学位論文要旨



No 118724
著者(漢字) 秋富,創
著者(英字)
著者(カナ) アキトミ,ハジメ
標題(和) 第一次世界大戦期イギリスにおける通商政策構想
標題(洋)
報告番号 118724
報告番号 甲18724
学位授与日 2004.03.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第180号
研究科 経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 助教授 石原,俊時
内容要旨 要旨を表示する

第一次世界大戦期から大戦後1920年代にかけてのイギリス経済政策・通商政策は従来,「断絶的」な関係にあると解釈されるのが常であった.特に通商政策では,「帝国膨張」路線と「帝国関税同盟」路線の交錯という観点から,大戦期は前者から後者への転換点と位置づけられる一方で,大戦後に再び前者が復活したと捉えられてきたのである.本稿の課題とは,大戦中に計画された「通商政策構想」に着目することによってこのような解釈に異議申し立てを行い,大戦期の「通商政策構想」と大戦後に施行された「通商政策」との関係が「連続的」であるという結論を導くことである.

1916年前半期イギリスは,「連合国経済会議」への参画を通じて通商政策構想にコミットし始める.フランスから同会議の開催の打診を受けたイギリスは,商務省が中心となって会議プログラム(パリ決議)の草案作成に着手する.フランス側の代表者である商務大臣クレマンテルが「原材料の共同管理」や「特恵関税の相互付与」を骨子とする「連合国経済ブロック構想」を唱えたのに対して,イギリス商務省は事前の英仏交渉においてこの構想の骨抜きを画策し,最終的には自国本意の構想を会議プログラムに反映させることに成功したのである.この構想とは,一方では「関税政策を含む選択肢」によって,大戦前ドイツに依存していた必須産業を保護・育成し,他方で中立国との通商関係の重要性に鑑み,対連合国と対中立国の交易条件を平等に扱うという内容であった.総じて商務省は,連合国協調体制というクレマンテル構想の枠組みには賛同しつつも,実のところ開放的なシステムの形成を目指していたのである.

これに対して,「帝国関税同盟」路線の代表的主導者である関税改革主義者ヒューインズは,クレマンテルの立場に近い閉鎖的な経済ブロック構想を計画していた.彼は,大戦前におけるイギリスの通商政策が帝国解体を助長していたという反省に立ち,帝国が一丸となって連合国と通商条約の連鎖を完成させ,排他的な特恵関税を構築することでドイツ陣営を圧倒するという構想を打ち立てた.彼の構想とは,世紀初頭以来の「関税改革運動」において主張されてきた帝国特恵関税に連合国特恵関税を接ぎ木し,敵国や中立国を露骨に差別するものであった.

しかし当時の代表的経済団体である商工会議所は,このような閉鎖的な経済ブロックではなく,商務省流の開放的なシステムを一貫して支持していた.彼らは関税政策の範囲については合意しなかったものの,ヒューインズのように関税政策を絶対視せずに,他の通商政策と並列的に扱うばかりか,それらの政策をドイツ流に総動員する構想を計画したのである.彼らにとってみれば中立国との通商関係は大変重要であったため,通商政策の総動員によってドイツからの経済的自立・帝国内生産の振興を図りつつも,開放的なシステムを堅持していくことこそが必要不可欠であった.

パリ決議採択後の1916年7月,パリ決議の結論と国内政策を整合させるために「商工業政策に関する委員会」(バルフォア委員会)が任命されたが,この委員会の報告もまた,商務省流の開放的なシステムを志向するものとなった.戦後復興期の「過渡的な方策」に関する暫定報告では早々と,「特恵関税の相互付与」・「原材料の共同管理」を謳うクレマンテル流の路線に見切りをつけ,「一時的な輸入禁止措置」・「自由な市場(価格)競争」を重視する商務省流の現実的路線を支持した.1917年1月以降の「帝国特恵」をめぐる議論においては,書記アシュリの助言を受けた委員長バルフォア卿が,帝国特恵関税は食糧関税を必然的に伴うという点を憂慮する見地から,「関税以外の手段による帝国特恵」を提案した.この提案は関税改革派の批判を浴びることになったが,それでも委員会は最終的に,事実上食糧関税の導入を棚上げし工業製品のみに特恵関税を新設するだけの,開放的なシステムの形成に同意することになったのである.

