学位論文要旨



No 118721
著者(漢字) 清水,真志
著者(英字)
著者(カナ) シミズ,マサシ
標題(和) 商業資本論の展開と市場機構論
標題(洋)
報告番号 118721
報告番号 甲18721
学位授与日 2004.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第177号
研究科 経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 新潟大学 教授 菅原,陽心
 信州大学 教授 青才,高志
内容要旨 要旨を表示する

過去の市場機構論は、信用論研究を中心に展開してきたといってよい。株式資本論ですら、信用論研究と連結されることが少なくない。一方、信用論の外部へと押し出された商業資本論は、ともすれば市場機構論全体の展開から遊離して、個別領域としての完成度を高めることに沈潜しがちであった。しかし市場機構論の再構築は、むしろ商業資本論の再検討と、その市場機構論における位置づけの再検討から始められるべきである。商業資本論に検討を加えると、以下の認識を得る。第一に、流動的な性格を強調されることの多かった商業資本であるが、むしろ商業資本の本領は、多少とも期間契約的な買取を行うことに発揮されるものと考えるべきである。第二に、この期間契約的な購買活動は、その後の再販売活動とも整合的でなければならない。商業部門に長期の滞在を予定している商業資本であれば、売れ筋以外にもリスクヘッジの観点からあえて取り扱うべき商品が存在する。商業資本の自立化した後の商品市場は、長期滞在型の商業資本を核として、スポット的な取引がこれを取り巻くという二重構造をもつのである。第三に、商業資本は、産業資本によって販売されえない諸物、たとえば現役の機械設備やその用益権をも買い向かい、これを商品化するための中古市場やリース市場などを組織しようとする積極性を帯びるものでもある。商業資本の「多型化」によって商品市場に惹起された変化を「組織化」という概念で総括するならば、そこには狭義の商品市場、つまり商品の現物性や貨幣の現金性に強く縛られている商品市場からの離脱ということまでが含められなければならない。

このように議論を進めてくると、信用貨幣の現金化の進行する信用論と商業資本論との間には、きわめて本質的な結びつきが隠されていることになる。この結びつきを探るには、信用関係の最も基礎的な条件の論じられる商業信用論の導入部へと目を向ける必要があろう。この導入部に検討を加えると、以下のことが明らかになる。第一に、商業信用に実質的な貨幣貸借の関係を読み込もうとする場合、商業信用における商品売買と資金融通の不可分離性が強調される余り、商業信用以前の商品売買と資金融通との間には、かえって決定的な分離が生じることになる。しかしまた、商業信用から貸借関係全般を排除して、これを「商品売買の一様式」に還元すれば足りるわけでもない。商業信用以前の商品売買のあり方を不変とみなし、これを現金貨幣や現物商品に繋ぎ止める限り、商業信用論と商業資本論の結びつきは根底において失われざるをえないのである。第二に、現金取引と比べた信用取引の特異性を特徴づけるのは、貨幣の預託と貨幣概念の広義化という二種類のリスクである。しかしこれらは、価値物の預託と商品概念の広義化という、売買関係に伴う一般的なリスクにも通じている。商業信用論と商業資本論の結びつきを捉えるには、以上のように一般化された商業信用のリスクが、いかにして商業資本を組織者とする商品市場によって解除されるかを問わなければならない。すでに明らかとされたように、流通過程の委譲=代位関係は、期間契約的な性格を固有するものであった。これはとりもなおさず、販売ないし生産以前の、現物的な実在性をもたない将来の「商品」を、現在の「商品」として先取りする関係に他ならない。とすれば、商品概念の広義化という条件は、商業資本の自立化の条件との間に、すでに先行的な一致を見ていたことになる。同様の一致は、商業資本間の再販売関係にも認められる。この再販売関係は、商業資本の自立化の第二の条件をなすものであり、産業資本との取引関係が単発的になる場合には、他の商業資本との取引関係がそれだけ期間契約的な性格を強めることになる。そこでは、再販売価格の変動リスクを圧縮させる先物取引の開設をつうじて、商業資本が集団的に商品概念の広義化を推し進めつつ、再販売のネットワークに商品を事実上「預託」しあうという関係が成立する。商業資本を結節点として二種類の取引関係が交錯し、商品の現物性や貨幣の現金性からの乖離の度合いを深めてゆく「組織化」された商品市場こそが、商業信用の舞台たりうるのである。

