学位論文要旨



No 118720
著者(漢字) 田中,章浩
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,アキヒロ
標題(和) ワーキングメモリにおけるピッチ情報の保持 : 音声言語と楽音に関する整合的説明
標題(洋)
報告番号 118720
報告番号 甲18720
学位授与日 2004.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第429号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高野,陽太郎
 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 助教授 横澤,一彦
 名古屋大学 教授 筧,一彦
内容要旨 要旨を表示する

音声言語は,文字言語,ジェスチャーなどと並び,対人コミュニケーションの主要な手段の1つである。音声には分節音と韻律が含まれるとされる。分節音とは,音素記号で表されるような分節可能な単位をさし,韻律とは,音の高さ(ピッチ)・大きさ・長さなどの特徴をさす。韻律は,単語の識別,感情伝達,音声の分節化,統語解析などを補助する機能をもつ。韻律に関連した諸特徴のうち,本研究ではピッチが果たす役割の重要性に着目した。ピッチがコミュニケーションにおいて十分に機能するためには,ピッチ情報の短期的保持というプロセスが不可欠であると考えられるが,このプロセスについては,分節音と比べると明らかにされていることは非常に少ない。

また,音声言語と並んで,聴覚を利用した代表的なコミュニケーション手段である音楽においても,ピッチは重要な役割を果たしている。メロディの旋律線の形成,モチーフの認知などの処理には,ピッチ情報の短期的保持が要求される。

言語と音楽には多くの類似点があるので,両者の保持機構も共通していても不思議ではない。もちろん,構造的な共通性は必ずしも認知プロセスの共通性と同型ではないので,両者の保持機構は独立であっても不思議ではない。現実には,両者は別の研究文脈において扱われてきた。多くの場合,言語の保持についての研究は,主に分節音の保持に着目し,音楽の保持についての研究は,主にピッチの保持に着目してきたため,言語と音楽におけるピッチの保持機構の独立性・共通性については,あまり明らかにされていない。

そこで本論文では,二重課題法を用いて,音声言語と楽音のピッチ情報保持に関する7つの実験をおこない,得られた結果を共通の枠組みで整合的に説明することを目的とした。情報の保持には,受動的な貯蔵と能動的なリハーサルという2つの側面があるが,本論文ではリハーサルを中心に検討した。

第2章では,楽音刺激である歌唱音声を用いて,1)ピッチリハーサルが分節音や視空間情報のリハーサルと独立しているのか,2)ピッチリハーサルはどのような性質をもつのか,以上2点について検討した。第2章でおこなった二重課題実験では,被験者は,一次課題と二次課題の2種類の課題を並行しておこなうことが要求された。一次課題は分節音保持またはピッチ保持を必要とする課題であり,基準刺激と比較刺激との異同判断が要求された。二次課題は分節音処理(構音),視空間処理(描画),ピッチ処理(ピッチ生成)のいずれかを伴う妨害課題であり,一次課題の基準刺激の保持期間に並行して実行することが要求された。構音,描画,ピッチ生成の条件下での一次課題成績について,二次課題をおこなわない統制条件を基準として干渉が生じたかどうかを検討した。実験1では構音や描画はピッチ保持に干渉せず,ピッチリハーサルが分節音リハーサルや視空間リハーサルとは独立していることが示唆された。実験2では,発声を伴わないピッチ生成がピッチリハーサルに干渉するとの結果が得られた。これは,分節音のリハーサルにおける構音抑制効果と対応する現象であると考えられ,ピッチリハーサルは聴覚的というより運動的な表象を利用しておこなわれることが明らかとなった。また,実験1および実験2の結果より,分節音の生成(構音)は分節音のリハーサルに,ピッチの生成はピッチのリハーサルに,それぞれ選択的に干渉することから,分節音とピッチのリハーサルの二重乖離が示された。実験3では,リハーサル可能な条件において,長いメロディより短いメロディの記憶成績が高いことが示された。これは,分節音のリハーサルにおける語長効果と対応する現象であると考えられ,分節音と同様に,ピッチリハーサルも系列的に実行されることが示された。以上,第2章では,歌唱音声の保持を一次課題とし,構音,描画,ピッチ生成を二次課題とする二重課題実験により,1)ピッチリハーサルが分節音や視空間情報のリハーサルと独立していること,2)ピッチリハーサルは運動的表象を用いて系列的におこなわれるという性質をもつことが示唆された。

