学位論文要旨



No 118734
著者(漢字) 松岡,智子
著者(英字)
著者(カナ) マツオカ,トモコ
標題(和) 児島虎次郎研究
標題(洋)
報告番号 118734
報告番号 甲18734
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第430号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 河野,元昭
 東京大学 助教授 木下,直之
 東京大学 助教授 三浦,篤
 東京芸術大学 助教授 佐藤,道信
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、これまで日本近代美術史のなかで傍流として扱われていた児島虎次郎について、画家として、美術品収集家として、さらには文化交流者としての3つの側面から分析し、以下の3部構成によってその全体像を捉えようとするものである。

まず、第1部の「児島虎次郎の生涯と画業」では次の3章、すなわち、第1章を生誕から東京美術学校時代まで、第2章を第1回ヨーロッパ留学時代まで、そして、第3章を帰国から死去に至るまでとして、虎次郎の生涯と画業を概観する。以上は主に松岡智子・時任英人共編著『児島虎次郎』に依拠したが、さらに当時のフランスの新聞・雑誌記事から、特に1920年代前半、虎次郎は色彩画家としてパリ画壇で有名だった事実を明らかにした。

また、第2部の「主要作品論-児島虎次郎と『構想画』」では、虎次郎の作品のなかから、東京美術学校時代の集大成である「なさけの庭」、フランス政府買い上げとなった「秋」、そして、明治神宮聖徳記念絵画館に飾られるはずだった未完の「対露宣戦布告御前会議」の3点を中心として、「構想画」の側面から考察を行い、画家児島虎次郎の見直しを試みようとするものである。黒田清輝は、西洋の伝統的なアカデミズムの理念である「はっきりとした骨格と明確な思想をもった絵画」、すなわち「構想画」を日本に根づかせることが自分の使命であるという信念をもっていたと指摘されている。しかし、歴史主題よりも高尚と考えられていた、知識とか愛とかというような抽象的な画題による「構想画」を完成させることは、当時の日本の洋画家にとって歴史主題以上に困難であった。

第4章で取り上げる「なさけの庭」は、1907(明治40)年に開催された東京勧業博覧会美術展に、東京美術学校西洋画科教授であった黒田の勧めで出品し、西洋画部門で1等賞を獲得し皇室買い上げとなった虎次郎の出世作である。筆者はこの「なさけの庭」を、黒田の「智・感・情」に続く、西洋のキリスト教の「慈愛」の図像を発想源とした「構想画」であり、黒田の意図した「構想画」を最も忠実に実現させた作品として、明治洋画史のなかに位置づける必要があると指摘した。

続く第5章で挙げた「秋」は、虎次郎が1920年のサロン・ナショナルに出品しフランス政府買い上げとなり、パリのリュクサンブール美術館に収められたのち長らく未公開だったが、1999年から2000年にかけて開催された巡回展「没後70年・児島虎次郎展」の期間中、日本で初公開になった作品である。本作品は1918年3月から6月にかけて、虎次郎が中国と朝鮮を旅行した時の取材に基づいて制作されたと思われる。技法から見ると、虎次郎は第1回ヨーロッパ留学中、ベルギーでエミール・クラウスの影響を強く受け、その画風は「リュミニスム」へと大きく変貌し、さらにそれを日本の気候・風土に適応させようとして腐心した結果、「秋」は生まれたものであり、虎次郎の作品のなかでは最も見事に人物と自然が融和しており、東洋の自然観の反映を見ることができる。また、主題表現から見た場合、本章では特に、朝鮮服を身につけ物思いに沈んだ表情を浮かべた少女の頬杖をつくポーズに注目し考察した。その結果、それらの発想源として、李王家博物館や朝鮮総督府美術館で虎次郎が見て強く印象に残ったと思われる「弥勒菩薩半迦思惟像」の手やかすかな微笑を挙げた。つまり「秋」は、西洋美術の図像の解釈では、常に他国の侵略に遭遇してきた「朝鮮」という国家の象徴であり、他方、東洋の仏教美術における図像の解釈では、「弥勒菩薩」すなわち、衆生と同苦し平和を模索する東洋の「慈悲」の象徴ともとれるような《ダブル・イメージ》をもっていたと考えられる。

