学位論文要旨



No 118740
著者(漢字) 及川,恵
著者(英字)
著者(カナ) オイカワ,メグミ
標題(和) 気晴らしによる情動調節プロセス : 気晴らしへの依存に着目した検討
標題(洋)
報告番号 118740
報告番号 甲18740
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第100号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下山,晴彦
 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 衞藤,隆
 東京大学 教授 亀口,憲治
内容要旨 要旨を表示する

気晴らし(distraction)は,日常生活において非常によく用いられる情動調節方略であり,「ストレッサーから注意をそらすために,他のことを考えたり,行ったりすること」と定義される.気晴らしにより,適応的なストレス対処を行い,精神的健康を促進することは極めて重要な課題である.これまで,気晴らしは,日常生活において身近な対処方略であるために,詳細に検討されることなく対処や助言として用いられてきた.しかし,近年,社会的に,ストレスの多様化や慢性化,また,対処スキルの低下が深刻な問題となっており,過食や飲酒に代表されるように,弊害を伴うにもかかわらず,気晴らしが抑制困難となってしまう状態,すなわち気晴らしへの依存ともいうべき新たなストレスも急増している.こうした不適応的な気晴らしを予防することは,気晴らしをより不快情動の改善に役立てていくために急務の課題といえる.

先行研究では,気晴らしは,不快情動の中でも,とりわけ抑うつとの関連が盛んに取り上げられてきた.その結果,気晴らしは抑うつに対する有効性が指摘される一方,悪影響も指摘されている.従来の研究では,対処の内容に着目し,他の対処方略との比較による検討しかなされてこなかった.先行研究のこうした視点に基づく検討の問題点として,以下の点が挙げられる.

まず,第1に,他の対処方略と比較して,気晴らしが抑うつの改善に役立つか否かは把握できるが,実際に気晴らしを行った場合にどのような影響があるのかについて十分に把握できない点が挙げられる.気晴らしが抑うつの悪化につながる可能性も指摘されることから,どのような要因が気晴らしの悪影響に関連するのかについて詳細に検討する必要があるといえる.

第2に,気晴らしと比べて抑うつに有効な対処方略がわかったとしても,その対処方略を常に用いることができるとは限らないことが挙げられる.例えば,直接ストレス状況を改善することに役立つ問題解決方略は,気晴らしのような情動調節方略よりも適応的とされているが,ストレス状況によっては用いることが困難であり,また心理的負担も大きく,むしろ抑うつを悪化させる可能性もある.よって,一概に情動調節方略よりも問題解決方略が有効であるとは限らず,比較のみで有効性を判断することは,実際のストレス状況において役立つ知見を提供するには十分ではないといえる.

第3に,気晴らし自体が日常的に様々な状況で用いられ,情動調節が必要となる場面だけでなく,問題解決を目指す場合にも,他の対処方略とともに用いられるという現状を反映していない点が挙げられる.気晴らしは,問題解決が必要となる場合でも,はじめに情動を緩和することにより,続く問題解決への取り組みも促進するとされている.どのようなストレス状況においても情動調節は重要となるため,気晴らしを用いるか否かではなく,どのようにしてより適応的に用いていくかという視点が必要である.

よって,こうした先行研究の問題点を解決し,日常生活において気晴らしを心身の健康の促進に役立てるためにも,気晴らし自体をどのように用いるかについて検討することは,極めて意義があるといえる.そこで,本論文では,気晴らしを「どのように用いるか」,すなわち気晴らしによる情動調節プロセスに注目し,気晴らしへの依存を防ぎ,より適応的に気晴らしを用いるための示唆を得ることを目的とする.

本論文は,大きく3つの研究から構成される(Figure参照).研究1では,気晴らしの有効性認知と抑うつとの関連について,気晴らしへの依存という視点から検討する.続く研究2と研究3では,気晴らしへの依存を低減するための示唆を得ることを目指す.研究2では,気晴らしへの依存が生じるプロセスを検討する,研究3では,気晴らしへの依存に対する認知的対処方略の影響について検討する.最後に,本論文で検討した気晴らしによる情動調節プロセスにそって,気晴らしへの依存を低減し,気晴らしを抑うつの改善に役立てるための観点について提示する.