こうして信用論の内部にまで商業機構の意義を拡充してくると、商業資本とはおよそ対蹠的に、過去の市場機構論における存在感の大きかった銀行資本こそ、そのあり方を問い直される必要が出てくる。準備金の問題に手掛かりを求めつつ銀行信用論に検討を加えると、以下のことが明らかになる。第一に、銀行債務の流通根拠は、支払還流と準備金に二重化されて現れる。銀行資本の自己資本のなかでも、準備金は「信用関係にともなう流通費用」を上回るほどの重要性をもつのである。第二に、銀行資本の準備金は、支払準備=貨幣準備としての機能だけではなく、貸倒準備=資産準備としての機能を兼ねる。広義の「支払準備金」として見た場合、二つの機能は密接に結びついている。しかし、貨幣準備に求められるのは現金貨幣との近似性(現金性)であり、資産準備に求められるのは自己資本との近似性(確実性)なのである。ところで、こうした準備金の必須性からすれば、利子付預金機構や銀行間組織は、銀行資本にとって支払還流や準備金にも並ぶほどの重要性をもつはずである。しかしこれらの機能は、準備金の動員機構としては必ずしも万能ではない。すなわち第三に、一時的に支払準備として転用できる滞留預金が増えたところで、確実性を旨とする資産準備の足しにはならない。しかも、預金自体が銀行券によって行われる場合、支払準備もその現金性を維持できない。準備金を他人資本に置き換えることへの抵抗は、準備金の機能自体から生起するのである。また第四に、より高度な銀行間組織をつうじても、資産準備に当てるべき自己資本までを動員できるわけではない。しかも、銀行間組織の形成は、商品市場の拡張との間に時差を挟まざるをえない以上、貨幣準備の必需性を弱めるにもいたらない。第五に、こうした信用機構の絶対的な限界を克服するのは、他の市場機構との繋がり、さしあたり銀行資本を被出資者とする資本結合である。銀行資本にとって重要となるのは、長期債権の回収や経営支配のために出資を行うことではなく、資産準備の形成のために出資を受けることである。ただしこの目的が実現するには、いつでも出資持分を現金化できる流動化機構が必須である。さらにこの機構が成立するには、出資者や被出資者となることにメリットを見出す資本だけでは不足であり、出資持分の流動化そのものにメリットを見出しうる資本が必要となる。第六に、そうした資本として最適であるのは、むしろ最も出資活動と縁遠いように思われる商業資本である。確かに、流動的な性格ばかりを強調されてきた商業資本であれば、即座に現金化しうるとは限らない出資持分にたいして投資行動を展開するだけの余地はない。しかし、そうした過去の商業資本像はもはや本論文として採りうるものではない。「多型化」してゆく商業資本の活動には、現金化の遅引を厭わない投機的在庫形成のような「型」の活動までが加えられる。そしてこの「多型化」は、商業資本が銀行信用を利用するに及んでいっそう推し進められる。γ型資本への転化を可能とするのも、個別商業資本の独力ではなく、各々の「組織化」を媒介する商品市場と貨幣市場との関係に他ならないのである。

それでは、こうした貨幣市場との相互媒介的な関係を外して考えた場合、これまで信用論に隔てられて相互に没交渉であった商業資本論と資本市場論との間には、いかなる理論的関連を付けることが可能であろうか。この問題を考えるには、改めて商業資本論の末尾に立ち返るとともに、資本市場論の導入部に考察を進めることが必要となる。こうした両面的なアプローチによって、以下のことが明らかになる。第一に、商業資本は、商品の現物性と貨幣の現金性とに支えられてきた商品売買のあり方を所与とはせず、これを組み替えつつ商品市場の外へと活動領域を広げるものである。すでに中古市場やリース市場にも、現物出資への係脈を認めることができる。商業資本の「多型化」と商品市場の「組織化」の意義は、資本市場論までを含めた市場機構論の全体に及ぶのである。第二に、旧来の資本市場論(資本結合論)は、商業資本論との間に一切の関連を欠いていることは別としても、資本市場の導き方にさまざまな難点を抱えている。最大の難点は、「無機能化→動化」という理解にある。無機能化に強いられて「動化」が行われるだけの流動化機構は、全ての商品がもとより販売を予定している商品市場のような供給の大量性と需要の不断性とを具えるにいたらない。それらの特性を補うのは、自ら資本結合を行うことにメリットを見出すα型資本やβ型資本ではなく、他資本間の資本結合を斡旋することにメリットを見出しうる資本、つまりγ型資本に他ならないのである。第三に、γ型資本の中心的役割は、既成の「動化」を集中的に代位することにはなく、無機能資本をも引き留めるだけの固い結束力をもつ結合資本に働きかけて、内発的には「動化」しがたい出資持分までを「動化」させるという能動性に存する。γ型資本は、「動化」の条件そのものを創出するのである。こうしたγ型資本に転化する上で最も有利であるのは、すでにして「組織化」された商品市場を背景にもつ商業資本であろう。中古市場やリース市場は、商業資本にとって資本結合への関与を深めるための格好の足掛かりとなる。またその関与は、将来の資本結合を予定した個別資本の育成に携わるまでに深化しうる。その深化の程度にしたがって、資本市場もまた投機的な商業機構としての性質を強めるのである。【3990字】

