学位論文要旨



No 118756
著者(漢字) 守田,昌哉
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,マサヤ
標題(和) 広塩性魚テラピアにおける精子の運動調節機構に関する研究
標題(洋) Studies on regulatory mechanism of sperm motility in euryhaline teleost, tilapia
報告番号 118756
報告番号 甲18756
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第475号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 教授 森沢,正昭
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 教授 跡見,順子
内容要旨 要旨を表示する

魚類精子は、それぞれの生息環境に適した性質を持っている。淡水魚、海水魚共に体液の浸透圧は海水の約1/3であり、精子は体液と同じ浸透圧(等張)である精巣内では静止している。そして浸透圧の異なる体外(淡水もしくは海水)に放出されると運動を開始する (Morisawa and Suzuki. 1980)。すなわち淡水魚では体内よりも浸透圧の低い低張環境にさらされることで運動を開始する、それに対して海水魚は高張環境で開始する。体液に対して低張または高張であることは全く逆の刺激である。それゆえこの浸透圧の差による運動の開始のシグナルは淡水魚と海水魚では異なっていると考えられる。

しかし広塩性魚であるテラピアは淡水から海水に順応し、さらには淡水から海水間での範囲でも繁殖する (Brock 1954)。このことから多くの魚類精子の運動性が低張もしくは高張の限られた範囲に適応しているのに対して、テラピアの精子は、低張から高張域に渡って運動をすることが予想される。このことから成魚の浸透圧順応に伴い、精子も順応した環境に適した運動性に変化することが予想される。つまり、テラピアでは生息環境に合わせて精子形成が変化すると考えられる。淡水もしくは海水に浸透圧順応したテラピア精子の運動性を研究する事で、他の淡水および海水魚の精子の運動制御機構の違いについて知見が得られるだけではなく、精子形成のダイナミズムの解明につながると期待される。

本論文において、テラピアでは飼育環境をかえることで1)精子の運動性が飼育環境に適した性質になり、また2)運動の活性化と関連したタンパク質のリン酸化カスケードが変化し、さらには3)精子内のタンパク質の発現にも変化が生じる、ことを明らかにした。

精子の運動性の変化

汽水域で採取した後、淡水に順応させたテラピア(以下FWT)および海水に順応させたもの(以下 SWT)の精子を採取し、その運動を観察した。FWT 精子は浸透圧が低張の範囲で運動し、浸透圧が高くなるにつれて運動率が低くなった。また等張域付近では、細胞外Ca2+を加えることで運動率が若干上昇した。一方、低張域では細胞外Ca2+をキレートしても運動率は減少しなかった。それに対してSWT精子は細胞外にCa2+を加えることで浸透圧の高い環境中 (1000mOsm/kg)でも運動をしたが、細胞外Ca2+を完全にキレートすると運動を全く行わなかった。このことから FWT 精子は、低張で細胞外カルシウム濃度の低い淡水域に適しており、SWT 精子は高張で細胞外Ca2+濃度の高い汽水から海水域に適していると考えられた。

精子の運動の仕組みを更に詳しく調べる為に、除膜精子 (Triton model) を用いて運動に必要な細胞内要因を調べた。FWT および SWT の除膜精子共に、ダイニンの基質である Mg-ATP 存在下でCa2+濃度が10-6M以上の条件で運動が活性化した。またcAMP、cGMPは、活性化に必要ではなかった。さらに細胞内にCa2+指示薬である Fluo-3 によって、FWT 精子では低張条件でのみ細胞外 Ca2+非依存的に上昇し、SWT 精子では細胞外Ca2+依存的に低張から高張の広い範囲で上昇することが明かとなった。

FWT精子では、voltage dependent Ca2+ channel 阻害剤である Flunarizine、Ryanodine receptor 阻害剤である Ruthenium red は運動を阻害しなかったが、phospholipase C阻害剤であるU-73122 は運動を阻害した。このことから、FWT 精子では、Ca2+ channel を介さずに IP3 依存的に活性化する Ca2+ストアーが細胞内に存在し、Ca2+の供給源になている可能性を示唆している。それにたいしてSWT精子では、Flunarizune および Ruthenium red が運動を阻害したが、U-73122 は運動を阻害しなかった。これらのことからSWT精子では、Ca2+ channel から Ca2+が流入し Ryanodine receptor を活性化することで、Ca2+を供給していることを示唆している。Ca2+ストアーとしては小胞体状のものを含む sleeve が有力である。このようなCa2+供給経路の変化が、細胞外環境に適応した運動性の変化に寄与していると考えられる。

