学位論文要旨



No 118752
著者(漢字) 久末,亮一
著者(英字)
著者(カナ) ヒサスエ,リョウイチ
標題(和) 広域経済圏における地域金融網の延伸過程 : 香港華人系金融業の史的研究
標題(洋)
報告番号 118752
報告番号 甲18752
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第471号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 谷垣,真理子
 東京大学 助教授 安冨,歩
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 黒田,明伸
 京都大学 教授 濱下,武志
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、19世紀半ばから20世紀前半にかけて形成された、「アジア太平洋広域経済圏」における金融活動が、その基点である華南から香港を経由して如何に延伸し、回流していったかを、広域経済圏の金融センターであった香港における華人系金融業から検証する。これにより地域間を結んだ華人系経済の活動が、いかに形成・展開されたかを史的に解明し、その重層的なネットワーク構造を金融面から再構成することを試みるものである。

19世紀半ば、ウェスタン・インパクトという潮流が、アジア太平洋地域に新たな経済秩序を形成した。強制的自由貿易システムと在来の地域経済活動の結節は、世界経済の動向、特に米州、東南アジア、オセアニアといったアジア太平洋地域での労働力需要を契機に、華南からの大量の人口移動を促進した。この人口移動は、次第に商品貿易や送金を伴う華人の経済ネットワークをアジア太平洋各地との間で形成する。「アジア太平洋広域経済圏」の形成である。

広域経済圏の形成は、華南の地域経済構造にも大きな影響を与え始めた。19世紀後半、華南の対外中継機能は移民送出の中継地として台頭した香港へ移転し、一方で広州は拡大する珠江デルタ流域圏内の経済中心となる。これに伴い香港-広州間という広域経済圏の基底となる経済ルートが形成された。

この結果、華南と広域経済圏の各地域では、香港という中継地を通じて多角的に結節され、「ヒト」「モノ」「カネ」「情報」といった諸要素が恒常的に移動する、重層的な経済活動が展開されていた。それは1860年代から次第にその輪郭を明確にし始め、1890年代には基本構造が完成したと考えて良い。

その内外八方に拡がった広域経済活動の「カネ」の流れ、すなわち「金融」とは、華僑送金や貿易金融などの「ヒト」(人的資源)や「モノ」(物的資源)の移動に伴う金融の流動性)であった。それはロンドン中心の国際決済システムに基づいた外国金融機関の広域ネットワークと、伝統的信用システムに基づいた在来金融機関のローカル・ネットワークという複数の金融系統が相互接続され、様々な本位・信用・通貨の形態が転換・調節される重層性・複雑性を有していた。この広域経済圏の金融中継地となったのが香港であった。

特に香港-広州という経済基軸が形成・確立されると、この間を結ぶ金融活動が活発化する。この金融ルートは、単に両地を結ぶ基幹としての意義にとどまらず、珠江デルタとアジア太平洋の広域経済圏を結びつける際の回廊 (Corridor) となる。

例えば、広東生糸輸出などに代表される貿易決済、華南から華中・華北への為替中継、東南アジア・米州からの華僑送金、さらには各種現送活動に伴う金銀貨幣取引など、華人の経済活動に伴う金融取引は、この金融回廊を経由して八方に拡がる香港のネットワークとの間で接続され、各地間で多角的な金融関係を形成した。この金融関係は、広域展開された華人ネットワークの延伸と回流の反映でもあった。

こうした背景により、香港では1870年代後半より華人系金融業が本格的に勃興する。特に主流となった、珠江デルタ一帯で根強い金融勢力を持つ「銀號」の勢力は香港にも延伸し、香港-広州間の金融を実質的に掌握する。さらに、銀號は香港で外国銀行の広域ネットワークと接続されることにより、為替・金銀取引などでより多角的な金融関係を形成した。また20世紀初頭にはヘッジや投機を主目的に、華人系金融業者による金融取引所も形成された。その一つが上海為替の取引を行った「申電貿易場」であり、もう一つは各種金銀貨幣の取引を行った「金銀業貿易場」である。

もっとも銀號に代表される華人系金融業の地理的勢力範囲を見た場合、それは香港-広東域内における華商社会でのローカル・ネットワークが基本となっていた。このため上海為替、金銀輸出入、華僑送金など、他国・他地域間を結んだ取引を行う際には、外国銀行の広域金融ネットワークに大きく依存していた。このため外国銀行は、華南とアジア太平洋各地、さらには中国内地の開港場間における金融に大きな影響力を持った。

