学位論文要旨



No 118739
著者(漢字) 福間,具子
著者(英字)
著者(カナ) フクマ,トモコ
標題(和) 具有される異性 : パウル・ツェランの内なる詩学
標題(洋)
報告番号 118739
報告番号 甲18739
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第435号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 藤井,啓司
 総合文化研究科 教授 鍛治,哲郎
内容要旨 要旨を表示する

本論は、難解で秘教的な詩作で知られるパウル・ツェラン(1920・1970)の作品において、その語間、行間に横たわっている意味の隔たりが、どのようにして「遠さ」から「近さ」へと転換されうるのかという問題を論考の起点とする。序章では、時間的、空間的距離を身体的に身近に感じるという感覚を述べているいくつかの文学作品や哲学的著作を提示することで、従来とは別種のレクチュールの方法の導入によって、ツェランの意味的疎隔も有機的に連続したものとして読み解かれる可能性を確認した。ツェラン自身は、みずからの詩的言語における否定のしようのない意味上の疎隔にもかかわらず、それがあくまでも何の詩化もされていない「現実」であると主張しているが、彼の示唆するところでは、言語の<直接的感受>によってそれは可能となるらしい。ゆえに、本論はツェランのテクストに現れる動的なモティーフや言語の振る舞いに注目することで、詩的言語を客観的対象としてではなく、直接動性を共有しながら読み進めるべきものとして置き換えてゆく。第三者によるレクチュールなしには感受されることのないテクストの<動性>とは、意味の疎隔を露呈する表層のテクストを補完し、真の意味内容を引き寄せる重要な要素であるに違いない。そこで、ここでは詩的テクストを、表層に現象している静態と、その深層で否定的に連続している、意味作用が未分化な動態から成る二元的構造と捉え、その互いに異質な二つの層がどのように関係しあいながら意味作用を行使し現実化していこうとしているのかを考察してゆく。

第一章では、まずそのような論及の前提となるテクストの二元性、とりわけこれまで考察に組み込むことが困難であった深層の動態とはどのようなものであるかを、彼の数少ない詩論的講演である『子午線』の分析を通じて明らかにすることを主眼とした。そこでは、まず第一に『子午線』中の「言葉を姿と方向と息として感じ取る」と「異なりと異なりを区別する」という二つの命題を取り出し、続く章での実際のレクチュールの指針とするため、その意図するところを、テクストの二元的構造と関連づけながら定位していった。そして第二の課題として、『子午線』というテクスト自体が持つ<動性>に注目し、ツェランがそこで論じている<芸術>、<詩>、<詩作品>という概念を、それぞれが持つ直線、反転、円環という特徴的動性の面から明らかにしていった。そこからは、彼が<芸術>と呼ぶものは、あたかも操り人形のように、自然が物象化され、永遠に一定方向に進行し続けるものであり、<詩>とはその永遠性を断絶させる機能であり、かつそこから新たに生成する<詩作品>とは、言語が不断に他の言語と対話することで、自己を他律的、否定的な形で取り戻そうとする場であることが次第に明確となっていった。そこで、そのような理論的前提を踏まえた上で、微視的観点からは数行の詩行や、「息」という鍵語を分析し、巨視的観点からは二編の詩を解釈することで、その前提が詩作品のさまざまな次元に刻み込まれていることを示した。表現として現れる言語と、その深層に連続している意味以前の言語が、相互に融合と分離を繰り返しながら実現してゆく意味作用という基本構想がおそらくツェラン詩学の根幹にある。続く章では、この構想がどのように生じ、どのような結末に向かっていったのかを、ツェランの初期詩篇、中期詩篇、後期詩篇の分析から考察する。