1916年12月にロイド=ジョージ内閣が成立すると将来の「帝国会議」開催が正式に公表され,1917年3-5月には「戦時帝国閣議」と「戦時帝国会議」が同時に開催された.これらの会議では,当時ドイツが経済的に疲弊し,パリ決議が想定していたような「戦後の経済戦争」が起きる見込みはもはやないこと,パリ決議自体が連合国内部において齟齬を来たし,同決議の枠組みが正常に機能する見込みは薄いことが明らかにされた.更には,アシュリ・ケインズによる賠償問題の提案を契機にして,ドイツに対して長期にわたる賠償を課すためにドイツの経済復興を是認し,大戦後ドイツを包含する国際協調体制を構築することが示唆された.すなわちイギリス一国のみならず帝国全体のレベルにおいて,連合国協調体制を骨子とするクレマンテル構想の枠組みからの離脱が決定されたのである.

このような決定は,イギリス本国と植民地間の通商関係をめぐる議論にも影響を与えた.イギリス帝国は,食糧関税を含む帝国特恵関税の導入,すなわち事実上閉鎖的な経済ブロックの形成を求めるニュージーランドの提案を却下し,「帝国特恵を実現する手段を帝国内諸国の裁量権に委ねる」ことを合意した.このことはイギリスが晴れて,連合国や中立国のみならず植民地との間にも,商務省流の開放的なシステムを構築出来るようになったことを意味していたのである.

1917年2月以降バルフォア委員会は「必須産業」に代表される「中間的な問題」とは別に,いかなる「基礎的」産業に関税政策を導入するのかという「一般的通商政策」の問題に主として取り組むことになった.しかし委員会の内部では,「国内産業の振興」論に拠る関税改革派と「他産業へのダメージ」論に拠る自由貿易派が対立した.委員長のバルフォア卿は書記アシュリの助言を参考にして,後者の論点を重視する見地から「選択的関税政策」を主張し,最終的には委員会多数派の同意を取り付けることが出来た.彼は,イギリス輸出産業のコスト負担を出来る限り押さえることが,将来も重要であり続ける中立国市場において競争力を維持するための鍵と捉え,関税を賦課する産業の範囲を限定するこのような政策を主張したのである.バルフォア委員会は,中立国との通商関係を重視するバルフォア卿の意見を採択することにより,商務省流の開放的なシステムの形成を再び支持したことになる.

1917年7月にはロング委員会が任命され,戦時帝国閣議・戦時帝国会議において決定された「帝国特恵」問題が,最終的にイギリス国内の内閣レベルで検討されることになった.しかしこの委員会も新規の食糧関税を議論することはなく,砂糖・ワインなどの既存関税に対して判断を下しただけであった.すなわち彼らは閉鎖的な経済ブロックに代わり,商務省流の開放的なシステムを選択することに同意していたのである.

