え』を扱う。ユングはキリスト教の神観念や神話をより包括的なものへと発展させるべきであるとして、具体的には、女性的な要素、さらには悪の要素すら包摂することが必要であるとする。そしてこのようなユングの主張自体が濃厚に宗教性・神学性をおびたものであることは明らかである。

以上のような内容からなる高橋氏の論文は、錬金術の問題やキリスト教以外の宗教伝統からの摂取の問題など、ユング研究にとっての重要な諸テーマを残してはいるものの、ユング思想とキリスト教との関係を解明するという所期の目的は十分に達したと言えよう。よって本審査委員会は本論文を博士(文学)の学位にふさわしいものと判定する。

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