審査要旨 要旨を表示する

論文概要

本論文の課題は、商業資本の理論を拡充することを通じて、商業信用、銀行信用、資本市場を包括する新たな市場機構論を構築することにある。1 頁あたり47 字47 行で217 頁の本文・註と、目次および参考文献で構成されている。全体は6 章で構成されて、その概要は以下のとおりである。

序章「商業資本と市場機構論」では、基本的な課題が概括され、全体の構成が簡単に紹介されている。従来の市場機構論では、商業信用と銀行信用からなる信用機構論、そこから派生する資本市場論と比較して、商業商業論は導入的かつ付属的な位置を与えられてきた。本論文は、このような展開構造に根本的な反省を加え、商業資本を展開の基軸にした新たな市場機構像を構築するねらいが述べられている。

第1 章「商業資本と市場組織化の原理」では、従来の商業資本論研究を振り返り、商業資本の本質が市場を組織化する主体という側面にあるとされ、その特徴が分析される。本論文は、基本的には経済原論の体系化のうちに商業資本の理論を発展させる研究の流れに属するといってよいが、こうした研究ではしばしば切りすてられる傾向にあった、卸売と小売の分化、商業資本の業態論など、固有の商業学的研究の観点も、商業資本の多型化と商品市場の組織化につながる論点として独自に理論化されるべき点が示唆されている。こうした点をふまえて、本章ではまずはじめに、産業資本における流通期間の短縮と流通資本の節約との関係が検討され、たまたま売れ行きが一時的に好転し、期間が偶然短縮しただけでは、流通資本の節約効果はほとんど期待できない理由が示される。この節約には、流通期間のある程度確定的な短縮が必要となるというのである。したがって商業資本に流通過程を委譲するという場合にも、一度かぎりの委譲では流通資本の節約効果は期待できず、そのためにある期間、継続する関係が求められるという。本論文では産業資本による流通過程の委譲に対して、商業資本による一方的な取引の拒絶を押し戻しとよび、両者の拮抗のうちにて期間契約的な性格が生じるというのである。

こうした流通過程の委譲=代位における安定的な結びつきを、本論文では市場の「組織化」という概念によって捉えている。すなわち、商業資本の自立化は、単に既存の流通過程をそのままの状態で、産業資本が担当するか、商業資本が担当するかで区別する、資本間分業論では捉えきれないのであり、単発的な取引から粘着的な取引へという質的な変化を伴う点が明確にされなくてはならないというのである。しかも、商業資本による継続的な取引は商品市場全般を一様に覆い尽くすのではなく、一方に商業資本を組織者とする膠着的な中核部分が形成されると同時に、他方で周縁部分には従来から強調されてきた、他品種の流通過程の媒介、商業資本のもつ機動性といったメリットを追求するスポット的な取引、単発的で流動的な代位関係が広がり、その結果、商品市場は一種の二重構造を具えたものとなることが明らかにされる。そして商品市場の中核部分に長期滞在する商業資本は、産業資本によっては販売できない性質の新たな商品群、たとえば現役の機械設備やその用益権にも買い向かい、これを商品化するための中古市場やリース市場などを組織する積極性を帯びることになる。そこには、銀行資本や証券業資本などの展開につながる、商業資本の多型化の萌芽が潜んでいるというのである。

第2 章「商業信用論の形成と商業資本論」では、商業資本論のうちにすでに内包されている期間契約的な性格が分析され、これを通じて商業資本と商業信用との連続面が、商品市場の変容という観点から明らかにされる。ところで商業信用論の研究をふり返ると、当初、商品が貸借されているものとみなす商品貸付説と、貨幣が貸借されているものとみなす貨幣貸付説とが対立してきたが、やがて貸借には還元できない、商品販売と融合した特殊な取引関係であるとみなす資金融通説が支配的となっていったように思われる。しかし、この資金融通という概念も、実質は貸借なのか、商品売買なのかという問題に関して、なお不明確な点を抱えていると本論文は指摘する。そしてこの問題はけっきょく、現金販売によって営まれてきた商品市場と、信用販売によって営まれるそれと切断してきたことの妥当性を考え直さざるをえなくなるという。すなわち、商業信用以前の商品売買のあり方がすでに、商業資本の自立化を契機として大きな変容をとげている点を踏まえ、市場機構論全体における商業資本論と商業信用論との関連を再考する必要があるというのである。

