学位論文要旨



No 118735
著者(漢字) 辛,那炅
著者(英字)
著者(カナ) シン,ナキョン
標題(和) 柳宗悦の工芸美学における芸術と社会 : 民芸運動にみられる「美的生活」に関する研究
標題(洋)
報告番号 118735
報告番号 甲18735
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第431号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小田部,胤久
 東京大学 教授 藤田,一美
 東京大学 教授 渡辺,裕
 東京大学 教授 鶴岡,賀雄
 東京大学 助教授 市川,裕
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、柳宗悦 (1889〜1961) の工芸美学における芸術と社会の問題を考察し、彼の民芸運動にみられる「美的生活」に関する思想を明らかにするものである。

柳は多彩な変貌をとげた人物であるが故に、彼についての研究は各方面から行われてきたが、美学的観点からの研究は、幾つかの断片的なものを除けばほとんどなされていない。柳の民芸運動は「民芸」という新しい「美」を発見したという重要な意義をもっており、その意味で彼の民芸論は美の問題を扱ったものであるにもかかわらず、民芸運動に関する研究が今まで美学や芸術学の分野で敬遠されてきた理由としては、主として次の二つが考えられる。まずは、民芸が以前には「芸術」として認められたことがなかったものであって、芸術であるよりはむしろほかの種類の活動に属していたこと、つまりこの特殊な位置の故に、純粋芸術と違って作品それ自体の必然的な過程や様式的な個性が明確ではないこと、次には、柳の民芸への接近が非常に情緒的かつ直感的であり、彼の民芸論のほとんどが学術的体系を備えたものであるよりは、マニフェスト的性格が強いことが挙げられる。

それゆえ民芸運動は、一般には伝承主義運動として、また専門家の間ではモリスのアーツ・アンド・クラフツの影響下にあるものとして認識されがちである。しかし柳の意味した「民芸」を正確に理解するのは容易ではない。民芸は、その対象においては庶民の日常道具と同様であるが、民具そのものが本来持っていたコンテキストから切り離し、「芸術」としてカテゴリー化したものであり、また異国のもの(例えば「朝鮮民芸」)に関しても、それをそのまま受容したわけではなく、「日本独自の解釈」を加えたものであって、そういう意味で民芸運動はある前衛性さえ持つ非常にユニークな芸術運動であった。

さらに柳は芸術と生活が一体になることを理想と考え、「用いる」ことから生じる美的性質に注目し、美の問題を論じるさいに繰り返して理論よりは直観と体験の重要性を強調した。このような特徴は、美学のなかで自律化される「芸術」の概念の枠組に収まり切るものではない。また、彼が「仏教美学」のなかで美学の主題として試みた「凡人」、「無銘」、「他力」、「伝統」、「実用」、「平常」などの用語からも分かるように、ある意味で柳の民芸論は、近代芸術が切り捨てようとしたその原点から始めようとするものであって、このような柳の意図を考慮するならば、彼の用いる概念を西欧近代の概念の枠組を以て比較・分析することは、かえって柳の意図を誤解する恐れがあるように考えられる。このような幾つかの問題を考慮し、本論文は柳の民芸理論を考察するさいに、特に時代的背景を考慮する歴史的研究方法に依拠しつつ、柳の美的思想を彼の実践活動との関係から捉えることにした。

本論文の構成は四章から成り立っている。まず第一章では、柳の工芸美学を可能な限りその時代の文脈の中で客観的に理解するために、柳の民芸運動の形成と展開過程を考察した。民芸運動は長期にわたって続いている運動であって、必然的にその展開過程のなかで運動の性格も少しずつ変わっていった。従って、柳と初期同人たちはいかなる動機で民芸運動に参加するようになり、彼らを結んだ共同的な関心事はいかなるものだったのかを検討し、その出発の時点における民芸運動の性格を明らかにするとともに、それ以後の民芸運動の展開過程、すなわち運動の拠点になる日本民芸協会や民芸館の創設、新作民芸運動の設立に至るまでの展開過程を扱った。そのような分析を通して、柳による民芸概念の定義と造形芸術のなかにおける民芸の位置づけ、彼の理想とする民芸様式などを明かにした。

