学位論文要旨



No 118736
著者(漢字) 村上,謙
著者(英字)
著者(カナ) ムラカミ,ケン
標題(和) 近世後期上方語における語形変化の研究
標題(洋)
報告番号 118736
報告番号 甲18736
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第432号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 月本,雅幸
 東京大学 教授 鈴木,泰
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 助教授 肥爪,周二
 東京大学 教授 吉田,伸之
内容要旨 要旨を表示する

本書は近世後期上方の口語のあり方について、その概観を示すとともに、いくつかの特徴的な問題について、個別的に論じようとするものである。

そもそも国語史上における後期上方語とは長らく中央語として勢力を誇った上方語が如何に変容を遂げたかという歴史の最終章にあたる。従って、その研究の必要性はあえて言うまでもないのであるが、残念ながらこれまで殆ど研究がなされてこなかった。基礎研究も今のところ殆ど整備されていない状況にあり、例えば前期上方語における基礎研究としては湯沢幸吉郎著『徳川時代言語の研究』が不朽の名著として今なお重んじられているのであるが、後期上方語にはそのようなものがない。

また、後期上方語は関西弁、つまり現代近畿方言の源流として大きな役割を果たした言葉なのであるが、楳垣實の『京言葉』や前田勇の『大阪弁の研究』といった昭和前期近畿方言研究の名著でさえ語史関連の記述には誤りと思われるものがまま見られる。こうした誤謬は後期上方語を精査することで正される部分も多いのであるが、残念ながらそうした誤りが現在定説となっている場合が少なくない。そうした誤った定説化の責任はむしろ後期上方語を等閑にしてきた学界側、国語史研究者側にあると言うべきであって、学界全体として早急に後期上方語の重要性を再認識する必要があるのである。

そうした状況を踏まえ、本書では『徳川時代言語の研究』と『京言葉』『大阪弁の研究』を結ぶための基礎作業を積極的に進める。具体的には概論的な第1〜3章および調査報告的性格を持つ第4章、第7章であるが、それ以外の章においても用例を多く掲出することで基盤整備の一翼を担いだい。調査資料も出来るだけ多く使用し、全体像を明らかにする事に努める。また全編の議論が文法や音韻といった特定分野にとどまらず、音韻、表記、語法、待遇表現等、多岐にわたるが、これも意図的な方針である。可能な限り広範な問題を扱うことによって後期上方語の基盤整備に寄与できるのではないかと考えるためである。

基盤のないところになんらかの説を構築してみたとしても、それは単なる砂上の楼閣に過ぎない。しかるに基盤のみではその先の進展は依然として暗闇に閉ざされたままである。そこで本書では基礎研究とともに個別的な現象についての特殊研究を同時並行的に行うことによって、今後の研究の進むべき方向について、筆者なりの提案を行う。形容詞ウ音便関連の第5章、第6章、および連用形命令法関連の第8〜12章にあたる。

以下、各章の目的と梗概、また章ごとのつながりなどを述べる。

第1部では「後期上方語研究序説」と題し、近世後期上方語についての基礎的概観を行なう。まず第1章「近世後期上方語における時代区分」では「近世後期=宝暦頃から幕末まで」という時代設定のもと、それを4期に区分して、それぞれの時期における上方語の特徴を概観する。また、近世後期上方語は遊里との関連性を抜きにしては語れない言葉であるが、第2章「遊里後の位置と概観」では当時の遊里語がどのようなものであったか、酒落本などを利用して明らかにする。次いで第3章「近世後期上方語の資料について」では研究に使用できる資料にはどのようなものが現存するかを、使用する際の注意点などとともに述べる。最終的にはこの第1部によって、近世後期上方語のアウトラインが明らかになるはずである。

第2部「語形変化の諸問題」では後期上方に生じた様々な語形変化の問題について論じる。まずはじめに、語形変化と大きく関わるところの音韻変化にはどのようなものがあるかを第4章「音韻変化の諸相」で網羅的に列挙する。そしてそれに基づいて第5章「形容詞ウ音便の変化形について」、第6章「形容詞ウ音便の短呼形について」では、後期上方に特徴的な変化と考えられる形容詞ウ音便の諸変化形について論じる。第7章「口語体表記-活用語尾と音便形の表記を中心に-」では、文献資料を用いた語形変化研究の際に欠くべからざる視点であるところの表記について論じ、特に本書の中心的な興味である活用語の活用語尾や音便形などといった表記が当時どのような状況であったかうかがう。

