学位論文要旨



No 118762
著者(漢字) 高橋,一憲
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,カズノリ
標題(和) セロミクス研究のためのオンチップ1細胞計測システムの開発
標題(洋)
報告番号 118762
報告番号 甲18762
学位授与日 2004.03.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第481号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

細胞は外部環境の変化に対して応答し、適応や分化などの独特の現象を起こすが、このことはゲノム情報や、細胞内の反応ネットワークだけではなく、細胞間での情報のやりとり、すなわち細胞間コミュニティーエフェクトの存在が重要であることを示唆している。従来の細胞観察は特定の細胞の情報のやり取りを制御することなく、ランダムな集団状態での細胞を扱っていたため、無秩序なコミュニティーエフェクトの結果生じる細胞の振る舞いを見ていたことになる。そのため、細胞レベルでの振る舞いと分子レベルや個体レベルなど他の階層とのつながりの由来を解明することに自ずと限界があった。細胞内外の経路に由来する細胞レベルでの反応を理解し、コミュニティーエフェクトの効果を明らかにするためには、状態を規格化した1細胞または細胞群を基盤とする新たなバイオインフォマティクスを実現する技術を構築することが必要となる。私はこの従来の手法に置き代わる「1細胞単位でスクリーニングする新しい手法」、すなわち「オンチップセロミクス計測技術」を実現するために必要な3つの主要技術の開発を行ってきた。以下にそれぞれの説明をすると、(1)光学的な透過性を有する高分子樹脂(PDMS)基板内に形成した流路、容器、電極などを用いて、1細胞レベルで細胞集団から特定の細胞を非侵襲的に分取するオンチップセルソーティングシステム (2) コミュニティーエフェクトの効果を観察するため、細胞の数や配置を制御した状態で長期間培養するためのオンチップマイクロ培養 (3) 時空間的発現分布解析を行うためのオンチップ発現解析である。いずれの技術も半導体微細加工で利用されてきた技術をバイオ用に最適化し、1細胞単位でスクリーニングすることに初めて成功したものである。開発した要素技術のうち、オンチップセルソーティングシステムおよびオンチップマイクロ培養はすでに原理実験を終えており、これらについて具体的に説明を行う。

要素技術の開発について

オンチップセルソーティングシステム

特定の細胞を細胞集団から選び出し、細胞数や配置を制御して培養を行うことはセロミクス研究において必須の前処理技術である。本研究では従来のフローサイトメトリー、セルソ−ターでは難しかった分離・精製した細胞を培養するための非侵襲的・効率的なセルソーティングを実現する顕微画像認識型オンチップセルソーティングシステムの開発を行った。図1(a)はセルソーターチップの構造を、(b)は完成したチップをアルミ製のシャーシに取り付けた状態の写真を示す。厚さ0.2mmのガラスチップ上に微細加工技術によって作製した幅20μm、高さ10μmの微細流路中を流れる細胞を100倍の対物レンズを備えた顕微鏡で直接観察を行い、CCDカメラにより得られた画像情報を元にその細胞を識別する。ソーティングは電気的な外力を細胞に作用させて行うが、そのためのマイクロ電極作成にはソフトマテリアルの1種である導電性アガロースゲルを用いた。図2はソーティング時に必要な細胞に損傷を与えないためのソーティングプロトコルである。使用する細胞に対しては、そのまま流路を層流中で滑らかに通過させ、捨てる細胞のみに外力を作用させて流路から除外するため、非侵襲的に分取を行うことが可能である。この概念は、既存のセルソーター技術では採用されておらず独自の技術である。さらに顕微鏡と連結してある光学系を工夫して細胞の蛍光像や位相差像を同時に処理・解析する手法を開発した。また、この分取技術は更に小さな細胞内小器官(オルガネラ)分取のためにも利用可能である。図3(a)は顕微鏡下にチップを置いた様子を、(b)はチップ内の微細流路中を流れる核を染色したCOS細胞の様子を、(c)はGFPが極に局在化したバクテリアを印加電圧3Vでソーティングしている様子を示す。