このように捉え返すと、商業資本の自立化の過程は次のような期間的な拡張を具えていることがわかる。すなわち、第1に商業資本による継続的な取引は、いまはまだ存在せず、これから生産されようとしている商品に対しても、あらかじめ購買を予約するというかたちをとって、いわば将来の商品を市場に引き込む性格をもつ。第2に商品市場の組織化のなかで、そこにゆけばいつでも必要な商品が揃うという利便性を保証するため、商業資本相互の再販売のネットワークを形成し、過不足の生じた商品を事実上預託しあうかたちで、すでに商品の現物性から乖離が発生する。これに対して、商業信用ではこれらの関係が逆の方向に拡張され、貨幣の現金性からの乖離が発生しているわけである。将来の貨幣の先取りの関係を読み込もうとする既存の商業信用論では、それに先行する商品市場における貨幣の現金性のみが強調され、その結果、商業資本論と信用論との間に決定的な隔絶を設けてきたが、商品の現物性や貨幣の現金性に強く縛られている商品市場からの離脱という意味では、両者がともに預託関係を包摂し狭義の商品市場を変容させる共通性を有する点が見逃されてはならないと述べ、通説を批判している。

第3 章「銀行資本と市場機構」では、銀行資本の自己資本の意義が検討され、それを基礎に銀行信用と資本市場、および銀行資本と商業資本との関連について考察されている。たしかに近年の信用論研究のなかでは、従来の利子生み資本論と異なり、銀行資本の自己資本のもつ意義がそれなりに注目されるようになっている。しかしその意義は、(1)信用調査や債権取立のために投じられる信用関係にともなう流通費用の側面が中心であり、(2)準備金に注目する際にも、主として兌換に対する現金準備ないし預金に対する支払準備としての側面に議論が集中してきた嫌いがあるという。したがって、発券業務において銀行資本の自己資本であることが求められた準備金も、預金業務が展開され、銀行組織が展開される理論段階では、滞留預金や上位行債務など他人資本によって置き換えられるものとされる。しかし、銀行の与信業務の観点からみてもっとも重視されるべきなのは(3)資産準備ないし貸倒準備としての側面であり、それは決して他人資本で補強できるものではないというかたちで現実に示される。(2)の準備金であれば、銀行間組織の発展を通じて節約できるが、貸し倒れによって生じた欠損をこれによって埋めることはできず、現金としての流動性よりも自己資本としての確実性を優先的に求められるという。

このように、貨幣取扱業務の兼業や利子付預金の導入、さらにまた高度な銀行間組織をつうじても、資産準備に当てるべき自己資本を動員できるわけではないという、信用機構の絶対的な限界を克服するのは、他の市場機構との繋がり、さしあたり銀行資本を被出資者とする資本結合を引きおこす展開動力となる。資本結合という観点からみた場合、銀行資本にとって重要となるのは、長期貸付の延長線上の出資や経営支配のために出資ではなく、資産準備の拡充のために出資を受けることなのである。ただしこのためには、いつでも出資持分を現金化できる流動化機構が必須であるが、銀行資本自体はこの流動化機構の中心になりうるものではないジレンマを抱えている。この機構が成立するには、出資者や被出資者となることにメリットを見出す資本だけでは不足であり、出資持分の流動化そのものにメリットを見出しうる資本が必要となる。では適合的な資本はどのような資本か。それは、従来の研究では出資活動とはもっとも関連が薄いと考えられてきた、商業資本ではないかというのが本論文の立場である。たしかに固定資本の制約をもたず、短期に取り扱う商品を変更できるといった機動面のみを強調してきた既存の商業資本論からみれば、それが出資行動を展開するとは考えにくいであろう。しかし、本論文の第1章で検討してきたような、商品市場の中核で継続的な取引を組織するような商業資本の活動のうちには、資本結合を斡旋ないし創出することに特化する証券業資本に通じる側面が潜在的に含まれているというのである。こうして銀行資本は、一方で資本結合に対する要請をもち、他方でその条件となる流動化機構の形成を商業資本に求めるというかたちで、資本市場と商業資本とを結びつけることになるというのである。