第二章では、ツェランの初期詩篇を取り上げる。初期詩篇研究はこれまで、当時ツェランが影響を受けていたとされる<シュルレアリスム>との異同を論じることが論考の最大の焦点であったが、ここでは新たに初期詩篇をも<動性>という観点から再読してゆくことで、<シュルレアリスム>の位置価を彼の詩学全体のなかに組み込んでゆくことを企図した。また、それは同時にこれまで明確とされていなかった初期から中期への滑らかな道筋を定位してゆくことともなる。実際の論考では、<夢>や<夜>のような静態的モティーフではなく、やはり<先行>という動的なモティーフに注目した。初期詩篇には、しばしば、冷淡なまでに日常的な現実を追い越し、「門」や「街」へと急ぐイメージが現れる。そこでこの<先行>するイメージが見られる詩篇を分析してゆくと、三段階になった<先行>のプロセスが見出された。すなわち<シュルレアリスム>の綱領と共有される、合理的精神に<先行>する傾向が第一の<先行>のヴェクトルであるが、さらにそこで生まれた非合理的イメージに対し新たな意味内容を見出そうとするのが、<シュルレアリスム>を追い越す第二の<先行>である。しかし、その段階ではまだそのような志向性が理念的に言葉によって語られているにすぎなかった。ツェランはやがて、濃淡や濃縮の表現や、比較級、最上級を用いた表現を多用するようになってゆくが、それは絵画における遠近法のように、言語において意味の遠近法を作り出し、その内奥にひそむ真の意味内実へと道筋を切り開いていくものである。これが、第二の<先行>をさらに追い抜く第三の<先行>と言える。この移行は、言語を間接的に認識すべき記号から、直接的に感受すべき媒体へと転換させることでもあり、『子午線』の詩学へと直接繋がるものであることが確認される。

しかし、当時の作品では、<先行>というモティーフには、必ずと言ってよいほど「門」「街」「世界」などの到達場所がともに描かれていた。その分析からは、<先行>の果ての形象群が、当初の自律的なトポスとしての輪郭を失い、次第に他律的にのみ描き出されるようになる傾向が看取された。それは、<シュルレアリスム>の手法によって生み出された新たなイメージの内部に意味内実を見出す道筋が、きわめて主観的なものであり、客観的に第三者と共有されうるものではなかったことに、詩人が次第に自覚的になっていったことと軌を一にしている。あくまでも絶対的内部空間の中で先取りされた言語を直接に感受する方法論は、限界に突き当たった結果、言語の記号としての側面をどのように取り扱うかという問題に逢着したと思われる。

第三章では、初期の限界を受けて成立した『子午線』詩学と同時期に書かれた中期詩篇が、その理念を実際に作品の中でどのように表象させているのかを考察した。その際、手がかりとなるイメージとして、この時期から頻繁に現れるようになる<一と千>のモティーフに着目し、異なる二つの次元が互いに結合と分離を繰り返す事態のなかに詩学の表れを読み取っていった。-実際に<一と千>の対応関係を表す形象群を分析してゆくと、そこからは互いに異なって見えるいわば<千>のイメージが、<一>の根幹から発し、そこへ回帰してゆく様が明らかになる。その事態を詩学と重ね合わせると、一見ばらばらで互いに不協和に見えるツェランの詩行にも、その根底にはそれらが収斂してゆく統一的な思惟が存在する可能性が示唆されている。そこで、そのイメージを手がかりに、さらにいくつかの実例を分析していった。まず一篇の詩作品の解釈を行い、さらに、複数の詩篇を横断してさまざまな代表的モティーフ(共感覚、女性形象、音韻論)を分析してゆくと、そこに現れる類似性からは、根底に潜む統一的な思惟が浮かび上がってきた。それは言語の構造そのものについての省察であるが、互いに差異化されている形象を並置することで、そこから帰納法的に同一性が浮かび上がるという方法論と鏡像のように対応するものとなった。

この章では、最後に補論として、こうした実例の根底にある詩学をより理論的に定位するために、ツェランの蔵書から発見されたライプニッツの『モナド論』を用いて、彼が詩に<モナド>的構造を見ていたことを提示しながら、両者の思想を重ね合わせていった。そこからは、このような言語の二元的構造が、言語の恣意性と絶対性の間でみずからの偶然的な真実性を証明する唯一の方法論であることが明らかとなった。