オンチップマイクロ培養

移動性の高い浮遊細胞を特定の空間で長期培養をするため、光学的に透明な高分子樹脂PDMSを用いて、マイクロバルブを備えたチャンバーを作成した。これは植物細胞の1つであるクラミドモナスの概日リズムを1細胞レベルで調べるために作成したものである。このバルブにより、新鮮な培地は常にチャンバーに供給されるが、細胞のマイクロチャンバーへの入出はマイクロバルブによって制御できるため、長期間にわたり、細胞数を維持しながら観察し続けることが可能である。マイクロバルブは空気圧で容易に開閉し、制御しやすい点が特徴である。図4はバルブにより、マイクロチャンバー内にいる細胞をチャンバー外へ導いている様子を示したものである。

また、神経細胞のネットワーク形状制御と長期間の計測を可能にするため、多電極アレイチップに細胞培養マイクロチャンバーアレイと、アビジン・ビオチン反応を利用した半透膜シールによる細胞の不純物混入防止技術(1)を加えた微小多電極アレイ長期培養計測システムを試作した。細胞の空間配置、ネットワークの形成方向は30μm×30μmの微小電極8個が配置された培養チップ上に光硬化性樹脂を用いて形成した高さ25μm、幅5μmの壁からなるマイクロ構造によって制御した。また、マイクロチャンバーアレイに蓋をする技術を用いて神経細胞がマイクロ構造を乗り越えるのを阻止するのみならず、大腸菌等の雑菌のマイクロチャンバーへの侵入を防いだ。この技術を用いてラット小脳顆粒細胞を培養したところ、細胞はこの構造物を乗り越えることができないこと、および不純物の混入なしに細胞の位置制御が可能であることを確認できた。図5にラット小脳顆粒細胞を、本システムで培養した結果を示す。マイクロチャンバーアレイに封入した細胞は、チャンバーから逃れることなく、ネットワークを形成しているのが観察された。

以上、一連のオンチップセロミクス計測のために必須な要素技術の開発を行い、それらの原理実験に成功することができた。今後はもう一つの要素技術であるオンチップ発現解析の原理実験を終わらせ、これらの技術を統合し1つの完成されたオンチップセロミクス計測システムを構築する予定である。そして、この技術を用いて、1細胞レベルでのスクリーニングを実現したいと考えている。

オンチップセルソーターの構造 (a)微細な流路中で細胞を分取、(b)シャーシを取り付けた状態のチップ

細胞に損傷を与えないソーティングプロトコル

顕微観察に基づくーティング (a)顕微鏡下においたチップ、(b)微細流路中を流れる染色COS細胞、(c)GFPの局在染色をしたバクテリアのソーティング

細胞培養中のマイクロバルブ開閉の様子

電極を組み込んだマイクロチャンバーアレイ内の神経細胞ネットワークの様子

I. Inoue, Y. Wakamoto, H. Moriguchi, K. Okano, K. Yasuda (2001) "On-chip culture system for observation of isolated individual cells" Lab on a Chip 1 50-55
審査要旨 要旨を表示する

本論文は、微細加工技術を生物学研究に応用することで、従来存在していなかった一連の1細胞レベルセロミクス計測のための要素技術を開発した研究に関して報告したものである。本論分では、一般の細胞が外部環境の変化に対して応答し適応や分化などの独特の現象を起こすとき、この変化がゲノム情報だけで説明できるものではなく、むしろ後天的な外部環境との相互作用の履歴を反映するものであることに着目し、細胞間での情報のやりとりを、従来の生物学的アプローチではなく、構成的に精製した細胞を組み合わせて培養し計測することで、細胞集団の持つコミュニティーエフェクト等の後天的情報の解明を目指している。

本論文の第1章では、本研究に至った背景を述べるとともに、上記、新しい構成的1細胞レベル細胞情報計測技術「オンチップ・セロミクス計測技術」の概念と、そのために必要な要素技術を説明している。この中で、開発に必要な要素技術は、大別して、以下の3つの要素技術となることが述べられている。すなわち、(1)培養するための細胞を精製するオンチップセルソーター技術、(2)精製された細胞の環境、細胞集団のサイズ・ネットワーク形状を制御しながら培養するオンチップ細胞培養技術、そして(3)培養している細胞内の発現情報を(1)細胞単位で計測することが可能なオンチップ発現解析技術である。そして、本論文では、特に、上記(1)(2)の技術について、その成果が報告されていることが述べられている。