第4 章「商業資本論の展開と資本結合論」では、市場の組織化という商業資本の特性を基礎に、資本結合との関連があらためて分析される。こうして、従来ほとんど問題にされてこなかった、商業資本論と資本市場論との理論的な関連が正面から考察されている。ここではまず、第1章における商業資本論の展開を振り返り、その多型化の根因が抽出される。すなわち商業資本の最大の特徴は、すでに市場に実在し売買されようとしている現物商品と現金との売買を代位するというだけではなく、期間契約的な取引関係を導入し、将来の商品を取り込み、また商業信用を通じて将来の貨幣を利用することで、現物的な商品市場の外へ活動領域を広げるところにある。こうして形成される中古市場やリース市場にも、すでに現物出資を展開する契機が含まれており、資本市場に通じる性格が認められるという。このような商業資本の拡張性、その多型化の契機を明確にすることで、従来の資本市場論ないし資本結合論が抱える難点も克服できるというのである。

ではその難点とはいかなるものか、つづいて従来の株式資本論の検討に移り、その限界が明らかにされる。これまでの研究を振り返ってみると、そこでは「他人資本の自己資本化」説と「自己資本の他人資本化」説という二つの対立する学説が存在し、多くの見解もおおむねこの枠組みのなかで分類されてきた。しかし両説は、むしろ共通する難点を抱えていると本論文はいう。すなわち、株式の転売という側面がほとんど取りあげられてこなかったのである。株式保有の目的は、「他人資本の自己資本化」説では支配権の獲得に、また「自己資本の他人資本化」説では配当の取得に限定され、評価益ないし売却益としての資本利得を得ることは付随的な目的と見なされてきた。言い換えれば、株式の支配証券や利潤証券としての側面に対して、投機証券としての側面はほとんど射程に入ってこなかったのである。しかし、市場価格の変動による評価益ないし売却益の発生は、経営参加権や配当請求権の移転を伴わない、一般的な商品売買にもひろく認められる基礎的な現象である。従来の研究は、株式という商品の特殊性を重視するあまり、商品一般に通じる基本的な売買動機が軽視される結果となったという。このことが盲点となり、商品の売買を仲介する商業資本との関連が見逃されてきたというわけである。こうしてみると、従来の資本結合論ではけっきょく、出資持分の動化の可能性が動員の条件とされながら、それを実現するための流通市場が理論的に説明できないという困難に逢着せざるをえない構造になっていた。この困難を解決するべく、機能資本同士の結合(αーα型結合といわれることもある)から出発し、これが機能資本と無機能資本との結合(αーβ型結合ともいわれる)に転化する結果、持分の流通市場が発生すると説く新たな試みも提起されたが、それもやはり、なぜこの転化が生じるのかを説明できず、けっきょく無機能資本家を事実上、外部から導入するのと大差ない結果に終わっているという。

このように整理してみると動化の説明には、機能資本家と無機能資本家という二種類の行動主体を導入するだけでは不充分なのであり、それらとは行動原理を異にしする第三の行動主体を加えなければならないことが明らかになる。経営権にせよ配当にせよ、それらが目的あるかぎり、株式発行後、出資者の手に渡った時点ですでに商品として性格を失う。比較的長期にわたって保有し続けることが目的であった株式が、当てがはずれ予定を繰り上げてたまたま換金せざるをなくなったといった、偶然的な商品化によるのでは、流動市場が成立する必然性は説明できない。それは自家消費のためにつくった農作物がたまたま過剰になり、商品化したのと同じで、競争的な資本主義的市場の特性をそれによって説明できないのと似た関係にある。こうしてみると、一般的な株式市場の生成には、最初から売るために株式を買う第三の行動主体(本論文でγ型資本とよばれる)の存在が重要な契機となる。そして、このようなγ型資本に転化する上で最も有利であるのが、組織化された商品市場を背景にもつ商業資本なのである。中古市場やリース市場は、商業資本にとって資本結合への関与を深める契機であり、この関与は将来の資本結合を予定した個別資本の育成に携わる局面まで深化する可能性をはらむ。商品市場や貨幣市場の組織化を生みだした商業資本は、こうして、資本市場を形成しまた深化させる変容性を宿しているというのである。

終章「商業資本論の再構築とその理論的意義」では、以上4章の展開を原理論体系の観点から鳥瞰的に振り返り、その理論的な意味が(1)市場機構の「外的な独立性」の重視、(2)商業資本の「多型化」と商品市場の「組織化」の関連、(3)市場機構の高度化と産業資本の構造変化、(4)市場機構論の展開力の限定性と市場機構の多様化、の4項に総括されている。(1)で指摘されているのは、商業資本の限界を信用機構が克服するとように、単線的に発展するものとして位置づける従来の展開は、併存する諸市場機構間の関係が理論的考察の場からぬけ落ちてしまう限界を抱えており、各市場機構の「外的な独立性」を重視し、相互の関係にあらためて注意を払う必要がある点である。(2)は本論文を貫く中心的なモチーフであるが、ここでは多型化や組織化という捉え方が、構造的な比較論を越えるプロセス論的な分化=発生論の可能性を含む点が吟味されている。(3)では、市場機構論の展開がそれ自体で完結するものではなく、もう一度産業資本のあり方に対して影響を及ぼす関係を理論化する必要が指摘され、原理論を構成する流通と生産との作用・反作用の解明という本論文の外延が示されている。(4)では、多型化や組織化の動力を一元的に理論化することは、現実の市場が一様なすがたに収斂することを意味するものではなく、動力そのものは同一であっても、その伝達経路が異なれば、結果としての市場機構の具体的なあり方は異なるという考え方が示され、市場の多様性を捉える方向への本論文のさらなる展開が示唆されている。