楽音刺激と音声言語刺激のピッチは共通の機構でリハーサルされるのかどうかは明らかではない。そこで第3章では,音声言語刺激として自然音声,LPF音声(自然音声の韻律に相当する部分を抽出した音声)を用いて,1)音声言語のピッチもリハーサルされるのか,2)もしされるのならどのような機構でおこなわれるのかという問題について,第2章と同様に二重課題法を用いて検討した。音声言語のピッチのリハーサル機構について,自然音声刺激,LPF音声刺激,加えて比較対象として楽音刺激を保持刺激に用い,一次課題である保持課題に対して,二次課題に含まれる構音成分,感覚入力成分,ピッチ変化成分がそれぞれ干渉するかどうかを検討した。その結果,感覚入力成分はピッチ保持と干渉せず,貯蔵以外に能動的なリハーサルが存在する可能性が示唆された(実験4)。また,構音成分は楽音・LPF音声のピッチ保持に干渉しなかったことから,音声言語のピッチリハーサルは分節音リハーサルと独立していることが示唆された(実験4)。ただし,構音成分は自然音声全体の保持には干渉した(実験4, 6)。この点について,教示を操作した実験をおこなったところ,自然音声のピッチのみを保持する場合には,構音成分は保持に干渉しなかった(実験5)。これらの結果は,自然音声のピッチもLPF音声や楽音と同様に,分節音とは独立した機構でリハーサルされるが,日常場面の多くのように,音声全体をリハーサルする場合,分節音リハーサルとピッチリハーサルは協調して実行されるため,どちらか一方のみを阻害することはできないと解釈できた。また,二次課題に構音成分に加えて言語的なピッチ変化成分をさらに付与したところ,LPF音声のみならず楽音のピッチ保持とも干渉し,音声言語と楽音のピッチリハーサルが共通している可能性が示唆された(実験6)。

第2章では歌唱音声,第3章では外国語音声を用いた検討をおこなったが,母語音声の保持も歌唱音声や外国語音声と共通しているのであろうか。日本語音声のピッチ変化のうち,語彙的韻律であるピッチアクセントは,単語の識別に利用されるという点で,特別な機能をもつ。したがって,語彙的韻律は他の韻律とは異なった処理を受ける可能性がある。そこで第4章では,1)母語音声のピッチも歌唱音声や外国語音声と同様にリハーサルされるのか,また,2)語彙的韻律は音韻的機能をもつ特別の表象として,それ以外のピッチ変化パターンとは異なったストアに貯蔵されるのか,そして,3)被験者の言語経験によって母語音声のピッチ保持は異なるのか,という問題について,二重課題法を用いて検討した(実験7)。その結果,母語音声全体を保持するとき,母方言話者では,語彙的韻律である東京アクセントの保持に対して構音成分による干渉が生じ,歌唱音声や外国語音声と同様に,母語音声の語彙的韻律もリハーサルされることが示唆された。また,母方言話者では,東京アクセント課題のピッチ保持に対しては東京アクセント構音条件が,人工アクセント課題のピッチ保持に対しては人工アクセント構音条件が,それぞれ選択的に干渉した。一方で非母方言話者では,ピッチ変化成分が東京アクセントであれ人工アクセントであれ,ピッチ保持への干渉には差がなかった。この結果は,母方言話者では東京アクセントと人工アクセントが異なったストアで貯蔵されていること,非母方言話者では東京アクセントは人工アクセントと区別されず,共通のストアで貯蔵されていることを示唆している。