運動の活性化と関連したタンパク質のリン酸化カスケードの変化

細胞内Ca2+上昇が運動に関係している事が(1)で示された。そこで45Ca2+を用いて Ca2+結合タンパク質の検出を試みた所、2つのタンパク質がえられた。そのうちの一つは分子量および等電点からカルモジュリンと想定される。またカルモジュリンキナーゼIVも精子鞭毛および sleeve に存在していた。これらのことから Ca2+を介したリン酸化反応が運動に関係していると考えられた。サケ科魚類の精子および哺乳類の精子では、鞭毛運動の活性化時に様々なタンパク質のリン酸化が起ることが報告されている。テラピア精子でも運動活性化に伴い鞭毛タンパク質においてリン酸化及び脱リン酸化反応が起った。 FWT 精子では運動活性化に伴い見かけ上の分子量27、32、45、48、60 kDa の鞭毛タンパク質のセリン残基がリン酸化した。それに対して SWT 精子では27、32、45、48、60 kDaの鞭毛タンパク質のセリン残基が脱リン酸化した。これらのタンパク質は高イオン強度抽出 (0.6 M NaCl)、低イオン強度抽出を行っても軸糸に結合していた。一方27、32kDa タンパク質は高イオン強度抽出によって可溶化するものとしないものがあり、可溶化されるもののセリン残基は、淡水及び海水テラピア共に運動に伴ってリン酸化した。これらのことから、高イオン強度により抽出されるタンパク質のリン酸化反応は変化しないが、軸糸に非常に強く結合したタンパク質のリン酸化反応に変化が生じている可能性が示唆された。これらのリン酸化反応は、Ca2+結合タンパク質のカルモジュリン阻害剤(W-7)で運動およびリン酸化が阻害されたことから、カルモジュリン依存的に起ると考えられた。またCキナーゼの阻害剤 (GF109203X)によって FWT 精子では運動及び運動に伴うリン酸化が阻害されたが、SWT 精子では運動及び脱リン酸化は阻害されなかった。これらのことはCキナーゼは FWT 精子のリン酸化反応に特異的に関係しており、SWT 精子の運動に伴う脱リン酸化反応には関係していないと考えられた。

生息環境変化に伴う精子タンパク質の発現の変化

FWTおよびSWT精子タンパク質を、2次元電気泳動法により分離しタンパク質を比較した所、 SWT 精子において 18kDa タンパク質が、FWT 精子に比べて多く発現していた。またこの 18kDa タンパク質のN末端からのアミノ酸配列を解析したところ Cu/Zn Superoxide dismutase(以下SOD)と高い相同性を持っていた。このアミノ酸配列に対するペプチド抗体を作成し精子内での局在を調べたところ、鞭毛および sleeve の Triton 可溶画分に存在していた。

この SOD は radical であるO2-をH2O2にする酵素である。近年、スーパーオキシドや一酸化窒素(NO-とO2-)が反応してパーオキシナイトライト (ONOO-) になりチロシン残基と結合し(ニトロ化)精子の運動調節機構に影響を与えるという報告がある (Herrero et al., 2001)。テラピア精子においても、パーオキシナイトライトが運動調節と関係しているか、運動に伴いニトロ化するタンパク質の検出を行った。FWT精子では、運動に伴い27、32、45、48、60 kDa の鞭毛タンパク質がニトロ化した。それに対して SWT 精子では27、32、45、48、60 kDa の鞭毛タンパク質が脱ニトロ化した。これらのタンパク質は高イオン強度抽出 (0.6 M NaCl)、低イオン強度抽出を行っても軸糸に結合していた。27、32kDa タンパク質は高イオン強度抽出によって可溶化するものとしないものがあり、可溶化されるものは、FWT 及び SWT 精子共に運動に伴ってニトロ化した。これらのニトロ化及び脱ニトロ化するタンパク質はリン酸化するタンパク質と分子量及び局在が一致することから、ニトロ化とリン酸化が相互作用しているとも考えられた。またパーオキシナイトライトの前駆物質である一酸化窒素(NO)の合成酵素 (NOS) の阻害剤 (NG-nitro-L-argine methyl ester: L-NAME) によって FWT 精子の運動が阻害された。また運動に伴ない起るニトロ化及びリン酸化も阻害されたことから、パーオキシナイトライトがリン酸化反応を調節し、鞭毛運動に帰結していることが示唆された。それに対して SWT 精子では、NOS 阻害剤は運動を阻害しなかった。また運動に伴う鞭毛タンパク質の脱ニトロ化、及び脱リン酸化を阻害しなかった。しかしながら SOD の阻害剤 (2-methoxyestradiol)は SWT 精子の運動を阻害し、また運動に伴う脱ニトロ化および脱リン酸化を阻害した。一方で、SOD 阻害剤はFWT精子の運動、ニトロ化およびリン酸化を強く阻害しなかった。これらのことから FWT および SWT 精子の運動調節機構の変化にはニトロ化の変化が関係していることが示唆された。