大戦後の通商政策の特徴は,茶・コーヒーなどの嗜好品やマッケナ関税製品への帝国特恵関税を規定した1919年財政法と,光学ガラス・磁石などの枢軸(必須)産業製品への関税,植民地から輸入される同製品の関税免除,他産業製品への反ダンピング関税を規定した1921年産業保護法に見られる.植民地から輸入が期待される嗜好品への特恵関税は高く設定される一方で,植民地がほとんど生産しないマッケナ関税製品・枢軸産業製品への特恵関税が寛大に扱われたこと,更には旧敵国製品のみへの反ダンピング関税賦課が公言され,しかも1925年までに賦課された製品がわずか4種類であったことは,大戦後の通商政策が原則的に世界中との通商を目指す「開かれた帝国」の維持を第一とし,特定の国内産業に対しては必要最低限の関税を導入するだけであったことを物語っている.すなわち1920年代には,ドイツに依存していた必須産業に対して関税政策を導入すると同時に,商務省流の開放的なシステムの形成を目指す,という新しい政策理念が芽生えていたのであり,これは「『開かれた帝国』政策」と「関税政策」という,「帝国膨張」路線と「帝国関税同盟」路線の要素を一つずつ兼ね備えた「総合」的政策に他ならない.このような政策を「第三」路線と命名するならば,その萌芽は,大戦中の商務省・商工会議所・バルフォア委員会の通商政策構想にまで遡ることが出来る.「第一次世界大戦期の通商政策構想」と「大戦後の通商政策」とは,「第三」路線を通じてまさに「連続的」な関係にあったのである.

19世紀を通じた商務省の通商政策,なかんずく通商情報に関する政策を概観すると,このような「第一次世界大戦期の通商政策構想」,すなわち「第三」路線の歴史的意義が明確となる.19世紀中葉における商務省の通商政策とは,海外の自由貿易市場を獲得するため対外的に「公平な場と公平な立場」を求める,「厳格なレッセ=フェール」原理に則るものに過ぎなかった.しかし大不況期の1880年代には,「開かれた帝国」の堅持という基本方針を掲げつつも,個別企業の利害・関心に即して通商情報を提供し,対内的に「個人の自助努力の領域」に干渉するものへと変化していったのである.「第三」路線の歴史的意義とは,通商情報に代表される通商政策が第一次世界大戦を契機にして干渉の度合いを一層強め,遂には関税政策という「画竜点睛」を画することにあったと言える.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1915年末から1917年半ばにいたる時期のイギリスの「通商政策構想」をめぐる議論の展開を跡づけ、第一次大戦期を19世紀以来の「帝国膨張路線」から「帝国関税同盟路線」への転換点、大戦後を前者の復活とみなし、大戦期の政策構想と大戦後の政策を「断絶」の関係で捉える通説に対して、両者を「連続」の関係で捉える見解を提示することを課題とした研究である。

第I章(はじめに)は、第一次大戦期の経済政策・通商政策と大戦後の政策との関係をめぐる内外の研究史を整理した上で、大戦期のイギリスが大戦後・1920年代を展望した新たな通商政策構想を計画していたことを示すことによって、「断続説」という通説に異を唱え「連続説」を提示する、との論文の課題を提示する。

第II章(1916年連合国経済会議)は、1915年末のクレマンテル提案から1916年6月の開催に至るまでの「連合国経済会議」をめぐるイギリス側の対応を取り上げ、以下の点を主張する。イギリス政府の対応の中心となった商務省の構想は、「関税政策を含む選択肢」によって、戦前ドイツに依存していた必須産業の保護・育成をめざすとともに、中立国との通商関係の重要性を考慮し、連合国と中立国に対する交易条件を平等に取り扱うものであった。それは連合国協調体制というクレマンテル提案の枠組みを認めながら、実際には、閉鎖的な「連合国経済ブロック」の形成という彼の構想の核心部分を排除し、開放的システムの形成をめざした。これに対して、ヒューインズに代表される関税改革主義者は、世紀初頭以来「関税改革運動」が主張して来た帝国特恵関税に連合国特恵関税を接木し、敵国と中立国を差別的に取り扱うことを主張し、クレマンテルに近い閉鎖的な経済ブロックの構想を抱いていた。商務省の立場を支持したのは、しばしば考えられるように関税改革主義者ではなく、中立国との通商関係を重視し、開放的システムの堅持を望んだロンドンを中心とする商工会議所の多数派であった。