研究の方法として,大学生を対象としたアナログ研究の手法を取る.質問紙法による調査に加え,半構造化面接や自由記述による質的情報も加え,多角的に検討する.

各研究の概略は以下の通りである.

研究1 気晴らしへの依存に着目した気晴らしの有効性認知と抑うつとの関連

先行研究では,情動調節に対する有効性認知が抑うつの改善につながる一方,情動の悪化や過度の情動調節につながる場合もあることが指摘されている.そこで,研究1では,気晴らしに対する有効性認知と抑うつとの関連に,気晴らしへの依存という不適応的側面がどのような影響を及ぼすかについて検討した.学期末テストを抱えたストレス状況を取り上げ,大学生181名に質問紙調査を実施した結果,有効性認知と抑うつとの関連が,気晴らしへの依存の程度により異なることが示唆された.気晴らしへの依存が低い場合には,有効性認知が高いほど抑うつが低いが,気晴らしへの依存が高い場合には,有効性認知が高くても抑うつを改善するとは限らず,抑うつの改善が阻害される可能性も高いことが示唆された.

このように,研究1では,単純相関では見いだすことのできない有効性認知と抑うつとの関連が明らかとなった.特に,気晴らしへの依存という,気晴らしの不適応的側面の影響により,抑うつの改善が阻害される可能性が示唆されたことは重要である.

研究2 気晴らしへの依存に至るプロセスの検討

研究1では,気晴らしに依存してしまう場合,抑うつの改善を阻害する可能性があることが示唆された.こうした気晴らしへの依存がなぜ生じるのかを検討するために,研究2では,気晴らし時の注意状態に注目し,気晴らしへの集中→気晴らしの結果→気晴らしへの依存というモデルを検討した.また,気晴らしへの依存に至るプロセスを統合的に把握するために,気晴らしの意図と結果の多様性も考慮して検討を行った.大学生307名を対象とし,自分にとって重要性の高いストレスを経験している際の気晴らしについて尋ねたところ,気晴らし時に集中困難であるほど気分悪化が強く,気晴らしへの依存に至る傾向が示唆された.

このように,研究2では,気晴らしへの依存に至るプロセスを考える上で,気晴らし時の注意状態が重要であることが示唆された.

研究3 気晴らしへの依存に対する認知的対処方略の影響

研究3では,同一のストレス状況に対して同時に複数の対処方略が用いられるという先行研究の知見を踏まえて,気晴らしへの依存を低減する対処方略として,計画,再解釈といった認知的対処方略を取り上げる.研究3では,ストレス状況の文脈を考慮して,遂行状況と既済状況を設定した.大学生213名に対して,各状況において,気晴らしへの依存に対する計画と再解釈の影響を検討したところ,計画と再解釈が気晴らしへの依存を低減するために有効な対処方略であることが示唆された.

このように,研究3では,気晴らしへの依存を低減するために,計画と再解釈が役立つことが示唆された.気晴らしを行う際には,気晴らしと認知的対処方略を共に用いることによって,気晴らしをより適応的に用いることが重要である.

結論

本論文では,気晴らしによる情動調節プロセスを,気晴らしへの依存に着目して検討することにより,気晴らしへの依存を防ぎ,気晴らしをより抑うつの改善に役立てるための示唆が得られた.

そこで,以下において,得られた示唆についてまとめる.

本論文の結果を踏まえるならば,気晴らしにより適応的なストレス対処を行い,精神的健康を促進するためには,以下の3点が重要となると思われる.

気晴らしを抑うつの改善に役立てるためには,気晴らしへの依存を低減することが重要であること.

気晴らしへの依存に至るプロセスの検討から,ストレッサーから気晴らしに注意を切りかえ,集中すること,すなわち気晴らし時の注意制御が重要であること.

気晴らしとともに再解釈や計画といった認知的対処方略を用いることが気晴らしへの依存の低減に役立つこと.