しかし、ライプニッツが<モナド>のモデルを用いて<普遍>的な体系を作り上げようとしていったのに対し、ツェランは詩作品を「一回的で死すべき定めのもの」と見なし、永遠性や普遍性を忌避しようとする。ゆえに、後期詩篇を扱う第四章では、これまで築き上げた詩的言語の体系を、詩人が自ら破壊しようとする<詩の死>の傾向について論及した。後期詩篇は、当時詩人が苛まれていた精神的危機と、作品の気密性の低さから、総合的な詩論的研究を寄せ付けないものであった。ここでは、後期詩篇がもつそのような危うい基盤を、詩人個人の精神性をも敢えて考慮に入れ、詩人の自死とも並走させながら考察した。作品の分析からは、これまで動態と静態の絶えざる反転を担ってきた詩が、その動態を終息させようとしていることが見えてきたが、さらにその方法には二通りあることがわかった。まずひとつが言語を動的かつ未分化な領域へと意味作用自体を解体していく方法で、湿原や深い穴のなかに自らを沈めてゆくモティーフで現れる。もうひとつが、頻出する凶器のモティーフに読み取られるもので、みずからを鋭角的な形象へと収斂した後、その刃を再び自己の内部へ取り込み全体を無化しようとする方法である。それは詩学としては、静態的な言語体系へと未分化なイメージ群をすべて回収した後、その体系自体を完全に無化することとして読める。ツェランは詩作品を、有限の生を持った生き物とつねに同一視していたが、静態と動態、有限と無限、統合と解体の対立は、最終的には<死>という方法によってはじめて終息させられたと言える。

初期、中期、後期と、それぞれの創作時期における詩的テクストの二元性のあり方を分析することで、二つの次元が互いにどのような関係性のもとで何を表象させようとしたのかが明らかとなった。静態と動態を同時的には共存させ得ないツェラン<詩学>の限界は、言語の表象可能性の限界をも同時に物語る。しかし、語間、行間の意味の空白に言葉の「方向」が流れ始めることで、その意味的な隔たりは少しずつ距離を縮めてゆく。−互いに性質を異にする二つの次元は、言葉の内部でつねに具有されながら、その内奥に言語に関するひとかけらの「真理」を描き出そうとしていたと言えよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ドイツ系ユダヤ人として、旧ルーマニア領ブコヴェーナのチェルノヴィッツ(現ウクライナ共和国領)に生を享け、ブカレストとウイーンでの一時的停滞を経て、パリに定住したのち、やがて自死するにいたるまで、ドイツ語で書きつづけた詩人パウル・ツェラーン (Paul Celan, 1920-1970) の詩作品をとりあげて、その構造ないし運動原理を解明しようとしたものである。

その際に、筆者が意図するところは、「静態的である言語テクストを動態として捉えなおし」、その動態を「再び伝達可能な言葉へ戻すこと」であり、ビューヒナー賞受賞講演『子午線』にもちいられている詩人自身の形容をかりるならば、「言葉を姿と方向と息として感じ取る」ことである。晦渋をもって知られるツェラーンの詩作品を読み解くにあたって、その意味論的な指示内容に拘泥することなく、そこに通底している言葉の動きに着目することは、たしかに効果的な方法であるといえるかもしれない。しかし、筆者の志向は、そのような実際的な判断に依拠するものではなく、まさにそうした局面においてこそ、ツェラーンの詩作品ないし詩学の本質が顕現することを証明するにあたる。『子午線』において、一方で「芸術」という同一化原理と、他方でそれを破壊する不条理の、二様の異様さ、筆者の訳語をかりるならば「異性 (Fremdheit) 」が指摘されているが、その緊張関係において、筆者は、初期においてはシュルレアリスムにも影響された「先行」、中期においてはライブニッツの「モナド」論に照応する多様さの綜合、後期においてはフロイトへの親近性をうかがわせる「退行」と、それぞれの時期に特徴的な運動形態をみいだしている。しかし、そのいずれの位相においても看取されるのは、「詩 (Dichtung) 」が「芸術 (Kunst) 」を止揚することによって、しかるのち「詩作品 (Gedicht) 」として回帰してくるという、「子午線」に寓意される、その消息である。

本論文は、難解なツェラーンの詩作品に対峙するにあたって、論証の展開そのものまでも、まま難解に陥っている憾みがあるが、参考文献を博捜しつつ、他方で首尾一貫した論理を構成しえた力量は、十分に評価されるべきものである。以上を鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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