評価

以上のような内容を有する本論文の積極的意義を述べれば、つぎのようになる。

第1に評価すべきは、市場機構の全体像に対する総合的な把握であろう。本論文が対象とする商業資本、信用機構、資本市場の領域は、マルクス経済学の基礎理論のなかでも近年とくに研究が集中している分野であるが、専門的な研究では各個別領域の細分化が進み、それぞれの枠内で精密化される傾向が強まっている。そのため教科書的な概説書を別とすれば、これら三つの機構相互の関連のほうに主眼をおいた本論文のような研究は意外に手薄な状態にある。しかも従来の研究ではこれらの関連が、たとえば、産業資本の諸機能からの遠近で整理するとか、利潤率均等化の促進効果の強弱で序列化するといった、外面的な対照、形式的な比較という方法で処理されてきた。たしかに、産業資本の内部から商業資本や商業信用、銀行資本が独立するという分化=発生論的な展開方法が注目され、それは産業資本という共通の母体との関連を解明するうえで、画期的な成果をもたらしたといってよい。しかしこの方法に基づく研究も、商業資本、信用機構、資本市場が同時に併存する状況を想定し、これら相互の機能的な依存関係の内面に踏みこんで精緻な分析を加えることに成功してきたとはいえない。本論文では市場機構論の展開方法を抜本的に見直し、これら三つの領域を一定の基準で比較し、単線的に配列するのではなく、いわば三角形の三つの頂点として相互に関連づけ、有機的・立体的に構造化するという総合的な把握を展開しているのである。このような領域間の関連に焦点を当てた総合化の方法は、各領域を独立に扱う研究がえてして陥りがちであった、厳密化のための厳密化、不必要な複雑化という弊害を脱し、なにが厳密化されるべき対象か、どこが精緻に分析されるべき箇所なのか、その目的とポイントをはっきりさせる効果を結果的にもたらしているといえよう。こうしたいわゆる体系化の方法は、原理論研究としては正統なものであるが、専門的な研究としては難しい面がある。本論文はこうした伝統的な体系化が有する利点を、実際に生かしえている点がまずもって評価されてよい。

第2に、着眼点の独創性があげられよう。本論文では、商品市場、貨幣市場、資本市場の関連を出発点の商業資本の多型化を軸にして、一貫した市場構造論として展開している。従来の市場機構論の研究では、商業信用から銀行信用に至る信用機構論が中核と見なされ、このまえに導入的、付随的な商業資本論を配置し、またそのあとに派生的、補足的な資本結合論でまとめる、いわば信用機構基軸説とでもいうべき立場が支配的であったといってよい。こうした研究の主流に対して、本論文は出発点の商業資本論を独自に深化し、市場の組織化という独自の展開で正面から対峙しつつ、通説に根本的な転換を迫っている。すなわち、市場における商品取引の過程をそのまま代位するだけではなく、むしろ将来の商品を対象に組み込み取引関係の期間的に拡張し、こうして既存の現物取引の市場を組織化する、動的で積極的な主体として商業資本を位置づけ、この主体の直接、間接の関与を通じて、市場の組織化が重層的に進むと捉える、いわば商業資本基軸説を展開する。これはいままでにほとんど考えられることのなかった斬新な着想であるといってよい。むろん着想だけであれば、さまざまな可能性を示すことは容易にできるが、本論文はそうした直観を実質的に理論化する工夫を重ね、ひとまず批判に耐えうる内容に仕上げているといってよい。従来の諸研究に対する批判は、本文では基本的に伏せられているが、膨大な註のかたちで入念に試みられている。一方で先行研究の批判を詳細に展開しながら、他方ではそれに寄りかかることなく、独自の着想を実体化した独創性は評価されてよいところである。