第III章(前期バルフォア委員会の通商政策構想)では、連合国経済会議決議採択直後の1916年7月、この決議と国内政策の整合を目的に自由貿易主義者と関税改革主義者の混成部隊として任命された「商工業政策に関する委員会」(バルフォア委員会)のうちで、1917年2月まで活動した前期バルフォア委員会を取り上げてその議論を整理し、以下の点を指摘する。戦後復興期の「過渡的方策」を対象とする「輸入暫定報告」・「輸出暫定報告」は、クレマンテル報告の路線を否定し、「一時的な輸入禁止措置」と「自由市場競争」を説く商務省の立場に合流した。帝国特恵をめぐる議論では、帝国特恵が食糧関税を伴うことを憂慮した委員長バルフォアが「関税以外の手段による帝国特恵」を提案し、これに対して関税改革主義者は、「食糧関税を含む帝国特恵」を要求した。結局、委員会は食糧関税の事実上の棚上げと工業関税のみの特恵関税という「中間的な帝国特恵」の方向を採択したが、これは委員会が商務省流の開放的システムを支持したことを意味する。

第IV章(1917年戦時帝国閣議・会議)は、1917年3月-5月に開催された「戦時帝国閣議」と「戦時帝国会議」を取り上げ、敵国との講和条件や戦後の通商政策をめぐって帝国レベルで展開された議論を跡づけ、以下の点を明らかにしている。この二つの会議では、ドイツが経済的に疲弊したことによってパリ決議が想定したような「戦後の経済戦争」の可能性はなくなったこと、さらに賠償問題に関するケインズらの提案を契機として、賠償支払いを可能にするためにドイツの経済復興を承認し、ドイツを包摂した国際協調体制の構築をめざすことが確認された。これらの事実は、帝国全体がクレマンテル構想からの離脱を決定したことを意味する。またこの決定は本国=植民地間の通商関係をめぐる議論に影響を及ぼし、イギリス帝国は食糧関税を含む帝国特恵関税の導入を求めるニュージーランドの提案を却下し、帝国特恵を実現する手段を帝国内諸国の裁量権に委ねることを合意した。かくしてイギリスは植民地との間でも開放的システムを構築する可能性を与えられた。

第V章(後期バルフォア委員会とロング委員会)では、1917年2月以降の「後期バルフォア委員会」における「基礎的」産業に対する関税政策の適用に関る「一般的通商政策」をめぐる議論と、「戦時帝国閣議・会議」で採択された先の「帝国特恵決議」を具体化するために1917年8月に任命された「ロング委員会」における通商条約と帝国特恵関税をめぐる議論を検討し、次の点を明らかにする。バルフォア委員会では、関税改革派の「国内産業振興」論と自由貿易派の「他産業へのダメージ」論が対立したが、委員長バルフォアは、後者の立場から、輸出産業のコスト抑制が中立国市場における競争力維持の鍵となると考え、関税賦課の範囲を限定する「選択的関税政策」を主張し、委員会多数派の支持を獲得した。委員会は、商務省流の開放的システムをあらためて支持したのである。一方、ロング委員会の結論も既存の通商条約を維持することを示唆するとともに、新規の食糧関税については議論せず、開放的システムに対する合意の立場を示した。

第VI章(むすび)は、第V章までの分析を総括した上で、以下のように、第一次大戦期の通商政策構想と大戦後の通商政策を連続的に捉える「仮説」を提示し、さらにこの構想が20世紀イギリス通商政策史において占める意義に言及する。1919年財政法と1921年産業保護法に体現された大戦後の通商政策は、植民地からの輸入が期待される嗜好品に対する特恵関税は高く設定する一方で、植民地の生産が希少なマッケナ関税製品・枢軸産業製品に対する特恵関税を寛大に扱ったこと、外国製品のダンピング防止に関する規定の適用を受けて1925年までに課税された製品が4品目にすぎなかったことに見られるように、世界中との通商を原則とする「開かれた帝国」の維持を優先し、一部の国内産業(マッケナ関税対象製品・枢軸産業製品)に必要最小限の関税を導入したにすぎない。この政策は、通説のように、「帝国膨張」路線と「帝国関税同盟」路線の並存と捉えるべきではなく、「開かれた帝国政策」と関税政策という形で両路線の政策要素の一面を兼備した第三の「総合」的政策路線として捉えるべきである。開放的システムの形成と産業保護の両立を追求した第一次大戦期の通商政策構想こそ、この「第三路線」の起源にほかならず、この路線を通じて戦時の構想と戦後の政策は連続の関係で把握される。またこの路線は、「開かれた帝国」の堅持を基本としながら、個別企業の利害・関心に即して通商情報を提供することによって、「個人の自助努力の領域」に干渉するという、1880年代に始まる通商政策の新たな段階の延長線上に位置し、関税政策を加えることによってそれをさらに強化したものである。

