学位論文要旨



No 118749
著者(漢字) 閻,立
著者(英字)
著者(カナ) エン,リツ
標題(和) 清末における中国人の日本語観 : 日清国交締結前後を中心として
標題(洋)
報告番号 118749
報告番号 甲18749
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第468号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池田,信雄
 東京大学 教授 中澤,英雄
 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
内容要旨 要旨を表示する

これまで清末における中国人から見た日本をテーマとする研究は数多く行われており、さまざまの視角から中国人の日本観が論じられている。しかし、その中で言語の見地から、中国人の日本語観について論じた研究は極めて少ない。清末における中国人から見た日本像を全体的に把握するには、彼らの日本語観を究明することは不可欠である。本論文は1871年に日本と清国の間で日清修好条規が締結される前後に焦点をあて、清末における中国人の日本語観を考察したものである。

この問題を解明する前提として、まず多民族の統合体である清朝の言語体制を究明する必要がある。その言語体制が外国語を取り入れる際にどんな役割を果たしていたかという問題は日本語の位置づけにも関わっている。

1858年から1860年までの間に清朝と列強国との間では相次いで不平等条約が締結され、清朝は西洋の条約体制に加入させられた。その結果、こういった条約国の言語を学習する必要性から外国語学校を設立するに至った。しかし、このような外国語学校には朝貢国の諸言語は含まれていなかった。

近代に入って中国人が日本語について取り上げ始めたのは日清修好条規の準備段階からであった。清朝の言語体制の枠組みの中で日本語の位置付けはどのようなものであったか、また他の条約国の言語との対照において中国人の日本語観はどうであったか。そして、彼らの日本語観はどのように変化してきたかという問題を究明することが本論文の目的である。

本論文は六章に分け、主に史料分析を中心にして論述した。各章の内容は要約すると次のようになる。

第一章では清朝の言語体制を明らかにした。周知のように清朝は満洲人の王朝であり、蒙古文字に基づいて創られた満文が「国語」となっていた。しかし、北京に都を定めてから、政府の機関の運営と社会の安定を図るため、満洲人支配者は漢語と漢文を温存せざるをえなかった。さらに、かつて「夷人」であった満洲人は「中華」の皇帝に転身したその正統性を示すため、周辺の朝貢国との往来文書を従来のままの漢文にしたのである。

しかし、八旗内部では「国語」の使用が終始要求されていた。そのため多様な学校を設け、八旗子弟に満文と漢文を学習させた。結果として満漢の翻訳は八旗子弟の独占物となり、満文の漢化が遅れることとなった。一方、西北の外藩地域やロシアとの間では漢文が完全に排除され、満文が「国語」の役割を担っていた。こうして従来の一元的な「漢字圏」が打破され、「非漢字圏」が創出された。そのため統一の国語政策をとることができず、多元的な言語世界が並存し、満洲人がその多言語間の翻訳の主導権を握っていたのが清朝の多言語体制の特徴であった。

第二章では従来の言語体制における近代外国語学校の位置づけについて考察した。1858年に清国と欧米列強の間で結ばれた一連の天津条約によって、清国は西洋の条約体制に編入させられた。しかし、新体制の導入によって朝貢体制は崩壊されることはなかった。「条約体制」と「朝貢体制」は平行して機能していた。条約国から外国語の学習を要求されたため、北京、上海、広州で外国語学校が開設された。外国語学校の設立に対して清政府内部で反対が出なかった理由は、おそらく柔軟性に富んだ清朝の多言語体制が西洋言語を容易に取り入れる土台となっていたためといえよう。学生は主に八旗子弟に限られ、学校で英語を中心にしてフランス語やロシア語などの条約国の言葉を学習していた。上海を除いて、北京と広州の学校は全体からいえば、ほとんど清朝本来の言語体制の枠組みを超えていなかった。

第三章では日清修好条規をめぐる日本語の位置づけを明らかにした。明治維新後の日本は近代国家の建設にあたって領土問題や周辺諸国との関係などの問題に直面した。これらの問題を解決するためには従来の中国を中心とする漢字圏の朝貢体制を打破し、清国と平等な条約関係を締結することが要求された。

日本側の締約の要求に対して、清国側では李鴻章を代表とする洋務派が日本の軍事力を認め、反対派を押さえて条約を結ぶことを主張した。李鴻章のとった方策は、「精通中華文字」(中国の文字に精通する)日本と連合し、「以為我用」(わが用になる)という目的をもって日本との締約を進めることであった。1871年に締結された日清修好条規は日本側にとって清国と平等関係を結ぼうとする目的が一応達成されたといえるが、清国側にとってそれは同じ漢字圏という前提の下に結んだ条約でしかなかった。特に、条規の中で外交公文の使用言語に関する規定は明らかに漢文が上位に位置付けられていた。