第5章では,第2章から第4章で得られた実験結果を踏まえて,ピッチ情報の短期的保持について,音声言語と楽音の保持を統一的に説明できるようなワーキングメモリモデルを提唱した。本モデルの主要な仮定は以下のとおりである。1)分節音のリハーサルとは独立に,ピッチのリハーサル機構が存在する,2)音声言語と楽音のピッチリハーサルは同じ機構でおこなわれる,3)ピッチリハーサルは運動表象を用いて系列的に実行される,4)分節音とピッチのリハーサルのタイミングを同期させるメカニズムが存在する,5)母方言話者では東京アクセントが音韻ストアで貯蔵される,6)非母方言話者では東京アクセントは人工アクセントと区別されない。

本モデルでは,1)従来別文脈で研究がおこなわれてきた楽音や歌唱音声などの音楽的刺激と母語音声や外国語音声などの言語的刺激の短期的保持について,ピッチ情報のリハーサルを軸に,ワーキングメモリの枠組みから単一のモデルで包括的に説明可能としたこと,2)ピッチリハーサルという処理の「性質」(運動表象の関与,系列性)を明確にしたこと,そして,3)言語経験によるアクセントの音韻表象の利用可能性の違い(母方言話者と非母方言話者)について明確にしたこと,以上3点において新規かつ重要な提案をおこなった。また,本モデルは,本研究および関連する先行研究で得られた実験結果を整合的に説明することができた。

最後に,聴覚情報処理において,どのような認知処理にワーキングメモリが用いられるのか,教育や医療などの場面にどのような応用可能性をもつのかといった側面から,本モデルの意義について議論し,今後の研究の方向性を示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、音声言語と楽音に含まれるピッチ(音の高さ)を短期的に保持するメカニズムについて、心理学的実験手法を用いて研究したものであり、全5章から構成されている。

第1章では、音声言語と楽音の保持に関する先行研究を概観し、ピッチの保持が、音声言語と楽音の処理において、ともに重要な役割を果たすことを指摘した。そして、音声言語と楽音のピッチ保持について実験をおこない、音声言語と楽音で得られた結果を共通の枠組みで説明することを本論文の目的として設定した。

第2章では、楽音である歌唱音声を保持する実験をおこなった。実験には二重課題法と呼ばれる手法を用い、歌唱音声の保持を単独でおこなう条件と、保持と同時に他の認知課題を遂行する条件の成績を比較した。条件間の成績に差があるかどうかという観点から、ピッチリハーサルの独立性と詳細な性質について考察した。その結果、1)ピッチのリハーサル(能動的な保持)が分節音(子音・母音)や視空間情報のリハーサルと独立していること、2)ピッチリハーサルは運動的表象を利用して系列的に実行されるという性質をもつことを明らかにした。

第3章では、音声言語のうち、日本語話者にとっては外国語に相当する中国語音声の保持について、二重課題法を用いた実験をおこなった。その結果、1)音声言語のピッチも、分節音とは独立して、能動的にリハーサルされること、2)音声言語と楽音のピッチリハーサルは共通していること、3)音声全体をリハーサルする場合、分節音リハーサルとピッチリハーサルは協調的に実行されている可能性があることを示した。

第4章では、日本語話者にとっての母語である、日本語音声のピッチアクセントの保持について、二重課題法を用いた実験をおこなった。その結果、1)母語音声のピッチアクセントは、単語の識別に関与する特別の表象として、それ以外のピッチ情報とは独立に保持されること、2)方言の違いによってピッチアクセントの保持が異なることを明らかにした。

第5章では、第2章から第4章で得られた実験結果を踏まえて、音声言語と楽音のピッチ保持を統一的に説明できるモデルを提案し、本論文および関連する先行研究の結果を整合的に説明できることを示した。

本論文で報告された実験はいずれも緻密に立案されており、ピッチリハーサルに関していくつもの新しい知見を世界で初めて報告したと共に、音声言語と楽音のピッチ保持の共通性に関して、興味深い仮説を提案している。この仮説の証明は今後の多角的な検討を待たねばならないが、この分野の研究における作業仮説として重要な視点を与えるものである。以上の点から、本審査委員会は、本論文が博士(心理学)の学位に値するとの結論に達した。

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