第3に、基点となる商業資本論に関して、商品市場の二重構造、組織化された市場の内部構造の分析にも評価されてよいものが含まれる。従来から、卸売りと小売りの分業関係、継続的な取引慣行の存在、取り扱う商品の使用価値的な特性がもたらす業態差など、商品市場の組織的な性格に注目する研究は、商業資本論研究の一つの流れとして存在してきた。しかし、こうした研究は商業論、流通経済論といった原理論とは異なる課題関心に領導されたものであり、資本の競争原理を中心に演繹的な理論構成をとる原理論研究のなかでは明確な位置を与えづらい内容であった。現実にはそうした組織性はたしかに存在するが、それはいわゆる段階論のような別の領域において実証的に具体化されるべき課題であるとされてきたのである。本論文は市場の組織性を個別主体の経済行動と切り離して、制度・慣行といった外的な要因として処理する二分法を脱し、非市場的ではあるが経済的な要因を、商業資本論の展開のうちに具体化する試みを含んでいる。原理論における商業資本の組織化の研究が、けっきょく理論的困難に陥り抽象化を断念し、おおむね中間的な理論領域に後退してゆくなかで、本論文は相対的に成功をおさめた例として評価してよい。

第4に、銀行資本の自己資本に関する理論的な考察も評価できる。銀行信用の研究は、銀行債務の貨幣性を支える根拠をめぐって、この間大きく進展し、銀行の保有債権に対する将来の支払いの確実性がその主たる根拠であるという見解がおおむね支配的になってきているといってよい。この場合、極端な立場にたてば、充分費用を投じ返済の確実性を高めてゆけば、銀行の準備金はいくらでも縮減できるという解釈も成り立たないことはない。これに対して、近年あらためて銀行の準備金の果たす役割に関心が寄せられ、その意義が議論されるようになってきつつある。本論文もこうした流れに沿って、銀行の自己資本の意義を再検討したものといってよいが、本論文ではとくに、銀行の準備金の果たす役割が、流動性を旨とする支払い準備と、確実性を旨とする資産準備とにおいて区別され、後者は銀行の自己資本でなくては果たしえない点が強調されている。ここから、通常考えらえているように、銀行資本が出資主体となって株式資本に結びつくのではなく、逆に被出資主体となって株式資本化する契機が強く作用する点を明確にしたのは、これまで理論的に顧みられることのなかった、独自の知見として評価できる。

第5に、資本結合における商業資本の媒介機能の解明も評価できる論点をなす。従来商業資本論と資本市場論とは、信用機構論で隔てられ、ほとんど没交渉の関係におかれていた。本論文は、かなり大胆に商業資本論を拡張するとともに、そのような広義の商業資本が、(1) 資本結合を直接媒介するという側面と、(2) 資本結合の条件となる流動化機構の形成を媒介する側面とを、あわせて理論的に展開してみせた。従来の資本結合に関する研究では、(1')結合前の個別資本の対等性と、結合後の非対等性が、個別経済主体的な行動原理からは整合的に説明できず、また(2')かりにたとえば長期遊休資金の保有主体というようなかたちで、結合後の非対等性をある意味で受容する行動原理を追加してもなお、流動化機構の形成が展開できないために結合が説明できないという困難を抱えていた。こうした困難に対して商業資本の二重の媒介説をもって応える本論文の立場は、解決の新たな試みの一つとして評価してよい。

総じて、これまで断片化されやすかった市場機構の全体像を射程に収めて、商業資本の多型化と市場の組織化という一貫した観点から、商品市場、貨幣市場、資本市場の立体的関連に詳細な考察を加えている点、そのための方法論的な基礎を深化させている点、これまでの理論的研究で盲点となってきた、意外な論点、隠された可能性が同時に模索されている点、などが本論文の長所として評価できる。しかし、本論文にも、以下のような、疑問とすべき論点、さらに研究すべき未解決の問題がないわけではない。

第1の問題は、理論的な難解さである。本論文は、通説に対して、かなり根本的なところで異論を唱えるものであり、しかも、個別的な論点だけではなく、むしろ領域をつなぐ関連に力点がおかれていることもあり、なかなか全体像を捉えるのに困難なところがある。このことを意識して、序章や終章で、全体の課題や構成について概括的な説明が添えられてはいるが、それも本論との重複感が強く、必ずしも理解を容易にしているとは言い難い。諸説の批判は基本的にすべて註にまとめられており、これに対して本論はひたすら理論的思考で展開する構成になっているが、たとえば『資本論』なり、その後の代表的な見解なりを紹介し、その限界を具体的に指摘し、それをどう解決したのかを示すといった、通常のスタイルも併用してみる余地もあろう。また、否定形を多用した、かなり韜晦な記述が目立ち、理論の精密さ、説明の克明さに比して、必ずしもその記述に充分意を用いているとは言い難いところがある。