第2章では、本研究全般で用いられたマイクロ加工技術について、その技術の位置付けと、本研究で用いられた手法の詳細な説明がなされている。特に、本研究において論文提出者が最適条件を見出し確立したシリコン系高分子ポリマー(PDMS)の表面を酸素プラズマによって活性化し、ガラス基板表面上のシラノール基とシランカップリングさせる技術の開発は、このPDMSを用いたマイクロ流路での液漏れを防ぐためには必須の技術である。

第3章では、第2章で述べたPDMSを用いたセルソーターシステムの開発について報告されている。これは従来のセルソーターとは異なる、細胞培養のための細胞精製技術との位置付けであり、そのための細胞に損傷を最小限に抑える独自のプロトコルなど様々な工夫が凝らされている。本システムで開発した技術は、PDMSを用いたチップの開発のみならず、このチップ内のマイクロ流路を流れる細胞の微細構造を位相差/蛍光像として同時に高速カメラで取得するための自作光学系の開発、および、毎秒200コマの高速カメラで取得した画像データをリアルタイムで解析する画像処理ソフトウエアの開発および画像解析結果に基づくリアルタイムフィードバックによるチップ内細胞のソーティング技術の開発までの多岐に渡っている。これは、従来のマイクロ加工技術者の技術開発の範囲を超えており、実際にマイクロ加工技術をバイオ計測に応用するために、マイクロ加工技術のみならず光学系の自作技術、ソフトウエアの開発技術などを有機的に結び付けてシステムとして完成させたものであり、高い技術力と独自性を示すものである。また、特に、本論文で検討されている、ゲル電極のマイクロチップ電極としての利用は、定量的結果の評価を含めて、マイクロチップ分野では初めての試みである。さらに、本システムの細胞精製プロセスが与える細胞への影響についても、細胞精製後の培養実験から、細胞への損傷は識別不能なほど小さいことが報告されている。以上の結果より、本セルソーティングシステムの開発に成功したことが結論付けられている。

第4章では、マイクロ加工技術を用いた運動性細胞培養技術に関する報告がなされている。ここでは、PDMSの柔軟性を利用して、これでバルブ構造をマイクロ流路中に2点作成することで、このバルブに挟まれた領域を、細胞培養領域(マイクロチャンバ)としている。本技術で特筆するべきことは、このバルブ構造の駆動に空気溜めに導入する空気の圧力を陽圧あるいは陰圧にすることで、自在にバルブ部分の隙間の幅を調節し、これによってマイクロチャンバ内の細胞の出入りを調節することができる技術を確立したことである。また、このとき、バルブの配置を工夫することによって、顕微鏡観察によって、直接バルブの開閉の程度をフィードバック制御することが可能となっていることも特徴である。以上の結果より、マイクロ流路中に開閉の程度を光学的にフィードバックできる複数のバルブを容易に導入することが可能となる基礎技術を確立することができたと結論付けている。

第5章では、マイクロ加工技術によって作成したマイクロ構造物と、電極アレイを組み合わせることで、神経細胞ネットワークの構成的配置を行う技術に関する報告がなされている。ここでは、肉厚数μmから数十μmの光硬化性フォトレジストを立体構造として用い、さらにその表面にシリコンをスパッタリングすることで、半透膜をマイクロ構造物の上に蓋となるように固定することを可能としている。これによって、大腸菌などの不純物が混入しない状態で、長期にわたって神経細胞ネットワークの形状を維持することが可能となっている。また、このチップ上の神経細胞の発火を計測するための計測システムについても試作を行っている。以上の結果より、新たに細胞を培養しているマイクロ構造体上に半透膜の蓋をすることで長期に細胞を培養する技術についても基礎技術の検討ができたと結論付けている。

第6章では、上記開発した要素技術のオンチップ・セロミクス計測技術における位置づけと、今後の研究展開について述べられている。

いずれの技術も半導体微細加工で利用されてきた技術を独自の研究によってバイオ用に最適化し、1細胞単位でスクリーニングすることに初めて成功したものである。特に、開発した要素技術のうち、オンチップセルソーティングシステムおよびオンチップマイクロ培養はすでに原理実験を終えており、実用化に向けた展開がすでに開始されている。このこと自体が、その研究水準の高さを示すものと考えられる。

したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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