第二章では、柳の民芸理論に基づいて、柳個人の美意識と彼が考える理念としての美はどういうものなのかを考察した。その第一節では、主として美学者や美術批評家の美論の根底には彼らの美意識が潜在しているという仮説に基づいて、柳が美的性質の問題を論じた一連の論考を手掛りとして彼の美意識の一面を探った。そうすることによって、第二節では、そもそも白樺派の同人として西欧近代美術を紹介し天才を賛美していた若き柳が、なぜ三〇代に入ってから近代化以前の民衆に最高の美の創造者たる権威を与えるようになったか、という問題を考察した。そして、第三節では柳の工芸美論に宗教的特質が強く現れることに注目し、彼の宗教観を検討することによって、彼の主張する「宗教と美」との類似性がいかなるものなのかを探った。そして最後の節では、柳が晩年に提唱した「仏教美学」の内容とその提示の動機を検討し、彼において理念としての美はいかなる特徴を持っているのかを考察した。

続く第三章では、柳が民芸の問題を常に風土と民族の問題と関係付け、芸術と民族との密接な関係を強調していることに留意しつつ、芸術と民族に関する柳の思想を検討した。柳は、日本のなかでも最も「日本的なもの」が多く残っている地方として、沖縄をとりあげ、その工芸文化と言語の保存を主張した。そうすることによって、本土に追いつくことで沖縄の貧しさと後進性を解決しようとする沖縄県側と沖縄言語論争を引き起こしたことは周知の事実であるが、その出来事は、芸術と民族のかかわりに関する柳の思考をよく現している。しかし、そもそも柳の民族と芸術に関する思想が芽生えたのは、民芸運動に携わるまえ、すなわち彼が朝鮮とその芸術に関して興味を持ち始めた頃だと考えられる。従ってこの章では、朝鮮とその芸術および沖縄の言語論争に関する柳の理論と実践に基づいて、彼が芸術と民族の関係をどのように捉えていたのかを明らかにした。

柳の工芸観には工芸の問題を常に社会との関係のなかで捉え、「美」と「道徳」とを同一視する傾向があるが、その理由を探るために、第四章では、芸術と社会に関する柳の思想を考察した。柳の民芸運動は「民族的なもの」、「日本の美」という用語を用いることによって一見ナショナリズム的な傾向を見せる一方、「民衆的工芸」という意味の「民芸」に対する彼の定義や工芸の社会的意義を強調することによって、社会主義的傾向をも強く示す。従って、柳が民芸運動思想を形成するさいの社会的背景を考慮しながら、当時の社会主義の傾向を検討し、それが柳の工芸観にどのような影響を与えたのかを考察した。特に明治から大正時代にかけて美術工芸運動家としてよりは、イギリス社会主義を代表する独特な社会主義者として日本に知られていたウィリアム・モリスと彼の師であるラスキンの芸術的社会主義が、果たして柳の工芸美学にどのような影響を与えたのかを明らかにした。

本研究はこうした作業をとおして、近代日本の工芸史において柳宗悦という人物が占める位置と、彼の工芸美学の全体像をまず明らかにした。しかし、本論文の最後の課題は前述したように、これら四章の考察を基にして、柳が民芸を媒介にして理想と考えた生活の形態、すなわち柳にとっての「美的生活」とはいかなるものであるのか、を明らかにすることであったので、最後にそれに関する考察を加えた。

以上の検討を通じて、本稿では以下の諸点の結論を得た。第一は、柳の民芸運動は、世紀末のロマン主義と社会主義の時代風潮のなかで、実用的工芸に対する共通の美意識と思想をもっていた近代の美術批評家と工芸家たちによって実践された近代工芸運動であって、柳らが生み出した「民芸」という造語は、特殊な階級の価値や美的理念を反映するものではなく、それ以前には芸術として認められなかった民衆の雑器を、芸術の範疇として認めさせることを第一の目的とするものである。

第二には、柳の美意識は合理的・機械的な美よりは、不完全さ・自然さのなかに現れる美を高く評価し、そこに神秘的魅力を感じていた。特に柳は作為的な美を嫌う傾向があって、必然性を欠いた作為的なものを「醜いもの」と否定的に評価した。また、柳が、次第に心理学から宗教哲学へ、西欧美術から東洋美術へ関心を移していたのは、ブレイクの思想に接することによってであった。柳のブレイク思想の研究は、無心と没我を強調する柳の民衆論に大きな影響を与え、彼の民芸論にみられる理念的民衆、即ち「無心」な民衆像が形成される際に、彼に多くのことを示唆した。