第2に指摘すべきは、商業資本の多型化という基幹的構想に対する疑問である。本論文は商業資本を軸に、市場の組織化というかたちで市場機構を捉えていているが、この目的に沿って拡大された商業資本像を検討すると、そこにはあえて商業資本という限定をおこなう必要がない、産業資本にも通じるような資本の一般的な特性が埋め込まれていることがわかる。その意味ではいわば『資本論』の「資本の一般的定式」をめぐり、前期的な資本の形式などとの関連をふくめて、資本の本質規定を与える次元で問題とされてきたような論点が、事実上検討されているといってよい。とりわけ、資本結合に際して仲介的にはたらきかける商業資本の内実は、「商人資本的形式の資本」というべきものに転じており、本論文自体もこのような連続面を部分的には示唆している。このように考えると、本論文のように、産業資本から分化した商業資本を出発点におき、ここから後の展開を独自に市場機構論として構成するべきであったかどうか、根本的な疑問が生じる。産業資本を含むかたちでより広く、資本の一般的な規定を与え、産業資本間の直接的競争を対象とする生産価格論や市場価値論などの価格機構論も含めて、『資本論』第3巻の全体を射程に収めるかたちで市場機構論を構成する通常の原理論構成のほうが、そのかぎりでは妥当にもみえる。本論文はあえて、商業資本の多型化ということで、商業資本などが分化するまえの、いわば広義の産業資本が形成する市場機構と、商業資本以降の市場機構との関連を蔭に隠す虞がある。この点で、本論文が提示する市場機構論は、原理論全体のなかで、あらためてその位置を確定するという課題を残してしている。

第3に、商業資本論の展開内容に関して通説的な立場からみても、いくつか疑問が残る。原理論における商業資本論では、販売期間の不確定性を中心に、多数資本の回転の媒介、取扱商品の選択的代位、部門に規制されない可動性など、さまざまな論点が検討されてきている。本論文では、こうした研究に対する内在的な批判が、なお充分であるとは言い難い。またこれに対して、期間契約的な利点を対置し、流通の組織化を重視するにしても、そこから商品市場において長期滞在型の商業資本による膠着的な継続的取引が核となり、スポット的な取引がこれを取り巻くという二重構造になぜゆきつくことになるのか、商業資本の二つのタイプとして整理するのではどこが不充分なのか、疑問が残る。

第4に、個別経済主体の行動原理として、競争的な利潤追求以外の原理をどう処理するのかという問題も存在する。たとえば、売れ行きの順調は商品に過不足が生じるなかで、相互にそれをやり繰りする、再販売のネットワークが商業資本間に形成されるという説明があり、そこでは資本間に事実上、扶助関係がみられることが示唆されている。これは結果としてそうなっているということかもいれないが、こうした非競争的な諸原理が組織化の契機として理論化されてなくてはならないと思われる箇所は、ほかにも本論文の随所に散見される。制度や慣習が、市場における個別主体の行動原理を外部から制約するというだけであれば、いわゆる段階論とか中間理論とかよばれる別の領域を設け、そこで独自に分類整理すればすむことである。原理論的考察に結合とか扶助という関係を組みこむ場合には、市場の基本をなす競争的な個別的行動原理との関連を捉える方法的な枠組みを周到に準備する必要があるのであるが、この点が本論文は必ずしも明示的ではなく、理論展開の重要な場面でやや安易に結合、慣習、制度などの事実に依存しているところに課題を残す。

第5に、銀行資本の準備金の取り扱いについても、歴史的事実と密接に関連する看過できない問題がある。本論文では、銀行が自己資本を準備金として保有する主たる理由を、資産の劣化を補強する資産準備、貸倒準備という側面に求めている。しかし、これは銀行がかなり長期の貸付をおこなうようになったという歴史的な変化にもとづいているということもできる。短期貸付を中心とする商業銀行に関していえば、適格な手形を適正な割引率で割り引いていれば、基本的にそこからあがる粗利潤によって返済の遅滞・困難による欠損はカバーできるのであり、必ずしも本論文が強調するような資産準備を自己資本で厚くもつ必要はないということにもなる。本論文では、このような歴史的事実がほとんど考慮されておらず、たとえば19世紀末のドイツ金融資本のもとで顕著となった、長期的な固定資本信用の事実を一般化するといった難点を残している。本論文は終章で、資本主義における市場の多様性を分析する理論を目指すというが、資本主義像の変容を理論的に捉えるためには、このような外的条件の変化が作用するポイントを明確にし、それが変化したとき内部構造にどのような連鎖反応をうけるのか、方法論的な側面を含めて再考する必要が残されている。

以上のような問題は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するのに充分な研究成果を含むという点で審査員全員の評価は一致した。

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