以上の内容を持つ本論文は、「連合国経済会議」から「ロング委員会」にいたる第一次大戦期の通商政策に関わる一連の委員会・会議の議事録・報告書などの一次史料を丹念に読むことによって、商務省、商工会議所を中心としたさまざまなアクターの政策論の内容を詳細に跡づけ、いくつかの新しい事実を明らかにした点に、第一の意義を認めることができる。とくにこの時期の商務省と通商政策に関する実証研究はこれまで不十分であっただけに、本論文が明らかにした事実は、イギリス経済史研究のみならず、第一次大戦期の国際関係史研究にとっても、貴重な貢献と評価されよう。

さらに本論文が、議論の詳細な紹介で終わることなく、第一次大戦期の通商政策構想と1920年代の通商政策を連続的に捉える主張を積極的に展開することによって、両者を断絶的に捉える従来の通説の再検討を打ち出している点は評価に値する。またこの連続説を主張するに際して、「帝国膨張路線」と「帝国関税同盟路線」という、研究史上設定されてきた二つの政策路線のいずれとも異なり、それらを総合した「第三路線」が存在したことを提示しようとした意欲も評価出来よう。

しかし本論文には多くの問題点が残されている。第一の問題は、著者の最大のオリジナリティーと目される「第三路線」を設定する根拠がなお薄弱な点である。これが従来指摘されてきた二つの政策路線に対峙する、体系性を持った「第三路線」であることを説得的に主張するためには、この路線が当時の産業構造や社会経済的利害とどのように対応していたかを明らかにすること、妥協の場となりやすいこれらの委員会における議論の整理だけでなく他の史料・文献を活用して政策構想を多面的に描き出すこと、関税政策を始めとする諸概念を明確にすること、この路線が通商政策を越えてイギリスの経済・産業についていかなる理解をしていたかを明らかにすること、商務省だけでなく通商政策にも大きな発言力を持っていたと考えられる大蔵省の政策構想を検討することなど、なおいくつかの課題が残されている。

第二に、第一次大戦期の政策構想の歴史的意義に関する問題点が指摘されよう。著者は1880年代に起源を持つ通商政策の変化の新たな段階を画するものとして大戦期の政策構想を位置づけるが、この段階的な変化が生じた理由については明瞭ではない。さらに大戦期の政策構想の歴史的意義を論ずるならば、第一次大戦前との関係を論ずるだけでなく、1920年代を時期区分してより綿密に検討することや、1930年代の政策転換との関係を明らかにすることが必要である。

第三に、大戦後のドイツに対して和解的な「第三路線」が、ヴェルサイユ講和会議における対独賠償請求というイギリス政府の立場とどのように整合的に捉えられるかについて不問にされていることも問題であり、クレマンテルやフランス側の態度に関するより正確な理解と併せて、改善が期待されるところである。

第四に、構成上も問題点があることを指摘しておかなければならない。とくに、「仮説」を「おわりに」の部分で初めて提示する構成は、読者に極めて不親切である。奇を衒うことなく、素直に冒頭の課題設定の部分で「仮説」を提示した方が、読者ははるかに興味を持って読み進むことが出来るであろう。

以上の問題点が残るとはいえ、本論文に示された実証的研究成果と問題提起は、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を持っていることを明らかにしている。したがって審査委員会は、全員一致で本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに値するとの結論を得た。

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