ニトロ化をおこすパーオキシナイトライトの量は一酸化窒素(NO)ではなくスーパーオキシド (O2-) の量で決まることが知られている (Wink et al., 1998)。スーパーオキシド (O2-) を除去する SOD 発現量の変化はパーオキシナイトライトの量の変化をもたらすとも考えられる。つまり SWT 精子での SOD の発現量の増加によりパーオキシナイトライトの量を減少することにより、ニトロ化およびリン酸化反応の変化していると予想された。これらのことから生息環境の変化による精子鞭毛の運動調節機構の変化が radical の調節と関係している可能性がある。

本研究によってテラピア精子の運動調節機構の概要が明らかにされ、それらが浸透圧順応に伴って変化するダイナミックな機構が明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

 生殖は生物種によって決まった環境下において営なまれる。それ故に、精子はそのような生殖環境下において、運動の開始や受精能の獲得という生殖に必要とされる機能を発現させている。魚類の精子においては、一般に生殖器内では運動をしておらず、放精によって運動を開始するものが多い。この場合、放精による細胞外環境の変化が運動開始もしくは運動活性化の引き金になっている。魚類の体液の浸透圧は他の脊椎動物と同様におよそ 300mOsm/kg であり、精漿もこれにほぼ等しい。多くの淡水魚の精子においては、この精漿の浸透圧から淡水の低張にさらされることが、また海水魚の精子においては高張の海水にさらされることが引き金となり、運動を開始することが知られている。精子の遊泳運動は鞭毛の屈曲運動を原動力とするが、これらの引き金が鞭毛運動を開始させる仕組みについてはまだ解明されたとは言いがたい。ところで広塩性魚であるテラピアは淡水から海水にかけて順応できるばかりでなく、生殖も可能であるというきわめてユニークな性質を持っている。すなわち、テラピアの場合は成魚がどちらの環境に順応したかによって、精漿に対して浸透圧が全く逆である二つの環境に適応した運動制御機構を精子が持つということである。守田氏はこの点に着目した。すなわちテラピアの精子は環境順応によってどのような制御機構を持つようになるかを調べることにより、浸透圧による運動制御機構を解明するとともに精子形成のダイナミズムに対する新たな知見が得られるであろうという戦略の下にこの研究を行った。その結果は本論文では3章に分けて記載されている。

まず第一章では、テラピア精子の運動制御機構が、成魚の飼育環境に適した性質を持つようになることを示した。淡水もしくは海水中で1ヶ月以上飼育した二種類のテラピア(以後淡水テラピアおよび海水テラピアとよぶ)の精子運動性の浸透圧による影響を見たところ、淡水テラピア精子は精漿と等浸透圧(等張)もしくはそれ以下の浸透圧下であれば活発な運動を示した。一方、海水テラピア精子は海水程度の高張条件でも運動を示したが、それには Ca2+が必要であった。また Ca2+チャネルの阻害剤によって海水テラピア精子の運動性が低下することから、細胞外 Ca2+の流入が運動活性化に必要であることが示された。一方、淡水テラピア精子において、IP3依存的な Ca2+供給を阻害すると、運動活性化が阻害された。このことから淡水テラピア精子においては細胞内 Ca2+ストアからの Ca2+供給が重要であることが示唆された。実際、運動が活性化する条件では、細胞内 Ca2+濃度が上昇することが蛍光プローブを使う実験で示された。ところで細胞膜を界面活性剤で除去した、いわゆる細胞膜除去モデル精子で鞭毛運動を再活性化させるためには、ATP と Ca2+が必要であった。これは淡水、海水両方のテラピア精子に共通であり、このことは細胞内での Ca2+上昇が運動活性化に必須であることを示唆している。これらの結果は、テラピア精子の運動活性化に Ca2+が必須であるが、淡水テラピア精子では低浸透圧が何らかのシグナルとなって細胞内のストアから Ca2+を供給するのに対し、海水テラピア精子では主に海水中から Ca2+を得ていることが明らかにされた。さらに、両者において、発現タンパク質の違いも示された。これらは、テラピアが生息環境の違いに順応する過程で、その精子が細胞外シグナルを細胞内シグナルに変換する機構を変え、それによって共通の細胞内シグナル伝達系を駆動しているらしいこと、そしてそのために精子形成においてタンパク質発現すら調節されているということを示唆している。これらは大変重要な発見である。