一般的に外国銀行と在来金融機関では、その金融機能が明らかに異なっていた。外国銀行は諸外国間、さらには中国の主要開港場間といった広域圏を地理的背景として、比較的規模の大きい政治借款、貿易金融、為替送金などに代表される業務を主体としていた。こうした機能は、資本力と経営組織を兼ね備えた近代的組織金融機関としての銀行でなければ果たせない役割であった。一方で、地場の経済構造に沿った形で形成され、その信用構造を最も熟知していた在来金融機関は、時には買弁を通じた外国銀行からの信用供与を受け、あるいは外国銀行の持つ広域金融ネットワークを利用しつつも、一貫して地域金融における支配的地位を保ち続けた。したがって、外国銀行と在来金融機関の間の関係は、状況、環境の変化に応じて利害一致と相反を繰り返しつつも、それぞれの占める機能と位置が異なる限りでは、一般的に相互補完の関係を保っていた。

しかし、それは香港の華人系金融業、特に銀號や信局が、必要不可欠な金融的役割を担いつつも、一方では自らの広域ネットワークを持たないゆえに、地理的・機能的な限界を有したことの反映でもあった。したがって、華人系金融業の役割とは、華商社会の在来ネットワークと外国銀行の広域ネットワークの間の金融需要を中継する「仲介者」(Intermediary)に止まらざるを得なかったとも言える。そして、それは香港自体の金融構造の反映でもあった。

こうした金融の接続関係は、1910年代から中国人自身が「銀行」を創業し、在来金融の活動を越えた組織的金融の分野に進出を開始することで変化が生じ始める。特に香港の華人系銀行は、外国銀行が掌握していた広域金融ネットワークを華人自身が担うべく創業される。それは軍閥・政府資金を背景とした華中や華北の中国系銀行、あるいは南洋華僑社会での地場金融に止まらざるを得なかった東南アジアの華僑系銀行と大きく異なる点であった。

その代表例が、廣東銀行の創業であった。同行は広東省四邑・香山の同郷人脈を基軸に形成され、それまで外国銀行に掌握されていた北米-華南間、華南-上海間のような、重要な金融ルートに進出していった。またこの廣東銀行の動きは、華南から北米・オセアニアに進出して資金を蓄積した後、香港を経由して華南、さらには上海へと延伸・回流した広東系商業ネットワークの軌跡をそのまま辿るものであった。

こうして在来金融機関と外国銀行の結節により担われてきたアジア太平洋広域経済圏の金融活動モデルは、その枠組に変化はないものの、華人系銀行の登場により金融を担う主体が変化するかに見えた。しかし、華南では伝統的な銀號が根強い勢力を保っており、この銀號が華商社会で構築していた金融業者としての地位は、銀行の資本力、組織力のみでは容易に奪えるものではなかった。一方で華人系銀行は、経営の不安定性とビジネスモデルの限界により、次第に過当競争に追い込まれ、その健全性と信用を損ねていった。外国銀行に代わる金融機関としての地位を確立すべく形成された華人系銀行であったが、結局は伝統的華商社会の枠組を超えることができず、その発展は停滞したのである。

1930年代に入ると、19世紀後半から形成されたアジア太平洋広域経済圏の金融経済モデルが転換期を迎える。西洋主導で構築された広域経済秩序は、20世紀初頭まで継続するものの、明らかに1910年代以降は衰退に向かっていった。特に1930年代前半には、広東生糸輸出の壊滅的打撃に代表される貿易金融の低迷、海外華僑社会の不況よる華僑送金の減少により、広域経済活動は不振に陥った。加えて中国での中央集権的経済政策による地方自律型の経済体系収斂が、広域経済圏の基点であった華南、特に広東をその枠組に包摂したことは、広域経済圏における華人の経済活動そのものが、従来とは異なる経済秩序に包摂されていったことを意味していた。

これに伴い華南とアジア太平洋各地の間で、華人の経済活動に伴う金融流動性を仲介・分配・調節する機能を果たしていた香港の金融構造も転換を余儀なくされ、華人系金融業は1930年代前半の金融環境悪化の中で次第に限界を露呈する。

審査要旨 要旨を表示する

久末 亮一氏の論文「広域経済圏における地域金融網の延伸過程:香港華人系金融業の史的研究」は、香港における金融業の形成と発展を通じて、地域間を結んだ華人系経済の活動がいかに展開されたのかを史的に解明し、その重層的なネットワーク構造を金融面から考察した著作である。香港は19世紀半ばから20世紀前半にかけて形成された「アジア太平洋広域経済圏」のセンターのひとつであった。本論は、アジア広域経済圏において、華人が広域圏の基点である華南から香港を経由していかに延伸し、回流し、重層的な金融経済活動を形成していったのかを、華人系金融業の展開を通じて描き出した。