中国側は明治維新後の日本の国力を認め、一応他の条約国と同じように位置づけたものの、日本を漢字圏の一国と見なし、漢文の優越性を捨て去ることはなかった。そういう考えを持っていたので、各外国語学校には日本語科が設立されなかったのである。

第四章では日本の台湾出兵をめぐって日清両国が違う論理を使って、対処していることについて論証した。「わが用になる」と思われた日本は日清修好条規を締結した直後に台湾に出兵した。この台湾出兵をめぐって日清両国が交渉する際、「化外」や「版図」などの概念について、日本側は万国公法の概念に基づいて解釈し、清国側の朝貢体制に基づいた中華的な解釈を無視し、漢字圏から脱しようとしていたことが明らかになった。この点について、清国側がまだ日本の姿勢を十分に読み取っていなかったので、最後の北京専条の条文に、琉球の帰属問題について日本側に有利な内容が書かれる結果となった。

第五章では初代駐日公使団が日本語と接触した際の彼らの日本語観について論じた。1877年に日清修好条規の内容に従って清国初代駐日公使団が来日した。直面した外交交渉は琉球の帰属の問題である。「同文」と中国側が見なしていた日本が漢字圏的な論理を拒否し、万国公法的論理を援用して清国と交渉してきたため、日清交渉は難題に突き当たった。

その一方で、公使団の人々は中国語と違う意味を持つ日本語の漢字に対して強い興味を持っていた。また、日本語の通訳不足などの問題で悩んだ公使団側は日本語学習の必要性を認識し、駐日公使館で日本語学校を設立する計画を立てるに至った。

第六章では公使館の書記官である黄遵憲の日本語観を明らかにした。彼は在日の四年間に日本研究を行い、『日本雑事詩』を出版し、『日本国志』の草稿を書き終えている。黄遵憲の日本語に対する最初の認識は他の中国人と同じように「同文」であったが、日本研究が進むにつれて、彼は日本語と中国語の違いに注目するようになった。彼は日本語を外国語として、音韻、文字、文法から論じている。彼は中国人が英語の勉強に熱心であるのに対して、日本語に対して関心の乏しい態度を指摘している。

また、同時代の知識人と違った視点から日本語を見ていた黄遵憲は仮名の近代性を認め、中国の文字改革を提案した。当時洋務派の教育における改革の内容は主に西洋言語を学ぶ学校を開設し、軍事工業を中心とする分野の翻訳などを行うことであった。その学生の採用範囲は少数の八旗子弟及び一部の漢人に留まっていた。国民的な教育の重要性をまだ認識していなかったのである。来日した黄遵憲は明治維新後の日本を見て、「文明開化」は国民全体が教育をうけた結果だと考えた。中国文字が難しく、それを改革しない限り、日本と同じように婦人や子供が読書できるようにすることは実現できない。彼の国民教育のために文字改革を行わなければならないという提案は五四運動以後の中国文字改革及び白話運動に大きな影響を与えた。

清末における中国人は「弱肉強食」の国際情勢の中で、清国を守るために日本という国の重要性を認識し、あえて日本と修好条規を締結し、日本を条約国の一員にした。しかし、日本と日本語に対する認識は必ずしも一致していなかった。すなわち日本語を朝貢国の言語として扱っていたのである。しかし、日本側は急速に漢字圏の論理から脱出しようとしていた。台湾出兵や琉球問題をめぐって清国と交渉する際、万国公法の論理を利用して清国の原理を突き破った。一方、来日の初代公使団の書記官である黄遵憲は日本研究に従って、日本語についての認識を変えるに至った。彼の考えは中国人の日本語観の変化の一側面を示している。

近代日中交流の研究分野の拡大とともに、中国人の日本語観に関わる研究では、より多様な側面から考察し、より広い視点から考察する必要がある。各章で考察してきた問題の深化と理論化を今後の課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

閻立氏の論文「清末における中国知識人の日本語観 −− 日清国交締結前後を中心として −− 」は、長らく朝貢体制に慣らされてきた中国知識人が、近代化過程において外国語および外国文化をどう受容し、かつそれとどう向き合ったかを、日本語の事例に則して検証したものである。

本論文の構成は次の通りである。

序章では、問題提起がなされ、先行研究について触れられた後、全6章からなる本論の構成が略述される。

第1章は清朝の言語体制一般について論じる。満州人の王朝であり、多民族の連合体であった清朝は、従来の一元的「漢文世界」を打破し、多言語が並存する体制を樹立したが、中国伝来の一極中心的朝貢体制は維持した。清国は満州語を「国語」と定める一方で、国内の諸言語を教育する学校を設立し、清国の権力基盤である満州八旗の子弟に諸言語を学ばせることで、「漢字圏」と「非漢字圏」の主導権掌握をはかった。こうした体制は、近代に入って欧米列強からもたらされた「衝撃」に対応する際、西洋言語を受け入れるモデルともなった。