最後の第6章で取り上げる「対露宣戦布告御前会議」は、虎次郎がはじめて試みようとした本格的な「歴史画」であったが未完に終わった作品である。虎次郎の下絵の構図に酷似した作例として、エルトマン・フンメルが1817年、ポツダムにあるガルニソン教会の装飾プロジェクトのために、レオナルド・ダ・ヴィンチの同名作品を範とし縦長の画面に再構成させた「最後の晩餐」が挙げられる。また、明治天皇を描くにあたって、西洋の聖画像的な表現様式、すなわち画面の中心に重要性を与える構図的ヒエラルキーや鑑賞者に向かう厳格な正面観を採用することによって、決定的な歴史的瞬間における天皇の絶対性を暗示したと思われる。しかし、史実の確認のための史料収集に膨大な時間を要したうえに天皇を理想化しようとする奉賛会や宮内省との対立を生み、さらには長年の疲労が限界に達して画室で倒れ、1929(昭和4)年3月、志半ばで虎次郎は47才で急死した。その後、吉田苞が虎次郎の構想を踏襲して制作を引き継ぎ、1938年にようやく完成させた。

以上の虎次郎の「構想画」においては、彼の「構想」を象徴させたイコン的な要素はそれぞれの作品のなかに暗示的に描き込まれているため、鑑賞者にそれと気づかれない。しかし、大正モダニズム以降、歴史的主題そのものが衰退していったなかでは特異な例として、イコン/ナラティブは虎次郎の「構想画」にとどめられているのである。

さらに第3部では、3章にわたり、美術品収集者、そして、文化交流者の側面から児島虎次郎に新たな光を投じようと試みる。

最初に第7章では、虎次郎の美術品収集活動の動機から1922年に試みられた第2回中国旅行までの収集過程、およびその背景に展開していたわが国における美術館設立運動とそれが虎次郎に与えた影響について論じた。新発見史料によれば、アマン=ジャンは虎次郎がサロン・ナショナルの正会員となりフランス画壇で活躍するうえで後ろ盾となったばかりでなく、虎次郎の美術品収集活動に対しても大きな役割を果たしていたことが明らかとなった。

次の第8章では、実業家の大原孫三郎の全面的な支援の下、美術館設立のための美術品収集を目的とした、約1年間に及ぶ第3回ヨーロッパ留学中の虎次郎の収集活動の経緯を詳細にたどった。虎次郎の収集品の内容から、彼は西洋美術というよりはむしろ、西洋と東洋の総合美術館的な構想を抱いていたと考えられる。しかし、美術館の完成を見ることもなく虎次郎は1929年に急死したため、その死を惜しんだ大原は、翌年、彼の遺作と彼の収集品を展示するための「大原美術館」を現在地に創設したのである。

第9章では、1922年にパリのグラン・パレ美術館で開催された「日本美術展」と、その翌年に交換展として行なわれるはずだったが、関東大震災によって中止になった「現代フランス美術展」について論じる。まず、「日本美術展」についてであるが、アマン=ジャンが虎次郎に宛てた書簡のなかで繰り返し「私達のプロジェクト」と記したことからも明らかなように、この展覧会の発案者は児島虎次郎とアマン=ジャンであった。しかし、虎次郎が恩師黒田清輝に相談したのちは、日本政府と美術界が協力し、国威をかけた大プロジェクトへと発展してゆき、その結果、「日本美術展」は大きな反響を呼び、評価の高かった日本人作家に対する勲章の授与ということまで話題になる。

その交換展として「現代フランス美術展」が計画されるが、展覧会の開催時期や費用の分担などの点で両国間の折り合いがつかないうえに、関東大震災が勃発したことにより、日本政府から中止が申し込まれるのである。本章では、これまで不明であったこうした「交換展」の経緯を新史料から詳細にたどってゆく。

最後に「結び」では、画家として、美術品収集家として、そして、文化交流者として児島虎次郎を捉えた時、それらに共通して見られる視座について論じる。虎次郎がベルギーからもち帰ったものは、印象主義、新印象主義、表現主義、象徴主義が同時に併存している「リュミニスム」を含め、芸術に対する「複眼的視座」であった。また、虎次郎が収集した美術品の内容から判断すると、虎次郎が構想した美術館は、西洋と東洋の総合美術館であることが推測でき、それは、西洋と東洋が併存する、虎次郎の「複眼的視座の具体化」であると言えよう。