本論文の構成は以下のとおりである。

まず「序章 珠江デルタ流域圏の金融構造変動」は、本論文の議論の土台となる部分である。研究の全体像を提示した後、珠江デルタ流域の金融構造と19世紀半ば以降のウェスタン・インパクトによる外的延伸の契機を概説する。

続く第1章「香港銀號業の形成」では、本論全体の主体となる「銀號」を扱った。香港における華人系金融業として勢力を誇った「銀號」についてその形成と発展を叙述し、経営的側面を再構築した。

第2章から第4章は、銀號の外的延伸過程を分析している。第2章「広東-香港-上海間の金融関係」では、広州・香港・上海の三都市間為替、すなわち華南と華中・華北間の接続を軸にして、内国間為替における香港の重要性を解明し、かつ香港の銀號が果たした役割を解明した。第3章「金銀取引中心としての香港」では、香港-広州、香港-上海間の金融取引が活発化した結果、香港では為替・金銀取引のリスクヘッジを行う「金銀取引場」が誕生したことを述べた。さらに、第4章「華僑送金の金融接続関係」では、華南地域と東南アジア間の華僑送金と商品貿易の関係を含めて、信局・外国銀行・銀號による金融接続関係を明らかにした。

以上より、香港の銀號は基本的には伝統的な信用システムに基づくローカルネットワークであった。ロンドン中心の国際決済システムへは、外国系金融機関の広域ネットワークを経由せざるをえなかった。しかし、香港・広州間、香港・上海間の金融回廊の成長は、香港の華人系金融機関を単なる仲介者から脱皮させていく。

第5章「香港における華人系銀行の形成と限界」は、香港初の華人系銀行であった「廣東銀行」を事例にして、華人系銀行の形成過程とその経営モデルの限界性を指摘した。廣東銀行は北米・華南間の華僑送金に伴う為替業務を主目的に設立された。これは、外国銀行が掌握していた金融ネットワークを華人自身が担おうとする動きであった。同行は次第に東南アジアや上海へと地理的営業範囲を拡大し、香港最大の華人系銀行へと成長したが、1930年代の世界恐慌時に他の華人系銀行と同じく経営破綻した。

以上を踏まえて、終章では序章から第5章にかけて提示した広域経済圏における金融モデルを総括した。

アジア広域経済圏の金融構造に関する研究の枠組みは、すでに濱下武志により提唱されている。本論の積極的意義は濱下の研究枠組みを金融活動に関して実証的に証明したことに求められる。濱下の理論的枠組みに触発され、華商研究は進展したが、金融分野についてはあまり研究が進展してこなかった。その最大の原因は、資料が稀少であると同時に散逸していることに求められる。本論では横浜正金銀行や台湾銀行による調査報告書や外務省領事報告などの公刊資料のほかに、香港大学図書館所蔵の「馬叙朝档案」、香港歴史博物館所蔵の「馮民徳档案」、関係者から提供された一次資料を使用することに成功した。また、新たな視点として広域経済圏の基点となった華南の金融構造を描き出すことで香港-広州の金融回廊が誕生したことを導き出した。また、ミクロなレベルとして銀號という金融機関の具体的な活動を明らかにした。これにより、本論文は、香港をセンターのひとつとするアジア広域経済圏を重層的に描き出すことに成功した。

他方、審査においては次のような弱点も指摘された。

第1に、資料はよく収集されているが、その分析がやや単調な箇所が時々見受けられることである。それは、横浜正金銀行や領事館報告を引用する際に見られる。資料収集の困難さを実感しているがゆえに、残された記録を素直に受け入れてしまっている。たとえば、銀号業の連号という連携ネットワーク形成のメカニズムを地縁・血縁・業縁の「三縁」で説明してしまい、その裏を読み込む作業を怠ってしまった。第2に、金融構造のモデル提起に必ずしも成功していないことである。論文中に挿入された概念図は、各アクター間の相互作用が明示されていない。第三に、第5章の広東銀行と他の章との関連がやや希薄であるとの指摘があった。

しかしながら、いくつかの弱点はあるものの、本論文は前述したように、濱下が提示したモデルを金融的側面に関してミクロのレベルで実証的に扱った、本格的な研究である。研究のこれからの方向性としては、台湾を介在させることにより、日本と華南地域との金融関係を検証すること、また現在進行形で香港では「1国2制度」が実施されているが、改めて香港ドルの持つ意義を検証するなどのさまざまな発展の可能性を内在している。

以上より、審査委員会は提出論文を「水準の高いものである」とみなし、全員一致で博士学位号を与えるのにふさわしいと判断した。

UTokyo Repositoryリンク