第8章以下では語法面での主要な諸変化について論じる。その多くは命令関連表現、いわゆる連用形命令法に関するものとなっている。まず第8章「「動詞連用形+や」について-連用形命令法と助動詞ヤルとの関連-」では「連用形+や」という表記形による命令表現に対する形態的な解釈について述べる。そして第9章「連用形命令法の出現について」、第10章「連用形禁止法の出現について」では連用形命令法とその関連語形である連用形禁止法、第11章「ンの一用法」では「連用形+ンカ」形について論じる。そして第12章「補助動詞ナサルの成熟」では連用形命令法の成立に深い関わりがあるとされてきたナサルの補助動詞としての変化過程をうかがう。各章の要旨を以下に記す。

音韻変化の諸相

後期上方の文法的事象、文末表現等についてはかって島田勇雄や奥村三雄、矢野準、岸田(寺島)浩子らによって調査され、その後も大阪語については金沢裕之等によって明治期を含めた研究が進められているが、この章では、従来手薄な感のあった当期の音韻変化について、主に酒落本と噺本から用例を収集して概観する。

形容詞ウ音便の変化形について

近畿地方では現在ヤカマシーナル、ヤカマシーテや短い形ヤカマシナル、又イターナル、イタナルといった形容詞ウ音便の変化形が多く用いられている。本章ではこれらの出現年代やその先後を明らかにする事で成立の要因を追究し、語幹保持の作用が実際にどう働いているか考える。

まず、これらの中でヤカマシナル(シ形)が最も早くから見られるものの、この語形の出現には語幹保持が主たる要因ではない事を論じる。対して、寛政頃から多く見られるようになるヤカマシーナル(シー形)、ヤカマシーテ(シーテ形)はヤカマシューやヤカマシューテの語幹を保持したものである事を明らかにし、何故形容詞ウ音便でこうした語幹保持による変形が生じハ四ウ音便では生じなかったのかという問題について、「語幹の保持は終止連体形の想起を容易にする役割を担うもの」という仮説をたて、ハ四の場合終止連体形でオー型の発音が行われていた為にウ音便形で十分その任を果せた事を推測する。併せてエライウツクシイやナガイナルといった変化形についてもこうした流れに属するものとして捉え、統一的な解釈を試みる。

形容詞ウ音便の短呼形について

現在、近畿地方では形容詞ウ音便が現れる場合「さむなる(寒うなる)」のように短呼される事が多い。これを単に上方語特有の母音の長短意識の暖昧さによるものとして解釈するむきもあるが、近世後期上方における形容詞ウ音便の場合、拍数や下接語などによる制限があって、母音の長短意識の暖昧さと把握するのみでは不十分であると考えられる。本章では主に近世後期上方語資料として代表的な洒落本と噺本を用いて、近世前期の状況や現代近畿方言、アクセントなどとの関わりを視野に入れつつこうした問題点を明らかにする。

口語体表記-活用語尾と音便形の表記を中心に-

近世の表記法についてはいまだ解明されていない事が多く、特に後期上方の表記についてはこれまで殆ど論じられて来なかった。本章ではそうした状況を踏まえ、近世後期上方の洒落本と噺本を用いて、動詞、形容詞の活用語尾、またそれらの音便形(ウ音便、イ音便)の表記について調査し、解明を試みる。また、近世前期資料を用いたこれまでの研究成果と比較検討し、後期におけるそれらの表記のあり方を通時的に位置づけ、前期の表記法がどのように維持されまた変容したかを論じる。表記の問題を語形変化の問題として捉える事は適当ではないとも思われるけれども、文献国語史研究の方法論としてはテキストに記された表記こそが諸現象を捉える際の唯一の手がかりなのであって、語形変化を考える上でも表記に対する意識を高めておく事は非常に重要と考える。

「動詞連用形+や」について-連用形命令法と助動詞ヤルとの関連-

現在の近畿地方では命令表現の一つとして、「はよ行きや」「もう帰りや」(イキヤ、カエリヤと発音)といった語法を用いる事が多い。これは現在では連用形命令法に終助詞ヤがついたものと理解されている。しかるに近世前期における「動詞連用形+や」という表記形による命令表現については動詞に助動詞ヤルの変化形がついたものであり、通常イキヤの如く拗音で発音した事が明らかにされている。本章では近世前期と現代とを繋ぐ近世後期の「動詞連用形+や」と表記されるものに対してはいずれが適当であるのかを明らかにする。

連用形命令法の出現について

本章では近世後期の上方に現れる動詞連用形そのものによる命令法、所謂連用形命令法について様々な角度から考察を加える。まずその概観と再定義を行い、オを冠した語形(ex.「お行き。」)をこれに含めるべきでない事を述べる。次いで何故遊里で、しかも命令表現で登場したのか等といった社会的要因について述べた後、形態面での成立過程について考察を進める。これまでナサレの省略であるとか、「行きる」のような所謂一段化動詞の命令形である等とされてきたがこれらの説の問題点を明らかにし、より妥当な成立過程として「一段動詞(特に上一段」の命令形イ形の主流化からの影響」を考える。