そして、アマン=ジャンとともに「日仏交換美術展」の発起人となったことも、これまで知られていなかった、文化交流者としての虎次郎の功績の1つである。これらの展覧会においても、一方的に日本あるいはフランスのいずれかの美術を紹介するというものではなく、「交換展」であるために東洋と西洋が行き交う「場」を創出することが目的であったと考えられ、そこにも虎次郎の「複眼的視座」が見られる。そして、こうした視座が、虎次郎が丹精込めて建築したアール・ヌーヴォーの美学が生かされた建物である「無為堂」に表現されていることを指摘した。

以上のことから明らかなように、画家として、美術品収集家として、そして、文化交流者として、児島虎次郎は、いずれの側面においても「複眼的視座」をもった、極めて独創的な「単独行者」であり、「両洋」の具体化を追い求めた芸術家であったと言える。

審査要旨 要旨を表示する

東京美術学校で黒田清輝の薫陶を受け、パリとベルギーに留学した児島虎次郎は、大原美術館開館時の核となる西洋絵画作品の収集に奔走した美術品収集者としての活躍が知られる一方、1920年にはフランスのサロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール(以降、サロン・ナショナル)の日本人最初の正会員に選ばれるというパリ画壇での活躍にもかかわらず、日本近代洋画史の研究において等閑視されていた。

本論文の筆者が、画家の残した19冊の日記や画家宛の書簡類からなる「児島家文書」の現在の保管者(児島塊太郎氏)から、すべての文書の閲覧許可と大原美術館の協力を得て本格的な研究に取り組むまでは、実際にほとんど研究に進捗はみられなかった。

本論文は3部各3章の構成からなる。第1部で画家の生涯と画業を、筆者の共編著『児島虎次郎』(1999年刊)をも踏まえ、近代洋画史の視点から跡づける。第2部各章では、画家にとり重要な3作品、1907年皇室買い上げとなった出世作《なさけの庭》、1920年のサロン・ナショナルに出品しフランス政府買い上げとなった後、長らく未公開であった《秋》、未完の遺作となった明治神宮聖徳記念絵画のための連作壁画のひとつ、《対露戦線布告御前会議》の下絵を取り上げ、本格的な作品論を展開する。《なさけの庭》と《秋》は、黒田清輝の提唱する「構想画」を目ざしたもので、キリスト教の「慈愛」の図像と、画家が朝鮮旅行の折りに李王家博物館でみた弥勒菩薩半迦思惟像の手の仕草をそれぞれ発想源として、前者が「慈愛」、後者が日本の侵略に遭遇した国「朝鮮」もしくは弥勒菩薩に代表される東洋の「慈愛」を表現する一方、《対露戦線布告御前会議》は児島が心血を注いだ唯一の「歴史画」であり、長卓の左右にそれぞれ5人を配し、中央奥に真正面向きに明治天皇を座らせた縦長構図は画家がベルリン国立美術館訪問の際に見たに違いないエルトマン・フンメルの異例に縦長の《最後の晩餐》を参考にして、明治天皇に西洋の聖画像にみられる構図的ハイラルキーの中心と厳粛な正面観を与えている、と論ずる。

第3部は、画家の日記のほか、サロン・ナショナルの重鎮画家アマン=ジャンらの画家宛ての書簡や外務省外交史料館の史料を基に、画家の美術品収集活動を詳細に追い、成果として例えば、1922年パリ「日本美術展」と、実現しなかった翌年の「現代フランス美術展」の最初の発案者が、実はアマン=ジャンと児島虎次郎であったことを突き止めた。

未刊行の一次資料を精査して児島虎次郎の画歴に多くの新知見をもたらすとともに、画家が実見した外国作品を比較材料にして主要作品の美術作品の美術史的意義を引き出すことに成功しており、日本近代洋画史研究に少なからぬ貢献を果たす論文として評価できる。

よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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