第2章は旧来の多言語体制下での近代外国語学校の位置づけについて論じる。1858年に中国と欧米列強の間で結ばれた一連の天津条約によって、外国語学習が必要となったのを受け、北京、上海、広州に外国語学校が開設された。そこでは、英語やドイツ語やロシア語が教育された。しかし、その学校は、規定等を検討してみると、清朝の旧来の言語体制の枠組みを超えるものでなかったことが明らかになった。

第3章は近代中日関係における日本語の位置を論じる。開国後の近代日本は周辺諸国との関係で領土問題等に直面した。その問題解決のためには中国の朝貢体制を打破し、清国との間に平等な条約を締結する必要があった。

日本からの条約締結の要求に対し、清国では日本の軍事力を認める李鴻章に代表される洋務派が、それに賛成した。欧米列強と異なり、漢文化につながる日本と連携することは中国のためだと考えたからだった。1871年の日清修好条規は日本からすると清国との平等条約を結ぶ目的を達成したものといえるが、清国からすれば朝貢体制の枠を超えるものではなかった。特に、外交公文の使用言語に関する規定では、明らかに漢文が日本語の上位に置かれていた。日本と中国の認識のずれは放置されたままだった。

第4章では日本の台湾出兵をめぐっても日清両国が異なる論法で事に当たったことが論じられる。清朝が同じ漢字文化圏に属する朝貢国と見なしていた日本は修好条規締結後直ちに台湾に出兵した。日清両国が外交交渉を行う際、日本は「化外」や「版図」などの概念について国際法に基づいた解釈をおこない、中国側の朝貢体制に基づいた解釈を廃して、漢字圏からの離脱をはかった。

第5章は初代駐日公使団が日本語と接触した際の、反応について論じる。1877年、日清修好条規の取り決めに従い初代の清国駐日公使団が来日した。公使団員は日本語で使われている漢字に深い興味を示した。同じ漢字文化圏に属するが故に、漢字を知っていれば困難はないと信じられていた日本と琉球の所属を巡る交渉を行ったところ、国際法に準拠した日本の論法が理解できず交渉は困難を極めた。日本語の通訳者不足などの問題に悩んだ清国は公使館内に日本語学校を設立し、日本語学習の必要性を認識しはじめた。

第6章は公使館書記官である黄遵憲の日本語観について論じる。黄遵憲は、日本に滞在した4年間に日本研究を行い、『日本雑事詩』を出版し、『日本国志』の草稿を書き上げる。日本語に対する認識は、最初は他の中国人と変わらなかったが、日本研究を進めるにつれ、日本語と中国語の違いに注目するようになり、日本語を外国語とみなし、音韻、文字、文法から論じた。中国人は英語の学習に熱心であるのに比して、日本語への関心が乏しいと批判した。

また黄遵憲は、日本語の仮名の近代性を認め、やがて中国の文字改革を提案した。明治維新後の日本の「文明開化」は国民全体が教育をうけた結果だと考え、難しい漢字を改革しない限り、日本と同じように婦人や子供が読書できるようになることはありえないと考えたのである。彼の国民教育のために文字改革を行おうという提案は五四運動以後の中国文字改革及び白話運動に大きな影響を与えた。

以上が、本論文の全体の概要である。近代中国が抱く日本像に関して言語に焦点を合わせた異文化コミュニケーション論的研究が志されたのであるが、先行研究が乏しいこの分野において、広く参考文献を求め、清末と、明治維新の日中の歴史を視野においた広い枠組みを作った上で、6章にわたって論じた筆者の力量は高く評価されて良い。とりわけ清朝が、多言語体制を確立しながら、 一極中心の朝貢体制を棄てなかったその二重構造が、近代化に際して西洋列強国に対しても新興日本に対しても矛盾となって現れたことを、明快に分析したことと、黄遵憲という優れた外交官兼知識人に即して、日本語学習が中国近代化に寄与するプロセスが描かれた意義は大きい。今後、閻氏が、この分野での仕事を続ける上での礎が幾つもここに築かれたことは確実であり、着実な仕事が今後も期待される。

他方、審査においては、各章の間の有機的つながりの薄弱性が指摘された。各章は読んでいて興味深いものばかりだが、おそらく本来中心となるべきであった第6章へ向かって進む論述の流れが十分に作り出されていない点が、惜しまれると、ほぼ全員の審査員から指摘を受けた。

このような弱点がないわけではないが、本論文は上述したように、先行論文のほとんど無いテーマに的確な問題意識を持って果敢に挑んだものである点、およびそのテーマは筆者により将来さらに深められるべきものであることが十分期待できる点を評価し、博士(学術)の学位の授与にふさわしいものと、審査委員会は全員一致で判断した。

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