連用形禁止法の出現について

近世後期、上方では「連用形禁止法」と呼ばれる禁止形式が登場する。この言い方は現在の近畿地方でも広く用いられ、現代近畿方言の中でも特に重要な位置を占める語法となっている。従来、この言い方は連用形接続とされてきた。それ故「連用形禁止法」と名付けられてもいるのだが、しかし実際にはそれでは説明のつかない場合もある為、本章では新しく、「連用形命令法(=命令形の一つ)接続」という解釈を提案する。そしてそれに基づき、これまで充分には明らかにされていなかった形態面での成立過程について、多方面から解明する。

ンの一用法

近世後期上方の洒落本や噺本には四段動詞の連用形に接続したように見える打消の助動詞ン(ヌ)が存在する。洒 のみんか(飲む、粋のすじ書)たれぞひとり よびんか(呼ぶ、箱まくら)おとまさん。ふろへいりんか(入る、風流裸人形)いずれも本来の用法ならば未然形接続で「のまん(ぬ)か」「よばん(ぬ)か」「いらん(ぬ)か」となるべき所である。

これらは現在の近畿地方でも使用され、命令関連表現の一つとして現代近畿方言を代表するものであるが、本章ではこうしたンの用法がどのようにして出現したのかについて、多方面から解明する。

補助動詞ナサルの成熟

上方語におけるナサルに補助動詞的な用法が認められるようになるのは中世末あたりからと自されるが、当初のナサルには上接動詞にオを冠してオ〜ナサルとなるという傾向(殆ど「規則」と言ってもよい)があって、それに起因する承接上の制約(=一拍語にはつかない)等もあり、全ての動詞に下接できる補助動詞ではなかった。ナサルの承接が自由になるのは近世後期まで下らねばならないようであるが、本章では中世末から近世後期にかけて、ナサルが補助動詞としてどのような「成熟」の過程を辿ったのかについて明らかにする。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、近世後期(18世紀後半から幕末まで)の上方の言葉、とくに口語を取り上げて、そこに見られる語形変化がどのように発生し、展開したかを跡付けることにより、従来の研究では十分に解明されていなかった言語事象を明らかにすることを目的としている。本論文は大きく2部に分かれる。第1部は3章からなり、第1章では後期上方後の展開を4期に分けて概観し、第2章では近世後期の上方において遊里の言語(遊里語)が大きな影響力を持ち、広く一般の社会に新たな表現を供給していたとしてその性格を論じている。第3章では後期上方語の資料について述べ、本論文に用いた言語資料の全体像を示す。第2部は9章からなる。第4章では近世後期上方語に見られる母音や子音の交差、脱落等の現象を取り上げて論じ、第5章では形容詞ウ音便の変化形「ヤカマシナル」等の形が「ヤカマシュナル」のような形から発生し、後に「ヤカマシーナル」のような形を発生させたことを述べる。第6章では「寒く」のウ音便「さむう(なる)」が「さむ(なる)」のように短呼される現象を取り上げ、下接する語に制限のあったことを論ずる。第7章では後期上方語資料における仮名表記の傾向について論じ、前期の傾向が保持される場合と前期とは異なる傾向が新たに発生する場合とがあることを主張する。第8章では「動詞連用形+や」(「はよ行きや」等)を取り上げ、「動詞連用形+やれ(助動詞「やる」)から発生したとする従来の説を認めながらも、天明年間(1780年代)から新たに「動詞連用形命令法+や」が発生し、これが主流を占めるようになったとし、第9章では動詞連用形が命令法に用いられる現象を取り上げて、これが宝暦年間(1750年代)に一般化した一段動詞の命令形「ーイ」の形から影響を受けて発生したものと論じた。第10章では「動詞連用形+な」が禁止を表すもの(連用形禁止法)を取り上げ、これが宝暦以降の上方遊里に起こったとする。第11章では「動詞連用形+んか」(「飲みんか」等)が勧誘・命令を表す場合を取り上げ、この成立過程を考察し、第12章では中世末に発生した尊敬の補助動詞「ナサル」について、上接する語に制限のあったものが、近世後期の上方語においてはその制限が緩和され、広く和語、漢語が上接するようになったことを述べる。本論文は、洒落本、噺本、浄瑠璃本等の言語資料から丹念に収集された用例に基づいて後期上方語で起こった語形変化の諸相を論じており、さらなる論証が望まれる点もないわけではないが、現代近畿方書の母胎でありながら従来十分な研究が行われて来なかった近世後期上方語の研究の進展に大きく寄与する独創性の高い論考であると評価される。

よって、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するとの結論に達した。

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