第二章では、細胞内 Ca2+の上昇が運動活性化に関連すると考えられるタンパク質リン酸化カスケードを調節していることが示された。まず、放射性同位元素 45Ca2+を用いて、鞭毛中の Ca2+結合タンパク質を調べたところ、カルモジュリンおよびカルモジュリンキナーゼIVと予想されるタンパク質が同定された。このことから Ca2+が一連のタンパク質リン酸化反応と関連している可能性が示唆された。そこで抗リン酸化アミノ酸抗体を用いたウエスタンブロットによって、淡水テラピア精子では分子量27,32,45,48,60kDa のタンパク質のセリン残基が運動活性化に伴ってリン酸化されるのに対し、海水テラピア精子ではそれらが脱リン酸化されること、またそれらは軸糸に強く結合していることが示された。一方、高イオン強度条件下で抽出されてくる鞭毛タンパク質(これには鞭毛運動に関わる外腕ダイニンが含まれる)に、上記のものとは分子量は同じだが異なったものと考えられる27,32kDa タンパク質が含まれ、これらは淡水テラピア、海水テラピア精子ともに運動活性化に伴ってリン酸化されることが示された。この低分子量タンパク質は、外腕ダイニンを構成する軽鎖の可能性が高く、鞭毛運動調節にダイニン分子のリン酸化が深く関わっていることを示す重要な発見である。さらに、淡水および海水テラピア精子において、共にカルモジュリンのアンタゴニストであるW'7が運動阻害を引き起こすこと、またCキナーゼの阻害剤によって、淡水テラピア精子においてのみ運動活性化とタンパク質リン酸化が阻害されることが示された。これらの発見は環境順応による精子の運動調節機構が、第一章で示された細胞膜レベルでのシグナル変換機構の変化のみという単純なものではないことを示す大変興味深い発見である。

第三章では、運動調節タンパク質についてのさらに詳しい研究成果を述べている。淡水および海水テラピア精子のタンパ ク質を二次元電気泳動法によって解析したところ、18kDa タンパク質が海水テラピア精子において多く発現していた。これはアミノ酸解析の結果、Cu/Zn スーパーオキシドジスムターゼと高い相同性を示すことがわかった。そしてこれが鞭毛及び鞭毛基部にあるスリーブ構造に局在することが示された。この酵素はタンパク質のニトロ化と密接に関係があることから、タンパク質のニトロ化を調べた。すると運動活性化に伴い、淡水テラピア精子においてはリン酸化される、先にあげた5つのタンパク質がニトロ化されること。一方、海水テラピアにおいてはこれらのタンパク質は活運動性化に伴って脱リン酸化されるが、同じ条件で脱ニトロ化されることがウエスタンブロットによって示された。また、ダイニン軽鎖と予想される27,32kDa タンパク質はいずれも運動活性化に伴ってニトロ化されることがわかった。さらに、阻害剤を用いた実験では、ニトロ化に関係する一酸化窒素合成酵素の阻害によって淡水テラピア精子の運動活性化、タンパク質ニトロ化、タンパク質リン酸化が共に阻害された。一方、脱リン酸化が観察される海水テラピア精子においては、一酸化窒素合成酵素の阻害剤は効果が無かった。しかしスーパーオキシドジスムターゼの阻害剤は海水テラピア精子の運動活性化、タンパク質脱ニトロ化、タンパク質脱リン酸化を阻害した。このようなタンパク質のニトロ化が精子の運動性に関与することは、魚類精子については初めての報告であり、大変意義深い発見である。本章における数々の新しい知見は、精子鞭毛運動の分子レベルでの調節機構の複雑な仕組みについて、今後の研究の方向性を指し示す重要なものであるといえる。

以上のように、守田氏の学位論文は広塩性魚というユニークな材料を用い、魚類精子の運動調節機構の統一的理解を目指した優れた研究である。そして生殖、細胞運動、発生にまたがった大変興味ある重要な発見を多く含んでおり、この研究分野における寄与は大変大きいものと考えられる。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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