以上は,日常で行われる気晴らしについて詳細な情報収集を経て検討を行うことによって,本論文によりはじめて得られた示唆といえる.本論文は,先行研究の視点である,対処の内容に着目した知見をさらに深め,発展させることができたといえよう.気晴らしは,ストレッサーから注意をそらすことによって,情動を改善することに役立つ対処方略である.しかしながら,気晴らしに依存してしまうことは,結果的に新たなストレスを引き起こし,抑うつを悪化させることにつながる.気晴らしを抑うつの改善に役立てるためには,ストレッサーとともに,気晴らしという手段に対しても,注意の集中と切りかえを柔軟に行うことにより,自らの問題と適切な距離を取っていくプロセスが重要となる.

本論文は,プロセスという視点,また,比較的介入可能性の高い認知的要因を重視したことにより,気晴らしへの依存を低減するための介入を考える上でも有効な示唆が得られたと考えられる.これまでの介入では,単に気晴らしの実行を促進するのみであったが,本論文で得られた示唆を踏まえて,プロセスの視点を重視した具体的な観点を介入に生かしていくことが重要である.今後さらに実験的検討や縦断的検討を重ね,ストレス・マネジメントや心理教育的介入に生かしていく試みは,精神的健康やセルフコントロールの向上につながるという点で,極めて意義深いものと考えられる.

気晴らしによる情動調節プロセスとプロセスに影響する要因

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、ストレスへの対処法として日常生活においてしばしば用いられる“気晴らし”(distraction)に注目し、その対処方略としてのあり方を実証的な研究方法で検討し、有効な活用に向けての要点を明らかにしたものである。論文は、3部7章から構成されている。

第1章では気晴らしの定義や概念を調査した。その結果、気晴らしがストレッサーから注意を逸らし、緊張緩和や疲労回復など多様な機能を持つ反面、抑うつを悪化させる危険があることを明らかにした。第2章では先行研究を概観し、抑うつの悪化要因として気晴らしへの依存があるにもかかわらず、その点に関する研究がなされていないことを明らかにし、第3章では気晴らしによる情動調節プロセスを詳細に検討する必要性を指摘した。

第4章では面接調査と質問紙調査に基づき、不快情動の改善に気晴らしが有効であるとの認知を持っていても、気晴らしを用いる際、気晴らしが制御困難となる事態、すなわち気晴らしへの依存に至る場合には、結果として抑うつの改善を阻害する傾向があることを重回帰分析によって明らかにした。したがって、気晴らしを有効に活用するためには、有効性認知が高いだけでは充分ではなく、気晴らしへの依存の低減が重要であることが明らかとなった。そこで第5章では、気晴らしへの依存はどのように生じるのかをテーマとして、気晴らし時の注意状態に着目し、気晴らしへの依存に関連する認知的要因を面接調査と質問紙調査によって検討した。共分散構造分析の結果、「気晴らしに集中できない人ほど気分が悪化し,結果的に依存が強まる」「気分調節の自信は集中を高め,肯定的結果につながる」「気晴らしの意図が集中の程度や結果に影響を与える」ことが明らかになった。

ここまでの研究によって、気晴らしへの依存が抑うつの改善を阻害する可能性があること,気晴らし時の注意状態が依存に関与していることが明らかになった。そこで第6章では、気晴らしへの依存を低減するには、どのような対処方略が重要であるかを検討することを目的とした。自由記述によって気晴らしへの依存が生じやすい文脈を調査し、「再解釈」と「計画」という認知対処方略が重要な役割をしていることが明らかにされたため、その影響力を測定する質問紙を作成し、重回帰分析による検討を行った。その結果、「再解釈」によってストレス状況に対する意味付けを変更し、状況の脅威を低減すること、および具体的な対処の方法を「計画」し、実行してみることで気晴らしへの依存度が弱まることが明らかとなった。

最後の7章では、研究をまとめて結論を示している。先行研究では気晴らしが抑うつの改善に役立つ可能性があるとの指摘に留まっていた。それに対して本論文では、依存に着目して気晴らしによる情動調節プロセスを具体的に明らかにし、依存に陥らずに気晴らしを有効活用するための観点を明らかにした。これは、今後の臨床的介入への有意義な示唆を与えるものである。この点で本論文は、気晴らしと抑うつの関連について新たな知見をもたらす、優れた研究として評価された。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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