第三に、柳は「民芸」を、民族の特色を最も如実に現す「民族的なもの」と規定したが、そのさいに柳が「民族」の中心に位置付けたのは常に、近代的形態の国家に属する「国民」という概念よりは、政治に関係なく草のように自然に根付いて生きていく「民衆」である。すなわち、柳は民族を規定する最も重要な根拠を、「工芸的なもの」を通して示される「自然」と「歴史」の内に見出した。ここでの「自然」は、風土と材料に関する環境的な「自然」と、人間の力をはるかに越える絶対的存在としての「伝統」を意味する。

第四に、柳が社会主義に傾倒した時期は一九二七年頃であって、この傾倒は直接には民芸運動の理論作りのために工芸運動の先駆者であったラスキン、モリスの思想を研究したことに由来する。また、柳が民芸思想を形成した大正時代にラスキンの思想が日本知識人に与えた影響は甚だしいものであって、柳において美と道徳とを同一視する思想はラスキンの芸術的社会思想に大きく影響された、ということである。

そして、これら各章に見られる柳の思想に基づいて、彼が民芸運動を通して志向した「美的生活」を特徴づけると、それは第一に、イデオロギーや先入観に囚われない生活、すなわち直観重視の生活であり、第二に、素朴・質素で道徳的な生活、言い換えれば「健康」な生活、第三に、日常用いる「もの」を大切し、そこに「愛」を感じる生活なのである。

審査要旨 要旨を表示する

民芸運動の指導者として知られる柳宗悦 (1889-1961) の研究としては、従来から、伝記的研究、宗教学的研究、近代デザインとの関係についての研究、朝鮮芸術論についての研究、あるいは経済学的ないし社会学的側面からの研究など、多くの蓄積がある。だが、柳の民芸運動を支えていた彼の美学思想それ自体を中心的主題とする研究は従来ほとんどなされてこなかった。本論文は、従来のさまざまな側面からの柳研究をふまえつつも、柳の美学理論それ自体に力点を置き、それを包括的に扱った最初の論文である。

第一章「『民芸』の誕生と民芸運動の展開過程」において、著者は民芸運動の歴史的展開を追いつつ、民芸運動とは、近代的な「個人作家」と伝統的な一般の工人との協力を通して工芸の刷新を求める近代的運動であったことを示す。第二章「民芸の美的特質と『究竟の美』」は、白樺派時代の若き柳がウィリアム・ブレイクの影響を受けつつ、それを通して西洋的な「天才」賛美から「民衆」の肯定へとその立場を変え、そこから「他力」「衆生」「不二美」などの概念を軸とする後年の仏教美学の構築へ向かったことを明らかにする。第三章「芸術と民族」は、柳の「朝鮮芸術批評」および「沖縄言語論争」を取り上げ、彼の「民族」観が当時の国家主義的なそれとは異質な「民衆」概念を前提とすること、第四章「芸術と社会の美的理想」は、この「民衆」観が柳独自の社会主義的発想に基づくことを明らかにし、柳の民芸運動を「美的生活」の理念のもとに総括する。

この論文の特質として次の三点を上げることができる。まず、著者は柳のテクストを丹念に読み解き、そのテクストのおかれていた歴史的状況に着目することで、テクストの表面的な読解からは見えてこない柳の問題関心(たとえば、柳の民芸観を支える「社会主義」への関心)を明らかにしている。第二に、柳の思想の歴史的変化に着目し、とりわけ従来の柳の朝鮮芸術観についての解釈が柳の1920年代の「悲哀の美」にのみ依拠していたことを指摘しつつその後の柳の朝鮮芸術観の変化を追うことにより、柳を朝鮮芸術の擁護者として一面的に賞賛する立場、およびそれとは逆に柳の芸術観を植民地主義的として一面的に断罪する立場を批判している。第三に、柳の民芸運動が単なる反近代的・保守主義的運動ではなく、むしろ近代的特質を、さらにはある種の前衛性をも備えていることを明らかにしている。こうした従来の柳像に変容を迫る解釈は、柳に肉薄しようとする著者の真摯な研究態度によるものであり、高く評価できる。テクスト解釈を通しての自らの理論の批判的構築作業になお望むべき点はあるが、400字詰め原稿用紙換算1100枚を超える本論文は、留学生が五年間の博士課程在学中に執筆したということを顧慮せずとも、力作と形容しうるものであり、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値すると結論する。

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